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一章 その①



 灰色の薄雲が掛かる空の下、王女付きの侍女エルシーは、白い上質な外套を手に、広大な王宮庭園を小走りで駆けていた。


 時々立ち止まっては、垣根を覗き込み、何かを探している仕草を繰り返す。


 暦の上では春とはいえ、色とりどりの花が咲き誇る時期にはまだ早く、雨後の空気はひんやりと頬を撫でる。


 早く見つけなければ。


 婚礼衣装の最終仕上げのために仕立て屋が登城する時間が迫っているし、続いてそのあとは高名な貴族の奥方を招いての王太后のお茶会が催される。出席用のドレスの確認もしていただかなくてはならない。


(この時期、何も羽織らずに外にいては、風邪を召されてしまうわ)


 エルシーは焦る。


 昔は、探し物をしていても、すぐに“声”たちが教えてくれたことをふと思い出した。


 でも今はまったく聞こえない。


(それでいい。あんな力、持っていたって奇妙に思われるだけだもの)


 エルシーは、まだ固い蕾だらけの薔薇園のアーチをくぐると、辺りを見渡した。視界の端の垣根から、ピンク色のドレスの布地が出ているのを見つけると、安堵の息を吐き、呼吸を整えながらゆっくりと近づく。


 そこには艶やかなブロンドの、十八歳ほどの少女が、背を丸めてしゃがみ込んでいた。


「グローリア王女殿下。こちらにいらしたのですね」


 エルシーの柔らかな声色に、ブロンドの少女はゆっくりと振り返る。潤んだ青い瞳がエルシーの姿を映すと、グローリア王女は長い睫毛を伏せて、ため息をついた。


 エルシーは持っていた外套で王女の身体を包むと、手を差し出して彼女が立ち上がるのを手伝う。


「……エルシーは相変わらずわたくしを見つけるのが得意ね」


「ですが、お庭でかくれんぼの時期にはまだ早うございますよ」


「あら、わたくし、そんなに子供じゃなくてよ」


「大変失礼しました。申し訳こざいません」


 真摯に謝るエルシーに対し、グローリアは本来の明るさを取り戻し表情を和らげる。


 しかし、そんな王女の顔にまだ憂いの色が残っているのを感じたエルシーは、何とも言えない気持ちになった。


 大陸のやや中央に位置するアシュクライン王国は、今年、ふたつの大きな国家的慶事が控えている。一ヵ月後には、王妹グローリアが隣国ダルタンドの王太子のもとへ輿入れする。そして秋になれば、その兄で現国王のジェラルドが他国から王妃を迎え入れることになっているのだ。


 両国の結びつきを強固にするための政略結婚だが、グローリアは祖国の発展と民のため、一国の王女として運命を受け入れ、また新たな国で将来の王妃となるべく、日々努力を惜しまなかった。明るく聡明な王女を誰もが慕い、周囲は安心して来るべき日を心待ちにしていたが、期日が迫った今、やはり寂しさが現実味を帯びてきたのだろう。王女は時たまこうして部屋を抜けて、どこかに行ってしまうことがある。


 そして、そんなグローリアを探すのはいつもエルシーの役目だった。エルシーは他の侍女と違って抜け出したことに対して小言を言わない。先ほどのように「かくれんぼ」などと子供相手のような表現で和ませてくれる。包み込んでくれるような温かさを持つ、ふたつ歳上のエルシーにグローリアは一番心を開いているため、おとなしく言うことを聞けるのだ。


「さあ、戻りましょう。お風邪を召されては大変ですから」と言うエルシーに手を引かれ、グローリアは素直についていく。


「エルシー、あなたの手、冷たいわ。わたくしのせいね、ごめんなさい」


「あ、いいえ、これは先ほどまで水に触っていたからです。申し訳ありません、これでは逆にグローリア様の手が冷えてしまいますね」


 慌てて引っ込めようとするエルシーの手を、グローリアはぎゅっと握り返した。


「う、嘘よ、冷たいなんて嘘。この手がいいの、エルシーはいつも温かいもの」


「……かしこまりました」


 グローリアの寂しさが伝わってきたが、エルシーは微笑みを返すことしかできない。


「……しばらくしたら、もうこうしてエルシーに手を引いてもらえなくなるのね。エルシーも一緒に来てくれたらいいのに」


輿入れに追従しダルタンド国の王宮に入るのは、グローリアの乳母のほかに、この国に待つ者のいない侍女がふたり。エルシーはグローリア王女を内心妹のように思い、付き従いたいほど大好きだったが、身体の弱い母と、成人前の弟を祖国に置いていくことはできない。


 もちろん、グローリアもそれは承知しているが、寂しさから、つい幼子のように本音が口をついて出てきてしまうのだろう。


「これからはダルタンドの王太子様がグローリア様のお手を引いてくださいますよ」


 離愁の念を抑え、エルシーは微笑みかける。


「そうね、アレン様はとてもお優しい方だと聞くから」


 アレンとはダルタンドの王太子の名前だ。


「変なこと言ってごめんなさい。わたくし、エルシーの前ではつい弱気になってしまうの。幻滅しないでね」


「私などに謝るなと、滅相もごさいません。私はどんなグローリア様もお慕いしておりますから」


「ふふ、ありがとう。……ねえ、エルシーはわたくしが嫁いだら、お母様の侍女に戻るの?」


「はい」


「侍女の中には、これを機に宮仕えを辞めて結婚する者もいるわ。エルシーにはそんな人はいないの?」


「行き遅れの身としては、実に耳が痛いです」


 エルシーは苦笑した。この国の女性の結婚適齢期が十七から十九歳なのに対し、エルシーは二十歳だ。たが、彼女はそんな世間の目も意に介さず、王宮侍女として生きていければ満足だった。


「あら、そんなの関係ないわ。誰が決めたのかは知らないけれど何歳になっても結婚は許されているものよ。お兄様は、二十五歳になってやっとお妃をお迎えになるのよ?」


「男性と女性では認識が違うのです。ましてや陛下は一国の王でいらっしゃいますので、王妃となられる女性の選定には時間がかかって当然でこざいます」


たしなめられたグローリアはくるりと前方に回ると、エルシーの頬を両手で包み込んだ。


「勿体ないわ。わたくし、知ってるのよ。エルシーはいつも髪をキチッとまとめてるけど、流れるように美しい金髪なのを。それに、とっても綺麗なエメラルドグリーンの瞳で、引き込まれるわ。こんな女性を放っておくなんて、世の中の殿方は見る目がないわね」


「とんでもありません。さあ、ここは寒うございますから早く戻りませんと」


 エルシーは笑顔でグローリアを促すと、手を引いて王宮へと急いだ。


 ふうっと、微かにため息が漏れる。


 没落貴族の自分には、結婚は縁のないことだった。






 名門ウェントワース侯爵家の長女として生まれたエルシーは、金髪に緑の瞳が特徴であること以外は、ごく普通の子供だった。しかし、数年後、両親は娘の特殊な力に気づく。



 エルシーは〝声なき者の声を感じる力〟を持っていたのである。


 たとえば、朝窓を開けると、何かが『オハヨウ』と伝えてくる。庭に出れば『イイ天気ダネ』と何かの意志を感じる。言葉として明確に話しかけられるのではなく、脳に直接伝わってくる感覚に近い。


 幼いエルシーは、それは誰もが感じている当たり前の現象だと信じて疑っていなかったので、ひとりでいる時も普通に言葉で〝それら〟に返事をしていた。


 しかし、両親はエルシーに、『それらに関わってはいけない』と言い聞かせた。


 この国には稀に魔力と呼ばれるものを持っている人間がいる。おもに、光、火、風、水、土に分類され、その力を見出された者は、幼少期から力をコントロールする能力を身につける。ゆくゆくは国の発展に貢献する人材となり、手厚い保護を受けられるとあって、魔力を有する人間は常に世間の羨望を集めている。


 しかし、エルシーの持つそれは、決して喜ばれるものではなかった。むしろ逆––––人々から忌み嫌われる力として、恐れられてきた。エルシーが感じる声は、風や水などの自然体に宿る精神、思念のようなもので悪意はまったく感じられないのだが、長い歴史の中でそういった類の声は、しばしば悪鬼や死者の声と混同され、それを感じる人間そのものが邪悪な存在として扱われてきたためだ。


 エルシーはすぐには理解できず、両親に何度も説明したが、聞き入れてもらえず、父は険しい表情で娘を窘め、母は悲しそうに顔を伏せた。


(これはすごく悪いことなんだわ)


 幼心にそう感じたエルシーは、〝それら〟の声に反応しないように心掛けるようになった。ある時は心の中で何度も拒絶した。そうして繰り返しているうちに、いつしか声は届かなくなっていた。大切な友達を失ったようで空しかったが、両親に悲しい顔をさせることのほうが、エルシーには辛かった。

  

 その間に弟が生まれ、ごく普通の貴族令嬢として不自由なく穏やかな日々を送っていたエルシーだったが、それも長くは続かなかった。


 父が仕事仲間たちと立ち上げた事業に失敗し、彼らは父ひとりに責任と借金を押し付け、行方をくらませてしまったのだ。ウェントワース家の財産は、たちまち多額の借金返済に充てられ、以降エルシーたちは質素な生活を余儀なくされた。


 責任感の強かった父は、自分のせいで家族に不憫な思いをさせている現実に耐えられなかったのだろう。一攫千金を狙って新しい事業に目をつけ投資をしたが、採算が取れないとわかると、また他に目を向け……と、何度も繰り返すたびにウェントワース家の財政実情は当然のごとく苦しくなっていった。使用人もひとり、またひとりと日毎に減っていき、高価な調度品や芸術品、宝石類も次々に売りに出され消えていった。


 父には元から事業の才はなかったのだと、今のエルシーには理解できる。もし自分が大人であったのなら、それを父に進言し、我が家が没落していくのを止められたかもしれないと、今さらどうしようもない後悔ばかりが募ってく。

 

 そしてエルシーが十四歳の年、またもや不幸が降りかかった。


 父が出立したあの日の出来事を、エルシーは忘れられない。家族全員で馬車の前で別れの挨拶を済ませた時、突然エルシーの頭に、声が響いた。


《ソノ人ヲ止メテ》《行カセテハダメ》


 数年ぶりに感じる声に、エルシーの身体は震えた。何もないように平静を装ってみたが、さらに声は大きく、増幅していく。


《ダメ!》

《行カセナイデ!》

《ダメ!》


 今まで感じたことのない尋常でない声の数。

 耐えきれなくなったエルシーはその場にうずくまった。そんな娘を心配した父が手を差し伸べる。その手を震えながら握ったエルシーは立ち上がり様に、意を決して口を開いた。


『あの、お父様、どうしても今日お行きになるの……?』

『どうしたんだね、急に』

『それは、その……』

『何か気になるなら言ってみなさい』


 そう語る父の瞳は優しい。今なら、話しても受け入れてもらえるかもしれない。

 安堵したエルシーの気が緩んだ。


『あのね、声が騒いでいるの。危険を知らせているみたいで–––』


 すると発言の途中で、父は娘の手をはねのけた。

 ハッとしてエルシーが顔を上げると、険しい表情の父が、自分を見下ろしている。


『それを口に出してはならないと、その歳になってもわからないのか』

『あ、あの、お父様……』


 父は厳しく言い放つと、そのまま馬車に乗り込んだ。


 それから、父は出先で事故に遇い、帰らぬ人となった。


 知らせを聞いたエルシーは、自室に駆け込むと寝台に突っ伏して泣いた。


《ダイジョウブ?》


 開けた窓から、風に乗って声が流れてくる。


『お父様を止められなかった。こんな力、あったって何も役に立たないわ……! 信じてもらえないし、嫌な顔をさせてしまうだけよ!』


《ダイジョウブ?》


『もう私を放っておいて! あっちに行ってよ! もう聞きたくない!』


 その瞬間、スッと辺りが静かになり、それ以降、声は聞こえなくなった。


 もとから身体の弱かった母はショックで寝込む日々が続き、エルシーは五つ年下の弟ルークの手をぎゅっと握ったまま、途方に暮れた。父方の縁戚の子爵が見かねて時々生活を援助してくれたが、それを理由にその息子のヘクターが屋敷に我が物顔で出入りするのを、エルシーは黙って見ていなければならなかった。


ある日、廊下の隅でヘクターがルークの肩に手を回し、馴れ馴れしくしているのをエルシーは目撃した。嫌な予感がしてそっと近づいてみると、それは見事に的中した。


『ルーク、お前、こんな落ちぶれた家の当主になったって、ちっとも嬉しくないだろ。いっそのこと姉貴に爵位継承権を譲ってやれよ。もし貴族の男と結婚すれば、そいつが侯爵になる。俺は次男でどうせ家督は継げないから、お前の姉さんと結婚して、この家を再興してやるよ。愛想ない女だが、俺に泣いて感謝するだろうな。崩れかけたこの建物も、俺好みに改築してやる』


 ヘクターの発言に、エルシーはカッと全身の血がたぎるのを感じた。


 次の瞬間、廊下の窓際の花瓶から花を抜き取ると、ヘクターに勢いよく中の水を浴びせていた。


『わっ、何すんだ、おい!』

『失言を詫びなさい! ルークはこの家の当主よ!』


 ルークは驚いて目を丸くした。いつも優しく穏やかな姉が感情的に言葉を荒らげるのを、生まれて初めて見た。


 ヘクターは憤ったが、先ほどの発言を聞かれたのはさすがに気まずかったのだろう。『ふん、そうやってお高く止まってろよ』と捨て台詞を吐くと、その場を立ち去った。


 わかりやすいことに、その日を境にヘクターの家からの生活援助はパタリと止んだ。行きすぎた行動が原因だと侘びる娘を、母は優しく抱きしめたが、これを機にエルシーの中で何かが変わろうとしていた。


 周囲に頼ってはダメだ。自分が何とかしなければ。


 エルシーは奉公先を求めて、父の友人で葬儀にも参列してくれたバークレイ侯爵を思いきって訪ねた。話を聞いた侯爵はエルシーたちの現状に胸を痛め、王宮での働き口を紹介してくれた。下働きでも何でもありがたくやるつもりだったが、それはなんと王族つきの侍女の口だったのである。


 不思議なもので、没落貴族にも関わらず、名門ウェントワース侯爵家の名はまだ威光を失ってはいなかったようだ。運良く王太后の女官を補佐する使用人のひとりに採用され、真面目な働きぶりから、一年後には正式に王太后の侍女の末席に加えてもらうことができ、さらにその二年後--十七歳から王女グローリアの侍女へと配置転換され、今に至る。


行儀見習いの間に王宮に出入りする貴公子と出会い、結婚する他の令嬢とは違い、没落貴族のエルシーに求婚する者は皆無だった。それでも安定した収入があり、何とか家族が食べていけている。


 貴族としてあるべき生活とは程遠い現状ではあるが、エルシーは心底満足していた。彼女がこの先に見据えているものは結婚ではなく、自立だ。



 三日後の午前、エルシーは王宮を出発し、実家に向かっていた。今日明日は休暇なので、実家に帰るのだ。他に行く場所もないのだが、母や弟と少しでも長く過ごしたいし、今や使用人はふたりのみなので、家でもエルシーのなすべきことは多い。


 王都の貴族街にある我が家の門は錆びていて開きにくく、ギギギ、と嫌な音を立てた。以前に帰った時よりも、音が大きくなっている。あとで油を差しておこう。


 手入れが行き届いているとは言いがたい敷地内に足を踏み入れ、玄関までたどり着くと、内側からドアが開いた。


「エルシーお嬢様、お帰りなさいませ」


 そこには白髪交じりで五十代くらいの、痩せた女性が立っていた。エルシーの顔を見た途端、優しい微笑みが顔に広がる。


「ただいま、マティルダ」


 エルシーも満面の笑みで答える。マティルダはエルシーが生まれる前からこのウェントワース侯爵家に仕えている使用人だ。給金も充分に払えていないのに、エルシーたち家族を置いては行けない、とここに留まってくれている。あとひとり、ロブという中年の男性使用人がいて、雑用や庭の手入れなどの体力仕事をこなしている。


「門の外までお迎えに上がらず、申し訳ありません」


「そんなこと、もうしてもらわなくてもいい、って前にも言ったわ。だから気にしないで。あ、ここに来る前に街で買ってきたのよ」


 エルシーは鞄から、紙の包みを取り出し、マティルダに手渡した。


「まあ、焼菓子のなんていい匂いでしょう。今日はこれをお茶のお時間にお出ししますね。奥様も喜ばれますよ」


 お母様は、とエルシーが問おうとした時、階段を駆け降りてくる音が耳に届いた。


「姉様、お帰りなさい!」


 飛び出してきたのは、弟のルークだ。エルシーと同じ金色の髪が少し跳ねている。


「ルーク、屋敷内を走ってはダメと、いつも言っているでしょう。当主たるもの、いつでも落ち着きを失ってはいけないわ」


「ごめんなさい」


「とは言っても、あなたの元気な姿を見られて嬉しいわ。はい、これを」


 エルシーは再び鞄から本を取り出すと、ルークに差し出した。


「あ、これ、欲しかった歴史の本だ。ありがとう、姉様!」


 弟の茶色の瞳が輝くのを見て、エルシーも口もとを綻ばせる。


「お母様は?」


「最近は日中も春の日差しが部屋内に入りますので、お身体もだいぶ良くなっていらっしゃいます」


 マティルダの言葉に安堵して、エルシーは母の寝室へと向かった。




 久々に見た母の顔色は、以前よりもかなり良くなっていた。日差しのある時は、起き上がって屋敷内を歩けるのだという。でも、徐々に食が細くなっているようで、エルシーは不安を感じざるを得なかった。


 それでもそんな胸中は一切表情に出さず、エルシーは明るく振る舞い、皆とお茶を楽しみ、一家団欒の時を過ごした。ささやかな夕食のあと、母が早めに就寝すると、今度は弟の勉強を手伝った。家庭教師を雇う余裕はないことをエルシーは申し訳なく思ったが、図書室の書物を読み漁り、独学で知識を増やそうと頑張るルークは、間違いなく自慢の弟だ。


 それが終わると、家の掃除や雑用に回る。ずっとこの家にいられればいいのだが、自分が無職になるわけにはいかない。エルシーが自室のベッドに入った時には、とっくに深夜を回っていた。

 

 翌日の朝食後。


 片付けを終えたエルシーが洗濯物を抱えて水場に行こうとしていた時、ルークが慌てた様子で駆けてきた。


「ルーク、走ってはダメだと--」


「姉様、お客が来てる!」


「……お客様……?」


 この家を訪ねる者は、滅多にいない。エルシーは首を傾げた。


「それが、騎士団の人なんだ。たぶんあの服装は」


 おかしい。うちには騎士と知り合いの者はいない。王宮では王女つきの近衛騎士と毎日顔を合わせてはいるが、個人的に話す間柄の者はおらず、たとえ伝達事項があるにしても王宮で交わせばすむ話だ。


「母様と姉様に用があるらしいんだ。でも母様はさっき横になってしまったし、どうしよう、騎士相手にどう対応すれば……」


「落ち着いて。それで今、どちらに?」


「マティルダが応接室に案内した。すぐにお茶を持っていくって言ってた」


 お茶の用意はマティルダに任せて大丈夫だろう。


「お母様をお呼びした方がいいんでしょうけれど……ひとまず私が用件をお聞きしてくるわ」


 エルシーは鏡の前に立ち、身だしなみを整える。流行のドレスや装飾品はないが、地味でも清潔感だけは失いたくない。


 すぐさま応接間へ向かい、ドアをノックすると、耳に心地よい低音の声で返事があった。若い男のようだ。


 部屋に入ると、二十代後半と思われる男性が立って、こちらを向いていた。その彼が身に纏っている黒地に金糸で刺繍の施された詰襟軍服は、確かに王宮騎士団のもので、これまで王宮内で幾度も目にしたことのある団服だ。

    

 「お待たせいたしました。エルシー・ウェントワースと申します。母は体調が優れず、臥せております。お会いできない無礼をどうぞご容赦ください」


「いや、こちらこそ急に訪ねて申し訳ない。アーネスト・セルウィンだ。王宮に出仕する前なので、この出で立ちなのを許してほしい」


 エルシーはその名に聞き覚えがあった。


 このアシュクライン王国の王立騎士団は、任務内容によっていくつかに分けられている。王族の護衛に当たる近衛隊である第一騎士団、王都の警備と治安維持を担う第二騎士団、東西南北に配置されている国境騎士団がある。


 アーネストは副団長の任を経て、一年前に第一騎士団の団長に抜擢されたほどの実力の持ち主で、遡れば祖先は王族に繋がる由緒正しきセルウィン公爵家の現当主でもある。


 エルシーは改めて目の前の人物に注目した。


 癖のない漆黒の髪に、切れ長の黒い瞳。通った鼻筋と薄い唇、と顔のパーツは完璧に整っていて、一見冷たそうな印象を受けるが、どことなく漂う気品も感じる。エルシーより優に頭ひとつ半ほど高い背に、衣服の上からでもわかる精悍な体躯、長い手足。


(そういえば、騎士団長がものすごく素敵、と侍女たちが話していたわね。確かお歳は二十八だったかしら)


 と、エルシーは宮中の噂を漠然と思い出した。しかしすぐに不躾にも無言で男性を凝視していた自分を内心で恥じて、アーネストに着席を勧めた。


 すると、テーブルを挟んで腰掛けたエルシーを、今度はアーネストがじっと見つめている。


 地味で質素なドレスが、落ちぶれた我が家の内情を物語っているのかしら、とエルシーが心配になっていると、アーネストがおもむろに口を開いた。

 

「やはり、覚えていないか」


「……ええと、何がでしょうか」


 エルシーの返答はアーネストの期待したそれではなかったようで、微かに彼は眉根を寄せる。


「小さすぎて覚えていないかもしれないが、昔、君に会ったことがある」


「えっ?」


「十年以上前の話だ。貴族間の交流は頻繁に行われていて、ご両親に連れられて君は俺の屋敷に時々来ていた。俺もこちらには何度かお招きにあずかっている」


「そ、そうなのですか……?」


 エルシーは必死に記憶の糸を手繰り寄せた。裕福だった時、確かに両親とともに貴族の屋敷に招かれたことはある。だが、一か所ではなかったので、どれがどの家なのか、今となってはその貴族の家名は思い出せず、外観や内装の記憶も曖昧だ。


「あの、申し訳ありません、はっきりと思い出せなくて。……そのあと、いろいろとあったものですから」


「そのようだな」


 全てを要約したようなアーネストの短い返答に、エルシーはなんだか居たたまれなくなった。以前の我が家の栄華を知っている人物に、この落ちぶれた現状を見られるのが、ひどく情けなくて恥ずかしかった。かつて応接間に置かれていた上質な調度品はすでにない。同様に、壁や天井を飾っていた高名な絵画も煌びやかなシャンデリアも。ただ寒々とした広い空間に、ソファーセットがぽつんと置かれているだけだ。


「……我が家の内情をご存知ですのね。でも、わざわざ昔話をしに、お忙しい中お越しになったのではありませんでしょう?」


 相手に弱いところを見せたくない一心で、エルシーは凛と顔を上げ、胸を張った。


 そうだ、彼は一体何をしに来たのだろう。彼女には皆目見当もつかない。


 すると、次にアーネストはエルシーの想像をはるかに越えることを言ってきたのだった。


「そうだ。本来ならまずお母上に話を通さなければならかったのだが、やむを得ない。エルシー・ウェントワース。君に結婚を申し込みに来た」


 「……はい?」


 暫しの沈黙のあと、エルシーの口から間の抜けた声が漏れ出た。王族つきの侍女として長年仕え、完璧な礼儀作法を身に付けた者として、それがいかに雑な返答であったか、驚愕で固まってしまった彼女は全く気づけないでいた。


 しかし、すぐに聞き間違いだと思い、エルシーは自分を取り戻す。


「申し訳ありません、よく聞き取れなかったのですが」


「君に、結婚を、申し込みに来た」


 彼女の言葉を真に受けたアーネストがやや身を乗り出し、幼子に教えるかのような口調で、はっきりと言い放った。


 聞き間違いではなかったのか。彼の真意がわからず、エルシーは小首を傾げる。


「あの、セルウィン公爵閣下」


「アーネストと呼んでくれ」


「では、アーネスト様。それで、結婚とは……?」


「君は俺の妻となる。一緒に暮らし、寝室を共にし、そうなれば、いずれは俺の子を産み──」


「そういうことをお聞きしているのではありませんわ!」


 エルシーは顔を真っ赤にして、思わず立ち上がった。何が、そうなれば、だ。いちいち説明されるほうの身にもなってほしい。それとも彼の中で自分は、結婚の意味をいまいち理解しきれていない昔の小さな女の子のままなのか。この歳で恋愛もろくにしてこなかったせいで、実年齢より幼い雰囲気を醸し出ているのだろうか……と、エルシーは情けなさで肩を落としながら、ストンと着席した。


 だが、気落ちも一瞬のことで、すぐに背筋を伸ばし、毅然とした面持ちでアーネストに向き直る。


「さすがに意味はわかります。私がお聞きしたいのは、なぜ私なのか、ということです」


「君が適任だからだ」


 まるで上官が部下に新しい任務を言い渡すような物言いに、エルシーはいよいよ、ついていけない。


「第一騎士団の団長の任に就いてまだ一年で、正直、忙しい。だが、公爵家の当主がいつまでも独り身でいるのは世間体が悪い、と周囲がやたら見合いを勧めてくることにうんざりしている。そんな時、王宮でたまたま君を見かけた。どこかで見たことがあるような気がして、人に尋ねたら、ウェントワース家の令嬢だと聞いた。王女殿下の侍女で身元もはっきりしているなら、周囲も反対しない。……君が俺を覚えていないのは、やや誤算だったが」


「身元がはっきりしているご令嬢なら、他にもいらっしゃいますわ。何もこんな寂れた家から妻を迎えなくても、輝かしい家柄のお嬢様はたくさんいらっしゃいますでしょう? アーネスト様に相応しい方が見つかるかと」


「ああ。だが、甘やかされて育ち、親の権限で贅沢が当たり前だと思っている世間知らずな女性を妻にしたくはない。婚約中は上手く隠し通していたとしても結婚後に本性が現れるかもしれない。それに対し、君は真面目で、王太后様の勧めで王女殿下の侍女に抜擢されたくらいだ。王太后様に信頼されている点は大きな決め手だ」


 エルシーは咄嗟に言葉が出なかった。短絡的なのか慎重なのか、よくわからない。人物像を評価されたのは嬉しいが、たまたま顔見知りの自分が彼の条件に合っていて手っ取り早かっただけだ、と思うと少し複雑な気分になった。だが、貴族間の婚約の取り決めは、まず両家、または両者の条件で成立することがほとんどなので、これはこれでおかしくない話なのかもしれない。


「俺は君がいい」


 アーネストが黙り込むエルシーをじっと見つめてきた。


 エルシーの心臓が思わず跳ねる。


 彼にとって適任だという意味なのに、まるで心から自分が求められたような錯覚を起こし、不本意にも女心が揺さぶられた。


 しかし、そう感じてしまった浅はかな自分が嫌になったエルシーは、すぐに視線を逸らすと深呼吸して気持ちを落ち着かせる。


「この場でのお返事はでき兼ねます。母とも相談してみないことには」


「もちろんだ。いい返事を期待している」


 そろそろアーネストも登城しなければならない時間だ。エルシーは彼が乗り込んだセルウィン公爵家の家紋入りの馬車を、しばらく見つめていた。





 エルシーの休暇は今日までなので、夜までには王宮に戻らなければならない。早めの夕食のあと、エルシーは母にアーネストの申し出の件を話した。母は喜んでくれたが、結論はエルシー自身に託された。


 家族と抱き合い、別れを惜しみながら王宮へと戻る。寂しさを紛らわせるために、いつもの道中なら敢えて王宮での仕事のことばかり考えるようにしているのに、この日ばかりはアーネストの顔が頭から離れなかった。



 それから、二日後の午後。

エルシーは侍女長に個別に呼ばれ、王宮の使用人出入口にルークが来ていることを知らされた。今までルークが自分を訪ねてやってくることなど一度もなく、エルシーは胸騒ぎを覚えながら、急いで駆けつけた。


「姉様!」


 姉が来るのを今か今かと待ち続けていたルークは、エルシーの顔を見た途端、大きな声を上げた。その顔には焦りの色が浮かんでいる。


「ルーク、どうしたの!?」


「母様の具合が急に悪くなったんだ」


「え、どうして? この前はお元気そうにしてらしたじゃない!」


「ロブのせいだ!」


 ルークは感情的に、屋敷の下働きの男の名を叫ぶ。


「父様からもらった宝物を……売らずに残しておいた思い出の詰まったルビーの指輪を、ロブが持ち逃げしたんだよ!母様はショックで倒れたんだ!」


「なんですって!?」


 エルシーは急いで侍女長の所へ戻ると事情を説明し、外出許可をもらって使用人棟の自室へと駆け込んだ。ベッドの上に脱いだお仕着せを放り投げ、慌ただしく普段着に袖を通すと髪の乱れを整える余裕もなく、王宮を飛び出し、ルークとともに家路へと急ぐ。


 家の玄関を開けると、エルシーの帰りを待っていたマティルダが、すぐに駆け寄ってきた。


「マティルダ、お母様のご様子は⁉」


「寝室でお休みになられていますが、水もお飲みになりません」


 エルシーはすぐに部屋へ向かい、母へ励ましの言葉をかけたが、握った手は力なく、顔色も悪い。信頼していた使用人から裏切られ父の形見も失ったショックが、元々身体の弱い母から精気と気力の全てを奪い去っていくような恐怖に見舞われ、エルシーは悔しさと悲しさで顔を歪めた。


 すでに盗難届は出したとルークから聞いている。母のかかりつけの医者を呼びに行ったが、身内の葬儀のため地方へ発ったあとで、二、三日は戻らないという。


 じっとしていられなかったエルシーは、母のことをルークとマティルダに任せると屋敷を飛び出し、他の医者のもとへ向かった。


 重い灰色の雲が広がる空の下、エルシーは馬車にも乗らず、住宅街へ出た。ウェントワース家には古い小型馬車が一台だけ残されていたが、御者の役目も担っていたロブが逃亡した今、エルシーは徒歩での移動を余儀なくされた。辻馬車は通常は住宅地を走ってはおらず、都の中心に出なければ捕まらない。


 歩いてたどり着いた一軒目の医者はちょうど往診で留守にしており、二軒目の医者は、エルシーがすぐに診察代を払えないと知ると、門前払いにした。


 すでに夕刻は回っていて辺りは薄暗く、重く垂れ込めた雲から雨粒が落ち始めた。次に近い診療所まではかなりの距離があるが、それでもエルシーは諦めず進むしかなかった。いつしか雨は本降りとなり、エルシーを濡らす。水気を含んだ服にいつもより身体が重く感じられたが、気力を振り絞って前進し続けた。歩みを止めれば、気持ちまでも暗闇に引きずりこまれそうで、ただただ恐ろしかった。


(お母様がこのまま衰弱してしまったら……お母様まで失うことになったら、どうしよう……)


 しかし、追い打ちをかけるように、通りがかりの馬車の車輪が道の窪みにはまり、そこに溜まっていた雨水が跳ねて、エルシーのスカートに降りかかった。


 天にまで見放されてるのかもしれない、とエルシーが呆然としていると、その馬車が少し前に進んだ所で停まった。


「エルシー……?」


 自分の名前が耳に届き、彼女は視線を上げる。


 馬車の扉が開き、誰かが上半身を乗り出していた。その人物の顔を見た途端、エルシーの緑色の瞳が徐々に開いていく。


「アーネスト……様……?」


「どうしたんだ、この雨の中」


 言葉と同時に、軍服姿のアーネストが馬車から飛び降り、駆けてきた。


「このままでは風邪を引く。早く馬車へ」


「あの、お、お母様が……」


「話は中で聞く」


「大事な物を盗られて……それで、私、お医者様を……」


 先日のウェントワース家での毅然な態度からは想像もつかないほど、狼狽え悲痛な面持ちで訴えかけるエルシーの姿を見て、アーネストは瞬時にこの娘の身に何か大変なことが起こっているのを悟った。


「とにかく中へ入るんだ」


「でも、来てくれなくて――」


「ちょっと失礼する」


 説明することに集中して動こうとしないエルシーの身体を横抱きにして、アーネストは馬車へ向かう。そのまま中へ押し込み座らせると、自分の上着を脱いで、彼女の肩にかけた。


「着替えなければ意味はないが、濡れたままでいるよりはいくらかはマシだろう。それで、何があった」


 動揺と遠慮から、上着を返そうとするエルシーを制して、アーネストは話の先を促す。


 少し落ち着きを取り戻した彼女から全てを聞いたアーネストの行動は早かった。


 帰路の途中だったにも関わらず、御者に命じて行き先をセルウィン公爵家のかかりつけの医師の所に変更し、その医師を乗せたままウェントワース家へ向かった。


 家に戻るなりエルシーは自室に駆け込んで着替えをし、すぐに母のもとへ向かった。


 診察中、祈るように手を合わせ部屋隅で見守っていた姉弟に、医者は振り返って穏やかに微笑む。


「心労による一時的な体力低下でしょう。もとからお身体は弱いとのことですが、それでも養生し、きちんと食事を摂れば徐々に回復なさるでしょう」


「よかった……ありがとうございます……!」


 エルシーは涙目になりながら何度も頭を下げた。ルークの顔にも安堵の色が広がっている。




(そうだわ、アーネスト様にもお礼を言わなければ……お帰りになっていなければいいけど)


 母の容態で頭がいっぱいだったとはいえ、ようやく彼の存在を思い出した自分を恥じながら医者と部屋を出ると、腕組みをして廊下の柱に寄りかかって立つアーネストの黒い瞳と目が合った。


 待っていてくれた。


 いや、彼の一存でここまで医者を連れてきたのだから、最後まで見守らなければという責任が生じていただけといったところか。それを証明するように、アーネストは無表情のままエルシーからすぐ視線を外すと、医者を呼び止め話を始めた。


 それでも、エルシーの心は不思議と安心感に包まれている。誰かの存在に頼もしさを覚えるなんて、何年ぶりだろう。


 話し終えた頃を見計らって、エルシーは頭を下げ彼に感謝を述べた。


「アーネスト様、ありがとうございました」


「大事に至らなくてよかったな」


「はい。このご恩はいずれ必ずお返しいたします」


「それはいい。さっき君のドレスを俺の馬車で汚してしまった詫びだ」


「それはお気になさらないでください。それにこれとは別です」


「だから、いいと言っている」


「ですが――あっ」


 エルシーの言葉途中にも関わらず、アーネストは踵を返すと、これ以上のやり取りは無意味だと言わんばかりに、さっさと廊下を進みだした。


(きっと、無駄なことがお嫌いな性格なんだわ)


 なぜなのか、少しだけ寂しい感情に陥りながら、エルシーは彼のあとをついていく。




 廊下の先で待機していたマティルダに母を任せると、姉弟は馬車の待つ外へ、アーネストと医者を見送りに出た。しかし、乗り込んだのは医者だけで扉は閉まり、アーネストから何かを命じられた御者はすぐに馬車を出発させてしまった。

 

「え、あの、アーネスト様……お帰りはどうなさるのですか?」


 エルシーが戸惑いがちに声をかけたのと同時に、アーネストが振り返る。


「あとで迎えを寄越すように言い渡した。それまで、ウェントワース家の長と話がしたいのだが」


「は、はい、構いませんが」


 咄嗟にエルシーは頷いた。――だが。


「君ではない」


 ため息混じりにアーネストは答えると、視線を彼女の横に立つルークに向けた。


「えっ、僕ですか!?」


「他に誰がいる。ふたりで話がしたい。歳はいくつだ」


「……十五歳です」


「だったら充分、話ができる」


 姉弟は思わず顔を見合わせた。不安げに眉を下げるルークを見て、エルシーはアーネストに何か言い返そうか一瞬迷ったが、彼には何か思うところがあるのだろう。


 エルシーは弟を見つめ、大丈夫、という意思を込めて力強く頷くと、ふたりを応接間へ案内した。


 入室の際、茶の用意は不要、とアーネストに言い渡された。つまり、邪魔をするなという意思表示だ。


 不安と緊張で強張る弟の背中がドアの向こうに消えていく。エルシーは彼らの話が終わるまで廊下で待つことも考えたが、いつ終わるとも知れないので、その間母の様子を見に行き、そのあとマティルダと夕食の準備に取り掛かった。


 やがて、厨房に鍋の湯気が立ち込めた頃、ルークが姿を現した。


「姉様、アーネスト様が呼んでるよ。今、図書室にいらっしゃるから」


 その声が心なしか弾んでいるように聞こえて、エルシーはハッと顔を向ける。ルークの瞳は輝き、口角は嬉しそうに弧を描いていた。


「ルーク、公爵様と何をお話したの?」


「すごくいい話だよ。でも口止めされた。アーネスト様が直に姉様に話す、って。あ、名前で呼ぶのは不自然かな。兄様? 兄上、かな」


「……気が早いわよ。私はまだお返事していないわ」


 エルシーは眉根を寄せた。弟はアーネストに、姉との結婚に関して何か取り引きを持ち掛けられたのかもしれない。貴族間の婚姻は当主同士で決めることがほぼ慣例となっているため、彼がルークを指名し、エルシーに立ち入らせなかったことも納得できる。


(でも、なぜ図書室に? よくわからない人……)


 大きく息を吐きだすと、エルシーはやや固い表情で厨房を出て図書室へ向かった。ドアをノックしてから入室する。


 書棚の前に立ち、真剣な面持ちで本のページをめくるアーネストが視界に映った。彼の完璧な立ち姿と整った横顔に、意思とは関係なくエルシーが目が離せずにいると、やがて静かに本を閉じたアーネストが顔を上げた。


 温度を感じさせない黒い瞳を向けられ、エルシーは我に返ると同時に背筋を伸ばし、軽くお辞儀をする。


「お、お呼びでしょうか」


「君は弟をどう思っている?」


 唐突な質問に戸惑い、返事が遅れるエルシーに、アーネストは間髪入れずに畳みかける。


「ルークの将来を、だ。もう十五歳、身の振り方を考えていかなければならないだろう。ルークは将来、宮廷書記官になりたいそうだ」


「え……?」


「やはり初耳か。誰にも言っていないと、ルークが話していた通りだな。だが、聞けばこの屋敷に閉じこもって、この図書室に残ったやや時代遅れの本や古い資料で独学中。これでは夢は叶わない。君は、このまま弟をただの没落貴族の当主の座に据え置くつもりか」


 アーネストの言葉は、冷たい氷の刃となって、エルシーの心に突き刺さった。ルークに何もしてやれないことに、ずっと後ろめたい気持ちを抱えてきたのは事実だ。だが、現状からして最低限家族の生活を守ることで精一杯なのだ。


 アーネストもわかっているはず。なのに、なぜそんなことをわざわざ口に出すのか。エルシーはグッと拳を握りしめた。


「……私だって、ルークには不憫な思いをさせてしまっていることを、申し訳なく感じています。でも、もう売れる物は売ってしまいましたし、私の給金では、毎月の母の診療代と薬代、家族と使用人の生活費を賄うのがやっとなんです。お金の余裕なんてどこにも――」


「では、盗まれる前に、あの宝石を売ればよかったな。少しは足しになっただろう」


 アーネストの心ない発言に、エルシーはとうとう凍りついた。すぐさま怒りに火がついたが、それを表面に出すことはウェントワース侯爵家の長子としての、また品性を叩き込まれた王宮侍女としてのプライドが許さなかった。


「……家のために、調度品も装飾品も絵画も、手放しました。母も、自分のドレスや宝石を売ることを快諾しました。盗まれたルビーも、当初、母は売りに出すつもりだったんです。でも、私が止めました。あれは結婚前、父が初めて母に贈った思い出の詰まった品なのです。それだけは、母に持っていてほしいと……父の形見として置いてほしいと私が望みました。他人からみれば、父は愚かで無計画な人間だったかもしれませんが、私たち家族にとっては優しい父であり大切な人でしたから」


 エルシーは無理に微笑んでみせた。頬は引きつり、口元は歪み、今にも泣き出しそうで不格好な表情を晒していたことには違いないが、目の前のこの冷血漢に屈してしまうよりはマシだ。


「貴方は何もわかっていらっしゃいませんわ」


「いや、俺は」


「いろいろとお世話になり、感謝申し上げます。このご恩はいずれ必ず」


 静かな佇まいを貫き、見えない壁を作り出すエルシーを見て、アーネストの黒い瞳がわずかに揺れた。そして、何か伝えようと口を開きかけた時。


 図書室の扉がノックされ、マティルダが控えめに顔を覗かせた。


「……失礼したします。セルウィン公爵閣下、お迎えの馬車がお待ちでございます」


 アーネストは表情を戻し、軽く頷いた。「見送りは結構。では」とだけ残し、エルシーの横を通り過ぎていく。


 背後で閉まる扉の音を聞いたのち、彼女はやっと表情を崩すと唇を噛み締め、無言で俯いた。


 あんな男に、一瞬でも頼もしさを感じ、見とれてしまった自分が情けなかった。やはり、彼との結婚は無理だ。早々に断らなければ。


 図書室を出たところで、エルシーは前方から足早に近づいてくる弟の姿を視界に捉えた。


「アーネスト様は、もう帰られたの?」


「……ええ。それより、ルークあなた、書記官になりたい、って本当なの?どうして、それを早く言ってくれなかったの? どうして、私よりあの人が先にそれを知っ――」


 なんとも言えない鬱積した焦りを感じ、責めるような口調になっていることに気づいて、エルシーは咄嗟に言葉を切った。


 それに、その話を先に聞いてどうするつもりだったのだろう。自分では弟の夢を叶えてやれないのに。それをわかっているからこそ、ルークもこれまで一度も口には出せなかったのに。


「……うん、僕も言うつもりはなかったんだけど、アーネスト様に、このまま何もしないつもりか、って諭されて。だから、本当は宮廷に出仕して身を立てて家族に楽をさせたい、安心させたい、って答えたんだ。そうしたら、家庭教師をこの家に遣わせるから、死に物狂いで勉強しろ、って」


「えっ!?」


「でもその前に、姉様の許可を取りたいから、図書室に呼んでほしい、って……もちろん、その話だったんでしょう?」


 エルシーは言葉に詰まった。アーネストがそこまで考えていたとは。しかも、勝手に事を進めたりせず、ちゃんと長姉であるエルシーの意見も聞くつもりだったのだ。


 いつも淑やかで穏やかな姉が、感情的になり、話を最後まで聞かずに相手を追い返したなど、ルークは露ほども想像していないに違いない。


「ええ、まあ……」


 屈託のない純粋な笑顔を前に、エルシーは本当のことを言えず、結局言葉を濁すしかなかった。


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