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チェシャ猫の冒険  作者: 高村
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歯車は回る

十一 ベラの闘い


 先ほど入ってきた二人組の男たちは、明らかに怪しかった。

 ベラはカウンターでグラスを拭きながら、ちらりとカウンターの二人組に目をやった。一人は体格の良い大柄な男、もう一人は身長の低い眼鏡の男だった。二人とも入ってくるなりビールを頼み、カウンター席に腰掛けたが、ジョッキにはほとんど口をつけずカウンターの内側をちらちらとのぞいていた。二人組は前も店に来たことがあり、その時もカウンター席を選んでいた。ベラにとって気掛かりなのは、その視線が米袋で隠してある隠し扉に向いている気がしたからだった。

「お客さん、本日はどちらからで?」

 ベラは、相手が仕掛けるのを待つような性格ではなかった。大陸の血が、もしかしたら影響しているのかもしれない。

「都心から」体格の良い男が仏頂面で答えた。

「あらやっぱり」ベラはわざと明るく微笑みかけた。「都心の方はすぐにわかるわ―雰囲気が違うのよね」

 眼鏡の小男が馬鹿にしたように鼻で笑った。当然だとでも言いたげだった。

「ベラさん」彼はすっかり泡の消えたビールを弄びながらちらりとまたカウンターの内側に目をやった。「私が前に来た時も全く同じ米袋があそこに置いてあった。角に同じ油汚れがついているから間違いない。このお店ではあまりお米を使わないのかな?」

 ベラはテキーラのショットを喉に流し込まれたかのような衝撃を感じた。今の今まで自分の店が怪しまれたことはなかった。どうしてわかった?

「そうね…リゾットとかお茶漬けくらいかしら。炊いたものを冷凍して保存しておくのよ」

 ベラは平静を装いつつ、さりげなく周囲の状況を確認した。店内には彼ら以外には二、三人の客しかいなかった。新月に深夜まで飲むことは、スラムではあまり頭のいいことではないとされていた。

「あなたは三十年前、国会議事堂前のデモ隊と軍の衝突で、恋人を失くしていますね」

 大柄な男の静かな声がボディーブローのようにベラの腹の底へ沈んでいった。不意打ちだった。喉が詰まり、言葉が出てこなかった。ベラは震える手でガスコンロの火を点け、キッチンアラームをセットした。

「どうやらあなたを連行しなくてはいけないようだ」

 男は立ち上がると威圧的にベラを見下ろした。眼鏡の男も周囲をちらりと見ながら胸の内ポケットに手を伸ばした。拳銃よ、とベラは思った。

「ちょっと待って」

 ベラはなるべく声を張って堂々と喋るように努めた。周囲の客が酔った目で振り向き、二人の男を不審そうに眺めた。

「淑女にいきなり男二人で向かうものじゃないわ…都心の男は紳士的なんでしょう? それに今私は火を扱っているし、厨房は度数の高い酒瓶でいっぱい…言いたいことがわかる? 少しでも間違えたらあなたたちもここのお客さんたちも全員丸焦げよ」

ベラのその言葉で、残っていた数人の客がお金を放り出して出ていった。スラムでトラブルは日常茶飯事だ。逃げ時というものを彼らは知っていた。

「俺らを脅すのは焼け石に水を注ぐことに等しい」大柄な男が依然と無表情のまま、カウンターの入り口へと歩み始めた。「俺たちもこの店を焼き払いたいわけじゃない…外に出てもらおう」

 ベラは歯を食いしばって近くのスピリタスの酒瓶を掴んだ。少なくとも、他の客は状況をくみ取って逃げてくれた。先ほどセットしたアラームがけたたましい音で鳴り響いた。ベラはそれを止めようとせず、じりじりと近寄る大男を睨みつけた。カウンターでは眼鏡の男が拳銃を抜き出してベラに銃口を向けている。

「さあ…」

 大男がさらに一歩踏み出した瞬間、ベラはスピリタスの酒瓶をガスコンロに打ちつけた。液体が飛び散ったかと思うと次の瞬間火柱が立ち上がった。木製のカウンターに炎が燃え移り、巨大な炎の壁が荒波のように競り上がった。眼鏡の男が何か罵り、ベラは火柱の熱に喉を焦がしながら伏せた。銃声が二発鳴り響き、さらにいくつかの酒瓶が割れた。大男が叫び、何か重いものが床に叩きつけられる音が立て続けに聞こえた。アラームはどこかでまだじりじりと鳴り響いている。ベラは炎に囲まれながら自らの最期を悟った。迫りくる熱と炎を頭から消し去り、必死であの人の顔を思い浮かべる…死ぬ時くらいは…。

 しかし気づくと炎は弱まっているようだった。ベラは混乱した。アルコールが足りなかったか? しかし炎は弱っているというより鎮火されているようだった。何者かが、燃え盛る炎に消火器を吹きかけているのだ。

火はやがて完全に消化され、ベラは灰と焦げた木片の中から咳込みながら顔を上げた。目が涙で曇っていてよく見えない。火を消した誰かが、依然としてけたたましく鳴っているアラームのベルを止め、安らかな静寂が店内を満たした。

「なんて無茶をするんですか」

 煙と塵の中でゆっくりと焦点が結び、クロの姿が浮かび上がった。黒色の外套とブーツはすすけて汚れ、青白い顔は強張っていた。ベラの横にしゃがみ込むとゆっくり顔を持ち上げ、肺、心臓と順に耳を傾けていった。

「喉が焼けているが、幸い肺にまでは達していない…良かった」

ベラは思わず微笑みながらクロを見つめた。この一世代若い女性に、不思議なほどの頼りがいを感じた。

「とりあえず傷口を水とアルコールで洗い流して応急処置します」

 クロが処置の準備をする間、ベラは周囲を見渡した。二人の男は厨房の入り口で白目をむいて倒れていた。

「私の緊急信号、受け取ってくれたのね」ベラはかすれた声で言った。視線は火にあぶられすすけたキッチンタイマーを捉えた。

「ええ、緊急用の合図を決めておいて良かった…ちょうど帰ってくる途中だったからすぐに聞こえました」クロはコップに水を注ぐとベラに手渡し、膝枕をした。「はい、ゆっくり飲んでください…横を向いて、むせないように」

 ベラは言われるままに水を流し込んだ。荒れた喉がチリチリと痛んだが、水が通り過ぎると少し楽になった。

 周囲を改めて見渡すと、厨房は酷いありさまだった。ガスコンロは鉄が歪曲し、炎に舐められた床と天井は黒くすすけていた。割れた酒瓶が散乱し、眼鏡の男が放った二つの弾丸が壁にのめり込んでいた。おまけに消火器の粉が朱色の雪のように降り積もっていた。幸い、隠し扉は無事なようだった。

「もうここは使えないです」

 ベラの考えを読み取るかのようにクロは言った。彼女は厳しい表情で濡れた脱脂綿を指で挟み、ベラの火傷を拭き始めた。ベラは痛みで顔を歪めた。

「軍部から明らかに目をつけられているし、あなたの素性もばれている。今夜中に私たちとここを離れましょう」

 ベラは唇を噛んだ。

「ごめんね…私が振り払えなかったばかりに」声が揺れ、ベラの視界は再びかすんだ。

「何を言っているんですか」クロの目は怒りに見開いていた。「こんなに危険な状態に身を置いて! すんなり扉へ通せばいいものを。死んでいたかもしれないのに」

珍しく声を荒げるクロにベラはなぜか安心し、少し落ち着いた。どうも年長の自分の方が子供のように思えて仕方がなかったので、クロの不安定がベラを安定させた。

「とりあえず他の人たちに伝えないとね」

「はい」クロは怒りを抑えるように無表情の仮面を被り、傷の手当てに専念した。「玄さんと暴坊は直に帰ってくる…子供たちを向こうに送っていて良かった」

「本部へ逃げるの?」

「ゆくゆくは…ただ、県境の警備を強化されたらスラム街に隠れているしかないですね」

ベラは半分焼け焦げた自分の部屋を見渡した。二十年は、早いようで長かった。しかし二十年経った今も、やらなければいけないことは変わっていなかった。胸に抱く愛情も、恨みも。

「その男たちはどうするの」ベラは床で伸びている男たちに顎をしゃくった。

「まあ殺すのが妥当だと思いますけど」

「だめ」ベラはきっぱりと言った。クロの膝枕の上ではどうも形無しな気がしたが、年上の威厳をなるべく出すよう努めた。「自分に都合が悪いからって人を殺すようじゃ、彼らと変わらないじゃない」

「より良い案が思いついたらそうします」クロは冷淡に答えた。「まあ彼らの本部への連絡が途切れた時点で軍部にばれるとは思いますけど」

 クロは手当てを終えるとそっとベラの頭を床に置き、身体を横向きにさせた。黒い外套は灰や消火器の粉ですっかり白くなっていた。

「本部及び玄さん、暴坊に連絡を飛ばしてきます。すぐに戻ってくるので動かずじっとしていてください。なにかあれば、一声叫んでください」

 そう言うや否やクロは踵を返して暗闇の中へ溶け込んでいった。白色の汚れが残像のようにベラの瞳に残った。扉が閉まり、部屋は静けさに包まれ、ベラは自分の呼吸の音を聞きながら、生きていて良かったと思った。


 夜が明け、アキは窓から差し込む陽光に起こされた。昨夜はあまり眠れなかった。アキはしばらくベッドの中でぼんやりと向かいの壁を眺めていたが、給仕ロボットが朝食を準備する音が聞こえたのでゆっくりとベッドから這い出た。

 服を着替えて昨日通された客間に向かうと、すでに車掌と榊原代表が深刻な顔でなにやら話し込んでいた。車掌はアキに気づくとにこりともせずに「おう」というと手でこちらに来いとアキを招いた。アキは不思議に思いながら車掌の隣に座った。

「クロから知らせがあった。昨晩隠れ家が襲撃されたらしい」

 アキは給仕ロボットから受け取ったカップを危うく取り損ねるところだった。窓から差し込む陽光とは対照的に、アキの腹の底には冷たいものが流れた。

「恐らく、あの隠れ家はもう使えない。俺らは事が収まるまでこちらにいるようにとのことだ。お前にとっては計画に変更はない」

「どうして?」ゆっくりとカップに口をつけたが、淹れたての紅茶がアキの唇を焼いた。「僕のせい?」

「馬鹿、そんな事気にするな」車掌はぶっきらぼうに答えた。「大事なのは、少なくとも今のところ誰も死んでも捕まってもいないということだ」

「みんなは…大丈夫だったの」

「ああ、ベラが火傷を負ったそうだがそれくらいだ。命に別状はない」

「君は気にせずここでゆっくりしていくといい」榊原代表が心配そうな顔でアキを見ながら言った。「君はまだ十五歳だ…大人に頼りなさい」

 しかしさらに耐え難かったのはチェシャ猫が客間に現れた時だった。いつも通りブランケットを肩にかけて、あくびをしながら現れた彼女は、テーブルに集まった面々の表情を見るなり文字通り目の色を変えた。青色だった。

「何があったの」

 車掌が話を繰り返すと、チェシャ猫の瞳は紫から、赤から、黄色に変わり、最終的にまた青で落ち着いた。その青色が追及するような目で自分を見つめていることにアキは気づき、アキは怒りに身を任せてその目を睨み返した。自分だってどんなに惨めな思いをしていることか。

 しかし予想に反して、チェシャ猫はアキの目を数秒見つめると少し泣き出しそうな顔をして目を逸らした。バターの乗ったトーストは冷めかけていたが、誰も手を伸ばそうとしなかった。




十二 鋼鉄馬に乗って


 アキは昼間を寝て過ごした。初日こそは三人とも榊原代表に配慮して就寝の時間を合わせていたが、昼夜逆転の生活を日ごろ送っている三人には限界があった。チェシャ猫はほとんど朝食に手をつけないまま寝室に引き返し、車掌も榊原代表と話しながら何度も目をこすっていた。アキは寝室に引き返し、睡魔に引きずられるがまま意識の暗い淵に落ちていった。

 目覚めるとすでに陽は沈みかけていた。赤い斜陽が窓から差し込み、外ではカラスが鳴いていた。アキは喉の渇きを癒すために客間に向かった。

 客間にはチェシャ猫が一人で座っていた。アキが入ってくると見上げて視線を合わせたが、すでに下を向いてしまった。その目には怒りも悲しみもなく、それがアキを不安にさせた。アキは逡巡しながら水道から水を注いで一口飲んだ。水がゆっくりと体内に染みわたり、意識が澄んでいく気がした。

「チェシャ…」

「いいよ、言わなくて」

 チェシャ猫は顔も上げずに、肩にかけたブランケットを引き寄せた。

「昨日、アキの目を見たら、全て見えちゃったから」

「そっか…ごめん」

「うん、私も。でも、帰ったら暴坊にも謝って。アキが思っているより、他人の気持ちを敏感に感じ取っているから」

 アキは静かにうん、わかったと言い、空になったグラスを再び水で満たし、チェシャ猫の隣の椅子に腰を下ろした。チェシャ猫は寒くないのに足を椅子に引き上げ、ブラケットに小さくくるまっていた。穏やかな沈黙が二人の間を流れた。電気の点いてない客間の中で、チェシャ猫の色白の肌が夕陽でぼんやり赤らんでいた。

「アキ、今夜ここを出よう。スラムに帰らなきゃ」

 アキは驚いてチェシャ猫の黒色の瞳を覗き込んだ。

「何を言っているの。事が収まるまでこっちにいろ、って」

「だめ…隠れ家は使えなくなって、恐らく事が収まればこっちにみんなで隠れることになる。そうしたらいよいよ巣鴨研究所に潜り込むことなんてできなくなる。研究所の連中は今私たちを追い込んでいると思っている。その油断を突かないと、チャンスは二度とやってこない。今しかないの」

 黒の瞳に夕陽が映りこんで激しく燃え上がった。アキの心は揺れ動いた。チェシャ猫と仲直りできたのは心の底から嬉しかったが、榊原代表や車掌に黙ってここを出るのは憚られたし、何より研究施設に潜り込んで父親と対面する勇気がアキにはまだなかった。アキは咄嗟に、以前から気になっていたことをチェシャ猫に聞いた。

「チェシャ猫の家族って、今どうしてるの?」

 チェシャ猫のすでに大きい瞳がさらに拡大した。彼女は毛繕いをする猫のように首を傾け、ブランケットの糸のほつれをいじった。

「なんで?」

「いや、なんとなく」

 陽が落ちていくにつれ、影が部屋を侵食していき、チェシャ猫の顔にも深い陰影が落とされた。アキからは、彼女の瞳の色を識別することはできなかった。

「父親は政府の研究所に勤める研究員だった。ちょうどあなたのお父さんのように。母親は父親と大学で出会って、卒業後すぐ結婚した。郊外の小さな家に私たちは住んで、休日にはスラムの小さな丘にピクニックをしに行った。私たちは幸せな家族だった。ところが、母親が病気にかかってから歯車が狂い始めた」

 部屋はすっかり暗くなっていた。だがアキは電気を点けずにじっと座ってチェシャ猫の話に耳を傾けた。

「父親はいくつも大学病院を歩き回ったけど、最新の医療技術を駆使したとしても治療は極めて困難と言われた。母親はみるみる衰弱していき、やがて木の葉が落ちるように、月の綺麗な春の夜に静かに息を引き取った。

 父親は悲しみで頭がおかしくなっちゃった…しょうがないよね、お母さんのこと大好きだったから。彼は施設に勤める友人に、お母さんを蘇生できないかと頼み込んだ。何とかして彼女を蘇らせられないかと。その友人は、たまたまクローンの研究をしていたから、藁にも縋る想いで頼んだの。しかしその知人は約束を果たす引き換えに、二人分の被験体を要求した…。私と父親は自らの身体を差し出した」

「ちょっと待って」

 アキの声はかすれていた。遠くでカラスが鳴いていた。

「その知人って、もしかして」

「そう。宮川夏雄、あなたの父親よ」

 部屋は完全に暗闇に包まれていた。チェシャ猫の琥珀色の瞳が街灯のように瞬いて点灯し、アキの方を見つめた。彼女は自分でも自分の瞳の色が分かっていないのではないだろうか、とアキは錯覚した。

「でも当然彼は死者を蘇らせることはできなかったし、母親のクローンを作ることもしなかった。作ったのは可愛い自分のクローンだけ。そして妻を失った哀れな夫と、なにも口出しできなかった従順な娘は易々と騙され、宮川夏雄の実験材料として利用されることになった」

「お父さんは知らなかったの? 僕の…宮川夏雄がどのような実験を行っていたのか」

「どうかしら? 宮川夏雄は同期の中で群を抜いて昇進していたから、彼の研究内容について詳しく教えてもらうことはなかったんじゃないかな。クローン技術の実用化を進めていることは薄々気づいていたみたいだけど。例えその事実を知っていても、父親の決断は変わらなかった。それくらい、精神がおかしくなっちゃっていた」

 アキの脳裏にふと手紙の文面が鮮明に映し出された。

「待てよ…。じゃあ僕が見つけたあの手紙は、君の父親が書いたものだということ?」

 チェシャ猫が身体を少し動かし、毛布が擦れる音がした。

「やっぱり読んだこと、ばれてたか」チェシャ猫の声は、少しだけにやりとしたかのようだった。「そう、あれは私のお父さんが書いたの。あの手紙、捨てちゃった?」

「うん、ごめん。トイレに流しちゃった。でも、全部覚えているから大丈夫」

 琥珀色の瞳が刺すようにアキの方を見た。

「どういうこと? 全部覚えているって」

 そこでアキは戸惑いながら、一目で見たものは全て写真のように覚えられることを説明した。

「なるほどね」チェシャ猫は感心した声で言った。「どうりで施設の説明も写実的だと思った。あなたは特別なことじゃないと思っていたのかもしれないけれど、凡人には真似できない芸当だからね。私も見る能力こそは優れていても、残念ながらそれらを完璧に記憶することはできない。羨ましいな。宮川夏雄も天才扱いされるわけだ」

 アキはチェシャ猫の言葉に驚くとともに、心の奥底でちくりと痛みを感じた。しかし、煩わしい蚊を振り払うようにそれを無視して、話題を戻した。

「君の家族のことは本当に気の毒だと思う。宮川夏雄に一矢報いたい気持ちも、痛いほどわかる。でも現状、車掌に頼らずに東京まで帰る手立てなんてあるか?」

 チェシャ猫が手を叩き、にわかに電球の光が部屋を照らした。アキは突然の光に思わず目を細めながら、チェシャ猫のにやりとした笑顔を見返した。

「移動手段なら昨日いっしょに確認したじゃない」

 チェシャ猫はブランケットを払いのけると、ひひーん、と馬の鳴き真似をして蹴りあげるように腕を上下させた。アキは呆れたような顔をして見せたが、口元からは自然と笑みがこぼれてしまった。


 アキとチェシャ猫が地下室の試作品置き場に忍び込めたのは、ちょうど真夜中の十二時を過ぎた頃だった。榊原代表は予想通り早々と寝室へ向かったが、昼寝をして眠れなさそうな車掌はしばらく客間で見つけた小説を読むでもなく物憂げに弄んでいた。ようやく、お前らも早く寝ろよと言い残して立ち去ると、アキとチェシャ猫はできるだけ音を立てずに地下室へ向かった。

 試作品置き場は昨日の状況と全く変わっていなかった。細々とした機械技巧の中に、鋼鉄で作られた三頭の馬が毅然とした様子で立っていた。榊原代表が「鋼鉄(こうてつ)()」と呼んでいたのをアキは思い出した。

「動くかな」 

 アキが最大の心配事を漏らしたが、手を触れると鋼鉄馬は眠りから覚めるように鋼鉄の体躯を震わせ、銀色に輝く頭をもたげた。

「大丈夫みたいだね」

 チェシャ猫が心底楽しくてしょうがないかのように言った。相当この機械に乗ってみたかったに違いない、とアキはひそかに思った。

「代表の説明では、鋼鉄馬は最初に触れた人間をユーザーとして認識して、そのユーザーの指示のみを聞くらしい。だから一人一頭ね。そこの手綱で方向を誘導して、速さは脇腹のギアで調整できる。たてがみを撫でると自動走行に入るから、行き先を告げれば連れて行ってくれる。細かい指示も音声入力で拾ってくれるってさ」

 アキは感心して鋼鉄馬を見上げた。鋼鉄の頭には人口繊維のたてがみが美しく添えられていた。温もりはないかもしれないが、気高い力強さを発していた。

「さあ、外に連れていくよ」


 外の空気は夏の始まりのような湿った微熱を帯びていた。虫の鳴き声が、梟の悲しげな声にかぶさり、湿気の帯びた空気を泳ぐように伝う。近くの廃墟の屋根から、何かが羽ばたいて飛んでいった。チェシャ猫は鋼鉄馬の手綱を握ったまま玄関の扉を閉めた。アキは今更になって車掌に怒られることを想像して少し不安になったが、そもそももう会えるかどうかもわからないということに気づき、すぐに寂しくなった。

 アキが背中の鞍に飛び乗ると、鋼鉄馬はまるで生きた馬のように頭を振って足踏みをした。ただのガラスだと思っていた瞳の部分が点灯し、車のヘッドライトのように闇夜を照らした。モーターのかすかな振動が空気を震わせた。チェシャ猫が横に並び、自分の鋼鉄馬によじ登った。琥珀色の瞳は興奮で輝いていた。

 アキは手綱を握り、ゆっくりと足を鋼鉄の脇腹に押し付け、レバーを蹴り倒した。鋼鉄馬はおもむろに進み始めた。本当の馬のように四本の足が動き、廃墟の街を進んでいく。隣ではチェシャ猫がはしゃいだように手綱を振り回し、鋼鉄馬に奇妙なタップダンスを踊らせていた。

「おい、これチェシャの案なんだからな。責任とって真面目にやってくれ」

 アキは呆れたように言ったが、チェシャ猫は聞く耳を持たなかった。

「だってこんなに楽しいもの、乗ったことないんだもん」

 結局廃墟の街を抜けるまでアキはチェシャ猫の遊戯に付き合いながら馬を走らせることになった。

「さて、ここからは真面目に行きましょうか」

 廃墟の街を抜けたところでチェシャ猫がもの惜しげに言って馬を止めた。周囲には真っ黒な山々が恐ろしい怪物の影のように立ちそびえ、星空を覆い隠していた。暗闇の中では鋼鉄馬のライトとチェシャ猫の瞳のみが頼りだった。二人はたてがみを撫でると、同時に鋼鉄馬の耳に目的地を吹き込んだ:「東京スラム街へ」

 

 鋼鉄馬に乗った旅は快適だった。車掌に面と向かっては言えないが、アキはリアカーより、振動がはるかに少なく座席も柔らかい鋼鉄馬の方を好んだ。夜風が程よく吹き通り、鋼鉄馬は誰もいない夜道をエンジンのみを微かに震わせて駆けていく。

 アキは星空を眺めながら、心が平穏を取り戻していることに気づいた。海で凪が訪れたときのように、アキの心の奥はしんとしていた。アキは最初それに気づいたとき、ついに自分の心がこの異常な出来事の連続に慣れたのかと錯覚した。異常が日常に変わったのだと。

 しかしふと横のチェシャ猫を見ると、その琥珀色の瞳、風に舞うくせ毛の髪、手綱を握る小さい拳、それらの一つ一つに平穏を見つける自分がいた。仲直り出来て、そしてチェシャ猫がこんなに嬉しそうにしてくれていて本当に良かった、とアキはしみじみと思った。

 山道を抜け、鬱蒼とした木々が後退し、視界が開けてきた。鋼鉄馬の煌々と輝く瞳が、県境を今にも捉えようとしている。


十三 大樹の上から見えるもの


 アキはてっきり、県境を突破する良案をチェシャ猫が用意しているに違いないと思っていた。しかしそれは大きな思い違いだった。

「県境の監視、フルスピードで走れば突破できるかな」

 監視塔の光が見えてきたところでチェシャ猫は暢気に切り出した。ぼんやりとしていたアキは慌てて鋼鉄馬のヘッドライトを消して手綱を握りしめた。

「この馬でそこまでの速さ出るかな。それに、足音も響くし」

 二人は鋼鉄馬の速度を緩め、ゆっくりと近づきながら作戦を練った。


 その日の警備に当たっていたのは軍部勤務歴二年目の若い男だった。県境の警備と言っても、通行人及び通行車の中で不審なものがあれば呼び止め、職務質問をする程度であり、退屈な仕事に違いなかった。自らの外れくじを嘆きながら、男はただ当直明けのベッドを夢見ながら、今晩も県境に突っ立っていた。

 ふと、蹄の近づく音が聞こえた気がして、男は耳の穴をかき回した。当直ではよく起きることだった。寝不足だと見えないものや聞こえないものが見聞きできるようになるものだ。つい先日も、中年の男がリアカーのようなものを引っ張りながら新幹線並みの速さで駆け抜けていく幻影を見たばかりだった。

 しかし音は確固たる空気の振動となって鳴り響き、やがて無視できないほどになった。明かりを灯した何かが、明らかに現実そのものの様相を呈して近づいてきていたのだ。

 男は拳銃を引き抜き、叫んだ。

「止まれ!」

 しかしその物体は速度を緩めることなく突進してきた。それは男が今までに見たことのない馬型のロボットだった。鋼鉄のフォルムが明かりに灯され輝き、眩い光線がその瞳から放たれていた。人を乗せるかのような鞍もついていたが、その鞍には誰も乗っていなかった。

 男は拳銃を立て続けに発砲した。二発とも命中したが、馬の鋼鉄の身体には傷一つつかず、スピードを緩めることもなかった。男はとっさに避けたが、脇を駆け抜けていった馬はしばらく走ると再び戻ってきた。今度は速度が弱まっていた。

 男は血気盛んで、筋肉至上主義者だった。ロボットに負けてなるかという憤怒が彼の頭を熱くし、馬に繋げられた手綱を夢中で掴みにかかった。馬はぴたりと止まり、男はしめたと声を上げたが、次の瞬間けたたましいブザーが鳴り響き、馬の前足が振り上げられたと思いきや、男は無残に蹴り倒されていた。地面に倒れ伏した男は地響きのように蹄が近づいて来る音を感じ、自分の不幸を呪いながら瞼を閉じた。

 しかししばらくしても最後の一撃は訪れなかった。すぐそばを足音が通り過ぎていく。うっすらと目を開けると鋼鉄の馬はさっそうと夜の闇の中へ消えていくところだった。男は震えながら立ち上がり、本部に連絡を入れようと通信機に手を伸ばしかけたが、思い直した。鉄の馬が走り抜けていったなど、軍上層部が信じてくれるはずがない。それより体調不良を理由に当直の交代を要請し、温かいコーヒーでも淹れ、発砲した二発の銃弾の始末書を書くのがいいだろう。

 どんな獰猛な野生動物に襲われたことにしようかと考えを巡らせながら、若い警備員は通信機のボタンを押した。


「見事に成功したね」

 アキの背中にしがみついたままチェシャ猫は嬉しそうに言った。二人はアキの鋼鉄馬に乗ってスラム街を進んでいた。

「不正ユーザーにあそこまで強い反応を示してくれると思わなかったけど、おかげで気づかれずに通り抜けられた」

 アキは足でレバーを引き上げて鋼鉄馬を止め、後ろから駆けてくるチェシャ猫の鋼鉄馬を待った。しばらくするとそれは現れ、嫉妬するかのようにチェシャ猫を頭でなじった。チェシャ猫の鋼鉄馬には、警備員の気を引くように指示しておいたのだ。その間に二人はアキの鋼鉄馬に乗って、県境を通り抜けていた。

「うわあ可愛い。私になついてるよ、ほら」

 チェシャ猫が頭をなすりつけてくる自分の鋼鉄馬に乗り移ると、二人は再びスラム街の夜道を進み始めた。

「ゆっくり進んで、人を避けながらスラム街を歩き回って」

 アキが鋼鉄馬の耳に話しかけると、鋼鉄馬は頭を上下に揺らした。チェシャ猫も同様に指示を聞かせた。

「それで、これからどうするの?」

 チェシャ猫は考え込むように手を額に手を当てた。

「そうね…暴坊を拾いたいところだけど、おそらく玄さんとクロといっしょにいるから難しそうだよね。かと言って、夜明けには車掌が私たちの不在に気づくだろうから、施設に侵入するのは明日中―遅くとも明日の夜までじゃないとチャンスがない」

「ずいぶん急だな」アキはまた心配になっていた。「計画はあるの?」

「もちろん。でもひとまず、行きたい場所があるからついて来て」

 東の空は白み始め、紺碧のヴェールを脱ごうとしていた。どこかで早起きのカラスが鳴いた。

 チェシャ猫が向かったのはスラム街と都心の境目にある大きな樹木だった。二週間ばかり前、アキがチェシャ猫と初めて出会った場所だ。そこからの時間がまるで別の人生を送っているような、不思議な感覚がアキにはあった。あの朝、宮川夏雄のクローンだった人間は、ようやく「アキ」という一つの特有の個体になる一歩を踏み出すことができたのだ。

 馬を木の下に止めると、チェシャ猫は先だって木を登り始めた。アキも続いたが、人生で初めての木登りに苦心した。頭上ではチェシャ猫が小動物のように軽やかに登っていく。

「無理して来なくていいよ」

 チェシャ猫が上から呼びかけたが、その言葉はアキの負けん気をより一層強めるだけだった。アキはチェシャ猫の辿った軌跡を頭に焼き付け、同じ枝を選んで登り進めた。額に汗が浮かび、シャツが肌にじっとりと張り付いた。

 頂上に近い樹枝の上でチェシャ猫はのんびりと座っていた。アキは息遣い荒くその枝に手をかけると、不器用にバランスをとりながら木の幹にもたれた。チェシャ猫は器用に二股の枝の上であぐらをかいていた。東の空の輝きは靄のような白さから明確な光へと変わっていき、街を淡く染めていく。

「こんなところに登ってどうするの」

 一息ついてからアキは尋ねた。

「ここからだとスラムが一望できるの」チェシャ猫は答え、枝の上で立ち上がった。細い身体が、ヤジロベエのようにゆらゆらと揺れた。瞳が紫色に変わっていく。「同盟のみんながどこにいるか、敵がどこにどのくらいいるか、隠れ家はどうなっているか、確認しなきゃいけないでしょ」

 いよいよ自分が登ってくる必要はなかったなと思いつつ、アキは深く息を吸って辺りを見渡した。朝の光の中だとすべてが平穏で清らかに輝いているようだった。それは作られた輝きというより万物が自ずと発しているような光だった。アキはチェシャ猫が周囲を確認し終わるまでスラム街を眺めて待つことにした。ふと、今日が土曜日の朝だということに気がついた。スラムは静かで、普段は早朝から交通が賑わう都心も静かに夜が明けるのを見守っていた。平和な朝だ。

「見つけた」

 しばらくしてチェシャ猫が声を上げた。

「どこ?」

 チェシャ猫は月夜烏の丘を指さした。

「丘に穴を掘って、入り口に岩を置いて隠れてるけど、暴坊の人影が見えるから間違いない」

「よく見えるね。僕には何も見えないけど」

「そうでしょうね…望遠機能とサーモグラフィーを同時に使って見てるから」

 チェシャ猫の瞳が暗い赤紫色に変わっていた。

「空から一目見ただけじゃわからないようになってる」

 アキのすぐ真上でカラスが鳴いて朝の到来を告げた。東の空から光り輝く球体が顔を覗かせ、アキとチェシャ猫はバターを塗られるように黄白色の世界に染まった。二人はしばらく黙って、街を見るでも空を眺めるでもなく、ただ夜が去り、朝が到来するその狭間の時間に身を委ねていた。

 しばらくしてチェシャ猫が枝から立ち上がり、行こう、と小さく言った。魔法が解け、二人は木を降り始めた。

「残念だけど、暴坊はやっぱり連れて行けなさそうだね」

 チェシャ猫はアキが落ちないようにさりげなく支えながら、ため息をついた。アキは二人のけんかの発端を思い出し、少し心が痛んだ。チェシャ猫は心から暴坊を頼りにしているに違いなかった。

「さすがに暴坊だけに接触するのは難しいだろうな」

アキは残り数メートルの下りを慎重に降りながら言った。その脇ではチェシャ猫が軽やかに地面に飛び降りる。着地時に何かあったのか、小さい悲鳴が聞こえた。

「クロの地獄耳がある限り、スラムにいることさえ危ないし」アキは半分独り言のようにつぶやいた。

「誰の地獄耳ですって?」

最後の枝に手を伸ばしていたアキは、枝を掴みそこない、無様に落下した。腰に強い衝撃が走り、うめき声が漏れた。見上げた先には、見慣れた黒いブーツと外套が朝の光を冷たく反射していた。

チェシャ猫はすでに腕を背中に回され、身動きが取れずにもがいていた。二人を見下ろす端正な顔立ちは、局地的な雷雲が立ち込めているかの如く危険で、怒りに満ちていた。

「さて…説明してもらおうかしら」クロが言った。


  

十四 飛べないカラスの子


 アキとチェシャ猫は大樹の根元に座らせられた。近くでは鋼鉄馬が直立不動で待機している。チェシャ猫は次々と目の色を変えながら、ちらりとそちらに目を遣った。

「無駄よ」クロの声が尖った氷のように鋭く放たれた。「私をなめないで。どこに逃げようが、地の果てまで追っていくから」

 チェシャ猫とアキはその声のすごみに気圧されて萎縮した。チェシャ猫はすっかり俯いてしまっていた。アキも下を向いたが、その頭は出力を最大にしたモーターのように回転していた。どうして、こんなに早く見つかってしまったのだろう。スラムに入ってから一時間も経っていないはずだった。いくらクロの耳とは言え、スラム全体の音を常に拾えるわけではない。特定の音に意識を向けている状態ならまだしも、偶然アキとチェシャ猫の、それほど大きくもない声を拾い上げることはかなり可能性の低いことに思えた。自分達しか出さないような、わかりやすい特定の音でもあっただろうか? しいて言うなれば、鋼鉄馬の足音はわかりやすい目印だったかもしれないが、クロは鋼鉄馬についてまだ知っているはずがなかった。

 あるいは、車掌が二人の不在に気づいてクロに連絡をよこしたのだろうか。それが最も可能性が高いように思えたが、そうではない気がした。先ほどのクロの口ぶりだと、自分一人の意思でここに来ているようであった。仮に車掌が気づいていたのなら、玄さんや暴坊も総出で捜しに来るのではないだろうか。

「答える気がないの?」クロは腰に手を当てて、ブーツの先を地面にとんとんとぶつけた。「隠れ家は見つかって、スラムは隈なく捜索されている。そんなときに、なぜあえて、この危険な場所に帰ってきたのか、答えてもらえるかしら」

 アキとチェシャ猫は押し黙ったまま、クロの足元を見つめていた。罪悪感と恥ずかしさがないまぜになってアキの顔を熱くした。朝陽が二人を咎めるように強く降り注いだ。逃げ道はないように思えた。このまま、黙って玄さんたちのいる場所に行くしかない。頭上ではカラスが、かあ、と鳴いた。

 そしてふと、アキの脳内にいくつものイメージが浮かび上がった。それはまさに青天の霹靂、稲妻が走ったかのような衝撃がアキの頭を駆け巡った。

 最初のイメージは、朝霞の中に浮かび上がる廃墟の街だった。次が夕暮れ時の同盟本部の客間。そして次がつい先ほど見た、樹上から見たスラムの景色。それらのイメージの中に共通して存在する音があった。当たり前すぎて見落としていた音が。。

「カラスだ」アキは思わず口に出した。「カラスの鳴き声」

 クロが無表情のままアキを見つめた。チェシャ猫が顔を上げて不思議そうにアキを見た。

「いや、この旅だけじゃない」アキの仮説は、記憶を辿るほど確信に近づいていった。「ずっとだ…施設から逃げ出して以来、ずっとカラスが近くにいた。スラムにはカラスが多いからだと思っていたけど、本部への移動中も夜に出歩いたときも…あなたがつけさせていたんだ。僕を監視するために」

「ちょっと、何の話をしているのアキ」チェシャ猫は全く理解できていないという顔でアキを見上げていた。

「僕が施設から逃亡したきっかけは、一羽のカラスが父親の書いた手紙を隠し場所から引っ張り出したからだ」アキはしっかりとクロの目を捉えながら話した。クロは肯定も否定もせずにただアキを見つめ返した。「クロは何らかの方法でカラスとコミュニケーションを取ることができて、それを利用して僕に手紙を読ませた。そして、その後もカラスを使って僕を監視し続けてきた。だから今回もいち早く僕たちを見つけ出すことができたんだ。違う?」

 クロは石のように固い表情のまま、アキを見つめ返した。そしておもむろに口を開いた。

「尋問する気で来たら、逆に尋問されることになるとは思ってもいなかった」

 そしてコートのしわを手で撫でると、二人に一歩歩み寄った。声は相変わらず落ち着いていたが、厳しさは幾分か薄れていた。

「そう、私がアキにカラスを送り、真実を知るように仕向けた」

「ちょっと待って、カラスって何?」チェシャ猫が慌てて口を挟んだ。「クロの能力は、その卓越した聴力でしょ? 動物とコミュニケーションをとることなんて、軍の最先端技術を以てしても可能じゃないはずだけど」

 クロは黙ってさらに一歩近づき、木陰の中に入った。彼女はごく自然に漆黒の外套を脱ぎ、その下の黒いシャツのボタンを外した。チェシャ猫が顔を赤らめて変な声を出し、アキも急に首が熱くなったが、クロは二人の憔悴ぶりには目もくれなかった。彼女は下着以外の上半身の衣服を全て脱ぎ捨てると、近くの木の枝に掛けた。朝の木漏れ日の中で白い肌が健全に輝き、引き締まった腹周りと適度に肉付きの良い胸が露になった。黒い下着だけが、朝の明るさに似合わない妖艶さを放っていた。

 アキは思わず視線を地面に向けていたが、チェシャ猫の息を飲む音で思わず視線を上げた。そしてそのまま催眠術にかかったように、アキの目はクロに釘付けになった。

 クロは二人に背を向けていた。アキは最初、黒いブラジャーの紐が背面を覆うようにほつれているのかと錯覚した。黒色の何かが、彼女の肩甲骨周辺を覆っていたからだ。しかしよく見ると、それは漆黒の羽根であることがわかった。青みを含んだ、夜明け前の空のような黒色の羽根だ。黒い羽根の束は、しなびた翼のように襞となって垂れていた。

「私は今までに二度、軍部の実験体になったことがある」クロは背を向けたまま淡々と話した。「一度は、六年前、耳を機械化した時。そしてもう一度が、生まれた時。いや、正確に言えば、生まれる前」

 クロは肩越しに振り返り、アキを見つめた。

「アキと同じようにね」

 クロの表情は相変わらず読めなかったが、アキは一瞬だけ同情に近い色がその顔を横切った気がした。

「ただアキと違って、私はクローン人間じゃない。私が生まれた当時は安全なヒトクローン化技術がまだ開発されていなかった。当時の研究者の関心は、遺伝子操作による身体の強化にあった。私は、誰のかも分からない精子と卵子で受精を果たした上で、鳥類を模した遺伝子配列を若手の研究員助手に施された。鳥類に近い遺伝子パターンを配合することにより、先天的に胸部の筋肉を増強することが目的だった」

「しかし実験は大きく失敗した。助手は微細な配列のミスを犯し、予想外にも体表を覆う繊毛の遺伝子配列を組み替えてしまった。結果、何の役にも立たない奇妙な翼を生やした奇形児が誕生した。

 当然失敗した赤ん坊を育て上げる意味はなかった。研究員は失敗を周囲に隠したまま、赤ん坊をスラムのある丘に置き去りにした―さすがに自らの手で殺すのは憚れたのだろう。本来なら、私の短い人生はそこで終わるはずだった。だが、その時空から天使が舞い降りた」

 クロは後ろを向いたままシャツを着直して、コートを羽織ると、そのポケットから銀色のホイッスルを取りだした。美しい唇に当てて、軽く吹くと透き通った音色が朝の空気を震わせた。

 先ほど木の頂上で鳴いていたカラスがすぐに舞い降りてきて、差し出されたクロの腕にとまった。カラスの中でも大きい方で、漆黒の翼には筋肉が筋立って浮いていた。カラスとは近くで見ればなかなか恐ろしいのものだが、アキはそのカラスから目が離すことができなかった。それは間違いなくアキを施設から導き出した、あのカラスだった。カラスはアキを見ると親しげに、かあ、と鳴いた。クロはその光沢のある頭を愛おしそうに撫でた。

「不格好な翼を生やした奇妙な生物を、カラスたちは何を思ったのか、我が子のように育て上げた。私は飛べないカラスの子だった。彼らは毎日食べ物を拾っては私に与え、丘の木の下の小さな穴に寝床を用意してくれた。彼らは翼で外敵から私を覆い隠し、寒い日にはその小さな体で温めてくれた。夜には人間や野犬が近づかないように、わざわざ丘に集まり周囲を監視した。人々はそれを見て、夜になるとカラスの集まる不思議な丘だと噂した。おかげで、その丘に新しい俗称が生まれたほどだった」

「月夜烏の丘…」チェシャ猫が静かに言った。クロの腕にとまったカラスが心なしか誇らしげに頭をもたげたように見えた。

「やがて私は大きくなり、自分の食料は自分で調達できるようになった。カラスの群れの中で育った私は人間の言葉より彼らの言葉をよく理解した。それは鳴き声のリズムと長短で構成されたシンプルな言語だったが、街の端から端にかけて連絡を取り合うには便利な道具だった。私は都心でホイッスルを拾ってから、彼らと同じように交信するようになった。

 私は成長しながら人間社会のことも多く学んだ。私を育て上げたカラスたちは死んでしまったが、今度はその子供や孫たちの面倒を私が見た。次第に私たちは家族のようなものを構成していった。もともとカラスは高度に社会的な動物で、集団行動にも慣れている。私は彼らにかなり似た部分を持つようになり、彼らも私から人間的な知性や感情を少なからず吸収していった。

 そして成人した私は、もう一度軍部の研究施設に潜り込むことを決意した」

 クロはここでいったん話を切り、耳を澄ませた。アキの耳には朝のスラムの穏やかな静寂しか聞こえなかったが、クロにはなにか聞こえたらしかった。腕にとまったカラスもまた、クロに同調するように首をかしげた。だがしばらくするとクロは再び何事もなかったかのように話を続けた。

「私はそれまでの調査から、自分の施術に失敗した若手研究員が宮川夏雄という男であったことを知っていた。彼が自らのクローンを生成したこと、人間兵器の技術開発に取り組んでいることも知るに至った。あえてその懐に飛び込み、内側から彼の邪魔をしてやろうというのが私の考えだった。特に深い策もなかった。ただ、隠れてひっそりと暮らしていくのも癪だった」

 アキの隣でチェシャ猫が、顎が外れるのではないかと思うほど大きく口を開いていた。

「私はお金に困ったスラムの貧困層を装い、軍の人間実験に参加した。私は特に失うものもない。私は施術部位の選択肢を与えられ、背面が施術中に露出しない耳の機械化を望んだ。私の前に約五十人が失敗した施術を受けるとのことだった。施術者の宮川夏雄は私のことに全く気付かなかった。当然だった。彼は私の赤ん坊の頃の姿しか見ていないし、そもそも何千人の失敗作の内の一人を覚えているわけもなかった。施術は奇跡的に成功し、私はこの便利な耳を手に入れた。新しい能力を利用して、私は施設内の情報をなるべく多く収集した。

 後はもう、二人も知っている話だ。カラスの手助けを受けて、私たちはトラックを脱出した。施設に潜入する際、ホイッスルは下着の中に忍ばせて持ち込んでいた。想定外だったのは、脱出後に一人で宮川夏雄を討とうと考えていたのが、血と鋼の同盟のおかげで遂行できなくなったことだ。チェシャや玄さん、暴坊を危険に巻き込むわけにはいかなかった」

 アキは車掌の名前が抜けていることを指摘するべきか迷ったが、冗談なのか本当にどうでもよいと考えているのかがわからず、やめておいた。チェシャ猫は釈然としない顔つきで口を開いた。瞳の色は純度の高い青色だ。

「どうして私たちに素性を明かしてくれなかったの? クロが内向的なのは知っていたけど、私たちには信頼関係があると思っていた」

 チェシャ猫の顔には本当に傷ついた幼い少女のような表情があった。クロは無表情にそれを見返した。

「私はあなた達に嘘なんて一言もつかなかった。ただあえて言わなかっただけ。口外しなければあなたのその瞳を以てしても見抜けないものなのね。あなたにだってそういう秘密の一つや二つ、あるんじゃない?」

 それに、とクロは付け加えた。

「crowにかけて名前もクロって名乗るなんて、ヒントのバーゲンセールだと思ってたけど」

 チェシャ猫は未知の生物を見るような目でクロを見上げた。クロはかまわず続けた。

「たしかに壁は作っていたかもしれない。しかし私自身を血も涙もない冷徹な女として表現するのは、誇張が過ぎている。なにしろ逃走後、私の目的は、私と似たような危険な思想を持つ十歳の少女と、他の同盟の構成員を守ることへと変わってしまったから。時が来れば、私が自ら施設に出向いて宮川夏雄に手を下そうと考えていた。それまでは同盟の仲間と安全に隠れて暮らし、何の役に立つかも分からない情報を気晴らしに収集していれば良かった。

そしてチェシャの言う通り、私は生い立ちについて、そしてカラスたちとの関係について、同盟の仲間に隠しておくことにした。私にとって本当の家族は月夜烏の丘に住まうカラスたちであったし、万が一同盟の一人でも軍部の手中に落ちてしまった場合、少しでも漏れる情報が少ない方がいいと思っていた」

「それで、どうして僕のところにカラスを送ったの」

 アキの声はかすれていて、自分の耳にも幼稚に響いた。

「どうして、あの手紙を読ませたの?」

 しかしクロは突然険しい顔になり、手を挙げてアキを遮った。

「木に登って。早く。そしてその馬たちをどこかに隠してちょうだい」

 アキとチェシャ猫は慌てて立ち上がった。クロの腕にとまっていたカラスは静かに羽ばたいてどこかへ飛び立った。

「僕たちが呼ぶまでどこかに隠れていて。助けを呼んだら来てくれ」アキは鋼鉄馬の耳にささやき込んだ。隣ではチェシャ猫が同様に鋼鉄馬に指示し、二頭の鋼鉄馬は朝のスラム街の路地へ颯爽と消えていった。チェシャ猫はそれを名残惜しそうに見送った。

「早く」

 クロに急かされるまま三人は木に登った。もたつくアキを見かねたクロが無理やり上から引き上げ、一同は息を殺して見下ろした。都心の方から、軍用の黒いバンが走ってくるところだった。バンはスラム街の手前で止まり、中から男が六人出てきた。全員軍の制服を着ていた。胸元のバッジが朝日を受けて輝かしく光っていた。

「朝っぱらから面倒な仕事を引き受けちまったもんだ」男の声が聞こえてきた。「人間の姿をした怪物集団の捜索かよ」

「五年前の尻拭いなんざ上層部でやってくれってんだ」また別の男が言った。

「まあそう言うな」三人目が文句を言う二人を諫めた。「噂によれば、標的の一人は家出した宮川夏雄の息子なんだとか。報酬金はたんまり用意されている。奴らは間違いなくこのスラム街にいる。恐らく大した武器も持っていない。さっさとと捕まえて報酬を山分けしようって話だ」

「おい口数が多いぞ」先頭を歩く男が後ろを向いて吠えると、厳かな沈黙がたちまち集団を包みこんだ。「捜索対象には兵士百人分の実力を持つ人間兵器も含まれている―油断は禁物だ」

 一行は三人のいる木の下を整然と歩いていき、立ち並ぶ家屋の迷路の中へ消えていった。しばらくして、民家の扉をどんどんと叩く音が聞こえてきた。

「ローラー作戦が始まった」クロが声を殺して言った。「お前たちが何のために帰ってきたかは大方予想がついているが、とりあえず隠れ場所まで同行してもらう。話はそれからだ」

「暴坊のことを言っているなら、あいつら計り誤ってる」チェシャ猫が頬を紅潮させながら憤慨した。「あんな兵士、三百人相手だろうが暴坊に傷ひとつつけられやしないんだから」

 クロはしばらく耳を澄ませると、するりと木を降りていった。アキとチェシャ猫も後に続いた。クロは耳をそばだて、チェシャ猫は目を光らせた。することのないアキは静かに深呼吸をした。三人は用心深く歩を進め、月夜烏の丘へと向かった。



十五 洞穴の談合


 新しい隠れ家は、月夜烏の丘の、都心と反対側の斜面に作られていた。外から見る限りは大きな岩があるようにしか見えないが、岩を横に転がすと、大きな穴が口を開いて現れた。口径は大人が屈まなければ入れない大きさだが、中は小さなリビングルームほどの大きさがあった。部屋の中心には懐中電灯がぽつんと置かれている。他にも必要最低限の荷物のみ前の隠れ家から持ち運ばれたようだった。

 洞穴には玄さん、暴坊、ベラの三人が座っていたが、チェシャ猫とアキがしおらしく入ってくると彼らは驚きの声をあげ、三者三様の反応を見せた。

 暴坊はチェシャ猫を一目見るなり野太い声を上げ、勢いよくチェシャ猫に抱きついた。チェシャ猫はみぞおちに鉄球を食らったかのような声を発したが、久々に彼女らしいにっとした笑みを浮かべた。

 腕や頭に包帯を巻いたベラは、ただただ驚いたようにアキとチェシャ猫を交互に眺めた。無数の傷に覆われたその顔をみて、罪悪感がアキの胸を刺した。気のせいか、以前よりやせ細っているように見えた。

 そして、一番顔を向けづらいのが玄さんだった。アキが恐る恐る顔を伺うと、エベレストの岩肌のように険しい表情がそこにあった。着物は土埃にまみれ、顔に刻まれた皺の一本一本に茶色い土がこびりついている。

「どうして帰ってきた」玄さんの声はまるで強大な岩石のような重みを持っていた。「車掌はどこだ」

 チェシャ猫が暴坊から離れ、不安げな表情で玄さんを見た。

「玄さん、本当にごめんなさい。私たち、車掌を置いて黙って二人で帰ってきて、巣鴨研究所に乗り込もうと思っていたの。そうしたらクロに見つかって…本当にごめんなさい」

 二人の背後でクロが軽く咳払いをした。

「ご苦労だった、クロ」玄さんは怒りを隠そうともしなかった。「二人に関しては、無責任、無謀、無知と言うことしかできない。君たちには深く失望した」

 アキの胸が、何かにぐっと掴まれたように痛んだ。横ではチェシャ猫が顔を赤くして玄さんを見ていた。もう一歩で泣き出しそうな顔だ。

「見ての通り現在同盟は危機的状況だ。ベラが身体を張って軍の兵士を足止めし、クロがそれを察知して駆けつけていなければ一網打尽にされるところだった。この洞穴は暴坊が徹夜で掘ってくれた。クロは隠れ家を嗅ぎつけた二人の兵士を、私やベラの意思を汲み、殺さず廃墟ビルに監禁してくれた。全員がぎりぎりの線で精一杯やれることをやっている。君たちには本部で安全に隠れ、我々の将来的な逃亡を援助するという役割があったはずだ。それなのに君たちは私情に流され、その責務を放棄した」

 玄さんの言葉は、怒りを含みながらも怒りに溢れてはいなかった。それが余計アキとチェシャ猫を打ちのめした。玄さんの言うとおりだ、とアキは思った。二人が安全に本部にいることは、それだけで多くの意義を持つはずのことだった。アキはチェシャ猫を説得して、あるいは無理やりにでも止めるべきだったのだ。

 隣を見るとチェシャ猫は唇を噛んで、きっ、と玄さんを見上げていた。睨んでいるようにも見えたが、多分、涙を必死で抑えているのだろうとアキは思った。暴坊が近寄ると、そっとチェシャ猫の肩に腕を回した。チェシャ猫は膝から崩れ落ちそうになったが、持ちこたえた。しばらく洞穴の中を重苦しい沈黙が流れた。ベラが静かにマグカップを二つ取りだし、携帯用ポットからお湯を注いでティーバッグを浸した。じんわりと液体に色がにじみ出ると素早くティーバッグを取りだし、マグカップをチェシャ猫とアキの前に差し出した。湯気が立ち昇り、アキも鼻の奥がつんとするのを感じた。部屋の隅にはペットボトルの水がいくらか積んであった。貴重な水であることは明白だった。

「軽率な行為でした」アキは玄さんの目を見て言った。「特に、保護してもらった身として、恩を仇で返すような真似をしてしまいました」

 アキはベラの方を向いた。

「ベラさんも、僕のせいでこんな目に遭ってしまって…本当に申し訳ないです」

 ベラは包帯と傷跡の下から優しく微笑んだ。

「あなたのせいじゃない。大事なのは、まだ全員生きていて、自由の身であるということよ。私みたいなおばさんより、あなた達の方がよっぽど大事なんだから。胸を張って。めそめそするのはよしなよ」

 チェシャ猫が耐え切れずに泣きだし、アキも溢れようとする涙を抑えなければいけなかった。紅茶に口をつけると暖かい液体が心地よく喉を流れていき、小さな炎のように腹の底で燃えつづけた。温かさが余計、視界を曇らせた。

「これ以上言うことはない」玄さんは静かに言った。「とりあえず次の行動を考えるまで、大人しくしていてくれ」

「それについてなんですが」

 今まで黙っていたクロが影から明かりの中へ踏み出した。洞穴の中でその黒いシルエットは切り取られた誰かの影法師のように黒々と揺れた。

「私に計画があるのです」

 すべての視線がクロに集まった。チェシャ猫の頭を荒々しく撫でていた暴坊でさえも、顔を上げた。

「巣鴨研究所に乗り込み、宮川夏雄と軍部の鼻を明かす計画が」

 困惑したような沈黙が流れた。玄さんは探るような目つきでクロを見て、口を開いた。

「慎重な君にしては驚くような発言だな。説明してくれ」

「簡単に言えば私たちは袋小路に追い詰められた鼠です。アキの捜査がきっかけとなって、私たちがこのスラム街に潜んでいることもばれてしまっています。軍部にとって、消えた二人の兵士の足跡を辿り、同盟の存在とその構成員を割り出すのは容易いことだったでしょう。現に、今我々が話している間、スラム街におけるローラー作戦が進行しています。都心に駐屯する軍人、及び巣鴨研究所の警備員を総動員して捜索しているはずです。チェシャ猫が木に登って数分で見つけられたこの隠れ家は、軍の技術を以てすればすぐに見つけられるでしょう。

 だからこそ、今が巣鴨研究所を叩く千載一遇のチャンスなのです」

 玄さんは険しい顔をしたまま、クロに続きを促した。アキとチェシャ猫はただ茫然と事の成り行きを見守っていた。

「作戦の目的は、宮川夏雄の個人ラボに侵入し、データの複製を奪取することです。宮川夏雄の生死は重大ではありません。私の推論が正しければ、宮川夏雄の実験成果は全て個人ラボのコンピューターに収められています。国際条約違反のヒトクローン技術に関する情報も含め、全て。それらを物的証拠として海外メディアに流せば、軍部は国際的批判を免れません。国民も、人間兵器には寛容な部分があるが人クローン技術には抵抗を持つ者が少なくないです。さらにそれが研究者本人のクローンと分かれば、現政権の崩壊も夢じゃない」

「ヒトクローン?」玄さんが鋭く聞き返した。「ヒトクローンの話などなにも聞いてないぞ」

「そこの若き参考人に詳しく聞いてください」クロが淡泊な口調で答え、アキの方へ顎をしゃくった。

 アキは唾を飲みこみ、なるべくわかりやすく全てを説明した。自分が宮川夏雄の子供として育てられ、彼の遺伝子をコピーして作られたクローン人間だということ。被験者というのは嘘だったということ。ばれてしまえば匿ってもらえないかもしれないと思って隠していたこと。

 話を聞き終わると玄さんは首を振った。ベラは驚きで大きく開いた口を手で隠していた。

「どうりでおかしいと思った…ただの被験者の脱走にしては捜査がやけに大規模だった」

 アキはクロの方をちらりと見た。彼女も秘密を明かすべきなのではないかと伝えたかったのだ。クロは少しためらった後、おもむろに口を開いた。

「打ち明け話ついでに、実はもう一つ言わなければいけないことがあります」

 玄さんが眉を吊り上げた。

「まだあるのか。聞こうじゃないか」

 クロは先ほどアキとチェシャ猫に話した内容を、再び部屋の一同に聞かせた。誰一人として口を挟まなかった。話し終えると、クロは綺麗な唇を一の字に結んで玄さんの反応を伺った。

 驚くべきことに、玄さんは笑いだした。肩を震わせ、着物を締める帯の先がぷるぷると震えた。口を開くと、その声は陽気だった。

「クロ、悪いが私はそれを知っていたよ。もう長い付き合いだからね。飲み会の度に、君の周りに不思議と黒い羽根が落ちていたのがどうも不思議で。気になって車掌に聞いたら、じゃあ調べてみますと言ったのさ。そして、まあ後日…君のその…着替え現場を覗き見たらしいんだ。彼は昔盗みを働いていたこともあって、君でさえも気づかなかったようだが。そして、君がとても綺麗な翼を背中に生やしていることを教えてくれたよ。あとは一と一の足し算だった。バスからの脱走劇も、君の不思議な情報網も、カラスとの繋がりがあれば説明がついたからね」

 クロの表情は氷より冷たかった。アキとチェシャ猫は本能的に一歩後ずさりした。暴坊ですら少しおびえた表情をしていた。    

「なるほど、そうですか。後で詳しく彼に話を聞くとします」

 アキはその声を聞き、心底クロを覗き見したのが自分でなくて良かったと思った。

「たしかに今の二つの話を加味すると、思ったより現実味のない計画ではないように思えてくるな」玄さんが真面目な顔に戻って言った。

 アキは、今の話の中で唯一、クロがアキの逃走を補助したことだけ語られていないことに気づいた。クロは意図的に話さなかったのだろうか。論理的に考えれば、アキを施設外に連れ出す動機はクロにないはずだった。同盟にとって、アキを受け入れたことは明らかにマイナスに働いていたし、仮にチェシャ猫がアキを保護したことが想定外のことであったとしても、アキの自由はクロにとって何のメリットもないはずだった。しかし、アキは黙っていた。チャンスがあれば、クロに直接聞いてみようと考えた。

「段階的に考えていきましょう」クロはあくまで冷静に計画を練り上げていった。「まずは巣鴨研究所からなるべく多くの兵力を減らさなければいけません。いくら暴坊がいると言っても、施設には警備員含めて百人、十キロメートル圏内にある駐屯地には約千人の軍人が駐在しています。それらをなるべく遠くへ誘導しなければいけません」

「それならどうにかなりそうだ」玄さんが顎を指でなぞりながら答えた。「私に案がある」

「兵力を削いだ次のステップは」クロがコツコツと音を立てながら洞穴の狭い空間を歩き回り始めた。「施設の防衛システムを凍結させることです。それは恐らく、周辺の変電所からの送電を遮断することである程度実現できるはずです。主要なコンピューターにはバックアップの自家発電電源がついていますが、データを狙っている我々にとっては、完全にシャットダウンされても困るのでそれで十分です。混乱状態を誘うためにもこのステップは踏む必要があります」

 クロは間を空けてから、

「私と、私の同胞がこれを請け負いましょう」と言った。

 玄さんは黙って頷いた。同胞、という言葉がカラスたちを指していることは明らかだった。すっかり涙の収まったチェシャ猫は、澄んだ青い丸い目でクロを見上げていた。狐だと思ったら狼だった、というような顔をしていた。 

「後は、なるべく速く研究室に侵入し、データをマイクロチップに移し、逃走します。逃走手段も確保しなければ…」

 クロはきゅっと踵を返し、洞穴を歩き回った。

「宮川夏雄の研究室に我々の求めるデータはあるはずです。アキが脱走を果たしてから研究室の窓は締め切られてしまいました。しかし、計画が上手く運べば無事扉から侵入できるはずです」

「でも、あの扉の暗証番号はもう変わっているかもしれない」アキがふと不安になり言った。「僕はたまたま父さんが入力するところを見て覚えていたから入れたけど、もし変わっていたら…」

「ああ、宮川夏雄はたしかに自分の研究室の施錠方法を変えた」クロは淡々と答えた。「私が施設の近くで耳をそば立てているとも知らずにおしゃべりをしていた職員たちの話では、指紋認証式のロックシステムに変わったそうだ。ちなみに、宮川夏雄のラボにあるパソコンも、指紋認証タイプのものだ。私の同胞が確認している」

「じゃあなおさらこの計画は…」

「指紋認証タイプ」クロがいささか短気そうに繰り返した。「指紋はこの世界で、同一の遺伝子を持った者しか一致しない身体の紋様だ」

 アキははっとした。

「僕の指紋。宮川夏雄と同じだ」

「理解が早くて助かるよ」クロは乾いた口調で言った。


十六 黄昏

 

 その日の午前中は細かい作戦内容を詰めるためにあてがわれた。本部に連絡が飛ばされ、車掌が呼び寄せられることになった。作戦開始はその日の黄昏時にしよう、とクロは言った。あまりの急展開にアキは狼狽したが、チェシャ猫と玄さんは当然のように同意した。やるなら早い方がいい、と。

「残念ながら、一般人の私が出る幕はなさそうね」洞穴の隅で静かに話を聞いていたベラが口を開いた。「大人しくここで、留守番してる」

「あなたには、もう十分すぎるほど恩を受けている」玄さんが静かに言った。「自由という名の手土産と共に帰って来て見せましょう」

 ベラは寂しげな笑い声をあげた。

「ええ、期待しているね。でもとりあえず、全員で生きて帰って来てちょうだい。美味しいお酒を用意しておくから」

 クロは手持ちの火器や道具を洞穴の地面に並べて確認した。隠れ家から持ち出された物で武器になりそうな物は、拳銃、鉄パイプ、ナイフだった。それぞれ玄さん、暴坊、チェシャ猫に付与されることになった。作戦には爆薬も必要だったが、それは本部から車掌に運んできてもらうことになった。

「アキは私と暴坊から絶対離れないで」チェシャ猫がナイフの刃を指でなぞって、切れ味を確認しながら言った。「いい?」

 アキとしても二人から離れる気は毛頭なかった。しかし同時に自分がとても弱小で頼りない存在に思えて少し悲しくなった。もう少し、クロからちゃんと護身術を教わっておけば良かった。

 暴坊の方を向くと、彼は鉄パイプを嬉しそうに地面に叩きつけていた。アキの視線に気づくと、暴坊は少しむっとしたようにアキを見返した。何度見てもその顔はいびつで、お世辞にもまともとは言えるものではなかった。しかし、その顔の中に初めて人間らしさを感じ取れた事にアキは自分で驚いた。よく見ればそれは元からそこにあったに違いなかったのだが、不均衡な造形がアキの視界を妨げていたようだった。アキはふいに、言語を理解しない動物のように暴坊を扱ってきた自分に気づき、己を恥じた。暴坊はきっと自分のそのような態度に気づいていたに違いない。暴坊がチェシャ猫を慕うのも、彼女が自分を一人の人間として尊重していることを理解しているからに違いなかった。

「暴坊、足を引っ張らないように気をつけるよ。よろしく…そして、この間はごめん」

 アキは手を差し伸べた。暴坊は少し照れたように静かに手を差し出し、ぎゅっとアキの手を握った。アキは指の骨が砕けるかと思ったが、暴坊としては優しく握ったつもりだったのだろう。暴坊の手のひらは長年風雨にさらされてきた荒地のように固く荒れていた。隣ではチェシャ猫が見ないふりをしながら、にっとした笑みを思わずこぼしていた。

 昼前になると強力な睡魔がチェシャ猫とアキを襲った。暴坊や、大人の三人にも疲労が色濃く見えた。見かねた玄さんは話を打ち切ると、日暮れまで休息する旨を全員に告げた。異議を申すものはいなかった。玄さんが岩を少しだけずらし、通気口を確保すると、ベラが懐中電灯の光を落とした。しばらくすると暴坊のいびきが鳴り始め、アキの瞼も抗えない力に引っ張られ、自然と閉じていた。隣ではすでにチェシャ猫の規則正しい寝息が聞こえていた。アキは泥のような深い闇に、ゆっくりと身を委ねた。


 どれくらいの時が経っただろう。かすかな物音と、覚えのある芳香がアキを目覚めさせた。洞穴の中はまだ暗く、外からのわずかな光が差し込んでいるだけだった。誰かが、アキの上をまたいで静かに入り口の岩を転がしていた。一瞬眩い斜陽が部屋を横切ったが、岩はすぐに閉じられた。チェシャ猫が不明瞭な言葉を発して寝返りを打った。自分以外は他に誰も目覚めていないようだった。見渡すと、クロの姿だけが見当たらなかった。すっかり目の覚めたアキはそっと立ち上がると、岩に手をかけて横に転がした。岩は思いのほか重かった。

 洞穴の口を出ると、夕方の斜陽が容赦なく降り注ぎ、アキは思わず目を細めた。月夜烏の丘は真っ赤に染まっている。アキは急いで入り口を閉ざすと、辺りを見渡した。丘の頂上に黒い人影が立っていた。その頭上には何羽ものカラスが旋回していた。アキは、無意味と知りながら、気づかれないようにそっと近づいていった。風が草花をなびかせ、芝生が地獄の血の海のように波立った。六月にしては涼しい夕方だ。

 予想通り、残り数メートルというところで、クロは背中を向けたままアキに話しかけた。

「何しに来たの? 子供は大人しく寝てなさい」

 茜色の空を旋回していたカラスたちが大きな羽音を響かせて降下した。一羽はクロの腕に、もう二羽は彼女の両肩に止まった。カラスたちが力強く足の指でクロの肉体を掴むと、クロの外套に包まれた身体もかすかに揺らいだ。黒い影がおもむろに振り向いた。

 夕陽に照らされたクロは神秘的な美しさを持っていた。強さと儚さのどちらもがその美しさに内包されていた。あるいは美しさとはもともとそういうものなのかもしれない、とアキは思った。

 アキが答えずにじっと見つめていると、クロは彼に興味を失ったかのようにカラスたちの頭を撫で始めた。クロはポケットからパンのかけらを取りだしては、彼らの口に運んだ。アキは彼女が隠れ家で、食事の度にご飯を残して部屋に持ち帰っていたことを思い出した。残りの食事の行方が、やっとわかった。カラスたちのために取ってあったのだ。

「どうして、僕があの手紙を読むように仕向けたの?」

 アキの声は自分でも恥ずかしくなるほど幼稚だった。そして、自分はクロに大人として見られたがっているのだと気づいた。アキの頬は沈んでいく夕陽のように紅く燃えた。

 クロはすぐには答えず、腕に乗せたカラスに軽く頬擦りをした。他の二羽のカラスが妬ましそうにかあかあと鳴いた。

「この子があの朝、あなたをスラム街に導いてくれた子」腕に乗せたカラスをアキの方に向けて言った。「クウ、って言うの」

 その巨大なカラスは、ビーズのような瞳でじっとアキを見た。アキは確かにそのカラスに見覚えがあった。あの朝、自分を未知の世界へ導いたカラスと、同じ羽の色、同じフォルムをしていた。夕闇が深まるにつれ、その輪郭はより濃く、鋭くなっていく。

「ほら、お行き」クロがそう言うと、三羽のカラスは一斉に飛び立ち、たちまち夕暮れ時の空へ消えていった。

「少し様子を見に行ってもらう」クロが彼らを見送りながら、独り言のようにつぶやいた。「付け焼刃の計画だけど、やれることはやらなくてはいけない」

「答えてよ」アキはやはり、自分にも幼稚に聞こえる声で問いかけた。風が冷たいナイフの刃のようにそっとアキの腕を撫でていった。黄昏はもう近い。

「施設に監禁されていたころから、あなたのことは知っていた」クロは静かに言った。「父親を模倣する目的で生を授かった、哀れな子供。職員たちの間でもあなたのことは噂されていた。彼は己の出自について知らないとのことだった。可哀そうに、と彼ら彼女らは少し嬉しそうに話した。

 子供というのは、親の愛の産物としてこの世に生まれてくるものでしょう? でもあなたは違った。私みたいに」

 急速に夕闇が広がりつつあった。太陽は最後の力を振り絞るように深紅の斜陽を丘に浴びせた。クロの外套は人の返り血を浴びたように不気味に丘の芝生に映えた。

「私が脱走計画を考え始めたある日、窓の外からカラスたちの声が聞こえた。仲間の一羽が、警備員に撃たれたとのことだった。私が密かに施設周辺の警備を調べてくれと頼んだことが原因だった。そのカラスは瀕死の状態で中庭に墜落した。彼は特に親密な関係を持っていた一羽だったが、私は独房の中で何もしてやることができなかった。彼の死を座してのうのうと待つしかないかのように思われた。

 ところが、不思議なことが起きた。カラスは何者かの手によってこっそりと介抱され、一か月後に無事施設外へと飛び立ったのだ。その知らせを聞いたとき私は愕然とした。カラスたちはひっきりなしにこう言った。彼を助けたのは『人間の少年』だったと」

 アキの中で川の流れのように記憶が蘇った。あれは、五年くらい前のことだった。外遊びをしていた時に、一羽のカラスがぴょこぴょこと必死に身体を引きずっていた。まだ若くて小さいカラスだった。黒くて青みのかかった羽は赤黒い血でべっとりと汚れていた。アキはもともとカラスが好きだった。しかし、カラスを屋内に持ち込めば父親に怒られることは明らかだった。どうするか迷ったあげく、月子さんに相談をしに行った。すると月子さんは、部屋まで誰にも見つからないようこっそり運ぶように言い、アキはその通りにカラスを運び込んだ。そして月子さんの指示のもと、そのカラスを介抱したのだ。

「そのカラスが、クウよ」クロはそっと言った。「あなたをここに連れて来てくれた子」

 アキはクウが窓を叩いた土曜日の朝を昨日のことのように思い出した。たしかに、どこか見覚えのあるカラスだと思ったな、とアキはぼんやりと振り返った。

 思い返せば、月子さんとアキが離されたのはクウを助けた直後のことだった。もしかしたら、父親はアキの行動に気づいていたのかもしれない。食べ残してこっそり部屋に持ち帰った朝ごはん、消える包帯、汚れる衣服。アキが、傷ついた動物に同情することを、宮川夏雄は恐れたのかもしれない。そしてその原因を、父親らしく的確に、月子さんにあると割り出したのかもしれない。

 様々な思いが交錯し、アキはしばらくぼうっとしていた。気づくとクロがすぐ近くまで歩み寄っていた。先ほど洞穴で嗅いだ甘く、しかしどこか鋭い輪郭の香りがアキの鼻腔をついた。

「たしかに同情はあった。感謝もあった。しかし私は徹底したリアリストだ。人間の性質は遺伝子と環境によって形成される。宮川アキは、父親がコントロールする環境下にいる限り、宮川夏雄と同様の人物に育ちあがるはずだ。論理的には」

 冷たい風が吹き、クロはアキの頭の上に手を置いた。予想以上に優しく柔らかい手だった。

「だが、その静謐とした論理の池に、私は一石を投じてみたかった。彼が本当のことを知ったらどうなるだろう? 私が手を貸すのは、彼が真実を知るまで。そしてもし家を離れることを選んだ場合、その逃走経路を確保すること。それ以外は手を加えない。私の行為は単純明快、歯車を一つ、軽くひと押しして、ずらしてみるだけだった。それはある種の実験とも言える。宮川夏雄の実験に対する、反証実験」

 白い手がアキのつむじをなぞり、細い指が髪の毛を梳いた。アキは視線を落とした。数時間前にせき止めていた不安や後悔や罪悪感が、ダムに打ちつける水流のように、アキの胸の中でせめぎ合った。クロのコートは闇に溶けかけていた。視線を上げると、夕陽が完全にビル群の下に姿を隠した。黄昏が訪れ、すでにいそいそと夜に道を空けようとしていた。東の空が残り火のようにちりちりと燃えている。まだしばらくそこにいてくれ、とアキは思い、目をつぶった。

「果たして私のずらした歯車は、より大きな歯車を狂わす重要な歯車だったのかな?」

 クロの声が耳の近くでささやくと、さっと踵を返して洞穴へと歩いて行った。アキは目を閉じたままその存在が遠のいていくのを感じ取った。甘い残り香さえも、冷たい夜風がすぐに遠くへ運んでいってしまった。

「黄昏が来た。直に、あの中年オヤジも到着する。行くよ、アキ」

 クロの淡々とした声がしばらく先から聞こえた。アキはようやく目を開けて、空を見上げた。東の空はすでに暗い紺色に支配されていた。まるでクウの羽根のような色だった。一番星はもう出ているはずだが、今のアキにははっきりと見えない。

 自分は宮川夏雄なんかじゃない。自分はアキだ。

 呪文のように心の中で唱え、頬を手の甲で拭ってから、アキは洞穴の入り口へ歩き出した。


十七 襲撃


 アキが洞穴の入り口に辿り着くのと同時に、車掌が丘のふもとに現れた。赤いリアカーを引っ張って駆け寄ってきた車掌は、アキを見つけると怒ったような安心したような表情を浮かべた。

「馬鹿野郎」車掌は怒鳴った。当然のように息一つ乱れていなかった。「まあだが、無事で良かった」

 アキは静かに、ごめんなさい、と謝った。暗闇がアキの顔を隠してくれたのが幸いだった。車掌は無言でアキの肩を叩くと、アキに続いて洞穴に入っていった。

 同盟の仲間は全員起き上がり、身支度をしていた。車掌が洞穴に入ると歓声が上がった(クロはこれでもかというほど冷たい表情をして車掌を睨みつけた)。労いの言葉が交わされ、玄さんが作戦を細かく説明した。洞穴の中は人で溢れかえり、明らかに空間が足りていなかったが、今のアキにはその雑多な賑やかさがなにより嬉しかった。

「爆薬はしっかりもらってきたぞ」車掌は外のリアカーを指して言った。「榊原のじいさんに感謝だ」

 身支度を終えると、六人は黄昏の丘に出た。ベラも、足を引きずりながら洞穴の入り口まで見送りに来た。辺りは薄暗いが、夜闇と呼ぶには若干明るすぎた。陽光の残滓が、空気中に塵のように浮遊しているようだった。空気は暖かいが、風は冷たかった。クロが黒い外套の前ボタンを閉めた。玄さんは紺色の甚兵衛と地下足袋に着替えていた。その恰好を見たアキは以前本で読んだ忍者の姿を思い出して、緊張とは裏腹になぜか楽しい気分になった。

「気を引き締めていくぞ」まるでアキの心を読み取ったかのように、玄さんが憮然とした表情で言った。「ここからは作戦通りに動く。クロの指示に全員従え」

「想定外の場合には各々で対処してください」クロは銀色のホイッスルをポケットから取り出して言った。「あとは死なないこと」

「軍が重要なサンプル体の私たちをそう簡単に殺すかな」チェシャ猫がいぶかしげに言った。

「軍が何を考えているかなんてわからないでしょ」クロが暗い声で言った。「誰が、何を考えているかなんてわからない」

「クロの言うとおりよ。気をつけて行ってきな」ベラが静かに言って、一人一人と抱擁を交わした。

抱擁が終わると、一行は月夜烏の丘を発った。ベラは、彼らが丘を越えるまで、ずっと手を振り続けていた。


 スラム街へ入ると、クロはホイッスルを鳴らし、一羽のカラスを呼び寄せた。見慣れたフォルムと羽の色から、アキにはそれがクウだとわかった。クウはクロに語りかけるように鳴き声を上げ、クロはじっとその声に耳を傾けていた。

「それでは班ごとに分かれる」クロが静かな声で言った。「私と車掌は変電所へ。他はスラム街で捜索活動を続けている軍の部隊を狙いにいけ。クウによれば、すぐ近くの酒屋の近くに、軍人の一団がいるらしい。一時間後、予定通り巣鴨研究所に着いたら、玄さん、合図をお願いします」

「了解」

 クロはそれ以上何も言わずに、車掌のリアカーに無表情で乗り込んだ。車掌は目で別れの挨拶をそれぞれと交わすと、あっという間に駈け出してスラム街の闇に消えていった。

 アキの隣で、チェシャ猫がそっと自分に近づくのがわかった。彼女の瞳は琥珀色に輝いているに違いない。アキは猫のように大きく見開いたその瞳を想像したが、あえて彼女の方を振り向くことはしなかった。自分が怯えていることを知られたくなかったからだ。二人を守るように、暴坊が後ろから近づき、迫りくる夜を威嚇するかのように低く唸った。彼には恐れなど微塵もないようだった。

「我々も行くぞ」玄さんが静かに言った。


 クロの言った通り、軍人の一団は酒屋の近辺で聞き込み調査を行っていた。もっとも聞き込み調査とは名ばかりで、実際には勝手に家に上がり込んでは住人を詰問しているようだった。黒色の軍用バンが駐車されているのを確認してから、玄さんは角で待ち伏せるよう三人に合図した。軍人たちの粗野な声が聞こえてきた。

「夜が来る。撤退の時間だ」リーダーらしき人物が近くの家屋から姿を現しながら言った。男は図体が大きく、拳銃を携帯していた。彼の命令を聞くと、他の五人の軍人が次々と家屋から現れ、黒いバンへと向かった。リーダーの男がベルトから通信機を取りだし、本部へ連絡しようと口に当てる。

 玄さんが手を振り下ろし、玄さん、暴坊、チェシャ猫が共に物陰から飛び出した。三人とも耳栓を詰めている。物陰で隠れたままのアキも、慌てて耳栓を詰め、息を殺して成り行きを見守った。玄さんが口を大きく開け、息を吸った。

 軍人たちが拳銃を構えるのより早く、耳をつんざくような強烈な音が響き渡った。耳栓をした状態でも、アキの鼓膜がびりびりと痛んだ。まるで爆発の衝撃波を直接受けたかのようだった。耳栓をしているアキでさえ痛みを感じたのだから、耳栓をしていない軍人たちはそれどころではすまなかった。彼らは拳銃やトランシーバーを放り投げると苦悶の表情を浮かべ、手を耳に当てたまま地面に崩れ落ちた。すかさず暴坊が一人一人の後頭部に手刀を振り下ろし、軍人たちはなすすべもなく地面に伸びていった。耳栓を外したチェシャ猫が、しかめ面で自分の耳をそっと触りながら、軍人たちを縄で縛り上げた。

 玄さんはリーダーの男の上着ポケットから身分証明証を取りだして名前と所属を確認した。続けてトランシーバーを拾い上げると、スイッチを入れ、男そっくりの声で話しこんだ。

「こちら第八地上偵察部隊隊長青木、緊急事態発生。標的七名を発見。場所はスラム街第四地区三番地の酒屋。籠城・徹底抗戦を辞さない模様。至急全部隊及び余剰の兵力派遣を要請する。繰り返す。こちら第八地上偵察部隊隊長青木、可能な限りの兵力を要請する…」

 ここで玄さんは空へ向かって発砲し、トランシーバーを近くの岩に投げつけた。トランシーバーは無様に砕け散った。

「これで東京都の総兵力が、数十分でここへ終結してくるはずだ」玄さんが元の声で落ち着いて言った。「こいつらを隠しておくぞ」

 暴坊が男らを抱え込み、少し離れた建物のトイレへ運び込んだ。念のために彼らの口元をガムテープで止めると、チェシャ猫が爆弾の入った袋を慎重にアキから受け取り、酒屋へ運んでいった。暴坊が後に続いた。ほどなくして中から悲鳴が上がり、酒屋の店主とその家族が顔を真っ白にして走り出していった。チェシャ猫と暴坊は後からすぐに出てきた。チェシャ猫は親指を立ててにっと笑って見せた。

「暴坊が中の人を追い出してくれた。爆弾は、三十分後に爆発するはず」

「よし。後続部隊を煙に巻くくらいの爆発を期待しよう。暴坊、念のため周りの家の住人も家から追い出しておいてくれ。直に軍部が来れば、どのみち逃げ出すとは思うが」

 暴坊は恐ろしい雄叫びを上げながら、周辺の家屋を回っていった。煙を当てられた蜂の巣のように、人々が悲鳴を上げながら逃げていった。

 クロの計画は、兵力を集中させた後、爆発で自爆をしたと見せかけ、時間稼ぎをするというものだった。木造建築の多いスラム街では火元さえ発生すれば、ある程度の足止めが期待できる。

 人払いが済むと、四人は急いで兵士たちの黒色のバンに乗り込んだ。玄さんが運転席についた。

「実を言うと、運転するのは二十年ぶりなのだよ」玄さんがふと困ったように言った。奪い取ったキーを回すとエンジンがかかり、大きな熊が水滴を振り払うかのようにバンが身震いをした。暗闇を力強いヘッドランプが前方を照らす。

「え、ちょっと玄さん大丈夫な…」

 バンが勢いよく発車し、チェシャ猫の声は途中で悲鳴に変わった。アキは必死で隣の暴坊にしがみついた。突き当たりの家が残り数十センチメートルというところでバンが急カーブし、土埃を盛大に巻き上げた。暴坊が明らかに嬉しそうな悲鳴を上げた。

「シートベルトはしっかり締めんといかんぞ」玄さんがバックミラーで真面目な顔をして言った。あたかも自分が悪くないというかのような顔だった。

「あたし、施設に着くまで生きていられるか不安」チェシャ猫がアキと暴坊だけに聞こえる声で言った。そして次の瞬間再び叫んだ。「玄さん、前! 前!」

 

 黒色のバンは猛スピードで進んでいき、やがて整然とした都心の道路に出た。都心に出るとアキはそっと胸を撫でおろした。都心の道路は、スラム街の道路より広い。スラム街を抜けるまでに、この立派なバンの外装にすでに無数の傷がついていることをアキは確信していた。チェシャ猫もちかちかと光らせていた瞳を琥珀色に落ち着かせ、安堵の色を顔に滲ませた。唯一暴坊だけが物足りなさそうな顔で車窓を眺め、時折自分の身体を揺らしてバンに振動を与え遊んでいた。

「もう十分ほどで着く」玄さんが言った。「準備はいいか?」

 アキとチェシャ猫は静かにうなずいた。アキは言ってみれば水先案内人に過ぎなかった。破壊したり、すり抜けたり、戦ったり、盗んだりするのは同盟の仲間たちに任せっきりだ。それでも、緊張と不思議な高揚を隠しきることができなかった。

 チェシャ猫がふとバンの黒塗りされた窓を引き下げた。夜風が彼女のくせ毛を弄び、車体の風を切る音が聞こえてきた。

「チェシャ猫、あまり見られるようなことはしない方が」アキが神経質に言いかけたが、チェシャ猫はそっと唇に指を立てた。

「静かに。そろそろのはずなの」

 彼女がそう言い終わるか終わらないかのうちに、くぐもった爆発音が暗闇のヴェールをすり抜けて聞こえてきた。スラム街の方からだった。アキが首を伸ばして窓の外を見ると、夜空より黒々とした煙が巻き上がっていくのが見えた。ほどなくして、遠くでサイレンの音が鳴り始めた。

「成功したみたい。酒屋だったから予想以上に引火したのかも。周りの民家に燃え広がりすぎないと良いけど」

 チェシャ猫が窓を引き下げ、唇をきゅっと締めて座り直した。

「今は他人の心配をしている暇はない」運転席から玄さんが言った。「我々は、十分に危険な計画犯罪を我々は行おうとしている。計画の成功と、自分の安全のみを考えなさい」

「はい」チェシャ猫が大人しく言った。

「計画が成功した暁には、スラム街へ行って暴坊に代わりの新しい家を建ててもらおう」

 暴坊がまるで玄さんに同調するかのように唸り声を上げてチェシャ猫とアキの頭をぽんぽんと叩いた。アキは脳みそがぐらぐらと揺れるような衝撃を覚えた。

 ふと、玄さんが鼻歌を歌い始めた。アキが隠れ家に来たばかりの夜に、全員で歌った青年革命隊の唄だった。玄さんの口ずさむ音色は美しく、悲しげだった。荒野に風が寂しく吹く様子を、アキは思い浮かべた。

「縁起悪いからやめてよ」チェシャ猫は言ったが、怒っている様子ではなく、むしろ楽しげに言いがかりをつけているようだった。「それって、かつての神風特攻隊をモチーフにした玉砕志向の革命歌でしょ?」

「うむ、そうだった」玄さんは鼻歌を止めると、チェシャ猫と同じくらい楽しそうに言った。「つい若い頃を思い出してしまってな。こんな夜をどれだけ待ちわびたことか…チェシャ、君には言えなかったがね」

 暗闇の道路を順調に走っていたバンが、やがて減速し始めた。目的地に近づくにつれてアキの胸の鼓動が大きくなっていった。どくどくと血液が身体を循環し、全身の神経がぴりぴりと痺れた。異常なまでの身体の反応に、同じ遺伝子の宮川夏雄が気づくのではないだろうか、と狂気じみた妄想が一瞬頭をよぎった。

「着いたぞ」玄さんが静かに言った。「正確には巣鴨研究所の五百メートル手前の地点に、だが」

 黒いバンは平凡なマンションの前で音もたてずに止まり、四人は次々と降りた。外はもうすっかり暗かった。遠くの空には、赤黒く揺れ動く光と煙が渦巻いていた。火事はまだ収まっていないようだ。サイレンは止まずに鳴り響いている。

冷汗がどっと溢れ出すのを、アキは感じた。ついに、戻ってきてしまった。都心の道路は虫も寄っていない綺麗な街灯に照らされていて、スラム街よりずっと明るかった。玄さんが車を停めた場所は、オフィス街を少し離れた閑静な住宅地だった。半キロメートル先に、アキの古巣である研究所が何食わぬ表情で鎮座している。四階建てのその建物の部屋は全て、綺麗に煌々と光を放っていた。アキは監視の目がないか、思わず辺りを見渡した。

「さあ、そろそろ二発目が来るはずだ」玄さんが施設とは反対の方角を眺めながら言った。「物陰に隠れて待つぞ」

 四人はマンションの物陰に身を潜めた。暴坊がいたのでどうしても目立ってしまい、気休めでしかなかったが、幸運なことに人は誰も通らなった。ほどなくして、遠くで爆発音がした。アキはその音を聞きたいような、聞きたくないような気持ちで耳を澄ませていたが、いざ耳にするといよいよ恐怖が身体を縛り上げていく気がした。

 爆発と同時に、街灯の清潔な明かりが消えた。街灯だけではなかった。マンションの明かりも、研究所の明かりも、街のありとあらゆる明かりが、息を吹きかけられたケーキの蠟燭のように、ふっと消えた。夜が街を支配し、月と星のみがその眼下の世界を優しく照らした。

 玄さんが立ち上がり、月に魅せられた狼人間のように空に向かって遠吠えを上げた。準備完了の合図だ。四人はさらに待った。長い時間待つ必要はなかった。

 チェシャ猫が、来た、と小さくつぶやくと、アキも少し遅れて一筋の光が遠くから伸びていることに気づいた。車掌のヘルメットライトだ。次の瞬間には、車掌と車掌のリアカーが四人の目の前で急停車していた。クロが勢い余ってリアカーから落ちそうになり、静かに舌打ちをした。

「いまのところは万事順調か」クロの舌打ちを拾い損ねた車掌がいつもの軽い調子で聞いた。

「そうね」チェシャ猫は施設の方へ目をやった。瞳の色が目まぐるしく変化した。「今の爆発でさらに兵力は分散されるはず。施設にはほとんど研究員と一握りの警備員しかいない」

「油断するな」クロがリアカーから降りながら冷たく言った。「何が起きるかはわからない。手順は先ほど確認したとおり。あなたたちが盗んだ車を逃走用に使うのが一番だけど、万が一使えなかった場合は各自で逃げて。生きてさえいれば、カラスたちが見つけてくれる―まあ死んでいても見つけてくれるでしょうけれど」

「明るい話だ」車掌が小声で文句を言ったが、当然クロの耳には届いていた。あなたは死体で見つかるといいけど、と言うかのようにクロは車掌を睨みつけた。玄さんがわざとらしく咳払いをした。アキは正直自分の鼓動を抑えるのに精一杯で、車掌の冗談に付き合っている暇はなった。

「無駄話が過ぎた。行くぞ」クロはきびきびと言い捨てると、黒い外套を翻して歩き始めた。

 

十八 侵入


 車掌のヘッドライトが消され、チェシャ猫とクロを先頭に一行は進んでいった。アキは暴坊の隣で息を殺していた。しんとした夜の静けさに、心臓を鷲掴みにされているようだった。暴坊の持つ鉄パイプが、月明かりを受けて鈍く光った。後ろには玄さんがぴったりと付いていた。最も無力なアキを守るための布陣だった。

 先頭を歩くチェシャ猫が手を上げた。停止の合図だ。正門はもうすぐそこにあった。手を上げたまま、チェシャ猫は指で数字の二を示し、続けて五を示した。門衛が二人、建物の付近に衛兵が五人。アキは少しだけ安堵した。警備はやはり、薄くなっているようだった。後は、どこまで気づかれずに彼らを無力化するかだ。事前の打ち合わせ通り、玄さんが他の五人から少し離れ、二匹の犬の鳴きまねをし始めた。それは音だけ聞いている者からすれば、間違いなく野良犬が争っているようにしか聞こえない音だった。

「野良犬か?」衛兵の声が暗闇から浮かんできた。「珍しいな…ちょっと追い払ってくる」

 門から現れた衛兵がアキ達のいる場所に近づいてきた。懐中電灯の明かりがさっと同盟を照らし、衛兵は悲鳴を上げるように大きく口を開けたが、声が上がる前に暴坊の鉄パイプが男の後頭部を直撃した。鈍い音がし、男は白目を向いたまま倒れ込んだが、そのうめき声は玄さんの鳴きまねに上手くかき消された。

「ちょっとおまえも来い。これは厄介だぞ」アキは男が話したのかと思い、慌てて地面に伸びた男を確認したが、チェシャ猫がアキをつついて玄さんを指さした。どうやら玄さんは犬の鳴きまねをしながら、男の声で話すこともできるらしい。

 近づいてきた二人目の衛兵も、声を上げる前に暴坊の鉄パイプによって地面に打ち倒された。普段の暴坊は粗雑で野生児のような行動ばかり起こしている印象だったが、今夜の暴坊は落ち着きと緊張感を保っていた。作戦を完全に理解できているはずはなかったが、チェシャ猫を守るために冷静に必要な行動を取っているようだった。同盟は慎重に正門を通過した。チェシャ猫が監視カメラの前で再び手を上げて一行を止めたが、すぐに手を下ろした。どうやら停電の影響で機能していないようだった。

 建物に近づくにつれてアキの不安は増していった。宮川夏雄の研究室は建物の中間地点にある。計画では閉鎖されていない一階の窓から建物に侵入し、研究室へ向かう予定だった。閉まったまま動かない自動ドアを通り過ぎ、アキ達は建物の側面に回り込んだ。暗闇でアキにはよく見えないが、たしかに宮川夏雄の研究室の窓は板張りされているようだった。あるいは、もっと頑丈な材質だろうか。なんにせよ、直接窓から侵入するのは困難なようだった。

 ふと、チェシャ猫が手を上げ、手の平を下に向けてさっと下ろした。全員がその場で地面に伏せた。数秒後、建物の角から光が差し、懐中電灯を持った兵士の姿が現れた。一同は黙って息を殺したまま、身動き一つ取らなかった。アキの心臓が胸に激しく打ちつけ、呼吸が急に苦しくなった気がした。光が頭上を通過し、去った。一同はそっと息をし、足早に近くの窓へ寄った。車掌がポケットからノミとガムテープのような道具を取りだし、窓にテープを張り付けると、窓と外壁の間に鋭く打ちつけた。乾いた音とともにガラスが割れた。車掌はそれをテープごと丁寧に取り外すと、足元のアスファルトにそっと置いた。

 地面に置かれたガラスを何気なく眺めていたアキは、ふと大きな蜘蛛が地面を這っているのを目にした。自然の少ない都心とはいえ、蜘蛛は珍しくない。しかし不思議だったのは、アキにはその蜘蛛が見覚えのあるもののように見えたからだった。しかも、そのフォルムはごく最近の記憶に埋もれているように思われた。アキはガラスのようなその八つの赤い瞳を覗き込んだ。あと少しで記憶が蘇りそうな気がする…。

 そして気づくと、アキ達は囲まれていた。眩い光が同盟を照らすと同時に、銃声が鳴り響き、五人の兵士のうち二人が声を上げて倒れ込んだ。残りの三人は、発砲者のクロに銃を向けたが、暴坊が怒鳴り声を上げて三人に迫った。発砲音が連続し、アキは思わず悲鳴を上げたが、暴坊は豆鉄砲を振り払うように腕を振り回し、三人の兵士を腕で吹き飛ばした。弾かれた銃弾が地面にぱらぱらと落ちた。建物の屋内から、サイレンの音が響き始めた。

「侵入がばれたぞ」クロは、忍び寄る敵に気がつけなかった自分に対して怒っているようだった。

「兵力は大して多くないはずだ」玄さんがクロをなだめるように言った。「落ち着いて、計画通りに動くぞ」

「さっきから妙な雑音が私の聴覚を阻害している」アキは、クロが不安げな顔をするのをその夜初めて見た。その事実が、アキをさらに不安にした。「上空から見ているはずのクウたちの声も聞こえない。何かがある、気をつけた方がいい」

 玄さんは眉をひそめ、頷いた。

「わかった」

 玄さんは大きく口を開けた窓枠に手をかけ、予想以上の身軽さでそれを越えていった。向こうの様子は真っ暗で何も見えない。不気味なサイレン音は鳴り響き続いていた。続いてチェシャ猫が窓枠を勢いよく飛び越えていった。アキがその後に続いた。

 降り立ったのは、アキにとって見覚えのある廊下だった。ほんの一か月前まで、この施設に住んでいたことが信じられなかった。この廊下を歩いた先に、父親の研究室がある。月子さんはいるのだろうか。臆病者のアキにとって今回の侵入作戦は極度の緊張と不安を強いるものだったが、唯一、月子さんに会えることだけをアキは楽しみにしていた。当然、悠長に話す時間はないが、少しでもこの一か月のことを教えてあげたかった。不思議な隠れ家のこと、鋼鉄馬に乗った夜の旅のこと、そして同盟の仲間たちのこと。いつも不思議な話を聞かせてくれて月子さんに、今度は自分が話を聞かせてやりたかった。余裕があれば、逃げるときいっしょに連れていってあげられるかもしれない、とアキは思った。

「アキ、こっち?」もはや声量を気にすることもなく、チェシャ猫の声がサイレンの上から聞こえた。アキは我に返って頷いた。しかしアキの琥珀色の瞳を覗き込むと、それが恐怖でかっと見開くのが見えた。

「待って…。何なのあれは」

 振り向くと、巨大な影が廊下の先から猛スピードで近づいていた。二メートル近い身長に、大きく張った肩、丸太のような腕。アキは一瞬、暴坊がもう一人近づいて来たのかと思った。しかしよく見ると、その何かは人の形をしているものの、人口皮膚ではなく、鋼鉄の装甲に全身を覆われていた。白金色の身体は力強く滑らかに動いた。顔は、暴坊のような不均衡な顔ではなく、左右対称な端正な仮面に赤い瞳がルビーのように輝いていた。その顔に口や鼻はなかった。今までに見たことのない、巨大な機械兵だ。

 機械兵は突然かがみ、アキとチェシャ猫に襲い掛かった。暴坊が間に入らなければ、二人は一瞬にして潰されるところだった。鋼鉄と肉体がぶつかる鈍い音が響きわたり、暴坊が雄叫びを上げた。鉄パイプが地面に落ち、がらんと言う音が廊下に響いた。クロが発砲し、赤いルビーのような瞳の片方が弾け飛んだ。白金色の機械兵は暴坊から身を引き離すと、腕の部分から射撃をして応酬した。廊下の奥からは、さらに人の声が聞こえてくる。もう一体、白金色の巨体が近づいて来るのが見えた。

「作戦変更だ」クロが暴坊の背後に後ずさりしながら叫んだ。「暴坊と私でここを足止めする。先に行け」

「でも」チェシャ猫の瞳は恐怖で大きく開かれていた。

「早く行け」クロは語気を強めて言った。「危なくなったら私たちも逃げる」

 チェシャ猫はさらに何か言おうとしたが、玄さんがチェシャ猫とアキの腕を掴み、廊下を駆けだした。舌打ちして後ろを何度も振り返りながら、車掌も続いた。背後ではクロのホイッスルが鳴り響き、羽音が廊下を満たした。カラスたちが援護に来たのだ。同時に、複数の男の声と発砲音が廊下に響いて場は混沌とした。

「急げ」背後を気にする他の三人に対して、玄さんが歯を食いしばって言った。「この時間を無駄にする気か」

 暗い廊下を走り続けると、すぐに見慣れた階段が現れた。アキはその手前で止まった。

「ここです」アキは研究室の扉を見つめて言った。階段を登れば自分の部屋がある。扉の向こうには、多分月子さんがいる。

 アキは一瞬、このまま自分の部屋に戻ってベッドに潜り込めば、かつての平凡な生活に戻れるのではないかと錯覚した。しかし、廊下に響く発砲音と怒声がアキを現実に引き戻した。これは自分が引き起こしたことだ。クロの助けは借りつつも、逃走の決断をしたのは自分だったのだから。歯車をずらしたのは、自分なのだ。自分で責任を持って少しでも良い結末をもたらさなければいけない。

 全員の視線がアキに集まっていた。アキは深呼吸をすると、かつてロックナンバーを入力した場所に代わりに取り付けられた、指紋認証用パネルに人差し指を押し付けた。アキは一瞬、開かないのではないかという不安に駆られたが、ロックが回る音がし、すっと扉が開いた。

 アキは部屋に入ると手を叩いて明かりをつけた。クロによると、この部屋の電源だけが、予備の発電機によってバックアップされているらしかった。暗闇に慣れていたアキの目が眩い光に負けてじんと痛んだ。目が明るさに慣れると、三人は部屋を見渡した。

 板張りされた窓以外は、アキが施設を飛び出したその日から変わっていない。机の上の写真立て、山積みにされた本、そして棚に置かれている月子さん。月子さんの長いまつげが蝶々のように瞬き、突然の光と騒ぎに目を開けた。

「アキ…?」

 その瞳がアキを見つけたとき、アキは全ての危険と心配を一瞬忘れた。春風のような柔らかい温もり、得も言えぬ安堵が、アキを包みこむ。万事が上手く運ぶに違いなかった。それは妄信に近かったが、アキは一瞬だけその幻想に浸ることを自分に許した。

 安堵のあまり、アキは脇をすり抜けて部屋に滑り込むチェシャ猫に気がつかなかった。気がついたのは、チェシャ猫が妙にぎこちない足取りで月子さんの方へ向かい始めてからだった。月子さんの視線がアキから、チェシャ猫へと移り、その硝子の瞳がさらに大きく開かれた。廊下では銃声や怒鳴り声が鳴り響いていたが、研究室の中だけは、台風の渦の中心のように、しんと静まっていた。静謐な空気には、張り詰めたような緊張が細かい電流のように走った。後から入った玄さんと車掌も、異様な雰囲気に押し黙ってチェシャ猫を見守った。

 チェシャ猫は月子さんの目の前で足を止めると、ゆっくりと屈んだ。身体がわずかに震えていた。

「お母さん」チェシャ猫がそっと息を吐いた。

「陽子…」月子さんはゆっくりと瞬きをした。月子さんは、アキが今まで見た中で一番人間らしい表情をしていた。その表情には、紛れもない愛情が現れていた。これほど美しい顔をする月子さんを、アキは見たことがなかった。「大きくなったね…大きくなったね」

「どういうこと?」アキは思わずチェシャ猫に詰め寄った。胃酸が胸をこみ上げるような、嫌な感触が胸を這った。「月子さんはAIだ。チェシャのお母さんなわけがない」

 チェシャ猫が振り向き、アキはデジャヴを覚えた。まるで初めてチェシャ猫の青い瞳を覗き込んだときのような、鳥肌が立つ感覚だった。彼女は再び、あのスラム街の大樹の下で会った時のような、得体のしれない少女になってしまっていた。

「話の続きは後だ」玄さんのしゃがれた声が二人の会話を断ち切った。「時間がない。暴坊とクロが危ない。車掌はチップにデータを移して、他の者はあの板張りの窓をぶち壊せないか見るんだ。もしそこから逃げられれば、かなり手間が省ける」

 車掌は明らかに狼狽した様子を隠そうとしながら、ポケットからチップを取りだし、アキに手招きをした。

「アキ、おまえの指紋が必要だ」

 アキは震える指を差し出した。車掌が話していることはほとんど頭に入らなかった。子供っぽいということはわかっていたが、月子さんのあの表情を勝ち取ったチェシャ猫に対する嫉妬と、羨望、そして認めたくはないが、多少の憎しみを抑えきることができなかった。

すぐそばではチェシャ猫が板張りの窓を凝視して、少しでも脆い部分を見つけ出そうとしていた。彼女の頬は上気して、瞳は輝いていた。月子さんの前で良い姿を見せることが嬉しくて仕方がないかのようだった。そのチェシャ猫の姿にアキはまた動揺した。

 二人がお互いを知り合う可能性などあっただろうか? 月子さんはアキの記憶を遡る限り、開発されてすぐアキのもとへ来たはずだった。それ以来、アキはずっと一緒に過ごしてきた―他の誰一人としてその関係性に入りこむ隙は無かったはずだった。

「よし、取れた」車掌が叫び、パソコンからチップを引き抜いてポケットに入れた。玄さんとチェシャ猫も作業を止めて歓喜の声を上げた。

「そしてそのチップをそのままこちらに渡してもらおうか」扉から聞き覚えのある、穏やかな声が聞こえた。

 一同が振り返ると、二人の男が戸口に立っていた。一人は雪のような白髪を生やした優しそうな老人、もう一人は厳しい顔つきをした細身の中年男性だった。それは非常に奇妙な組み合わせの二人だった。アキは、どくん、と心臓が強く鳴るのを感じ、必死の思いでめまいを抑えた。その二人は、榊原代表と宮川夏雄だった。


十九  血と鋼、秘密と沈黙


「車掌君、それをこちらに渡しなさい」榊原代表が穏やかに話しかけた。しかしその柔和な表情とは裏腹に、その右手はしっかりと拳銃を握り、車掌の額に固く照準を定めていた。

 車掌はちらりと玄さんを見た後、ゆっくりとポケットに手を入れ、チップを取りだし、榊原代表の足元に放り投げた。榊原代表は拳銃を構えたまま、素早くにそれを拾い上げた。

「そして武器を捨てろ…玄、チェシャ」

 玄さんは帯に挟んでいた拳銃をゆっくり床に置き、後ずさりした。チェシャ猫も、一瞬ためらった後に、ポケットに入れていたナイフを取りだして足元に置いた。榊原代表は用心深くそれらを拾い上げた。

 アキの目は、黒いスーツに身を包んだ父親から離れなかった。宮川夏雄もまた、視線をアキに向けたまま逸らさなかった。激しい憎しみと混乱がアキの中で竜巻のように巻き上がった。恐怖心はなかった。ただ、目の前にいる父親を一発思いきり殴り飛ばしてやりたい気持だった。

「説明してもらえるか、榊原」玄さんの声は疲れ、困惑していた。「どういうことだ」

「見ての通りだよ」榊原代表はその悠然とした表情のまま玄さんの方へ顔を向けた。拳銃は車掌に向いたままだった。「君たちはまんまと騙された。私たちの勝ちだ」

「おまえはいつからそっち側の人間になったんだ」アキは宮川夏雄から目を離し、玄さんの方を見た。玄さんの顔がいつもより年老いて見えた。

「アメリカに逃亡して、自分の会社を育ててからさ。日本政府は私の技術を高く評価し、それまでの行いを水に流すと言ってきた。その代わり、彼らのために働いてくれ、とな。彼らを見返してやったようで、気持ち良かったよ。そしてそれ以上に、宮川夏雄の知識と技術が、私にとっては大きな魅力だった。私はその頃には、機械たちの魅力に取り憑かれていた。人間は、すぐに死ぬ。青年革命隊の同志のように。富や権力を目の前にすると、心変わりもする。多くの政府の人間が正義を捨てたように。その点、機械は裏切らない。鋼の時代が到来していた」

「それ自体は否定しない」玄さんの声はどんどん力弱くなっていくようだった。「しかし死んだ仲間のことは? あいつは―あいつの無念は」

「一陣の風」榊原代表は低く抑えた声で言った。「馬鹿な謳い文句だ。我々は古臭い玉砕志向を振りかざしていたに過ぎない。人は理想には屈しない、力のみに屈する。私は研究所で手伝わされた時に痛いほどそれを実感した。そして見ろ」 

 榊原代表はここで棚の方を指差した。月子さんが、怯え切った目でなすすべもなく状況を見ていた。

「技術の発展で死者の観念的蘇生まで可能になった」

 チェシャ猫の顔は蒼白になっていた。目の色が万華鏡のように次から次へと変わっていった。

 榊原代表は優雅に宮川夏雄を手で示した。

「彼は、天才だ」

「久しぶりだな、陽子ちゃん。大きくなったね」

 ここで初めて宮川夏雄が口を開いた。視線はアキからチェシャ猫に移っていた。数か月前まで気にもしなかった自分とその男の共通点が、白い壁に付いたシミ汚れのようにはっきりとアキの目に映った。それまでめまぐるしく変化していたチェシャ猫の瞳が赤く燃え上がり、今にも飛びかかるかのように膝が曲がったが、宮川夏雄の手がスーツの内ポケットに伸びるのを見て止まった。

「真実の青、暗視の黄、動体の赤、望遠の紫、顕微の緑、熱線の橙、そして唯一失敗した記憶の藍。不完全ながら、私が作った試作品の中で間違いなく一番の芸術品だ。君のお父さんも素晴らしかった。脳に欠損を負ってしまったのは非常に申し訳なかったが…あれは非常に残念だった…」

「嘘をつけ」チェシャ猫が叫んだ。身体が自らを抑制する力で固く強張っていた。「わざとだったんだろ。あなたの秘密を知っていたから。アキの秘密を知っていたから」

 宮川夏雄は微笑んだ。

「たしかに、君の父親は私のヒトクローン研究に関してはかなり口うるさかった。しかしそれも君の母親が亡くなるまでだった。愚かだったよ、彼は。娘と自分を人体実験の材料として差し出すから、死んだ妻を蘇らせてくれ? 私は研究所の上司として、そして同じ大学の同期として彼の頼みを引き受けただけだ…」

 宮川夏雄は月子さんの方へ手を向けた。

「結果、水野月子はこの世へ戻された。その記憶と性格を引き継いだAIとしてね。夫は知性と引き換えに世界一の『暴力』を手に入れた。娘は成長に伴う変化が少ない瞳を精巧に取り換えて、世界一の『視力』を手に入れた。全て君の父親が望んだことだ」

「暴坊のことか」車掌が唖然とした様子でつぶやいた。

「違う、お父さんはそんなこと望んでなかった。ただ、お母さんがいなくなったことで…」

 チェシャ猫が言葉に詰まり、悲痛な表情で月子さんの方を見た。月子さんはそっと目を閉じていた。

「私は母性を持ち合わせたそのAIをアキの養育係としてつけた。が、これは失敗だった。水野月子は予想以上にアキに愛情を注ぎこんでしまった。あたかも本物の母親のように、実に人間らしい教育を彼女はしてしまった。アキが十歳になると、私は彼女をアキから引き離した。しかし彼女が与えた影響は計り知れないものとなっていた。アキにとって母親がいないことが、これほど彼に影響を与えると私は思っていなかった。

 同時期に、大量の被験者がこの研究所から脱走した。『聴力』を得たスラム出身の女。『声』を得た元青年革命隊のメンバー。『脚力』を得た元大泥棒。そして一組の愚かな、しかし強力な能力を得た親子。能力のバランスを取っても、性別や年齢のバランスを取っても、完璧な鋼血部隊のサンプルだった。私は正直興奮した。どんな実験よりも、どんな戦闘シミュレーションよりも、リアルな実践を被験者自身が始めてくれたのだ。科学者にとって予想外の数値ほど嬉しいものはない。そこに新しい発見の萌芽があるからだ。榊原社長のおかげで私はすぐに君たちの隠れ場所を特定した。そして私は、軍部には秘密で観察した。君たちが隠れ、反撃を伺う姿を。ちょうどおままごとの人形のお家を覗き込むように。いっそ、すぐに蜂起でもしてくれないかと榊原社長を通じて扇動してもらったが、それには頑なに応じなかった。しかし長期的な観察のおかげで、スラムの女が予想外の能力を隠していたこともわかった。

 ただ、真に予想外だったのはアキの家出だった。スラムの女が仕向けたカラスには気づかなかったが、手紙を読んだアキがそのまま施設を飛び出るとも思わなかった。アキは私の完璧なクローンだ。基本的に私と思考の回路は同じはずだ。しかしアキは私の予想を裏切った。しかも、こともあろうに陽子ちゃんに遭遇して酒場の下にある隠れ家に匿われたことが判明した。私は頭を悩ませたが、時期が来たと考え、同盟の全員の身柄を拘束することにした。研究材料はもう十分にそろっていた。

 徐々に追い詰められた君たちは、わざわざ自分達から私の懐へ飛び込んできてくれた。榊原社長のおかげで施設の防衛も必要最低限ですんだ…」

 宮川夏雄が床を指した。大きな蜘蛛が二匹、彼の足元を這っていた。アキが施設の窓の近くで見た蜘蛛と同じだった。同時に、榊原会長の試作品置き場の光景がぱっと蘇った。その部屋には、同じ赤い目をした蜘蛛が大人しそうな顔で机の上に置かれていた。アキはすぐに気づけなかった自分を呪った。

「彼らは非常に有能だ。特殊な妨害音波を発して、スラムの女の耳をかき乱してくれた」

「そして見事、我々をこの部屋で追い詰めたということか」

 玄さんは疲れきったように言ったが、一瞬だけアキの方へちらりと視線をやった。アキはわずかながら希望を抱いた。玄さんは諦めきっていないようだった。むしろ、反撃の時機を伺っているようだった。

 残念ながら、その様子に気づいたのはアキだけではなかった。

「おっと、変な真似はよしてくれよ」榊原代表が拳銃を玄さんに向けた。彼がもう片方の手で指を二回鳴らすと、物陰からするりと白銀色の蛇が現れて三人の元へ滑り出した。鉄の蛇は全長三メートル、太さは細い木の幹ほどもあった。赤いガラスの瞳が虚ろに部屋を映し、刃物が滑るような音を立ててアキたちの足元でとぐろを巻いた。そのうろこは一枚一枚が薄い鉄でできている。ちろちろとゴムのような舌が見え隠れし、その上には鋭い二本の牙がのぞいていた。チェシャ猫が鋭く息を吸うのが聞こえた。

「少しでも怪しい動きをすればこいつが君らを殺しにかかる」白髪の老人は自分のペットについて話すかのような軽い口調で言った。「この(はく)蛇機(じゃき)は急な動きや攻撃的な動作に反応するようプログラミングされていてね。優秀な番犬の役割を果たしてくれる。締め付ける力は、アナコンダの百倍と折り紙付きだ…」

 玄さんは唇を噛んだ。アキは部屋を見渡したが、状況はこれ以上なく絶望的だった。暴坊とクロは後方で劣勢に立たされていて、あの状況を抜けきったとしても、自分たちのこの状況を予想できるはずがない。最も戦力のある二人のいないなか、榊原代表と宮川夏雄に対抗するすべはなかった。アキは作戦前にクロが話したことを思い出した。生き延びるのが最優先事項だ。例えそれが、自由を代償にすることになっても。

「わかった」アキは、思いのほか自分の声が力強く部屋に響くのを感じ、驚いた。「大人しくついていきます」

「それが正解だ、アキ」宮川夏雄が嬉しそうに微笑んだ。「さすが私の息子だ」

 アキは腹の奥にぐっと力が入るのを感じ、思わず叫ぶのを我慢しなければならなかった。都合のいい言葉を使うな、と罵りたかった。おまえは僕の父親なんかじゃない、と。

 しかし、一発の銃声がアキを制止した。アキだけではなく、世界そのものが一瞬止まったようだった。その静止した世界の中で、宮川夏雄の身体だけが、ゆっくり、ゆっくりと傾き、非現実的なまでに大きな音を立てて床に倒れた。頭の弾痕からは一筋の血が流れ、微笑みがわずかに口元に残っていた。

 榊原代表がゆっくりと拳銃を下ろした。その顔は鉄仮面のように無表情で、冷たかった。


二十 声


「これで邪魔がなくなった」榊原代表は拳銃を胸ポケットに入れると、スーツケースから手のひらほどの大きさの箱を取りだし、机に置いた。鉄蛇が宮川夏雄の首に絡みついたが、すでに死んでいることを感知したのか、すぐに離れ、再びアキたちの足元を這い回り始めた。

「最初からこれが目的だったの」

 チェシャ猫の瞳は大きく開かれ、青色に燃えていた。

「私たちを利用してデータを抜き取り、騒動に乗じて宮川夏雄を殺す。その罪を私たちに着せた上で私たちを始末し、自分は宮川夏雄の研究データとともに海外に高飛びする」

「そのとおり」榊原代表の顔に優しそうな表情はもう微塵もなく、代わりに冷たい笑顔が口元に広がった。「宮川はたしかに天才だが、人間にこだわりすぎた…。人間は脆い。あっという間に死んでしまう。これを見てみろ」

 榊原代表は綺麗に磨かれた革靴の足で宮川夏雄の身体を小突いた。

「鉛の弾で一発だ。そして人類最強と謳われる君たちも、数十分後にはこの小さなプラスチック爆弾で細かい塵の山に変わってしまう」

 榊原代表は一瞬だけ、悲しそうな顔をした。

「一陣の風はある意味、真理なのかもしれない」

 アキは、呆然と床に倒れた身体を見つめていた。それはもうすでに急速に冷え、固まり、ただの物体になろうとしていた。そしてそれを見ていると、不思議な感情がアキの中で沸き起こった。それは怒りだった。

 アキはそれまで、父親の死を、喜びではなくても、無感情に近い気持ちで迎えると思っていた。それは、自分が宮川夏雄という人物に愛情や同情という感情をどうしても抱けなかったからだった。

 それだけにアキは、突如として襲った感情を制御するすべがなかった。気がつくと、榊原代表に掴みかかろうとしていた。

 アキ、というチェシャ猫の声が聞こえ、次の瞬間アキは頭に強い衝撃を受けた。銀色の残像が瞼の裏に焼き付き、気づくと床に押し倒れた。冷たく、恐ろしいほど強固な何かが首に巻き付いた。それは冷徹に、確実に首の締め付けを強めていった。

「言わんこっちゃない」遠くから榊原代表の声が聞こえた。「鉄蛇は急な動きが嫌いなんだ」

 のど元を圧迫する力が強まり、酸素を求めて自然と舌が口から出て行くのをアキは感じた。意識が深海に沈められていくように遠のいていく。アキはその黒々とした水圧から免れようと必死にもがいた。

 始まりと同じくらい唐突に、力が弱まり、アキの首は前方に投げ出された。なるべく早く空気を吸引しようと、口が空気に食らいつき、その勢いでアキはむせた。視界が赤みを帯びて、目が慣れてくるまで部屋が異様にまぶしかった。頭は金槌で打ちつけられているかのようにがんがんと痛んだ。

「―宮川先生の力作がそこまで言うのなら」榊原代表の声が遠くから聞こえた。「どっちみち時間の問題だが…よりいっそうの苦しみを味わうだけだろうに…」

 どうやら、月子さんと会話をしているらしいということを、アキはぼんやりとした意識の中で把握した。鉄蛇を止めるようにお願いしたのだろうか? 

車掌とチェシャ猫が両脇について顔を覗き込んでいた。二人とも顔が真っ青だった。銀色の大蛇は何事もなかったかのようにずるずると部屋を這いまわっていた。時折、チェシャ猫や車掌が動きすぎるとゆっくりと頭をもたげ、赤い瞳を二人に向けた。玄さんは蒼白な顔のまま硬直したように立っていた。アキは、震える膝に手を当てながら、ゆっくりと立ち上がった。

 榊原代表は身支度を始めた。足元でかさかさと動いていた二匹の蜘蛛型の監視機をスーツケースにそっと入れ、月子さんを段ボールに入れて担いだ。アキは横目で、チェシャ猫が唇を噛み締めるのを見たが、二人ともどうすることもできないまま、ただその様子を眺めていた。最後に、指を一回ぱちんと鳴らすと、鉄蛇がするすると榊原代表の足元まで這って行った。榊原代表はその頭を撫でると、寂しげに大蛇に別れを告げた。

「それでは」榊原代表は満面の笑みで、場違いに陽気な声で言った。「万が一にもドアが開かないよう、外からストッパーも掛けておくので、心行くまであがいてくれ。皆さん今まで本当にありがとう!」

「また地獄でな」玄さんが噛み締めた歯と歯の間から声を絞り出した。

 榊原代表は笑顔で応じると、爆弾のケースを軽く足で小突いてから、部屋を出て行った。出る間際に玄さんが大声で吠えたが、榊原代表は耳に手を当てて首を振るだけだった。かちりと外付けのドアストッパーが掛けられる音がし、後には沈黙が残された。

「助かる手段は、ある」玄さんが唐突に切り出した。他の三人は驚きの面持ちで(しかし蛇を刺激しない程度にゆっくりと)振り向いた。

「なに?」チェシャ猫の瞳が青く輝いた。

「簡単だ。俺が蛇を引き付けて、その間にお前ら三人が窓の板を破って逃げる。ドアのストッパーは恐らく強力だろうが、窓の張り板なら、数分あれば壊せるはずだ」

「言うと思いましたよ」車掌が呆れたように言った。「あなたの思考回路はAIの予測変換より単純だ」

「今から死ぬって言うのにずいぶん暢気な口調」チェシャ猫も呆れたように言った。そのチェシャ猫の口調も、アキには余裕のあるものに聞こえた。「まだ時間はあるんだから、もっと良い案が浮かぶでしょうよ―ねえ、アキ」

 アキは聞いていなかった。目の前に転がる宮川夏雄の冷え切った身体が、アキの思考を邪魔しているようだった。どうして、チェシャ猫たちはこんなにも平然としていられるのだろう。アキは今にでも叫びだしたい気持だった。ついさっき、鉄蛇に首を絞められたときの感覚、あの海の底に沈められていくような感覚が再び胸のあたりまで迫り、アキを窒息させようとしているようだった。あの先には、何もなかった。ただ暗い冷たい海底が広がるだけだった。

「アキ?」

 見上げるとチェシャ猫の瞳が目の前にあった。瞳の色は赤でも青でも紫でもなく、黒だった。

「怖くないの?」アキは聞き返した。

「何が」

「死ぬこと」

 チェシャ猫はふいににっとした。アキの心がなぜか少し落ち着いた。どうしてチェシャ猫が、その名で呼ばれているか分かった気がした。月子さんのよく話した物語の中に、突然消えてしまう猫の話があった。その猫は、とても不思議な消え方をする猫で、胴体から消えていき、最後に口元のにやりとした笑顔だけが残るのだ。顔の端から端まで伸びるような、大きな笑顔だ。

 人はどうでもいい時にどうでもいいことに気づくものらしい、とアキは思った。

「怖いよ」チェシャ猫は答えた。「残された人を狂気にまで追い詰めうるから。でも、暴坊はきっと私の死を理解できないだろうし、他に悲しむ人もいない。唯一いるとしたら、ベラかな。でも、ベラは強い。だから、きっと大丈夫だと信じている」

「おい、早く腹を括ってくれ」玄さんが苛立ったように割って入った。「時間がないんだ」

「囮になるなら私の方がいいんじゃないんですかねえ」車掌が粘った。「素早く駆け回れば、あわよくばこの蛇も追いつけないかもしれない」

「そんな馬鹿あるか。お前みたいな痩せたもやしは、一撃尾を当てられただけで終わりだ。微塵の時間稼ぎにもならん」

「お言葉ですけど玄さん、あなたももうかなりの歳でしょう」

「なんだかんだ馬が合うのよね、二人とも」玄さんと車掌の口喧嘩を眺めながらチェシャ猫がにっと笑った。「さあアキ、あなたがこの同盟のブレーンでしょ? 全員が助かる方法を考えてよ」

「私はちなみに」チェシャ猫は肩越しに二人の大人に言った。「誰かの命を犠牲に生き延びるのはご免だからね。それならここで仲良く死にたい」

「囮作戦は無理だと思う。さっきの感じじゃあ、いくら抵抗しても一人一分くらいで絞殺されちゃう―もっといい案があるはずなんだ」

 アキはできるだけ宮川夏雄の死体を見ないようにしながら、部屋を見渡した。特に役立ちそうな物はなかった。鉄蛇のずるずると這う音が耳障りに部屋に響いていた。

 部屋に何もなければ、外に助けを呼ぶほかなかった。しかしクロと暴坊が助けに来られるかもわからないし、来たとして鉄蛇に太刀打ちできるかはわからなかった。人間は脆い、という榊原代表の声が頭の中でこだました。鋼には鋼をぶつけるしかない。

「マングースの鳴き声とか真似したら動作を停止する、とかないんですか」車掌が玄さんに投げやりに提案していた。

「逆に襲い掛かられたらどうする」玄さんがわめいた。「そもそも、マングースの鳴き声など聞いたことない」

 本当に馬の合う二人だ、とアキは思った。ふと、アキの頭に馬という言葉がひっかかった。アキはパズルのピースを探すように慎重にその違和感を手にとり、記憶の山から引き抜いた。それは鮮明な画像だったが、なぜその画像がこれほどの求心力を持って自分に訴えかけているのかが分からなかった。しかし、半日前の自分の声がふと蘇り、アキははっとした。

「チェシャ」アキは急いでチェシャ猫に話しかけた。「あの鉄蛇、音には反応してないよね?」

 チェシャ猫の瞳が緑色になり鉄蛇をじっと見つめた。

「そうね。玄さんが吠えても、車掌があんなに騒いでも、榊原代表が発砲しても反応しないし、そもそも音声入力を感知する機能が見当たらない。まるで本当の蛇を模してるみたい」

 アキの心臓が高鳴り始めた。

「玄さん」

 車掌と口論を続けていた玄さんが振り向いた。鉄蛇が頭をもたげたが、玄さんが静止すると再び這いずり回り始めた。

「僕とチェシャ猫の声で、可能な限り大きく、『助けてくれ』って叫んでくれませんか?」

「良いが、なぜだ。クロと暴坊はもうあてにならないと思った方がいいぞ。むしろ、負傷した状態で危険に巻き込んでしまうかもしれない」

「良いから早く。みんなが助かる方法があるもしれないから」

アキの切羽詰まった様子に玄さんの表情も深刻になった。

「わかった。しっかり耳栓突っ込んで、どんなに痛んでも大きな動きはするなよ」

 

 その夜の東京は、近年稀に見る騒々しさだった。二つの不審な爆発に続き、大停電と軍部の大規模出動、そして都心を旋回する謎のカラスの集団。それに加えて、二人の若い少年と少女の声が、夜空に響き渡ることになる。その声は、スラム街にまで響き渡り、県境の警備員も、何事かと寝ぼけた頭を上げるほどだった。

 その声は洞窟に隠れるベラの元にも届いた。ベラは眉を潜め、夜の闇へ顔を出した。何かあっても、絶対に外に出るなと言い聞かせられていたが、ベラは動かざるを得なかった。大事な人を失うのはもうこりごりだ。ベラは岩を動かして外へ踏み出した。

 その声は車に乗り込んだばかりの榊原代表にも届いた。榊原代表は一瞬驚き、施設を一瞥したが、すぐに何事もなかったかのようにエンジンをかけた。かつての同胞が死ぬ間際に悪あがきをしているに過ぎなかった。彼らが助けを呼んだところで、大した助けが来るわけがなかった。酒場の女がいたが、能力も武器もない人間だ。後で、始末の手配をしなければいけない、そう思いながら榊原代表は車を出した。

 そして、その声は同じ車の後部座席に置かれた月子さんにも届いた。AIは涙を流せないが、流せることなら流しただろう。あるいは、涙を流す行為など最初から意味がないのかもしれない。ただあるのは深い喪失感と悲しみのみで、その二つはすでにAIの中にプログラミングされていた。月明かりが車内を一瞬横切り、消えた。


 宮川夏雄の研究室では、時間だけが重苦しく進んでいた。皆息を潜め、ただただ待っていた。アキは自分の狙いを告げたばかりだったが、時間と共に自信が薄れていくのを感じた。鉄蛇の床を擦る音だけが、先ほどの大音量でじんじんと痛む耳に染みた。

「もしあと五分待って来なかったら」アキは切り出した。

「チェシャに愛の告白」車掌がすかさず茶々を入れた・

「その時は有無を言わせずに私が行動に出るぞ」玄さんがきっぱり言った。

「大丈夫、来るよ」チェシャ猫がにっと笑った。

 さらに時間が経った。数分が、数時間のように感じられた。アキは待ち望んでいる音が聞こえないか、じっと耳をすませた。

「すまんな、アキ」 

 五分が経ち、玄さんはゆっくりとアキの方を向いた。

「あとちょっと」アキは歯を食いしばった。「あともう―」

 遠くから、鉄の床を打つ音が聞こえた気がして、アキは息を止めた。その音はだんだん大きくなり、確かな現実味を持って近づいて来ていた。

「来た」チェシャ猫が目を見開いて言った。

 ドアを蹴り破る大きな音と共に、二頭の鋼鉄馬が部屋に勢いよく突入した。


 

二十一 陽だまり


「僕たちが呼ぶまでどこかに隠れていて。呼んだら来てくれ」

 鋼鉄馬は言いつけをしっかり守っていたようだった。銀色の装甲には土や葉っぱがあちらこちらについていたが、その脚の力強さ、エンジンのたくましい振動は変わっていなかった。突然の侵入者に反応した鉄蛇が襲い掛かったが、鋼鉄馬の一頭が前足をこともなげに蹴りだすと、白い鉄の蛇は脆弱なガラス細工のように粉々に砕け散った。チェシャ猫が歓声を上げた。

 チェシャ猫とアキがそれぞれ手綱を握り、鞍にまたがると、チェシャ猫は玄さんを、アキは車掌を後ろに乗せた。アキは鋼鉄馬にまたがった後に、一瞬ためらってから馬から降り、着ていたシャツを脱いで宮川夏雄の顔にかぶせた。心の中で、さようなら、とつぶやいてから、再び鋼鉄馬にまたがった。

「月夜烏の丘まで!」

 二人が叫ぶと、巨大な鋼鉄の塊はぶるぶると震え、研究室を飛び出した。


「だからダメなんだよ、暴坊」

 クロは使える左手で必死に暴坊の腕に掴んでいた。血にまみれたクロの右腕は力なく横で垂れ下がっている。

「ぶおおおお! ちぇしゃあ! ちぇしゃあ」

 暴坊はチェシャ猫とアキの声を聞いてから狂ったようにクロの制止を払い、研究所へ戻ろうとしていた。二人は施設の脇の、植え込みの茂みに隠れていた。兵士たちを抑え込んだうえで、二人は命からがら逃げきり、傷ついた獣のように暗闇のなかでくるまっていた。現在の状態では、助けに向かっても足を引っ張るだけだということは明白だった。

暴坊が再びクロの腕を払いのけ、茂みから這い出ようとした。右足がおかしな方向に曲がり、左足も鉄のような皮膚がへこみ赤黒く変色していた。一番ひどいのは頭で、すでに配置を間違えた朝食のプレートのように不揃いな顔のパーツが、不格好に膨れ上がったりひん曲がったりしていた。

「さっきの声はチェシャじゃない」伝わらないとわかりながらクロは歯ぎしりをして言った。左腕の付け根が、ねじ切られるかのようにずきんと痛んだ。「あれは玄さんだ。二人の声を使ったのには、何か理由があるはずだ」

「ちぇしゃあ…あきぃ」

 クロは耳を澄ませた。施設を離れてからは、再び正確に音を拾えることができた。耳の正常な作動を阻害する音波が流されていたのだろうとクロは推測していた。何者かが、自分たちの侵入を予想して罠を仕掛けていたのだ。気になるのは、先ほど聞こえた銃声だ。宮川夏雄はあの四人を殺すことはまずないと踏んでいたのだが…。不安がクロの胸を掻き立てた。

 夜は静かに明けようとしていた。空がわずかに色を取り戻し始めている。ふと、クロは蹄の音を聞いた気がした。施設に近づいていく、鉄の蹄の音が。

「暴坊、私たちは車に乗って逃げるぞ」クロは暴坊の腕を掴んで立たせた。「全員、おそらく無事だ」

 クロはホイッスルを強く吹き、カラスたちを研究所の方へ向かわせた。


「なかなか速く走るじゃねえか」車掌が風の中に向かって叫んだ。「悪くねえ」

 二頭の鋼鉄馬は廊下を走り抜けていた。鋼鉄馬の強力なヘッドライトが暗闇を貫き、道を灯していた。二体の巨大な機械兵のうち、一体は頭がひしゃげた状態で廊下に横たわっており、もう一体は両目をつぶされた状態で廊下を歩き回っていた。床一面が赤黒い血でべったりと濡れている。鋼鉄馬が通り過ぎると盲目になった機械兵はでたらめに腕を振り回したが、鋼鉄馬は華麗に避けて通り過ぎた。床に倒れた兵士の一人が顔を上げて銃を構えたが、突然現れた黒い飛翔体にそれを奪い取られた。

「クウ!」

 アキは一目でそれが、クロのお気に入りのカラスだということがわかった。ヘッドライトに一瞬照らされた漆黒の翼は、濡れているかのように滑らかで、音もなく宙を切った。

「クロも暴坊も逃げたようだな」玄さんが安堵の声で言った。

 鋼鉄馬は速度を緩めることなく正面玄関の自動ドアを蹴り破り、わずかに明るみ始めた街へ四人を運び出した。しかし外に出た瞬間、アキは逃走が容易でないことを悟った。何台もの軍用車が門の前に駐車され、数十人の軍人や警官が集まっていた。

 ちょうどその時、激しい爆音とともに、アキたちの後方で火柱が上がった。振り返ると、宮川夏雄の研究室があった施設の一角が、燃え盛る炎に包まれていた。アキの脳裏には、一瞬だけ、あの白い部屋に横たわる宮川夏雄の姿がよぎった。続いて、百羽ほどのカラスの大群が、黒い竜巻のようにどこからともなく現れ、警官や軍人らを襲った。悲鳴、カラスの鳴き声、そして貪欲に建物をむさぼる炎の音が相混じり、現場は混乱に包まれた。

「最高速度で駆け抜けろ」

 アキがささやくと、二頭の鋼鉄馬は夜明けと競走するかの如く、真っ暗な研究所の庭を駆け抜けていった。その姿に気づいたのは、県境の監視所から召集された一人の若い軍人だけだったが、きっと疲れによる幻影だろうと気に留めなかった。前日の県境での襲撃がトラウマと化していたに違いない。襲撃するカラスの群れを振り払いながら、彼は新たな勤務先を探そうと密かに決心していた。


 アキたちは都心を抜け、ほどなくしてスラム街に着いた。陽が昇る前に都心から出られたのは幸いだった。相次ぐ混乱で騒然としていた都心は、明け方には厳重な捜査網が敷かれるはずだ。

 アキがチェシャ猫と最初に出会った大樹を通り過ぎるところで、背後から車のエンジンの音がした。振り返ると一台の軍用車が猛スピードで進んでいた。玄さんが声を上げたが、チェシャ猫がすぐに、「クロと暴坊だ」と嬉しそうに告げた。アキもほっと安堵の息をつき、鋼鉄馬を止めた。

 軍用車は木の下で止まり、運転席からクロが現れた。身体中が傷だらけで、右腕は力なく垂れ下がっていたが、視線と足取りはいつものようにしっかりとしていた。続いて助手席から暴坊が窮屈そうに身体を押し出し、チェシャ猫を見るなり歓喜の声を上げて突進しようとしたが、見事に躓いて転んだ。チェシャ猫が駆け寄ると嬉しそうに笑い、アキが腕を持って立ちあがるのを手伝うと嬉しそうにアキの頭を叩いた。乾いた血が粉唐辛子のようにアキの頭に降り注いだ。

「何があったのですか」

 クロはくたびれた様子で、しかし安堵と喜びを隠しきれない様子で玄さんに聞いた。

「話すと長くなる。榊原が私たちを裏切っていた。宮川夏雄も榊原に裏切られ殺された。我々も死ぬはずだったが、彼の詰めの甘さとアキの閃きで助かった」

 クロは眉を上げ、後で詳しく聞きます、とだけ言った。クウが飛んできて、差し出された左腕に止まった。陽が徐々に昇り始め、夜に溶け込んでいたコートとクウの翼が埃のかかった窓硝子のようにぼんやりと輝きを放った。

「一つだけ確かめたいのですが―データは盗めましたか?」

 玄さんはため息をついて頭を振った。

「それなんだが、榊原に持っていかれた。最初から、それが狙いだったんだ、やつは。今日の夜にはアメリカにいるだろうよ」

 クロは一瞬だけ落胆の表情を見せたが、しょうがない、というようにうなずいた。

アキはその時、車掌のいたずらっこのような表情に気づいた。横にいたチェシャ猫も、何やら気づいたらしく、にっとした笑顔が広がっていた。車掌はゆっくりとポケットから何かを取りだした。

「じゃん」車掌はこれでもかというくらい自慢げな顔で、チップを取りだした。「やつに渡したのは、予備用に持っていた空のチップ。本物はこれなんだな」

 クロはしばらくぽかんと口を開けて小さな黒いチップを見つめた。玄さんが歓声を上げたが、それが耳に入ってないかのようにゆっくりと車掌に歩み寄った。車掌は誇りに満ち溢れた面持ちでにっこりとした。

 次の瞬間、クロの平手打ちが車掌の頬を襲った。クウが驚いたようにクロの腕から飛び立ち、車掌は素っ頓狂な声を上げて、小学生のように木の後ろに隠れた。

「なんでだよう」車掌の声は驚きのあまり裏返っていた。「褒めてくれてもいいじゃんか」

「劇的な演出を狙ってわざと間を空けたのが気に食わない」クロは無表情で木に詰め寄り、血まみれのブーツで木を思いっきり蹴った。「あるならあると早く言え」

 アキは思わずくくくと声を出して笑ってしまった。チェシャ猫と目が合うと、チェシャ猫の目もふにゃりと目尻が曲がり、朝に咲く野花のような力強い笑い声が漏れた。つられて玄さんも口を大きく開けてがははと笑い始め、暴坊も座ったまま楽しそうにぼおおおおと吠え笑いした。車掌も気の裏から情けなさそうにふへへと笑い、無表情のクロも―あるいは急に差し込んできた朝陽に顔をしかめただけかもしれないが―口元がわずかに曲がったように見えた。

「あなたたち!」

 悲鳴のような声が響き、見るとベラが足早に向かってきていた。昇ったばかりの太陽の光を受けて、ベラの顔が温かく、優しく火照っていた。大粒の涙がぽろぽろとその頬を流れ落ちていく。

 ベラは木の下に辿り着くと、アキたちを一人ずつ抱きしめた。傷の多さや深刻さに絶えず心配の言葉を添えながら、何度となく全員が無事であることに感謝と喜びの言葉を繰り返した。アキの抱擁の番が来ると、アキはその温かさに身を委ねた。陽だまりの中、毛布にくるまっているような、今までに感じたことのない安らぎがアキを包みこみ、自然と涙が目に浮かんだ。さっきまで笑っていたのに、すぐに泣けるなんて、人間はどうかしているな、とアキは思った。しかしこの時ほどに、人間としての生をありがたく思ったことはなかった。

 クローンであるとかないとかは大した問題ではないのかもしれない、とアキは思った。自分の居場所は、ここにあった。

「良い顔しているよ」ベラはアキを離すと、アキにだけ聞こえるようにそっとささやいた。「若者はそういう顔をするものよ」

 アキは涙も拭かず、鼻水を垂らしながら、顔をくしゃくしゃにして笑ってみせた。

 

 

二十二 歯車


 その朝、月夜烏の丘の洞穴では、ささやかな宴会が開かれた。

 ベラの用意したお酒とジュースで乾杯すると、同盟はぱさぱさのクラッカーや缶詰のフルーツ・肉・魚で腹を満たした。ご馳走とは言えないものばかりだったが、アキはこれほどまでに美味しいご飯を食べたことがないと思った。

 飲み食いしながら、玄さんとクロがそれぞれ研究所で起こったことを話した。さすがのクロも、暴坊とチェシャ猫の関係性を聞くと、驚きを隠せない様子だった。

「てっきり私より年下だと思っていたのだが」

 暴坊は食べ物を口に詰め込みながら、無邪気に笑った。口から飛んだクラッカーの破片をチェシャ猫が丁寧に払った。

 榊原代表の話になると、全員が憤りを示した。

「よくも平然と俺らを裏切り続けたもんだ」車掌が鼻息荒く言った。

「チェシャは気づいたことなかったの?」アキは疑問に思って聞いた。

 チェシャ猫は悔しそうに眉を寄せた。

「全く。一人、山奥でのんびりと情報だけ収集しているのは気に食わなかったけど、水色の目を向けること自体、失礼だと思ったからあまりしていなかった」

「ここまで計画を考えといて、最後の詰めが甘いのが不思議だが」車掌が首を傾げた。「あそこで俺らを殺してから、建物を爆破した方が確実だったんじゃないか?」

「やつにも、情が残っていたのかもしれんな」玄さんは疲れ切った顔で酒を仰いだ。「俺の希望的観測に過ぎないかもしれないが。しかし仮にそうだとしたら、皮肉にも彼がもっとも忌み嫌う、脆弱な人間性の虜に、彼自身も囚われていたことになる」

「自分の作った兵器に自信があっただけでしょう」クロは冷淡に切り捨てた。「事実、同じく彼の創作品である鋼鉄馬を以てしなければ、逃げることは不可能だった」

「そうかもな」玄さんはツナ缶を開けるとスプーンで勢いよく中身を掬った。「とりあえず、我々はここに長居するわけにはいかない。宮川夏雄が死に、多少の混乱は起きているだろうが、今日中には東京を離れてどこかに隠れよう」

「運輸は車掌急行にお任せください」車掌が敬礼の仕草をした。「この人数だと、二回に分けなければいけなそうですが」

「私は手に入れたデータを元に、欧米のメディアと人権団体にこの国の人権侵犯を訴えるつもりだ」クロは銀のホイッスルを細長い指で撫でながら言った。「多少は時間がかかるかもしれないが、必ず私たちは自由になれる」

 アキは、チェシャ猫を見た。チェシャ猫は幸せそうな、しかし悲しそうな顔をしてジュースの入ったグラスを撫でていた。アキは彼女が何を考えているのかがわかる気がした。

「月子さんには、またきっと会えるよ」アキがそっと言うと、チェシャ猫は顔を上げた。「また、きっと会える」

アキの中にはもうあの燃えるような嫉妬心はなく、ただ一抹の寂しさと悲しさがわだかまりのように残っていた。それでも、この温かい洞穴の中では、その感情もほとんど無視できる気がしていた。アキはにっと笑って見せた。チェシャ猫も迷わずにっと笑い返した。今の自分達にはお互いがいる、とアキは思った。

「みんな本当によくやってくれた」玄さんは改まってグラスを掲げた。疲れた顔に笑みがこぼれた。「今はしっかり休んで、夜に備えよう…血と鋼の同盟に、乾杯」

 七つのグラスが高々と掲げられ、カチン、と音を立ててぶつかった。


 洞穴の外では陽が高く昇り、宴も終わりに近づいていた。暴坊と車掌はすでに窮屈な隅でいびきをかき始めていたし、チェシャ猫も重たそうなまぶたを何度もこすりながら、包帯を巻きなおした暴坊の頭に手をおいて、うつらうつらとし始めていた。玄さんとベラも壁によりかかって子供のように口を開けて寝ていた。アキも、ずるずると睡魔の温かい触手が暗闇から伸びてくるのを感じて、大きなあくびをした。

 ふと、隣に誰かが座るのを感じた。甘くてほのかに尖ったミントの匂いが鼻をついた。重たい頭を上げると、クロの白い顔が薄ら暗い洞穴の闇にぼんやりと浮かんだ。クロはワインの入ったグラスを軽く傾けて、唇の隙間に流し込んだ。

「私のずらした歯車は、さらに大きな歯車をずらした。そのずれは、良いずれだったのかだろうか? それとも悪いずれだったのだろうか?」

「わからない」

アキは再びあくびをしながら、ぼんやりとした頭で洞穴を見渡した。チェシャ猫が小さな寝息を立て始めていた。とても安らかな寝顔だった。

「でも、みんなは幸せそうだ。そして、僕も幸せだ。とりあえず、それだけで素晴らしいことだと思う」

クロはその冷涼な目でアキを見つめてから、うなずき、コートの裾をつまみながら立ち

上がった。

「カラスたちと話をしてくる。ゆっくりおやすみ、アキ」

クロが出て行くと、アキは再び部屋を見渡した。歯車なら好きなように好きなだけ回ればいい。ただ、どんな大きな歯車にも、この幸せだけは奪われたくないとアキは思った。

 再び睡魔に手を引かれるのを感じ、今度は、その誘いを受け入れた。瞼が閉じ、アキは寝息を立て始めた。その寝息は、丘の上を歩くクロですら気がつかないほど、静かで安らかなものだった。


 


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