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チェシャ猫の冒険  作者: 高村
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瞳の色は七つある

一 来訪者


 雨の匂いがするね、と女は言った。白く細長い指が、腕に止まったカラスの頭を優しく撫でた。ビルの屋上には冷たい風が吹きつけ、頭上には鉛色の雲が重々しく垂れ込めている。

やることはわかってる?

 カラスが力強く鳴いた。

 かすかな羽音を立ててカラスが飛び立った。女はコートのポケットから銀色のホイッスルを取り出し、強く吹いた。鋭い音が厚い雲を貫いて天上に駆け上がる。

 女のカラスが頭上を旋回する間、どこからともなく一羽、二羽とカラスが集まり始めた。その群れが瞬く間に数十羽へと増えると、ビルの屋上は旋回するカラスの翼の音で満たされ、小さな旋風が起きた。

 女が再びホイッスルを吹くと、漆黒に深い青みを湛えた鳥たちは旋回の輪を崩し、隊列を組んで街へと降下していった。


 土曜日の朝は、アキのお気に入りの時間だ。

研究者の父親は、金曜日の夜遅くまで仕事をしていて、土曜日の朝起きるのが遅い。今朝は、心行くまで月子さんと話せる。

 ベッドを抜け出して、窓の外の曇り空を見やりながら、アキはそっと寝室の扉を開けた。部屋を出ると、縦長の大きな全身鏡が眠そうに目をこする細身の少年を映し出した。父親そっくりの細くて鋭い輪郭は、アキ自身が見ても不愛想で、好きになれない。一瞬だけ鏡の前で立ち止まり、針金のように突き出した寝癖を直そうと試みてから、すぐに諦めて階下の研究室へと向かった。月子さんは寝癖さえもかわいいと言ってくれるので、どうでもいいやと思ったのである。

階段を下りてから耳を澄ましたが、二階の父親の寝室からは何も聞こえてこない。アキは頭に焼き付いた暗証番号をロックキーに入力し、静かに扉を開けた。

 生まれてから十五年間、アキはずっと父親の働く三崎工業の研究施設で暮らしてきた。彼にとっては遊びも勉強も、すべて施設の中で完結していた。遊び相手や話し相手は全て、AIがしてくれる。一号館から十五号館まである施設は広大で、味気ないが不自由もなかった。唯一不満があるとすれば、父親に月子さんと話すことを禁じられていることくらいだった。

 月子さんは、アキ専属の養育型AIだ。形は大人の女性で、胸部から上のみの身体は自ら動くことができない。アキは幼いころから月子さんに面倒を見てもらっていた。彼女はアキに物心がついた頃から―正確には五歳くらいだったはずだ―アキの養育係として常にそばにいた。国防に携わる研究をしているという父親は、世間ではかなり優秀な科学者として認められているらしく、月子さんも彼の開発品の一つのようであった。「らしい」とか「ようであった」というのはアキ自身が直接話を聞いたわけではなく、研究施設の職員の話を立ち聞きしたに過ぎないからなのだが、少なくとも職員の間では父親がある程度の尊敬を集めていることは事実のようだった。もっとも、そのようなことはあまりアキの関心を惹かなかった。アキはすっかり父親よりも月子さんの方に慣れ親しみ、彼女と話すことが毎日の楽しみとなっていた。

 月子さんはアキの勉強を手伝い、礼儀を教え、寝る前には物語や昔話を聞かせてくれた。二人はすっかり仲良くなり、アキは月子さんのいない生活を考えられないほどになっていた。

それが十歳を過ぎたある日、突然父親が月子さんを自分の研究室に隔離し、接触を禁じる旨をアキに告げた。突然の宣告をアキは理解できなかった。しかし、厳格な父親には口答えなど効かなかった。父親は一度決めたことは曲げない人だった。一方で、蛙の子は蛙、アキもそう簡単に諦めるわけにはいかなかった。

月子さんは研究所内で一番面白い話をし、一番熱心にアキの話に耳を傾け、一番素敵な笑顔をアキにくれた。これほどまで一番を独占する彼女は、自分には知りえない「母親」というものの存在を教えてくれるのではないか、とアキにひそかに期待させていた。

アキには、母親がいない。月子さんは、自分にもあなたくらいの子供がいる、としきりに話し、どこかくすぐったくなるような温かいまなざしでアキを見つめてくれるのだった。AIに子供はいないはずなのに、とアキは不思議に思ったが、本物の息子のような扱いを受けるのが嬉しくて仕方がなかった。

月子さんが隔離された数日後、アキは父親が打ち込む暗証番号をこっそり盗み見ると、父親のいない隙をうかがって研究室に通うようになった。


今朝も変わらず、月子さんは窓際の棚の上にいた。美しく白い顔はアキが部屋を開けるとともに滑らかな動きで振り返り、人口繊維で作られた長いまつげが瞬きをした。

「おはよう。休日もいつも早起きで偉いのね」

「おはよう」アキは嬉しさを隠しきれずに言った。「聞いて、昨日初めて、物理のテストで満点を取ったんだ…」

 父親が目も合わせず「そうかすごいな」と言うのと、月子さんが笑顔で「まあすごい、頑張ってるのね」と言うのでは、なぜか大きな違いがあった。

「ねえ、なにかお話を聞かせてよ…」

 アキのいつものお願いだ。

 月子さんの語る「お話」は、宇宙まで広がり、森の木の葉一枚一枚を見つめ、深海の魚たちをも巻き込んだ。「愛」や「勇気」などというくすぐったい言葉が出てくるようなお話もあれば、奇怪な生物がうごめくおぞましいお話もあった。彼女は物を語る達人だった。

 その日の「お話」は、庭の穴から不思議な世界に迷い込んでしまった少女の話だった。奇想天外な登場人物たちと(彼らは人物と称していいのかわからないくらい奇抜な存在だった)、ころころと変化する月子さんの口調に、アキはすっかり夢中になった。

「お話が上手いな、ほんと」

 アキは父親の椅子に座って、月子さんが語る不思議な世界に思いを馳せた。

「なにも、教科書に書いてあることが世界の全てじゃないのよ」

 月子さんはその無機質な、けれど不思議と魅力的な笑顔で返した。


 アキはその日も心行くまで月子さんの話を聞いていた。気づけば時計の針は進み、父親が起きる時間になっていた。

「そろそろ戻った方が良いんじゃないかしら」

「そうだね―また明日、会いに来るから」

 アキは月子さんに手を振ると、立ち上がってドアに向かった。

 こんこん。

 窓を叩く音。アキの心臓が跳ね上がった。父親に見つかったのだろうか? 一瞬錯乱したが、窓から父親が入ってくるわけがない。慌てて振り返ると、一羽のカラスが、窓をくちばしで叩いていた。

 こんこん。こんこん。

 アキは迷ったが、不思議な衝動に駆られて窓を開けた。昔からアキは、カラスに愛着があった。庭にやってくるカラスを眺めるのは、人間の友達がいないアキの数少ない楽しみの一つであった。このカラスも、心なしか見覚えのあるような気がする。

カラスはぴょんと銀色のサッシから机に跳び下りると、かあ、と実に平凡に鳴いた。身体は大きく、滑らかな黒色の翼が曇天の弱弱しい陽光を受けてしっとりと濡れているように見えた。カラスはそのまま机の上の写真スタンドに跳ね寄ると、くちばしで器用に中の写真を取り出し始めた。

「アキ、早く戻りなさい」突然、月子さんが言った。今までになく強い口調だった。「自分の部屋に戻りなさい」

 しかし、アキの耳にその声は届かなかった。アキは写真を取り出そうとするカラスに目を奪われていた。写真は、恐らく研究所に存在する写真の中で、唯一アキと父親が二人で写っているものだった。研究所の前で細身のスーツに身を包んだ父親が、同様に正装を纏った細身のアキに腕を回している。写真で見るとさすが親子だけあって、よく似ている。

 しかし、しばらくするとカラスの目的が写真ではないことがわかった。その優雅な頭の一捻りとともに写真が抜き出されると、一枚の白い便箋がひらりと机の上に舞い落ちた。写真の裏に挟まれる形で隠されていたようだった。

 カラスはそれをくちばしにくわえると、アキに差し出した。ビーズ玉のような黒い瞳がアキのそれを覗き込む。アキは吸い寄せられるようにその紙を掴み、字を目で追っていった。父親宛てに書かれた手紙だった。アキ、という文字が目に飛び込む。自分について書かれている! 読んでいくうちに、アキは口が乾き動悸が早まっていくのを感じた。いつの間に降りだしたのか、開いた窓の外から雨音が聞こえてきた。それに重なって、何十羽ものカラスの鳴き声が鳴り響いてきた。門番の衛兵たちが、なにやら叫んで騒いでいた。来訪したカラスはこの一羽だけではないようだった。

手紙に目を通し終えた頃には、アキの心は決まっていた。


 十分後、何十羽ものカラスの鳴き声で目覚めたアキの父親は、慌てて研究室へと向かった。部屋に入った彼は、開けっ放しの窓と、黒の中に青みを湛えた美しいカラスの羽根を一本、見つけることになる。開いた窓からは雨粒が風と共に舞い込み、AIの白い頬をしっとりと濡らしていた。


二 チェシャ猫


 土曜日の朝は、チェシャ猫のお気に入りの時間だ。

 彼女は街がまだ静まり返っているこの時間に、スラム街の隅に立つ見晴らしの良い大きな木によじ登り、リンゴをかじりながら日の出を眺めるのが好きだった。この時間ばかりは、普段薄汚くて土埃にまみれたスラム街も、不思議と美しく見える。

 今朝はあいにくの曇天だったが、それでも遠く都心のビル群が(いにしえ)の巨人たちのように立ちそびえる姿が見えた。一瞬、尋常でない規模のカラスの群れが見えた気がしたが、すぐに林立するビルの影に飲まれて見えなくなってしまった。

 チェシャ猫はかじり終わったリンゴの芯を目下に放り投げて、大あくびをして木の幹にもたれかかった。世の中にとっての明け方は、チェシャ猫にとっての黄昏だ。少女は二股に分かれた大きな枝の上でバランスをとり、持ってきた毛布にくるまると瞼を閉じた。五月にしては少し風が冷たいが、毛布が分厚い繭のようにチェシャ猫を包みこんだ。この上なく平和だ…。

 ぽつん。ぽつん。頬を打つ雨粒の感触でチェシャ猫は目を開けた。辺りの静けさは消え、平凡な生活音がスラム街を満たしていた。家屋からは調理の音や家族の声が漏れ出て、チェシャ猫の座る木の上まで届いてきた。木の葉の隙間から雨粒がこぼれ落ちてくる。

「帰らなきゃ」

 独りつぶやき木を降りようとしたところで、彼女はふと動きを止めた。都心とスラム街をつなぐ大通りを、一人の少年がこちらに向かって走ってきている。チェシャ猫は少年の顔を注視し、はっとした。

 三秒間の脳内会議を経て、チェシャ猫は先ほどよりもずっと深刻な顔で木を降り始めた。少年は、そのまま走れば、この木の下を通るはずだった。


 アキは雨の中、息を切らして走っていた。濡れて束になった前髪が目の前で跳ねた。

庭で大騒ぎを起こしていたカラスの群れのおかげで門番は持ち場を離れており、施設の敷地からは楽に抜け出せた。問題はその後だった。アキは施設外の世界に関してはほとんど無知であり、年に数度、父親に車で連れ回してもらうくらいだった。都心部を、しかも裸足で駆け回る経験など、当然今まで一度もない。

 困惑するアキを助けてくれたのは、アキに手紙を読ませた不思議なカラスだった。彼は(アキはなんとなくそのカラスをオスだと決めつけていた)鳴きながら建物から建物へ飛び移り、アキを導くように進んだ。アキは父親に追われる恐怖から、ただひたすらにその姿を追いかけた。

 大通りをしばらく走ると、街の風景が変わっていくのが分かった。それまで白色で滑らかだった高層の建物が消え、古くて汚らしい小屋があちこちに現れた。道もでこぼこの多い土の道路に変わり、水たまりやぬかるみがあちこちで目についた。

 スラム街に入ったのだ、とアキは気づいた。AIの授業の一つで、東京の地理の授業があった。それによると東京は高度に発展した都心部と、人口過密により貧困層の居住区となったスラム街に分かれているとのことだった。スラム街は警察官や軍人の監視が少なく、治安も悪い。監視の目が少ない場所にたどり着いたのはアキにとって都合がよかったが、それでも父親が追手をよこす可能性があった。少しでも都心から離れた方がいいだろう、とアキは思った。

 ふと気がつくと、先ほどまで道を先導してくれていたカラスが消えていた。黒い姿はどこにも見当たらない。いつの間に消えたのだろう?

 アキはスラム街の入り口にある大きな木の下の前で立ち止まった。カラスが急にいなくなったことは、予想以上に寂しかった。だが、立ち止まっているわけにはいかない。歯を食いしばり、再び前を振り向き走りだそうとした瞬間、アキは何かに激しくぶつかった。

「うわっ」

 慌てて一歩引くと、先ほどまで誰もいなかったはずの場所に、アキと同年代の女の子が立っていた。彼女はアキより頭一つ分小さく、マントのように大きな毛布を羽織っていた。大きく力強い黒色の目がまっすぐアキを捉え、アキはまるで全てを見透かされているかのような気持ちになった。

「止まって」雨に打たれながら女の子はそう言って、腕を広げた。

 アキは戸惑った。生身の同年代の女の子と対面するのは生まれて初めての出来事だった。いや、生身の同年代の人間と対面すること自体が、初めての出来事だった。

「誰かに追われてるの?」

 彼女の質問とまっすぐな視線に、気づくとアキは正直に答えていた。

「…たぶん軍の人か、警察の人が探しに来る」

彼女は驚く素振りを見せなかった。

「あなた、もしかして三崎工業の巣鴨研究所から逃げて来た?」

アキは驚きながら、素直にうなずいた。なぜわかったのだろう? 

「いい隠れ場所教えてあげる」彼女はアキの戸惑いにつけ入るように、すばやく腕をつかんだ。手は柔らかくて温かった。久しぶりの感触だった。「名前は?」

「アキ」

「そっか。私はチェシャ猫」

「…チェシャ猫」アキは繰り返した。奇妙な名前だな、と思った。つい最近、どこかで聞いた名前でもあった。しかし、アキの頭は混乱していてそれがどこか思い出すことはできなかった。どこで聞いたのだろう。

 チェシャ猫はにっと笑って、アキの腕を掴んだまま小走りに駈け出した。彼女が目をのぞきこんだ瞬間、ついさっきまで黒色だった瞳が、淡い水色に変わったように見えたのは気のせいだろうか? 

 疑問がスラム街の排水溝に流れ込む泥水のように渦巻いていたが、アキは抵抗することなくこの不思議な女の子に連れて行かれるがまま雨のスラムへと潜り込んでいった。

 

 いくつもの小路や曲がり角をすり抜けたのち、チェシャ猫がようやく止まった場所は、小さな酒場の前だった。薄汚れた赤い塗装に、「ベラの酒場」と書かれた古びた看板がぶら下がっていた。雨の中でその建物のたたずまいは惨めそのものだった。チェシャ猫は扉に組み込まれた汚い窓ガラスから中を覗き見てから、ぎぃっと木製の扉を開けた。アキも、用心しながら後に続いて足を踏み入れた。ベニヤ板の床が足元で軋んだ。

 中は薄暗かった。アキは依然として自分の腕を力強く握っているチェシャ猫を見て、思わず声を出しそうになった。窓から差しこむわずかな光の中で、彼女の瞳が淡い水色から、猫のそれのような輝く琥珀色に変化するのが見えたからだ。その変化はまるで、舞台を照らす照明器が回転するかのように滑らかで、瞬間的だった。

「ベラ? 起きてる?」 

 チェシャ猫のささやき声が、外の雨音にかき消されないくらいの振動をもって、部屋を横切った。

 軽いうめき声がして、カウンターの後ろから一人の女性が顔を出した。

「今起きたよ…なんの用?」

 女性が手を叩くと明かりがつき、アキは突然の光に目を細めた。

 酒場は狭く、カウンターのほかには小さなテーブルが一つあるだけで、壁には一面に所せましと酒瓶が並べられていた。年季の入ったカウンターはがっちりとした黒い木材でできており、部屋の中で唯一細かに手入れされている部分に見えた。部屋を照らす電球は明るく暖かく、アキは外の雨音が少し和らいだような気がした

「誰、この子は」

 カウンター越しにアキを怪訝そうに見てきたのは、日本人離れした顔を持つ中年の女性だった。髪こそ黒いものの、青い目と高い鼻が、アキに北方の国をすぐに連想させた。

「この子、隠れ場所を探してるの。軍と警察に追われてるみたいで。下にかくまってあげてもいい?」

 チェシャ猫の軽いトーンとは裏腹に、かなり重大な頼みごとをしていることがアキにも瞬時に分かった。ベラと呼ばれた女性の眉間にしわが寄り、肉付きの良い腕が胸の前で堂々と組まれたからだ。

「同盟に何も関係ない人間を入れるって言うの? そんなこと玄さんが許すと思う?」

 チェシャ猫の目は、いつの間にか深い深い黒に戻っていた。いったいどうなっているのだ、とアキは心の中で頭を抱えた。生身の女の子は全員こうも目の色がころころと変わるものなのか?

「大丈夫、ちゃんと私が確認したから。この子、害はないよ」

「じゃあ、私も立ち会ったうえでもう一度確認しましょう」ベラは腕組みを解かずにカウンターの後ろから出てきて、アキの前に立った。身長はアキとあまり変わらないくらいだったが、その立ち姿は自然と威圧感があった。「どれ、あの目を出して」

 何気なくチェシャ猫を見ると、リボルバーが回るように瞳が交代し、再び淡い水色へと変化した。アキは魅せられたかのようにその瞳を見つめた。

「あなたの名前は?」ベラがきびきびと質問を始めた。

「アキ」アキは依然としてチェシャ猫の目から視線を外せないまま、催眠術にかかったかのように答えた。チェシャ猫が続きを促すようにうなずいた。

「年齢は?」

「十五歳」

「私と同じ」チェシャ猫がつぶやいた。

「性別は?」

 性別なんて見ればわかるじゃないか、とアキはぼんやり思った。それとももやしのようにひょろっこいから、馬鹿にしてるのだろうか。

「男」

「家族は?」

「…父親が一人。母親はいない」

「どこから来た?」

「三崎工業巣鴨研究所」

「みさ…なんだって?」ベラの腕組みが解けて、驚愕の表情を見せた。そしてさらに何か別の感情…怒り?「三崎工業の研究施設? 軍部御用達の?」

「いいから続けて」チェシャ猫がアキから目線を逸らさぬままささやいた。

「三崎工業の施設なんかで、あなたみたいな少年が何をしていたの? まさか軍部の関係者じゃないでしょうね」

 アキは一瞬ためらった。本能が危険を感じ取り、頭が冷静になるのを感じた。嘘をついたら、チェシャ猫に見破られるだろうか? しかしベラの反応からして、真実を話すことは今の自分にとって明らかに不利な状況を招くように思われた。何よりも、チェシャ猫の目が何かを訴えかけるように見開いていた。不思議と力のこもった目だった…まるで嘘をつけと言わんばかりの。

「人間実験の被験者として働いてた」アキはチェシャ猫から目線を逸らすことなく言った。なるべく淡々と、なるべく普通に。

 ベラが確認するようにチェシャ猫を見た。チェシャ猫はうなずいた。

「嘘はついてない」

 ベラがふぅっと息をついた。

「そういうことなら最初から言ってよ、チェシャ」ベラの表情が初めてやわらぎ、アキの顔を優しく覗き込んだ。チェシャ猫はややむっとした表情を見せたが、ベラは気づかなかった。「辛かったでしょう? ここにいれば安全よ」

「確認しながら来たから大丈夫だとは思うけど、追手が来てるかもしれないから少し見張っていてもらえる?」そう言いながらチェシャ猫はアキをカウンターの方へぐいと引っ張った。「ほら、行くよ」

「警察だろうが軍人だろうが誰一人通させやしないよ」

ベラはひらひらと手の平を振ると、近くの三脚椅子に深く腰を下ろした。

 チェシャ猫はアキの腕を握ったままカウンターの裏に連れて行った。

「そんなに強く握らなくてもどこにも逃げないって」

アキは小声で愚痴をこぼしたが、チェシャ猫はそれを完全に無視した。

 カウンター裏には酒瓶やら食料やらが無造作に置かれていたが、チェシャ猫は慣れた足取りでそれらをよけて通ると、隅に置いてある米袋を掴んでどけようとした。しかし片手でアキを掴んでいるためなかなか動かせない。

「手伝うよ」アキが申し出て米袋を持とうとすると、チェシャ猫はまるで本物の猫が威嚇するかのようにふーっとうなり、アキの腕から手を離して両手で米袋を掴んだ。ゆっくりと米袋が動き、その下に隠されていたものがあらわとなった。

 それは、キッチンの床にあるような床下物置のハッチだった。しかし、チェシャ猫が取手を掴んで持ち上げると、現れたのは物置ではなく地下へと続く階段だった。

「ついて来て」すかさず再びアキの腕を掴むと、チェシャ猫は階段を降り始めた。「ハッチ閉めといてね」

 アキは心の中でため息をつきながらついていった。断定するにはまだサンプル数が足りないが、世の中の生身の女子が全員こうでなければいいな、と切に願った。

 ハッチを閉めると階段は暗闇に包まれ、アキは危うく石段につまずきそうになった。

「あ、ごめん、見えないね」

 チェシャ猫が手を叩くと、裸電球の弱弱しい明かりがついた。同時にチェシャ猫の瞳が琥珀色から黒色にすっと変わるのをアキは見逃さなかった。

階段はらせん状に続き、意外と長かった。

「あのハッチにいつも米袋載せていたら、出たいときに出られなくならない?」アキは気になって聞いた。

「基本的にあっちの入り口は使わないの」チェシャ猫は振り返らすに答えた。「ベラに会わせたかったから今回は酒場から入ったけど、普段は人目につきやすいから使えない。そのかわり、裏口がある」

「もう一つ質問なんだけど」アキはチェシャ猫の癖のある髪の毛を眺めながら言った。「暗いところでは黄色、人の顔を見るときは水色、通常は黒色。君は全部で何色の瞳を持っているの?」

 突然階段が終わり、鉄製の扉が現れた。

 チェシャ猫は振り返ると、顔の隅から隅まで広がるような独特のにっとした笑みを見せた。瞳の色が狂ったように、目まぐるしく変化した。

「さあ、何色でしょう」

 そうして扉に向き直ると、彼女は扉横のパネルに親指を押し付けた。

三 隠れ家


 電子音が鳴り、解錠された扉が自動で開いた。

 中に入るとこぎれいな玄関がアキを出迎えた。少ない履物は並べられ、まだ古くない靴ベラと靴ブラシが隅っこで行儀よく佇んでいた。靴箱の上には厳めしい字で書かれた札が場違いに立てかけられていた。アキは顔を近づけて覗き込んだ。「血と鋼の同盟」。

「アキ、あなたひどい格好してるよ」ようやくアキの腕を離し、靴を脱ぎ始めたチェシャ猫が呆れたように言った。「適当な服貸すから、シャワー浴びてきな」

アキは自分を見下ろしてみた。確かにひどい有様だった。上下はパジャマのままだし、靴も履いていない。おまけにぬかるみを走ってきたせいでズボンと足は泥まみれだった。

「とりあえず足だけ洗わせてもらおうかな」

「遠慮してるつもり?」チェシャ猫は靴を脱いですでに廊下に上がっていた。「汚いし、汗だくだし、何よりその恰好のままいるとここの住人に研究所の被験者じゃないってことがばれちゃうよ?」

やっぱり嘘だとわかっていたのか、とアキは思った。いやもはやこの子は自分が何者であるかをまるで完全に把握しているようだった。問題は、どこまで把握しているのかということと、この子が自分の味方なのか、ということだった。

 一方のチェシャ猫はおかまいなしの調子で、

「人間実験の被験者はそんなパジャマみたいな服着ないよ…ほら、タオル貸すからなるべく床が汚れないように歩いて来て」とだけ言ってぺたぺたと先を歩いていった。


 温かくきれいなお湯がアキの身体を伝い、茶色の濁流となって排水溝へと吸い込まれていく。清潔なシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐり、アキは朝以来続いていた緊張が少しずつほぐれていくのを感じた。

「あなた運が良かったね」チェシャ猫の声がバスタブと洗面台を仕切るカーテン越しに聞こえてきた。「住人のうち二人は外出、もう二人はもう寝ているところだから」

「もう寝ている?」アキはカーテンの向こう側に女の子がいることに若干の抵抗を感じながらも、水の音に負けないように声を少し張り上げた。「まだ朝の十時とかだよ」

「私たちは基本的に人の目につきたくないから、昼間に寝て夜行動するの」

 アキはシャンプーを洗い流しながらカーテンがきちんと閉まっているか再度確認した。

「今が、あなたたちにとっての夜十時っていったところ」

「生活リズムが大変なことになりそうだな」

「慣れれば問題ないよ。私は特に、夜でも目が利くし」

 アキは暗闇の中で不気味に光るチェシャ猫の瞳を思い出した。ふと、二人を仕切る一枚のカーテンがひどく無防備なものに感じて、アキは自分のやせ細った身体を見下ろした。

「ねえ、君の目ってサーモグラフィー機能とかはないよね、さすがに」

 不穏な沈黙が一瞬流れ、まさか、とチェシャ猫のやや大げさな声が浴室に響いた。

「…そろそろ出るから部屋から出てもらえる?」

 チェシャ猫が出たことを確認してから、アキはバスタブから引き上げた。着替えの服とタオルはいっしょにバスケットに入れて置いてあった。タオルの硬さに顔をしかめつつ、与えられた服を確認する。チェシャ猫の用意した服は古びたシャツ、少しサイズの大きいジーンズ、中年の男性が履きそうなパンツと靴下。文句を言える立場でもないのでありがたく身に着けた。少しちぐはぐな感じはしたが、この際走ることさえできれば問題ない。

 着替え終わると、チェシャ猫に声をかける前に、脱ぎ捨ててあるパジャマのポケットに手を突っ込んだ。手紙の感触に安堵しながら、何重にも折りたたんだその紙を取り出した。少なくともこれは、チェシャ猫に気づかれずに済んだようだった。

 しかし手紙を開こうとした瞬間、アキはぎょっとした。折り方が、違う。

アキは、他者より抜きんでて視覚情報の記憶力が良い。一目見た景色や画像は脳内に保存され、メモリデータのように再生することができる。アキの脳内では、今朝窓から逃げ出す直前の、手紙を折りたたむ瞬間の映像が再生され始めた。

 長方形の紙を二等分に折り、さらに同じ方向に二等分にして短冊状の形でポケットに突っ込む。答案用紙を封筒に入れてAIに提出するアキの、いつもの癖だった。しかしそれではポケットからはみ出してしまったため、縦方向に二回折りたたみ、小さくしてポケットにしまった。

 一方、今開いたときには、折り目こそ同じだが、全て縦と横交互に、二等分ずつに折りこまれていた。読まれたのだ、チェシャ猫に。

「アキ、まだ? 服のサイズが合わない?」

 ドア越しにチェシャ猫の声がして、アキは慌てて立ち上がった。

「いや、大丈夫。トイレしてるだけ」

 アキは念のためにもう一度手紙に目を通し、記憶していることを確認してからトイレに捨てて水を流した。チェシャ猫には読まれたかもしれないが、これ以上他人に知られることだけは防ぎたかった。頼れる人がだれかわからない今、情報はなるだけ他人に与えない方がいい気がした。


 脱いだ服と濡れたタオルを持って部屋を出ると、チェシャ猫が眠そうにあくびをしながら立っていた。所在なさげにブランケットをいじっていた彼女は顔を上げ、一言「遅い」と言った。

「ごめん」

 アキは平静を装ったが、この女の子に対する警戒心は強まるばかりだった。そんなアキの態度に気づいているのか気づいていないのか、チェシャ猫はふいっと踵を返すと、「案内するよ」とだけ言ってすたすたと歩き始めた。アキは少し間隔を空けてついていった。

 それにしても不思議な隠れ家だった。考えてみれば地下だから当たり前なのだが、窓が一つもないことがアキを妙に落ち着かなくさせた。廊下はコの字に曲がり、その外縁に不規則に部屋が並んでいる。まるで、アリの巣のようだった。曲がりくねった廊下を抜けると、ソファやダイニングテーブルの置かれた円形の部屋が現れる。暖かい照明に包まれた優しい雰囲気の部屋だった。奥の方にはキッチンも見えた。部屋の角は吹き抜けになっており、隠れ家全体を貫くようにらせん階段が上下の階をつないでいた。

 部屋に入ると、壁沿いにそびえ立つ本棚とその蔵書の膨大な量が、アキを圧倒した。ざっと見るだけで数千冊の本があるように見える。よく見てみると、古めかしい辞典から、色とりどりの絵本まで、多種多様な本が収められていた。

 チェシャ猫は部屋に入るとすぐに天井からぶら下がっているボードに歩み寄った。ボードには五つ名前が書かれており、それぞれの下には「在」「不在」と裏表に書かれた札が紐に通されてぶら下がっている。チェシャ猫は自分の名前の下の札をひっくり返し「在」にした。

「この隠れ家は四階建て構造で、ここが地下二階。さっきの階段で二階分降りてきたことになる。この階は共有スペースで、食事とかシャワーとかはこの階で済ませて。地下一階が男部屋、地下三階が女部屋で、地下四階には道場がある」

「道場?」アキは聞き間違えに違いないと思いながら聞き返した。

「そう、意外と広いんだよ、ここ」チェシャ猫はこともなげに返してソファに身を下ろした。「そこの階段を上るともう一つの出口がある。普段みんなが使う方ね。酒場の倉庫につながっていて、路地裏に出られる」

「これ、君たちが全部作ったの?」

「ううん。前の住人が三十年くらい前に作った場所に、お邪魔しているだけ。ここはかつて、青年革命家たちの隠れ家だった」

 シャワーを浴びてすっきりしたせいか、アキの頭は再び疑問で渦巻いていた。何から聞こうか考えていると、チェシャ猫がぽんぽんと隣のクッションを叩いて座るように促した。アキは黙って従った。

「まず」アキはなるべくゆっくり落ち着いて話した。「君は何者なのさ。どうして僕をここに連れてきたの」

 チェシャ猫は楽しくて仕方がないというようにアキを見つめた。

「私は、チェシャ猫」

「それはもう聞いた」アキはチェシャ猫を睨みつけた。

「そんな怖い顔しないで」チェシャ猫はにっと笑った。「私はあなたの父親、宮川夏雄が、三崎工業巣鴨研究所の研究所長だということを知ってる。あなたが自分に関して書かれた手紙を読み、研究所から逃げてきたのであろうことも知ってる。三崎工業から技術提供を受けている軍と警察が、あなたを探しているであろうことも想像できる。だから、ここにかくまってあげようと思っただけ」

「へえ? でもそれだけじゃないだろ?」アキは苛立ちをなるべく出さないようにしたが、水色の瞳のチェシャ猫の前ではどうも無防備に感じた。やはり手紙を読まれていたか。ここまで多くの情報を把握されていることに、動揺を隠せなかった。「君にとって、僕を匿うことによって得る利益は?」

 チェシャ猫は少し考え込むようにしばらくブランケットをいじっていた。再び話し始めたとき、彼女の口調から楽しさは消えていた。取って代わって、不思議な熱が言葉ににじんだ。その変化は、彼女の瞳の色が変わるように、素早く明確なものだった。

「あなた、自分の父親が研究所で何をしていたか知らないの?」

 アキは首を振った。

「被験者が、たくさんいたのは知ってる…その人たちが、よく逃走しようとしているところも見たことある。でも父親は、被験者たちは気が狂っていて、手術で治さなきゃいけない人たちだって言ってた」

「彼が本当にやってたこと、教えてあげようか?」チェシャ猫は自分の瞳を指さした。瞳が燃えるような赤色に変わり、アキは息を飲んだ。「人間兵器、サイボーグ、新人類―呼称は色々あるけれど、軍が使用している通称名は、『(こう)(けつ)部隊』。この同盟の名前の由来だけど。地上戦で使う特殊部隊として考案された、極秘の軍事研究なのさ」

 アキは乾いた唇を舌でなぞった。自分がしたことではないのに、なぜか自分が糾弾されているような気がしてきていた。

「政府はそのために、莫大な資金をつぎ込んで技術開発を民間企業に委託してた」チェシャ猫はアキから目を離した。瞳がすっと黒色に戻った。「ここの隠れ家に住む五人は全員、五年前、巣鴨研究所から脱走してきた元被験者。政府は今でも私たちを血眼で探してるよ。だからこんな陽の光の届かない地下で、こっそりと暮らさなきゃいけないの」

 怒りの熱を帯びていたチェシャ猫の声が、朝露に濡れた草花のようにしおれていった。

「だからあなた、脱走した被験者だ、って言って良かったよ。研究所長、宮川夏雄の息子だってばれたら匿ってもらえるどころじゃなかったから」

「君がなんだか言ってほしくないような顔していたから…でも、どうして君は僕を匿うの?」アキはなおさら混乱していた。「息子の僕が憎くないの?」

「宮川夏雄は憎いけど、あなたは利用価値が高い」チェシャ猫の口が少しだけにっと笑った。「ここの住人は、報復なんて考えてない。軍から隠れて陰でこっそり生きていれば満足なんだって―信じられる? 私は嫌だ。いつまでもこそこそと隠れて暮らす、やられっぱなしの人生なんて。だから、復讐しに行くの」

 チェシャ猫の口は固く一文字に結ばれていた。アキに話しているというよりは、自分に言い聞かせているようでもあった。

「あなたがいれば、研究所への侵入が楽でしょう? 対してあなたは、長年自分を裏切り続けていた父親に復讐できる。私たち、利得が一致しているじゃない」

 チェシャ猫はアキの方へ身体を乗り出し、小指を突き出した。頬が興奮で上気していた。

「どう? 秘密同盟組まない?」

 アキは動揺した。

「復讐、って具体的にどういうこと?」

チェシャ猫の黒色の瞳が無機質に光を反射した。

「宮川夏雄を、殺す」

 アキは、頭を鈍器で殴られるような衝撃を覚えた。殺す、という言葉がナイフのようにするりと耳に差し込まれた気がした。

「憎いでしょ? 父親が」チェシャ猫の顔が近づいて、耳元でささやいた。ほとんど、嘆願しているようでもあった。「あなたを騙して、人を軍事利用という名目で弄んで…この世から消されるべき人間だと思わない?」

 細くて小さい小指が、もの欲しそうにアキに近づいた。

 アキは頭を冷静にして、物理の問題を解くように素早く計算した。チェシャ猫の計画はそもそも無謀に聞こえた―研究所の施設に侵入するだけでも難しいだろうに、その上所長である父親を暗殺するなど子供二人で到底できることではない。一方で、自分の交渉カードは多くないし、この場所や、チェシャ猫に関してもまだわからないことが多すぎる。他の住人が自分にどのような態度をとるかもわからない。ここではチェシャ猫に頼らざるを得ない。選択肢は一つしかないように思えた。アキは、腹をくくった。

「締結」

 アキは手を差し出して、小指を絡めた。指切りをするのなんて初めてだ、とぼんやり思いながら。


 みんな七時くらいまで寝ているからご飯の時間になったら起こしに行くね、とチェシャ猫は言って、地下一階の空き部屋にアキを連れて行き、そのまますぐに自室に寝に行ってしまった。

 連れてこられた部屋は研究施設の時のように四角形ではなく、アリの巣の一室のように角や天井が丸まっていた。アキは教科書で見た原始人の洞窟を思い出した。部屋にはベッドと椅子が一つずつ置いてあるだけで、しばらく誰にも使われていないようだった。同じ階の部屋からは、住民の一人の地響きのようないびきが聞こえてきた。アキはいまだ知らない住人たちのことを考え、憂鬱な気分になった。

 時間的にまだ寝られないと思っていたが、明かりを消してベッドに横たわると疲れが波のように押し寄せてきて、無理に抵抗することなくアキは目を閉じた。寝落ちる直前に、ごちゃごちゃとした混乱している頭の中を整理しようとしたが、チェシャ猫の瞳が現れては消えるだけだった。その瞳が何色か確かめようとしたときには、すでに底なしの闇に引きずり込まれていた。


  

四 血と鋼の同盟


「アキ…アキ」

 誰かがアキの肩を揺さぶっていた。目を開けると、廊下から差す淡い光の中、チェシャ猫がベッド脇に立っているのが見えた。

「アキ、ご飯だよ。準備して」

 アキは起き上がると、うす暗闇の中でまだ慣れない丸形の部屋を見渡した。霧が晴れるように頭は次第に明瞭になっていったが、同時に自分の現在の状況が思い出されて、心が重くなった。チェシャ猫に促されるまま起き上がり、部屋を出た。足にはまだ今朝の疲労が残っていた。

「いい? 住人には研究施設から逃げ出してきた被験者だということ、スラムの孤児院から施設に受け渡されたこと、施術前に隙をついて逃げてきたこと、通りがかりの私にたまたま会って連れてきてもらったこと、それだけ話せばいいからね?」

 チェシャ猫は廊下を歩きながら声を抑えて早口で言った。アキはただ黙ってうなずいた。

「それと、何をしてでも気に入られること―変わった人が多いから」

突如不安な気持ちに襲われたアキを引っ張るようにして、チェシャ猫はらせん階段を降りていった。


 楕円形のテーブルにはすでに人が集まり、食事も揃っていた。スパム肉にほうれん草のバター炒め、こんがりと焼かれたトースト、赤いリンゴがまるまる一個。これが朝ごはんか、とアキは今更ながら気づいた。時計の針は六時を示していた。隠れ家に窓はないが、今頃外は夕暮れ時のはずだ。階段を降りながらボードを見ると、掛かっている五つの札が全て「在」にひっくり返されていた。

 チェシャ猫とアキが降りてくると、話し声が止まり、一斉にアキに注目が集まった。沈黙の中、二人は残された二つの椅子に並んで座った。アキの座った三脚の椅子は、一つ足りない分を埋め合わせるために上階の酒場から持ってきたもののようだった。沈黙に気まずさを感じながらテーブルを見渡した。四つの知らない顔が、アキをじっと見返した。

「それで、この小僧は何者だ」

 最初に口を開いたのはテーブルの一番端に座っている、初老の男だった。男は、アキが本でしか見たことがないような古めかしい着物を着ており、四人の中では一番年長に見えた。色黒の険しい顔と、白いものが混じった髪と髭は、長年風雨にさらされてきた樹木を連想させた。ただでさえ険しい顔が、見知らぬアキを目の前にしてさらに厳めしく眉間にしわを寄せた。

「この人が、玄さん」チェシャ猫はアキに早口に言ってから、再び玄さんの方へ顔を向けた。「玄さん、この子はアキ。私たちと同じ、巣鴨研究所から脱走してきた被験者で、隠れる場所が必要なの」

「巣鴨研究所からの脱走者?」

 声を上げたのは、やせた小柄の中年男だった。アキの顔を覗き込みながら無精髭に覆われた顎をぽりぽりとかく。

「そんなほいほい脱走者が出るなんて、軍も地に堕ちたな」

「この人は車掌さん」アキの視線にチェシャ猫は慌てて答えた。「なんで車掌さんって呼ばれているかと言うと…」

 突如象の鳴き声のような大声が、チェシャ猫の声をかき消した。声の主は、チェシャ猫の隣に座る、巨大な体をした何か、だった。何か、というのは、アキがそれを人間かどうか確信が持てなかったからだ。

 それは、人間の形をしていたが、座っていてもアキの身長をゆうに超え、肩幅はアキの三倍ほどあった。ごつごつとしたジャガイモのような頭部には針のような短い髪が生え、顔は奇妙に歪み形が崩れていた。鼻は曲がり、目の形と大きさが、左右で異なっていた。

「暴坊が早く飯を食いたいとお怒りだ」玄さんと呼ばれた男は初めて口の端を曲げて笑い、フォークを手にとった。「ひとまず、食べるとしようか。いただきます」

 五つのいただきますと巨体男の「うあぁー」が響き、かちゃかちゃと食器が動いた。アキの前にも水の入ったコップが差し出され、喉の渇きに気づいたアキは、それを一気に飲み干した。

「彼は、暴坊っていって」チェシャ猫がトーストをほおばりながら説明を続けた。「少し暴れん坊で、その…あまり言葉は通じないけど、ちゃんと親切に接すれば仲良くなれると思う」

 アキは疑わしい目で暴坊を見やった。一人だけ山盛りのトーストを皿に載せた暴坊は、わずか数口ですべてを食べ終えると、アキの方を向いて「うーっ」と低くうなった。一瞬その表情に怒りのようなものを感じた気がして、アキはどきっとした。

「説明が終わっとらんぞ」玄さんの低い声で、アキは我に返った。「おまえさんはどういう経緯でここに来たか、きっちり自分の口で説明せんか」

 アキはフォークを置いて、唇を舌で舐めた。

「僕は数か月前に三崎工業に被験者として、とある孤児院から身を移されました」住人の注意深い目を感じながらアキは言葉を選んだ。「そこで、手術を受けて実験台にされると聞いたため、怖くて逃げだしてきました」

「どうやって逃げてきた?」

車掌と呼ばれた男がじろじろアキを見ながら聞いた。

「三号館三階のトイレの窓から身を投げました」アキは頭の中で施設の地図を開きながら慎重に答えを紡いだ。父親の「実験場」が主に三号館だったことを思い出していた。入ったことはないが、外観と構内図から想像はできる。「一番警備が手薄な裏門に近くて、下に植え込みがあるから落ちても最悪骨折程度で済むと思いました。そのトイレの近くに行ったとき、どうしても小便をしたいと言いました。そこで小便をするふりをして、監視が油断している隙に、窓から飛び降りて逃げました。ちょうど構内から出るトラックがあったので、その陰に隠れて裏門を抜けて、スラム街まで逃げてきました。それが昨日の夜で、裏路地で隠れて一夜を過ごして、どうしようかと思っていたら今朝チェシャ猫と出会ったのです」

 自分でも驚くほどすらすらと言葉が出てきた。ちらりとチェシャ猫を見ると感心したような顔をしていた。他の住人もアキの自然な説明に、つけ入る隙を探すも見つからない、というように押し黙った。暴坊だけが、一人物足りなさそうに呻きながらチェシャ猫の肩を太い人差し指で突っつき、食べ物のおかわりを催促していた。

「仮にこの子がスパイだったとして、この隠れ家に入れてしまった時点でおしまい。だから、議論は不毛」

 一人だけ話していなかった、最後の住人が口を開いた。発言者は、冷たい美しさを纏った若い女性だった。ショートの髪だけでなく、すらりとした身を覆う服もすべて黒色で、色白の肌が余計際立っていた。アキと目が合うと、彼女はにこりともせず感情のない冷たい目で見つめ返すだけだった。

「クロ」とチェシャ猫が簡潔に紹介した。まるで自明であるかのように。

「でも、三号館の説明は合ってるし、何より私が保証する―彼は嘘をついてないよ」

 チェシャ猫はそう言って自分の水色の瞳を指さした。

「あなたを信じるとしたら、ね」クロが乾いた調子で答えた。暴坊が怒ったようにうなり声をあげた。

「落ち着いて暴坊、大丈夫だから」

 チェシャ猫は慌てて自分の分のトーストを暴坊の口に詰め込んだ。暴坊は満足したようにうなると、椅子にふんぞり返って机を叩き始めた。

「俺は、ここにいる全員を信じている」玄さんがスパムにフォークを突き刺し、クロに向けて眉を吊り上げながら言った。「だから坊主―アキ。チェシャ猫がそこまで言うなら、俺はお前さんを信じる」

 アキはフォークをずっと机に置いたままだった。暴坊が机を叩くたびにフォークが小さく跳ねた。なんだか、とても申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。ここの住人にはそれぞれの生活があり、苦労もあるだろうに、自分は嘘をついてまでここに居座ろうとしていた。彼らにとって自分は、邪魔者でしかないのだ。

 それでもチェシャ猫の視線を感じて、アキは無理やり笑顔を作った。玄さんがテーブルの向こうから手を差し伸べてきて、アキもそれに応じて手を差し出した。玄さんの手は思いのほか温かかった。

「ようこそ、血と鋼の同盟へ」

 握手を交わし、アキは正式に隠れ家の住人となった。


「ここ数か月は、基本的にチェシャ猫と行動してもらう」食事が終わり、各々皿を片付ける間玄さんがアキに話しかけた。「外出時は特に二人でいなければだめだ。食器洗い、洗濯、掃除、食事作り、ゴミ出しは週替わりの当番制。食事は午後六時と午前六時の二回、シャワーは節水のため一日一回。入り口の指紋認証と、そこの確認札はチェシャ猫にやってもらえ。節水、節食、節電は絶対だ。ただ、リンゴだけは文字通り腐るほど本部から送られてくるから、好きなだけ食べていい」

「わかりました」

 本部という言葉に引っかかりながらも、アキは感謝の念を込めて頭を下げた。玄さんがこつんと拳で頭に当てる。

「そして、クロに少し護衛術を教わることだな―治安の悪いスラムじゃ、自分の身は自分で守る必要がある。お前はどうも色白でひょろりとしていて頼りない」

「まだ外回りには遣わさないってことですか、玄さん」通り際に車掌が口をはさんだ。「この坊主がどれくらい使えるかどうかはまだわかんないですけど」

「外回りは様子を見てからだ」玄さんは着物の緑色の帯を指でいじりながら答えた。「本部には、住人が一人増えたことを伝えなければいけない。今度行くときに伝えておいてくれないか、車掌?」

「お安い御用ですよ―ひとまず我々は外回りに行ってきます」

車掌はひょうひょうと答えると、アキに向けてにやりとしてから、上階へ消えていった。無口なクロも、足音を一つたてずに階段を上っていった。

「気をつけて」

チェシャ猫が二人に向かって言った。

「どこへ行くの?」

何もわからないでいたアキはもどかしい思いでチェシャ猫に聞いた。

「外回りっていって、都心部に情報を集めにいくの」二人がらせん階段を上階へと消えていくのを眺めながらチェシャ猫は答えた。「政府と軍の動向や、街の人々の様子を、地方に住む同盟の代表に報告書として渡して、引き換えに私たちは食料、水、そして資金をもらうっていう仕組み」

 アキは少し納得した。どうしてこのような政府の目と鼻の先のような場所に拠点を置いているのか、不思議に思っていたところだった。

「その代表っていうのは…?」

「かつての青年革命隊の数少ない生き残りであり、俺の古くから知る男だ」玄さんが横からぶっきらぼうに口を挟んだ。「やつは三十年前の大粛清を生き残り、知識と技術のみで上手くやり繰りしてきた。資金だけは今も莫大に持っている」

「莫大な資金は持っているけど、お金の山に埋もれて動けないんだよね」チェシャ猫が皮肉をこめて言った。

 部屋の隅で暴坊が地響きのようなあくびをし、ソファに倒れ込んだ。ソファがみしっと危うげな音を立てた。

「致し方ないことだ」玄さんは髭をいじりながら椅子に腰かけた。「今の政府は強力な軍を所持しているし、強気な外交政策は世間でも人気が高い。情報を得て機会をうかがうのが、最良の手段だ」

「世間の人は、軍の人間兵器実験について知らないですよね?」アキは尋ねた。

 チェシャ猫と玄さんは二人とも首を横に振った。

「それなら、その事実を人々に広めれば現政府の人気も落ちて、人間実験も終わり、僕たちも自由になれるじゃないですか。さすがにこんなこと、自分たちの税金で行われているって知ったら国民も黙っていないでしょ」

「そう簡単にはいかんよ」玄さんが少し悲しそうに微笑んだ。「主要メディアには政府の息がかかっているし、ネットの情報は常に監視されとる。不十分な体制で情報戦に持ち込んでも、逆にこっちの足がついて全員とっ捕まえられて終わりさ。必要なのは、忍耐だ」

 チェシャ猫は不服そうな顔をしたが、言葉を飲むようにして横で頷いた。

「そうね…さ、指紋の登録とか、キッチンの使い方とか、教えることがたくさんあるから行こ」

 そういってチェシャ猫はアキの腕を引っ張った。

「今日は新参者の加入祝いもかねて、少し派手に宴でも開くとしよう。ベラから、酒を数本もらってきてくれ」

 玄さんはそういうと立ち上がり、着物の裾を翻して階段へ向かって行った。

「暴坊も来る?」

 チェシャ猫が呼びかけると、暴坊は嬉しそうな声を上げてソファから立ち上がった。頭が天井をかすった。アキと目が合うと、暴坊は不機嫌そうにうなった。

「あら、暴坊に嫌われてるの?」

「そうみたい」アキは不均衡な暴坊の顔を見つめながら答えた。目の形は不格好だが、その瞳は誰かのものに似ている気がした。

「とりあえず指紋の登録とアキ用の確認札を用意して、各部屋の案内だけしたら、三人で星を見に行こう」チェシャ猫は楽しそうに言いながら、瞳の色をぐるぐると変えた。アキがとりあえずは上手く同盟に溶け込めたことを喜んでいるに違いない。「いい場所があるの。そして帰りに、ベラにお酒をもらえに行けばいい」

 

五 (つく)夜烏(よがらす)の丘


 やるべきことをすべて終わらせると、チェシャ猫、アキ、暴坊の三人はらせん階段へ向かった。階段を二階分上ると、酒場の厨房から降りてきたときと同じような鉄製の扉が現れた。

「これ、履きな」チェシャ猫がアキにサンダルを差し出した。アキは礼を言って、ややサイズの大きいそのサンダルに足を入れた。「今度服と靴を一式買ってあげなきゃいけないね」

チェシャ猫がパネルに指を押し付けると、扉は静かに開いた。アキはチェシャ猫に続いて酒場の小さな倉庫に足を踏み入れた。

 チェシャ猫が手を叩くと小さな裸電球が灯り、その光の中で山積みにされた缶詰や酒瓶が確認できた。暴坊が頭をぶつけながらアキに続いて扉をくぐると、扉は静かに閉まり、見事に壁と同化した。 

「入りたいときはこのパネルに指を押し付けて」

 アキはチェシャ猫が指をさした場所に顔を近づけた。そこには小さな透明のパネルがかすかに光を反射していた。言われなければ全く気づかなかっただろう。

 倉庫は小さく、振り向くとすぐに次の扉があった。こちらは普通のドアノブのついた扉だった。チェシャ猫がのぞき穴らしきものから外を確認すると、アキと暴坊に向かって無言で手招きをし、ドアノブを回した。

 チェシャ猫が扉を開けると涼しい新鮮な風が吹き込んできた。アキは夜の空気に吸い寄せられるように扉をすり抜け、外に出た。

 降り立った場所は薄暗い小さな路地だった。五月の夜風が名前も知らない花の香りをアキにそっと差し出した。空を仰ぐと、真っ黒なボール紙にくりぬいたような満月と、砂のように散りばめられた幾千の星々が見えた。アキは思わずその光景に見惚れてしまった。都心ではここまで多くの星を見ることができない。

「今から、星を見るのにうってつけの場所に連れて行ってあげる」

 視線を地上に戻すと、琥珀色の瞳を輝かせたチェシャ猫の顔が色白く暗闇に浮かんでいた。背後で暴坊が苦労しながら巨体を扉から押し出し、なにやらぶつぶつ言いながら扉を閉める。チェシャ猫は片方の手でアキの手を、もう片方の手で暴坊の手を握り歩き始めた。一行は夜のスラムを静かに歩き進んでいく。


 夜の暗闇がアキの感覚を研ぎ澄まし、妙に落ち着かなくさせた。人気のない道では些細な音や物陰が足音に聞こえたり人影に見えたりする。夜風は涼しかったが、アキは変な汗をかいていた。

「大丈夫だよ」アキの心を読むかのようにチェシャ猫がささやいた。「世界屈指の目と、人類最強の用心棒があなたにはついているから」

 アキが暴坊を見上げると、暴坊はサンドバッグを見るような目でアキを見返したが、チェシャ猫が「ねえ」と確認すると奇妙な表情を作って「うぁ」と言って肩を揺らした。どうやら、笑っているらしかった。

「暴坊は私だけには甘いの」

 チェシャ猫がアキに耳打ちをした。その嬉しそうな声を聞いてアキはなぜか軽く苛立ったが、次の瞬間、数メートル先の建物の角から物音がしてチェシャ猫の手をぎゅっと握りしめた。

「大丈夫、ただのドブネズミだよ」


 アキの心配をよそに、特に人と遭遇することもなく三人は目的地に着いた。着いた瞬間、どうしてチェシャ猫が「星を見るにうってつけ」と言ったのかをアキは理解した。

 連れてこられた場所は街灯の明かりすらもない、スラムから少し離れた小高い丘だった。芝生と数えきれない野花が丘を覆い、風の中で優しく波を立てていた。月明かりのみに照らされたその丘は、優しく穏やかな表情をしていた。

「月夜烏の丘って言う名前で」アキと暴坊の手を離し、丘を先導して登り始めたチェシャ猫がささやいた。「ずっとずっと昔からある丘なんだよ」

 普段は行動の荒い暴坊でさえも、この場所では少し落ち着いているように見えた。三人は丘の頂上まで登ると、仰向けになって寝転がった。芝生は午前の雨で少し濡れていたが、アキは気にしなかった。一日前の自分に、夜の丘で寝転んで満天の星空を眺めることなど、想像できただろうか。そんなことは、月子さんのお話の中でしか想像したことがなかった。

「小さい頃よくここに家族で遊びに来たな」

 眠りにつくような声でチェシャ猫が言った。

 チェシャ猫にも家族がいるという、その単純な事実にアキは衝撃を受けた。いまその人たちはどこにいるのだろう。そもそも、どうしてチェシャ猫のような普通の女の子が、巣鴨研究所の実験体に採用されたのだろう。

 質問は胸の中で渦巻き口から溢れそうになったが、アキはすんでのことで堪えた。それは、チェシャ猫が聞いてほしくないだろうと直感的に判断したのと、今はただ目のまえに無限に広がる星空と沈黙に身を委ねたいと思ったからだった。

 チェシャ猫が指差してあれは何々という星、あれは何々という星座と話す間、アキは夜空一面に広がる光と闇の(ひだ)に安らかに身を預けた。背中の地面はしっとりと冷たく、たしかにそこにあるのに、宇宙空間をふわふわと浮遊するような不思議な感覚に襲われた。

 ふいに近くで、カラスが鳴いた。チェシャ猫の声が途絶え、アキは突然現実に戻った。壮大な音楽を、途中でぷつりと止められたような感覚だった。

「ここの丘は、カラスの住処として有名なの」チェシャ猫の黒色の瞳がアキを捉え、その瞳に映る星空をアキは見た。「スラムに住むカラスたちが、夜になるとここに帰ってくるんだ」

 アキは、今朝自分を施設から導き出したカラスのことを思い出さずにはいられなかった。そして同時に、チェシャ猫はそのカラスについては恐らく何も知らないのだろうということに気づいた。

「大丈夫、ここのカラスたちは、何もしなければ悪さはしないから」

 黒色の瞳のチェシャ猫は、アキの表情を正確に読み取ることなくただにっと笑った。チェシャ猫の隣では、暴坊がいびきをかき始めていた。

 アキは夜空に目を戻した。頭の中は冷静で、シナプスがぱちりぱちりとつながっていく。誰かが、自分を連れ出そうと考えて今朝施設にカラスを送りこんだ。そして偶然自分を見つけたチェシャ猫が自分を利用しようと考え、隠れ家に匿った。では、最初に自分を施設から引きずり出そうとした人間は今どこにいて、何を考えているのだろう?

 星空が遠のき、アキは頭の中で幾重にも折りたたんだ手紙を引っ張り出して開いた。大丈夫、文字は鮮明に覚えている。星空が消え、真っ白な紙に濃いインクで記された手紙の内容がアキの前に現れた。


 拝啓 親愛なる夏雄君

「クローン人間生成の実践的論理構築とメソッド化」、拝読させていただいた。同僚(正確には、今はもう部下だが)として、君の類まれな才能には脱帽するばかりだ。そして同時に、君の友達でいることを心の底から誇りに思う。研究者としてエリート街道を駆け上がりながらも、そして私の上司という立場になりながらも、私のような凡才に変わらず友として接してくれていることには感謝の念しかない。

 どうしてわざわざこのような手紙を書いているかというと、君に一つ忠告をしておきたかったからだ。それも、電子媒体に残らない形で。この忠告はたった一つの、根拠のない不安によるもので、その前提が間違っていれば、この手紙はそれ以上読まなくていい。鼻で笑って破り捨ててくれ。もし当たっていたら(そうでないことを切に祈るが)大学時代から懇意にしてきた一友人の助言として、ぜひ心に留めてほしい。

 私の推測、そして懸念はこうだ:君は、自らのクローンを作ろうと試みているのではないか。根拠はないし、間違っていたら申し訳ない。しかし君の論文を読んでいると、ただの学術的論文には見せないような、個人的な熱意、学術的興味を越えた想いが込められている気がしてならない。研究者として関心分野に興味を注ぐのは当然のことだが、私はそれ以上の、ある種の執着を行間から感じてしまった。

 先日君は、私たち夫婦が子供を授かったと報告した時、一瞬とても不思議な表情をした―それは羨望とも怒りともとれる表情だった。すぐに笑顔で隠したけれど、長年付き合ってきた私には見逃せなかった。そして君はこう言った。「生き物の原始的な喜びはつまるところ自らの遺伝子の継承にあるね」と。その時は君らしい、ひねくれた祝い方だと思ったものだが、後でふと気づいたんだ。君は多忙を理由に我々の結婚式にも来なかったし、エリート街道を突き進む上で女にも興味を示してこなかった。しかし、あの論文と、あの時の君の態度を思い出して、ふと怖くなってしまった。完璧主義者の君が望む理想の遺伝継承の形を、君自身が自分の遺伝子で実現しようとしているのではないか、と。

 ヒトクローンの生成は当然法律で禁じられているし、前例を作るのはあまりに危険だ。生まれてきた子の背負う宿命も考えなければいけない。最近軍の動きも活発になってきているし、どんな技術に援用されるか考えただけでもぞっとする。理論構築の範疇に留まる間は何も言わないが(もちろんそれですら慎重に扱わなければいけない)、もし本物のヒトクローン生成に走れば、残念ながら友として黙って見過ごすことはできない。どうか、もしそのようなことを微塵でも考えていたら、思いとどまってほしい。

 今まで書いたことが全て私の勝手な、間違った推察であれば、笑い飛ばしてこの手紙を捨ててくれ。今度飲みに行くときに酒の肴にでもしよう。

 この手紙は明日、研究所に出勤した際に手渡そうと思う。それでは。

   二一三二年九月二十二日 

敬具、山中風来

 

 アキは目を開けた。いつの間にか目を閉じていたみたいだった。白い手紙は消え、黒い布にトパーズを散りばめたような星空が再び広がった。地上では涼しい風が髪を撫で、芝生の上を駆けていった。

 アキには、母親の記憶がない。それは、父親が言っていたように幼い頃に亡くなったからではなかった。そもそも最初からいなかったのだ。

 二一三二年九月二十二日。アキは頭の中で手紙の日付を軽くなぞった。アキの誕生日は二一三二年九月四日だ。山中という男がこの手紙を書いた頃には、すでに父親のクローン―自分―が誕生していたことになる。おそらく、人類史上初のヒトクローンが。

 母親がいないのなら自分はどのようにしてこの世に産み落とされたのだろう。人工母体か。それとも、代理出産のように見ず知らずの女性が、分厚い札束と引き換えにお腹を痛めて産んでくれたのだろうか。

 施設にいるときは気づかなかったが、十五歳のアキは怖いほど父親に似ている。似ているどころか、唇の下のほくろ、目の形、歩き方までいっしょだった。まだ成長しきっていないためコピーは不完全ではあっただろうが、父親は自分の成長を見ながら、過去の自分に重ねていたに違いないとアキは思った。父親の完全なコピー。二号。どうりでチェシャ猫も、初対面の自分が巣鴨研究所から来たと一目で分かったわけだ。宮川夏雄の面影が、十五歳の自分にもすでに色濃く出ていたに違いない。

 身体中の細胞が運命にいくら逆らおうともがこうと、アキの五年後、十年後、二十年後の姿は決まっていて、アキもその姿をもう知っている。アキは、夜空が巨大な黒い塊となって目の前に迫りくる錯覚を覚えた。窒息しそうな息苦しさだった。

 アキの父親が十五年間、アキを施設の中に閉じ込めていたのも、周囲に自分の存在を隠し、管理された環境で育て上げようとしたからに違いなかった。父親にとってアキは、遺伝子を継承するための完璧な器であり、理想的な研究対象だったのだ。彼にとって自分は、それ以上でも、それ以下でもなかったのだろうか。

 しばらくして、アキはふと、右手に温もりを感じた。首を傾けると、チェシャ猫がそっと手を重ねていた。こちらを見る瞳は黒色で、何億年もの時をかけて地上に降り注いでいる星の光を、余すことなく映していた。

「大丈夫」チェシャ猫の手が優しくアキの右手をさすった。「私たちといれば大丈夫」

 どこかで、夜更かしをしているカラスが寂しく鳴いた。


六 暴坊


 しばらく星空を眺めてから、三人は丘を離れて帰途についた。月夜烏の丘では他の場所と時間の流れが違うようにアキには感じられた。気づけば夜空をまたいでいた満月だけが、時の経過を示していた。

「時事日報」

路地を歩いていると、チェシャ猫が足を止めて地面から紙束を拾い、しわを伸ばした。琥珀色に戻っていた瞳が、暗闇の中でいともたやすく文字を追った。

「なにそれ」

「政府公認の新聞」チェシャ猫は大雑把に目を通してから、アキに手渡した。「書いてあることが全部事実とは限らないけど、政府の考え方を知るいい材料になる」

アキは暗闇の中で目を凝らした。一面には「大陸の脅威 紛争諸島での緊張高まる」の見出しが、月明かりの下でかろうじて読み取ることができた。

「あなた、学校に行かないでお父さんに勉強教えてもらっていたんでしょ? 国際情勢に関してはなんて教わったの?」

「正確には、教育係のAIに教わってたんだけどね。強力すぎる核兵器の開発が核の抑止力を逆に弱体化させて、紛争地帯での普通兵器の使用が増加しているのが現状、日本もいくつか紛争地域を抱えていて軍事的拡張を図っている」

「案外まともに教わってるのね」

「養育係のAIがとてもまともだったからね」

アキは月子さんを思い出しながら言った。月子さんは勉強の話もたくさんしてくれたし、アキの考えが偏りすぎないように注意してくれた。彼女と二度と話せないかもしれないと考えると、アキは胸に何かがつかえるような気持ちがした。

「そう、世界は『紛争の時代』の真っただ中」チェシャ猫はアキから時事日報を受け取ると再び歩き始めた。「紛争地帯の実戦で勝つには何が必要かわかる、アキ?」

 アキは考えた。暴坊が暇そうにチェシャ猫を突っつき、チェシャ猫が転びそうになるのをぼんやりと眺めた。

「やっぱり優秀な軍隊かなあ」

「そう、正解」チェシャ猫が口元では笑いながらも暴坊を睨みつけて言った。「更に言えば地上部隊ね。空爆は拠点や軍事工場や拠点を潰す手段としては有効だけど、実効支配を得るためには、結局人間が現地に入らなければいけない。そのためには優秀な地上部隊が必要になってくる。紛争前は境界での臨戦態勢を構築する必要があったから、空母の時代だった。だけど紛争に発展した今は、地味で消耗の多い地上戦の時代になった」

「だから政府は人間兵器の開発に膨大な費用を注いでいるのか。紛争地域の制圧を目指して」

「そう。どれほど身体を機械化しても、心は変えられないのに。馬鹿だよなあ」

 アキはそのときようやく初めて、チェシャ猫に親しい感情が芽生えるのを感じた。実に理不尽で不可解なことだった。東京から遠く離れた紛争地を巡って、研究所は十代の少女を実験台にしていた。彼女にとって被検体として利用されていた期間は想像を絶する苦痛だったに違いない。それでも彼女は、こうして何事もないかのように、にっと笑っているのだ。

「チェシャ猫…」

 何を言おうとしていたかは決まっていなかったが、何かを言おうとアキは口を開いた。しかし、次の言葉を探る間もなく、辺りが暗闇に包まれた。雲が、満月を覆い隠したのだ。ほぼ同時にチェシャ猫が「伏せて!」と叫び、アキを地面に押し倒した。暴坊が素早く二人の上に覆いかぶさった。

 パン、パンと空気が弾け飛ぶような乾いた発砲音が静寂を破り、小さな路地は突然混乱に包まれた。アキに覆いかぶさっていたチェシャ猫が起き上がり、屈んだまま暴坊の名前を叫んだ。複数の男の声がしたが、暴坊の圧倒的な雄叫びにすべてがかき消された。アキも身体を起こそうとしたが、チェシャ猫が「伏せていて」と言って足でアキの肩を強く踏みつけた。

「二時に二人、八時に三人!」チェシャ猫が叫んだ。

 肉体がぶつかり合う鈍い音がし、もう一発、銃声が響いた。アキは首をもたげて必死に周りを見ようとしたが、すべては闇に包まれていた。チェシャ猫の荒い息遣いだけが、近くから聞こえてきた。

 騒ぎが始まったのと同じくらい唐突に、静寂が戻った。一筋の明るい光が現れた。チェシャ猫がポケットから懐中電灯を取り出して点けたのだ。

「暴坊、大丈夫?」

 低いうなり声がし、懐中電灯の眩い光線が暴坊を捉えた。アキは思わず息をのんだ。腕や顔が鮮やかでどす黒い赤色に染まっていた。

 続いてチェシャ猫はアキに懐中電灯を向けた。

「大丈夫? 立てる?」

 アキは頷きながら立ち上がろうとしたが、膝が力弱く折れ曲がって再び座り込んでしまった。

「慌てなくていいよ。これ以上仲間はいないはず」

「なんだったの?」アキは、まだ自分の心臓が激しく鼓動を打つのを感じていた。

「スラムの盗賊」

 チェシャ猫は簡潔に答えると、懐中電灯の光を路地の隅から隅へ走らせた。アキは危うく悲鳴を上げそうになった。

 五人の大柄な男たちが、血を流してぐったりと倒れていた。何人かは、頭から血を流し、一人は腕が変な方向へ折れ曲がっていた。男たちの傍らには、拳銃が転がっていた。チェシャ猫は男たちに歩み寄ると、懐中電灯をアキに渡し、慣れた手つきで上着やズボンのポケットを探り始めた。そして見つけたものを興味深そうに眺めてから、一つずつ袋に詰め込んでいった。拳銃も拾い上げ、安全装置を戻して同様に袋に放り込む。暴坊も、膨れ上がった目から垂れる血を何ともないかのように拭い、作業に加わった。アキはあっけにとられて二人を見守った。

「暴坊は大丈夫、銃弾数発受けただけじゃ死なないから―死なないどころか、痛くもかゆくもないんだ」

 アキは暴坊の歪んだ顔を眺めた。まるでスポーツの大会で優勝した子供のような、今までになく生き生きとした顔をしていた。アキは自分を救ってくれたはずのこの人間―いや本当に人間と呼んでいいのかさえ疑問に思えた―に対して強い恐怖心と蔑みの感情を抱いた。

「やるか、やられるかの世界なんだよ」アキの考えを読み取るかのように、チェシャ猫が厳しく言った。「スラムじゃ強盗殺人なんて当たり前だし、警察もわざわざ助けになんか来てくれない。こいつらは仕事道具と財産は失うけど、半日経てばぴんぴんしてるよ。それに引き換え、暴坊と私がいなかったらあなた今頃死んでるからね」

 袋を詰め終えると、チェシャ猫はこちらを向いた。懐中電灯の光の中で、チェシャ猫はまぶしそうに目を細めた。瞳が青く輝いた。

「あなたに暴坊の何がわかるっていうの? 暴坊の何を知ってそんな顔をしているの?」

 アキは言葉に詰まった。早く月明かりが戻ってくればいいのにと思った。懐中電灯の光は、くっきりと光と影を描き出し、あやふやなものをすべて世界から締め出していた。

 暴坊は何も言わず、楽しそうに鼻歌のようなものを口ずさみながら、無邪気な少年のように男たちの服をまさぐり続けていた。


 チェシャ猫の指示で、三人は残りの帰り道を懐中電灯なしで続けた。アキはチェシャ猫の手を握り、導かれるがまま闇の中を進んでいった。時たま現れる弱弱しい電灯が、すぐ隣でチェシャ猫の肩を掴んでいる暴坊のジャガイモのような頭を映し出し、ケチャップのようにこびりついた血が生々しく暗闇に映えた。アキはなにもおかしくないのに思わず鼻で笑いそうになった。

 アキはチェシャ猫がどうして宮川夏雄の暗殺計画に自信を持っているのか、ようやく理解した。暴坊の前では確かに、門番も鍵のかかった扉も意味をなさない。チェシャ猫の眼があれば夜中を狙って侵入することも容易に違いない。後は施設内を把握しているアキがいれば、存外無理な計画ではないのかもしれない。

 アキは暗闇の中を慎重に歩きながら、チェシャ猫の計画について思考を巡らせた。自分と全く同じ遺伝子を持つと知ってから、アキは父親の存在が妙に軽いものに感じてならなかった。嫌悪感だけが、じわりじわりと油染みのように自分の胸の内で広がっていた。ふと、アキはチェシャ猫が父親を殺そうとしていることに全く抵抗を感じていない自分に気づき、はっとした。

 父親のことはもともと好きではなかった。小さい頃から大してアキに構うことなく、しかしその割には自分の命令にアキが従うことを当然と考えた。写真立てに隠されていた手紙を読んだときに感じたショックは、一番に父親に裏切られたという気持ちによるもので、二番に母親が最初から存在していなかったという事実によるものだった。

 雲が分かれて、月明かりが再びスラムを照らした。アキは突然、激しく、月子さんに会いたいと感じた。父親が死のうが生きようが構わなかった。ただただ、月子さんに会って、慰めてもらいたいと感じた。

 チェシャ猫がアキの手を離した。三人はベラの酒場の前までやってきていた。

「月曜の朝四時まで飲み騒いでいるお気楽者がいるよ」

 窓から酒場を覗き込んだチェシャ猫が呆れたように言った。

「しょうがないから、お酒は厨房側の出口からこっそり受け取ろう」

 三人は裏路地の入口から倉庫に入りこみ、数分後にはらせん階段を下り、靴を持ったまま楕円の部屋を通り、反対側のらせん階段を上って酒場の厨房へと続くハッチにたどり着いた。

 チェシャ猫は慎重に、優しくハッチの扉をノックした。扉の向こうからは、酔っぱらった男たちの声が聞こえた。

「ベラさん、お酒が足りないよぅ」

「はいはい、今お酒をとってきますよ―でもそろそろお止めになった方がいいんじゃなくって?」

「まだ足りないなぁ、お酒もベラちゃんも」

 ベラの笑い声が聞こえ、同時にラッチが開いた。店内の明るい光と雑音が静かな階段に流れ込んできた。

 ベラが尋ねるように首をかしげ、チェシャ猫はお酒を飲む仕草をして指で数字の二を示した。ベラは離れるとすぐに二瓶のお酒を持ってきて、チェシャ猫の背後で待っていた暴坊に渡した。

「ベラちゃん、まだー?」

 酔った男の声が再び響き、ベラは「都会の軍人さんはお酒が強くて困りますねえー今行きますよ」と優しい声で答え、チェシャ猫たちに嘔吐するジェスチャーをしてから、ラッチの扉を閉めた。


「あなたを探しに来たんだ」

 階段を下り、楕円の部屋に着いてソファに座り込むなりチェシャ猫が言った。アキは、自分の札を「在」に裏返したところだった。

「都会の軍人?」アキはベラの言葉を聞いて不安を覚えてはいたが、強気に振舞おうとした。「まさか、飲みに来ただけでしょ」

「こんなスラム街にわざわざ飲みに来る都会の軍人なんていないよ」チェシャ猫は暗い声で言った。「ベラがわざわざ教えてくれたのは、あなたに気をつけるよう言いたかったから」

「でも、こんなに早く特定できる?」

「ここにいることは、ばれてないと思う。だけど、あなたがスラム街の方へ走っていくのは街の監視カメラに写ってるはずだし、少年一人でそう遠くに逃げられるはずもない」チェシャ猫は考え込むように、クッションを抱き込んだ。「アキ、あなたやっぱりしばらく外に出ない方がいいかもしれないね」

「そんな―」

 アキは抗議しようとしたが、チェシャ猫がナイフのような視線をよこして黙らせた。

「いくら夜と言っても、見られるときは見られるし、今日みたいに争いに巻き込まれることもあるの。作戦が成功するためにも、あなたには捕まってもらっちゃ困る」

 アキは歯ぎしりをした。怒りがふつふつと腹の底から湧いてくるのを感じた。

「ふざけるな!」気づくとアキは叫んでいた。冷蔵庫を漁っていた暴坊が顔を上げたが、気にしなかった。「この自分勝手女が。こっちの身にもなってみろ、突然自分がただの研究者のコピーだったってことを知らされて、望んでもいないのにこんな場所に連れてこられて! 君はまだいいさ、立派でおしゃれなおめめをつけてもらって、トロールみたいな怪物を相棒に―」

「誰が―誰がトロールみたいな怪物だって?」チェシャ猫が立ち上がった。怒りで肩が震え、瞳はコントロールを失ったように赤、紫、緑と次々に色を変えていった。暴坊が、腕に抱えていたリンゴの袋を落として二人に向かって行こうとしたが、チェシャ猫が腕を突き出して止めた。「言わせておけば! あんたなんか―」

 言葉を終える前にチェシャ猫がアキに飛びかかった。アキは避けようとしたが、チェシャ猫は完全にアキの動きを読んでいた。アキは足をすくわれ、気づくと床に組み伏せられていた。チェシャ猫の手が、爪が食い込むほど強くアキの首を押さえつけていた。

「撤回しろ」

 チェシャ猫の顔は怒りで歪み、開いた口からはつばが飛んでいた。アキは、チェシャ猫をさらに怒らせようと、わざと狂ったように笑ってみせた。暴坊は困惑したかのようにチェシャ猫の肩の上あたりから状況を覗き込んでいた。

「いいのか、大事な情報源を―利用価値の高い―研究者の卵―まあいくら腕が良くてもあいつの顔はどうにもならないだろうけど―」

 チェシャ猫の目がかっと見開き、顔が紅潮した。

「この―」

 チェシャ猫が拳を振り上げ、アキは打撃を予想しながらさらにヒステリックに笑って見せた。

「やめなさい」

 冷たく、感情のない声だった。

 アキの死角から白い手がぬっと伸び、チェシャ猫を引き離した。チェシャ猫は興奮の収まらぬ様子で抵抗しようとしたが、手の主が「チェシャ」と制すと、チェシャ猫はアキを睨みつけたまま数歩離れた。アキは床に手をつき、起き上がった。

 クロはたった今帰ったばかりのようだった。五月の中旬だというのに、黒いコートを羽織っている。同じく帰ってきたばかりの車掌も、階段の近くから興味深い出し物を見るかのように腕を組んで眺めていた。アキもチェシャ猫も言い争いに熱中して、二人が入ってきたことに気づいていなかった。

「信用されたいなら、大人になることを覚えること」クロはチェシャ猫に冷たく言い放った。

チェシャ猫は悔しそうに歯を食いしばったが、何も言わなかった。

「そしてあなたは―」クロは細長い指をアキに向けた。「すでに迷惑をかけていることを自覚して、慎んで行動すること。これ以上、私たちに迷惑をかけないで」

 アキは再び腹の底からふつふつと怒りが沸き上がるのを感じたが、クロの冷たい視線はどこか威圧的で、抗えない力があった。アキは仕方なく、せめてもの抵抗としてクロを睨みつけながら、「はい」とだけ言った。

 その後、アキとチェシャ猫は何事もなかったかのように夕食の準備を始めた。今週は、二人が当番だった。二人は最低限必要な会話しかせず、ジャガイモを手渡す時も目は合わせなかった。

 

 


 

 

 

七 玄さんの唄


「というわけで、宴だ」玄さんが自らの杯を掲げた。「新参者に乾杯!」

六つのワイングラスが音を立ててぶつかった。玄さん、車掌、クロの三人はワイン、アキ、チェシャ猫、暴坊の三人はリンゴジュースだった。

 玄さんは一口でグラスを飲み干すと、すぐに酒瓶から注ぎ、アキとチェシャ猫が用意したじゃがバタをはふはふと音を立てて屠り、ワインで飲み流した。暴坊がワインの瓶にそっと手を伸ばしたが、チェシャ猫がその手を厳しく振り払った。

「いいペースですね、親分」にやにやしながら、車掌がすかさず空いたグラスにワインを注ぎ足した。「クロももっといるか?」

「私は結構」クロはワインに口をつける程度で、もっぱら料理の方に集中していた。「それより、今夜は普段より軍人の巡回が多かったことが気になる」

 クロがアキを一瞥した。クロの横顔を不満げに眺めていたアキは、図らずとも目が合ってしまい、慌てて目を逸らした。

「貴重な実験体なんだ、そりゃあ捜索するだろう」玄さんがぶっきらぼうに言った。

「あと空の監視が増えていたな、なぜか」車掌が首をかしげながら付け足した。

 カラスを探しているのだ、とアキは思った。

「その話で思い出したけど、ベラの酒場にも軍人が来てたみたいだよ」チェシャ猫がハムとアスパラの炒め物から顔を上げて言った。アキとは依然として目を合わせようとしなかった。「彼をしばらく外に出さない方がいいかもしれない」

「坊主をしばらく本部に預かってもらうっていうのも手だな」

 発言したのはすでに顔の赤い車掌だった。素手でアスパラをつまみ上げ、口に放り入れる。

「どうせ俺は半年に一回の報告で行かなきゃいけない。坊主はいっしょに行って、ほとぼりが冷めるまで向こうに隠れていればいい。坊主もこの地下に閉じこもっているより、本部でのびのびと休んでいた方がいいだろう」

「本部って?」アキはチェシャ猫と目が合わないように気をつけながら聞いた。

「今朝話した、我々の代表が隠れている場所だ」玄さんは淡々と答えた。「彼は情報と引き換えに、我々に資金を提供してくれている」

「あんな山奥でこそこそ過ごすなんて、かつての青年革命隊員が聞いて呆れる」

 チェシャ猫が反抗的に口を挟んだ。

「また始まったぞ」車掌が楽しそうにくっくっと笑った。「次はどこの爆破計画を考えているんだ、チェシャ?」

 暴坊が陽気そうに意味の分からない言葉を発したが、クロと玄さんは無表情だった。

「車掌の言うことも一理ある」玄さんはグラスのワインを仰いで、中身を注ぎ足した。「わかった、申し訳ないがアキにはしばらく向こうにいてもらおう。いいかな、アキ?」

 アキはまた別のところへ行かなければいけないのかと思うと気が滅入ったが、少なくともチェシャ猫からはしばらく離れられるということを意味した。北の山奥なら、隙を見て逃げ出すことも可能かもしれない。さらに警察や軍の監視が少ない地方だったら、逃げた後もこっそり一人で暮らしていけるかもしれない。これ以上安全に東京から抜け出す方法もそうそうないに違いない、とアキは踏んだ。

 一瞬の内に考えをまとめると、アキは頷いた。

「わかりました…連れて行ってください、本部のある場所へ」


 夜が明けても、宴は続いた。早々に酔った車掌はつまらない冗談を飛ばしてどうにかクロを笑わせようとしていたが、ことごとく失敗していた。ワインを浴びるように飲んでいた玄さんはようやく顔が朗らかに赤みを帯び始め、懐からハーモニカを取り出すと陽気に吹き始めた。優しく温かい音色だった。お酒は飲んでいないのに場酔いしたのか、暴坊は無邪気な様子で手当たり次第に物を叩き始め、アキはそっと椅子を遠ざけた。チェシャ猫は、依然としてアキには話しかけないままだったが、暴坊の口元をタオルで拭きながら楽しそうな様子で玄さんのハーモニカに耳を傾けていた。アキも、椅子に深く腰掛けながら、音色に身をゆだねた。

「俺たちがどうやって研究所から逃げおおせたか聞きたいか、アキ」

 数曲吹いた後、玄さんがハーモニカをことりと机に置いて聞いた。心地よく酔っているようだった。着物の懐が緩み、年齢の割には引き締まった上半身がのぞいた。住人の逃走劇について気になっていたアキは、勢いよく頷いた。玄さんは満足そうにワインを煽ると、朗らかに語り始めた。

「あれは五年前、霧雨の降る冷たい秋の朝だった。施術が終わって以来、様々な検査や実験を受けた俺たち五人は、ついに実践的な訓練のため富士山麓にある自衛軍の基地に連れていかれることになった。早朝からたたき起こされた俺たちは手錠を付けられトラックに押し込まれた。暴坊、チェシャ猫、クロ、車掌、そして俺の五人だった。その時はまだお互いほとんど話していなかった。仲が良かったのは暴坊とチェシャ猫くらいだったな。全員が絶望を通り越して生きる気力もなかった。他の被験者と話す元気なんて、なかった。

 トラックは定刻に出発し、順調に都心を抜けた―トラックには窓がなかったが、スラム街に入ると道路が舗装されてないから容易にわかった。スラム街に入って月夜烏の丘を通り過ぎる頃に、異変は起きた…何だったと思う?」

 ここで玄さんは再びぐびりとお酒を煽り、手の甲で口を拭いた。前のめりになって話を聞いていたアキは、首を横に振った。

「カラスだよ。何十羽、何百羽ものカラスが、トラックを突然襲撃したのさ。俺たちはなにも見えなかったが、音だけでもそのすさまじさがわかった。幾多のカラスの鳴き声が重なって、悪魔の断末魔のように響き渡った。フロントガラスも、カラスの嵐で見られなくなっただろうな。そしてトラックが急停止すると、突然荷台の施錠が外れて扉が開いた。カラスたちが、鍵を奪い取って扉を開けたのだ」

 チェシャ猫と車掌が、まるで映画の一シーンを楽しむかのように、嬉しそうに声を上げた。

「全員疲れていたし、身体は強張っていたが、自由のためと思えば過酷な逃走の道中は屁でもなかった。俺たちはトラックから抜け出た。車掌がカラスに襲われている運転手から手錠の鍵を奪い取ると、全員の手錠を外した。俺たちは脇目も振らずに逃げた」

「そして…ここにたどり着いたの?」

「俺はかつて青年革命隊の一員だった。足で逃げられる距離が限られていたあの朝、とりあえずの隠れ家を考えたときに真っ先に思いついたのがここだった。三日三晩何も食わず、倉庫にあった非常用の水だけを飲んで、耐えた。四日目にチェシャ猫が高熱を出して、暴坊が取り乱して暴れ始めた。音に気づいたベラが食料を分けて介抱してくれていなかったら、今俺たちはここにはいない。ベラはかつて、青年革命隊の一員だった恋人を、暴動で亡くしていた。俺は彼女が隠れ家の上階に住んでいるなど夢にも思っていなかったが、恋人の死以来、彼女はひっそりとこの酒場と、入り口を守り続けてくれていた」

「そして美味い酒も分けてくれる」

 車掌が陽気に口を挟んだ。

「そうだ、そして美味い酒を分けてくれる」

 玄さんも嬉しそうに笑うと、空になったグラスにお酒を注ぎ足し、一口で飲み干した。今度は口に付いたワインを拭おうともしなかった。

 玄さんは机に置いていたハーモニカをおもむろに手にとると、唇に当てた。旋律は少し悲しく、ビルから吹き下ろす冷たい風を思わせた。

 誰からともなく、手拍子が始まり、アキも手拍子に加わった。宴では定番の出し物であるようだった。旋律の悲しさに反し、テーブルを囲む住民の表情は陽気だった。

「かつての、青年革命隊の唄だ」車掌がアキに耳打ちした。「玄さんもかつて青年革命隊の一員だったからな…捕らえられて巣鴨研究所に送られるまでは」

 玄さんは何小節か吹くと、立ち上がって高らかに歌い始めた。その声は地響きのように野太くざらついていて、それでいて美しさを持っていた。


雨の音で目覚めた

わけもわからず駆けだした

花の色に惚れた

鳥の歌声に涙した


 チェシャ猫、車掌、クロが加わった。暴坊も、歌詞と旋律はでたらめではあるが、机を叩いて声を出した。アキも、気持ちが軽くなっていくのを感じて身体を揺らした。

 同時に、アキは不思議なことに気づいた。玄さんの声が拡声器を通しているかのように膨れていき、アルトからソプラノまで何人もの声が重なった分厚い声の集合体へ変わっていったのだ。さらに、トランペット、シンバル、バイオリンと異なる楽器の音色が加わった。まるで一つの声帯に、小さな音楽隊を有しているかのようだった。これが玄さんの能力なのか、とアキは気づいた。声を自由に操る能力。


(oh-oh-oh…)

世界の中で俺ら

一瞬の風だと知った

つむじ風になれば

台風に巻き込まれ消えた

(oh-oh-oh…)


 最後は玄さんが一人で歌い上げた。


俺たちは一陣の風

いつかまた何処かの地の果てで


 テーブルの周りでは拍手が起き、アキも加わった。「大将!」と車掌が叫び、指笛を吹いた。玄さんは嬉しそうににやりとすると、グラスを手にとり、高々と上げて叫んだ、

「血と鋼の同盟に幸あれ!」


八 クロの手ほどき


 夜もすっかり明けた頃に、宴会はようやく終わった。車掌、暴坊、玄さんが次々とソファに倒れ込み、そのまま眠り込んでしまった。寝落ちる前に、玄さんと車掌がアキの移動を一週間後の新月に合わせようと話し合っているのがアキには聞こえていた。しかし二人ともかなり酔っていて、玄さんは最後の方にはカエルやカラスの鳴きまねを繰り返していたため、どこまで信用していいのかは定かでなかった。

 気づくとテーブルにはチェシャ猫、アキ、クロのみが残っていた。チェシャ猫はこれに気づくと、気まずそうな様子で不自然に眼をこすり、わざとらしく「眠いなあ」などとつぶやきながら足早にらせん階段を降りて行った。残されたのはアキとクロだけだった。

 クロはボトルにわずかに残ったワインをグラスに注ぎ、ゆっくりと味わうように飲んでいた。アキは赤い液体がそのつややかな赤い唇に注がれていく様を何気なく眺めていた。白色の肌と、黒色のシャツがワインの赤を余計に際立てていた。先ほどチェシャ猫とのけんかを止められた怒りは静まり、代わりに好奇心がアキの胸の中で渦巻いていた。

 ふとクロがアキの方に目をやり、二人の視線がぶつかった。先ほど叱られたことを思い出してアキは狼狽したが、クロは少し酔っているのか、微笑みを浮かべてグラスを下ろした。アキがクロの笑顔を見るのは、これが初めてのことだった。白くて端正な顔が、微笑むと一気に親しみやすく可愛らしいものに変化した。頬に、ほんのり紅色がさしていた。

 クロは視線を外さないまま立ち上がってアキに手招きし、らせん階段へ向かって行った。アキは戸惑いながらも、ついていった。

 二人は階段を降りていく間、無言だった。アキは、クロのショートボブが軽やかに弾むのを眺めながら、なぜか心拍数が上がっていくのを感じていた。冷徹なクロも考えは読めなかったが、今のクロはさらに読みにくかった。クロが何をできるのか、まだわかっていないということにアキは気づき、さらに心拍数が上がる思いがした。

 ふと、階段の途中でクロが立ち止まり、振り返った。

「いま、鼓動がすごく高鳴っているでしょう」

 クロは白くて細い手を伸ばし、服の上からアキの胸にそっと掌をおいた。アキの心臓は、恥ずかしさと驚きで、今までの人生で恐らく最速の鼓動を刻んでいた。

「全部聞こえてしまうの」

 クロはアキの胸から手を離すと、髪をかき上げて、白くて美しい耳をあらわにした。アキは身体の芯が妙に熱くなるのを感じた。同時に、アキはクロの能力を悟った。人の鼓動をも拾う、人間離れした聴力。

 クロは微笑みを浮かべたままアキに背を向け、再び階段を降り始めた。アキは少しぼうっとしながら、後に続いた。

 階段を二階降りると、空間が開けて畳張りの大きな部屋が現れた。アキは、ここがチェシャ猫の言っていた道場だとすぐに分かった。クロが手を叩くと、道場に明かりが灯った。

「玄さんが、あなたに護身術を教えるように言うから」クロは依然として楽しげな様子で腕を組んだ。「少しお手合わせ願おうと思って」

 アキは慌てた。生まれてこのかた、武道など学んだことがなかった。けんかだって、今日チェシャ猫としたのが初めてだった。

「無理です」アキはクロの目を見ていった。「素人なんです」

「盗賊に襲われた時もそう言うの?」クロは淡々と言って、アキの方を向きながら間を取った。「どんな手を使ってもいい。私を組み伏してみな」

 戸惑っているアキを見てクロは再び微笑んだ。

「女性には手出しできない?」

「いや、そういうわけじゃ…」

「じゃあかかってきなさいよ」

 酔っているときのクロは何となくチェシャ猫に似てなくもないとアキは思った。と同時に、挑発されてためらっている自分が恥ずかしくも思えた。クロの方が慣れているとはいえ、相手は女性なのだ。アキは腹を括って、クロを頭の先からつま先まで眺めた。黒のシャツとスリムパンツ姿のクロは、のんびりと余裕そうに構えている。アキは足を屈めて体当たりした。

 体当たりしたつもりが、アキの肩が接触したものは畳だった。気づけばクロがアキの両手を背中に回し、アキは畳の上で組み伏されていた。チェシャ猫とのけんかがデジャヴのようによみがえった。

「これは、チェシャに負けてもしょうがないね」

アキには見えなかったが、クロの声は間違いなく楽しんでいた。ほのかに甘い香りが漂い、鼻腔をついた。背中の重みがなくなり、クロが両手を離すと、アキは素早く立ち上がった。今度は相手をよく見ながら、肩につかみかかるふりをして、再び足元を崩しにかかった。再びアキは失敗した。

 蹴っても、掴みかかっても、殴っても、押しても、アキはクロを組み伏せることができなかった。クロは途中から笑いながら目を閉じ、それでも悠然とアキの手や足をかわしてみせた。彼女の耳は、どんな小さな音も聞きつけ、アキの次の動きを暴いた。

 アキも黙ってやられるわけにはいかなかった。躍起になってありとあらゆる施策を試した。しかし、ついに一矢報いることはできなかった。

「残念、今日はこれでおしまい」

 何十回と連続でアキを組み伏せた後、クロは子供に遊びの終わりを告げるように言った。仰向けに組み伏せられていたアキの目に、黒髪が乱れ、わずかに頬の上気しているクロが映った。

「また今度、気が向いたら相手してあげる」

 クロはそう言って立ち上がった。甘い香りがふわりと宙に浮いた。何かの花のようで、ミントのような尖った匂いがわずかに含まれていた。壁に掛かった時計はすでに朝の八時を指していた。クロは眠そうに目をこすると、アキを待たずに階段を登っていった。

 残されたアキは、畳に座り込んで何気なく部屋を見回した。ふと、黒い何かが畳に落ちていることに気づいた。それは、最初部屋に入った時には間違いなくなかったものだった。アキは立ち上がると近寄って、それを拾い上げた。黒い羽根だった。その羽根は、黒の中に深い青みを湛えていた。


 宴会の夜から一週間、アキは忙しい日々を送った。雑用、護身術の練習、覚えること、やらねばならないことがいくらでもあった。また、施設で一通りの教育を受けてきたものの、スラム街の地理や慣習に関してアキは無知だった。これらは車掌、チェシャ猫、クロが交代で時間を見つけて教えてくれたが、教育係兼お世話係は基本的にチェシャ猫だった。しかしチェシャ猫は依然としてアキを許していなかったし、アキはアキで意地を張ったままだったので、二人の会話はそっけなく、最低限のことしか話さなかった。

 結局アキは、深夜に二人以上の付き添いをつけるという条件付きで、外出を許された。付き添いをチェシャ猫に頼むわけにはいかず、暴坊と玄さんは少しまだ近寄りがたい部分があったため、自然と頼む相手はクロと車掌の二人になっていった。両者ともアキとチェシャ猫の不仲を知っていたため、何も言わずに付き添い、複雑なスラム街を導いてくれた。

 クロは、宴会の夜のときの姿からいつもの冷徹で淡々としたクロに戻っていた。しかしそれが逆にアキの興味を掻き立て、気づけば積極的にクロに話しかけていることが多々あった。そのたびに車掌がにやにやと笑っているのが目の端から見え、腹立たしかったが、アキはクロの不思議な魅力に取りつかれていた。カラスの羽根の謎も、よりいっそうアキの興味を引いていた。

 しかしクロはガードを下ろすことはなく、全ての質問に鉄仮面の表情で答え、アキに構う素振りを見せなかった。護身術を二人きりで教える時ですら、宴会の夜とは打って変わって的確なアドバイスを繰り返し、淡々とアキの相手をこなすだけだった。

 アキは毎日細かくクロを観察した。アキの観察する姿勢は、異常なまでに熱心であり、執着と呼んでも過言ではなかった。クロは黒のワイシャツ三枚を着回し、同じく黒のスキニーを三着着回し、銀のバックルが付いた黒色のベルトを着け、黒の履き古したブーツを履いていた。雨の降る日は黒のロングコートを羽織っていて、雨の降っていない日にも好んで羽織っていた。左利きで、右手で耳の髪をかきあげる癖があり、小食なのか食事を残して部屋に持って帰ることが多々あった。また、夜一人で外出した後には、シャツやコートの肩に汚れが付いていることが多かった。それも、決まって左肩だった。アキの写真的記憶力が、これらの観察を容易にした。

 クロと視線が合っても、アキは慌てることなく見返すようになっていた。心臓の鼓動ですら、聞こえていても構わない、いやむしろ聞こえてほしいとさえ願った。

 チェシャ猫は目ざとくアキの変化に気づき、直接的には触れないものの、アキを侮蔑するような態度を取った。アキは構わなかった。自分の協力がなくて不利なのは、チェシャ猫の方だった。今更アキの真実を暴露したところで、信用を失うのは恐らくチェシャ猫の方だろう、とアキは思った。なんにせよ、一週間もすればこの窮屈なスラム街から脱出することができるのだ。

 アキの移動計画は玄さんと車掌によって進められ、新月の夜に行われることが決まっていた。メンバーは車掌、チェシャ猫、アキの三人で、当初アキはチェシャ猫が含まれることに反発したが、玄さんに説き伏せられた。

「新月の夜を安全に移動するには、チェシャ猫の目が絶対必要だ」

 玄さんはそう断言し、アキも渋々受け入れた。

 玄さんによると、都心の経済状況と政府動向の報告も兼ねた訪問になるとのことで、一か月ほどの滞在が予想されていた。いったん着けば、隠れ家より自由な生活ができるとのことだった。

「じゃあみんなでそっちに住めばいいじゃないですか」

 アキはずっと不思議に思っていたことを玄さんに聞いたが、玄さんは苦笑いを浮かべ、首を振るのだった。

「そうはいかん…我々には我々の仕事があって、彼には彼の仕事がある。まあ、行けばわかるさ」

 

 そして月は次第に欠けていき、やがて新月が訪れた。


九 車掌特急


「これに乗っていくの?」

 アキ、チェシャ猫、車掌、そして見送りに来た玄さんの四人は酒場の裏の、狭い路地に立っていた。弱々しい街灯以外に、明かりはない。

 アキの目の前には、工事現場で使うような手押し型の古びた赤いリアカーが、なんの変哲もなく置かれていた。

「そうだ」車掌はタイヤの空気を確認しながら何ともなしに言った。「大丈夫だ、座り心地がいいように改良してある」

 アキは疑い深くリアカーの中を覗き込んだ。申し分程度に、薄汚れたクッションが敷き詰められていた。

「ほら、そんな顔してないでさっさと乗れ」車掌が点検を終えると立ち上がり、リアカーの持ち手を掴んだ。「早くしないと日の出までに着かんぞ」

 チェシャ猫はすでに無表情のまま乗り込んでいた。アキは渋々チェシャ猫の後ろに座り込んだ。窮屈なリアカーの中では嫌でも体が接触してしまい、アキは少しもぞもぞした。

 仮住まいとは言え、一か月も滞在していた隠れ家を離れるのは心寂しかった。東京を離れること自体、アキにとって初めての経験だった。クロは外周りで見送りに来ておらず、アキの寂しさを増長させた。

車掌はヘルメットを装着すると、ヘッドライトを点灯させた。

「気をつけて」

 玄さんがチェシャ猫とアキにそれぞれ手を伸ばし、握手をした。アキの引きつった顔を見ると、玄さんは密かににやりとした。

「…仲良く、な」

「えー、本日はご乗車していただき誠にありがとうございますー。こちらはー、夜行列車、急行『血と鋼の同盟』本部行きでございますー。ご乗車の際は―」

「いいからもう行っていいよ」

 チェシャ猫の冷めた声がし、背後で車掌の声が止まった。振り向いたアキは玄さんと目が合い、にやりと笑ってしまった。

「そ、そうか…昔はこれ楽しみにしてくれていたのになあ…」車掌は悲しげにつぶやいたが、すぐに気を取り直して目の前を見据えた。「よし、しっかりつかまっていろよ」

 リアカーにがたんと衝撃が走り、アキは後ろに引き倒された。チェシャ猫の背中がアキの膝にぶつかった。周りの風景が、闇と走り去る閃光へと変わっていく。

 車掌の夜行列車が走りだした。


 アキが車掌の能力を知ったのはつい数日前、車掌とクロの外回りに付き添っている道中のことだった。その日の外回りの仕事は、都心部の人々が政府に対してどういう感情を持っているか調べるというものだった。

「私はこの子とどこかの物陰に隠れて、ひたすら耳を立てている」クロは淡々とした調子で車掌に言った。「あなたは酒場を駆け巡って話を聞き出してちょうだい」

「なんで一番危ない役割が俺なんだよう」

 車掌は唇を尖らせてわめいたが、クロは相手にしなかった。

「何かあった時に逃げ切れるのはあなただけだし、あなたの足なら都心全体を回れるでしょ…顔も一番平凡で、気づかれにくいし」

 クロがぼそっと付け加えると、それはどういうことだと言うかのように車掌が目を吊り上げた。

 何も知らないアキはこの会話を驚きの気持ちで聞いていた。巣鴨研究所は都心の外れにあったので隠れ家まで走って三十分もなかったが、都心全体を一夜で回りきり、さらに酒場をはしごするなど、まるで無理な話だ。

 しかし、車掌は実際に二時間で都心部の酒場を二十軒巡り、五十人の客と杯を交わして帰ってきた。

「車掌さんってすごかったんだね…足大丈夫?」

 帰り道、よろける車掌に肩を貸しながら、アキは聞いた。

「足より、肝臓の方が堪えている」

 車掌は酒臭い息を吐きながら、そう答えた。背後で、クロが静かに鼻で笑う声が聞こえた。


 迅速にして、強靭。車掌の足は疲れを知らない。夜の道を、ヘルメットの光とチェシャ猫の目を頼りに、ぐいぐいと突っ走っていく。

「十メートル先曲がり角を左…くぼみあるから少し右に避けて…しばらくまっすぐ」

 アキからは見えなかったが、チェシャ猫が琥珀色の瞳で夜のスラムを眺めていることは明らかだった。アキにはヘルメットの光でかろうじて数メートル先が見えるくらいで、闇の中を高速で移動していることに不安を隠しきれなかった。

 しかし車掌はスピードを落とさずに角を曲がり、障害物もなんなく避けていった。チェシャ猫の目を頼りにしながらも、車掌自身スラムの道を完璧に把握しているようだった。アキは必死の思いでリアカーのへりにしがみつき、とにかく振り落とされないことだけに集中した。

 スラム街を抜けるところで、車掌はスピードを落とした。

「県境だ、見張りがいる」車掌はヘルメットのライトを消した。「強行突破するから捕まっていろよ」

 ライトが消えると辺りは暗闇に包まれ、しばらく先に電気のついた建物が見えるのみとなった。数人の警備員が暇そうに立っているのがアキにもかろうじて見えた。

 車掌はすっと息を吸うと、一気にスパートをかけた。アキはリアカーのなかで後ろに引き倒され、思わず目をつぶった。振り落とされないように必死にリアカーの縁にしがみつく。数秒後にスピードは緩み、県境は遥か後方に遠のいていた。警備員は先ほどと変わらない様子で、暇そうに建物の前に立っていた。目の前を疾走するリアカーが通り過ぎていったことには、全く気づいていないようだった。

「さすが車掌」チェシャ猫は体勢を直しながら親指を突き出した。「あの警備員、きっと風が吹いた程度にしか思ってないよ」

「お安い御用で」

 ヘルメットのライトを灯す車掌の声は嬉しそうだった。


「車掌は、どういう経緯で三崎研究所の被験者になったの?」

 リアカーはしばらくまっすぐな田舎道を走っていた。旅に慣れてきたアキは、ふと以前から気になっていたことを車掌に聞いた。

「俺が犯罪者だったからだ」車掌は平たく言った。「若い頃、俺は都心でちょっと名の知れた泥棒だった。捕らえたときに、こいつは身体が丈夫だから使える、って思ったんだろうな。刑務所から巣鴨研究所に送られたのさ」

 アキは胸に何かが詰まるような思いがした。勝手にだが、心のどこかで、別のシナリオを求めていた自分がいたことに気づいた。お金のないスラム街の民で、自ら応募した、とか。かつては熱狂的な愛国者で、軍のために自ら買ってでた、とか。そうでないことは心の底でわかっていたが、父親がここまで純粋に人の権利を害するような実験に加担していたということが、いまだに信じられない自分がいた。

 しかし、それと同時に納得する自分も心のどこかにいた。自らのクローンを生成し、その子供を欺き続けてきた父親だった。子育てをAIに託し、研究に没頭する父親だった。酸っぱくて苦みのある感情が、火種のように芽生え、こみ上がる胃酸のように胸を焼いた。

「まあ成功しただけ良かった」車掌はそんなアキの感情にはまるで気づかないまま話し続けていた。「俺の前に幾人もの被験者が、同じ実験で足をダメにしていた。ダメになった被験者は用済みだから、どうなるかもわからなかった―まあ大方スラムに捨てられたのだろうが。誰もスラムに住む者の話は聞かないからな。そして彼らも、生気を失ったかのようにひっそりと暮らしていく」

 リアカーのふちをつかむアキの手に力が入った。車掌の前にゴミのように使い捨てられていった被験者が何人もいたという事実は、追い打ちをかける荒波のようにアキを苦しめた。彼らもきっと、前科者や、スラムに住む名もない人々だったに違いない。

 そして、自分も宮川夏雄のような人間になるのだ。アキは吹き荒れる嵐の中に立たされている気分だった。新しい考えが次から次へと生まれては、冷たい風と雨垂れのようにアキを削っていった。自分はそのような大人になるよう遺伝子に設計されているのだ。生まれたときから。この感情だって、恐怖と自己嫌悪から来る感情じゃないのか? おぞましいと思いながら、どこか冷静に事実を俯瞰している自分がいないか?

 車掌はなにやら話し続けていたが、アキは相槌を打つだけで、その内容は頭に入ってこなかった。アキはまだ十五歳で、人間として成長過程にある。今思っていること、信じていることを、将来の自分も変わらず抱き続ける保障などない。今更になって、父親が自分の教育や生活を全て統制し、月子さんを自分から引き離した理由がわかった気がした。自分と同じように育ってほしかったのだ。能力も、考え方も、行動も、全て宮川夏雄に寄せるために。

 リアカーは夜道を進み、山道を登っていった。空気が冷えていき、シャツ一枚のアキは自分の肩に腕を回した。目の前ではチェシャ猫が下に敷いていたブランケットを取りだして羽織っていた。眠そうに目をこすりながら車掌に曲がり角を教え続けるチェシャ猫を見て、アキはけんかして以来初めて彼女に話しかけられないことを悔やんだ。今はチェシャ猫の明るさとエネルギーが欲しかった。月明かりのない山道が、アキに余計そう感じさせた。しかし、プライドと二週間にわたる沈黙の蓄積が、アキの口から言葉が出るのを妨げた。チェシャ猫の小さな背中を見ながら、アキは自分の物思いの黒々とした渦に溺れていった。

 

 アキはいつのまにか寝ていた。気づくとリアカーは減速し、車掌が「まもなく終点―、『血と鋼の同盟』本部前でございますー。お降りの際はーふちに足をぶつけないようー気をつけてお降りくださいー」とアナウンスをしているのが聞こえた。

 頭を上げて周りを見渡すと、さびれた山里の風景が朝霧の中で確認できた。辺りは山で囲われ、ちょうど山の端から太陽が顔をのぞかせようとしていた。空気はひんやりと冷たく、朝露が地面の芝生を青々と光らせていた。人の気配はなく、家屋の多くが廃墟と化しているようだった。一方で町はずれの一角には、リンゴ農園が小綺麗に整備されていた。どこかでカラスの鳴き声が虚しく響いた。

 車掌がリアカーの引手をごとんと地面に下ろし、アキとチェシャ猫はぎごちなく地面に降り立った。窮屈な空間に押し込まれていた足は石のように固く、二人とも顔をしかめながら足を伸ばした。夜通しでリアカーを押していた車掌がなぜか一番元気そうに見えた。

「早速お出迎えが来ているよ」

 ふくらはぎを揉みながら不機嫌そうな顔をしていたチェシャ猫が、瞳をすっと橙色に変えて、霧の向こうを顎でしゃくった。

 一分後、アキにも廃墟の街から、人影が近づいて来ているのが見えた。三人はその人物がやってくるのをじっと見つめて待った。

 現れたのは、白髪が霧の中にそのまま溶け込んでしまいそうな、穏やかな顔をした老人だった。上品で小綺麗なセーターとグレイのズボンを穿き、口元には歓迎の笑みを浮かべていた。玄さんのような、無骨で強そうな男を創造していたアキは、少し拍子抜けした気分だった。

「いやはや、皆さん遠くからわざわざどうも」

 老人は三人に歩み寄ると丁寧に一人ずつの手を取り、握手を交わした。

「長旅大変だったでしょう車掌さん…チェシャ猫くんはまた少し大きくなったねえ…そして、おお!」

アキの番になると老人は殊更嬉しそうな顔をし、力強くアキの手を握りしめた。老人の手は柔らかく、温かった。

「君が噂のアキくんか! 五年ぶりに、巣鴨研究所から逃走した少年だとか?」

「はい、そうです。初めまして」

アキはチェシャ猫の視線を感じながら、しっかり老人の目を見返して笑顔を返した。老人はなかなか手を離そうとしなかった。

「ぜひ後で詳しい話を聞かせてくれ…私は『血と鋼の同盟』の代表、兼『株式会社キングテック』会長の榊原優だ。よろしく」

「よろしくお願いします」

 榊原代表と話している間、アキは他の二人が冷たい表情をしているのを目の端で捉えた。それは一行が本部を目指して歩き始めてからも一緒だった。チェシャ猫と車掌は可もなく不可もなく会話を続けていたが、その様子はどこか機械的にアキには見えた。どうやらこの二人は榊原代表のことがあまり好きではないらしかった。

 たしかに何を考えているのかよくわからない、今朝の霧のような老人だな、と思いながらアキは廃墟の街に足を踏み入れていった。


十 血の歴史


 同盟の本部は、廃墟群の中心地点にあった。大きな日本風の屋敷に、西洋屋敷を後からくっつけたような不思議な外観をしていて、こぎれいな庭までついていた。廃墟の街並みの中で、この建物だけ手入れされているようだった。

「さあさ、こちらへ」

 榊原代表に促されるまま、アキたちは屋敷の門を潜り抜け、庭を通っていった。玄関には隠れ家にあったような暗証番号キーはなく、代わりに榊原代表が古風な鍵を取りだして鍵穴に差し込んだ。木製の大きな扉が静かに開き、アキたちは中に入っていった。

 屋敷の中は広々としていたが、その広さの割に人気はなかった。掃除用のロボットやおしゃべりをぺちゃくちゃとしているAIの姿は見受けられたが、榊原代表以外の人間が住んでいるような雰囲気は全くなかった。人間が住んでいるのかさえ疑問に思えてくるような屋敷だった。

 三人は広々とした客間に通され、給仕ロボットが湯気の立つ紅茶と焼きたてのトーストを運んできた。トーストはこんがりときつね色に焼け、半分溶けかけているバターが贅沢に塗られていた。アキは突然自らの空腹に気づき、榊原代表に促されるままトーストを頬張った。

「今回の報告書です」

 食事が終わると車掌は内ポケットから封筒を引き抜いて榊原代表に渡した。榊原代表はご苦労、と言って受け取ると素早くかつ丁寧に封筒を開封し、さっと目を通した。

「経済状況の悪化に伴い政権の威信は低下…一方政権は強硬な対外政策を示唆か…蜂起のときも近いかもしれないな」

 榊原代表はぶつぶつと何か言いながら文字を追った。

「いやはやいつもながらご苦労、今回も有益な情報をありがとう」報告書から顔を上げた榊原代表の顔はにこやかで、アキは七福神を連想した。「辺鄙な地ではあるが、こっちでゆっくり羽根を伸ばしていってくれ」

「それに関してなんですが」車掌が紅茶のカップを口から離して言った。「アキをこちらに一か月ほど置いていってもいいでしょうか? 軍部がスラム街を嗅ぎまわっているようで、預かっていただけると大変助かるのですが」

「それはいかんな。もちろん好きなだけいてくれれば構わんよ。見ての通り場所は腐るほど余っているからね」

「あの」アキは好奇心に負けて口を開いた。「ここには他にだれか住んでいないのですか?」

 榊原代表はアキに悲しそうな笑顔を向け、紅茶を一口啜った。

「ここに住んでいるのは私だけだよ」

「え?」

 アキは驚いて思わずチェシャ猫と車掌を交互に見たが、二人とも黙って榊原代表を見つめていた。反動でカップから紅茶がこぼれてアキの手を焼いた。どうやら二人はすでに知っているらしかった。たしかに、今まで代表がいる、としか言われていなかったとアキは振り返って思った。しかし、まさか本部に代表一人しかいないとは思ってもいなかった。

「そうか、聞かされていなかったか。少々長くなるが」榊原代表がかちゃりとティーカップを置いた。「せっかくなので、この同盟と私自身について少し話そうか。老いぼれの昔話だと思って聞いてくれ」

「血と鋼の同盟の前身となる青年革命隊が誕生したのは、今から三十年前のことだった。当時は軍部創設五十周年の年で、軍部に立ち向かう趣旨の学生運動が全盛期を迎えた頃だった。当時東京の学生だった私と玄―そう、君の知っている玄だ―は青年革命隊を立ち上げて軍部の政治干渉と、激化する対外政策に抗議していた。

 私たちは若く、血気盛んだった。ある日、デモを規制する軍部と揉み合いになり、騒ぎの中で、青年革命隊の一人が命を落とした。軍部が彼を取り押さえたときに、胸部を強く圧迫したことが原因だった。彼はおとなしかったが、強い信念を内に秘めた青年だった。隊内に、恋人もいた。彼を愛する両親もいた。その全てがあの軍人の太い二本の腕で、ものの数十秒で断ち切られてしまったのだ。

 我々は悲しみに打ちひしがれ、怒り、抗議した。だが政府はこの事実をもみ消し、青年革命隊の解体に取りかかった。あろうことか揉み合いになったデモ時の我々の暴行を取り上げ大々的に非難し、過激思想集団として国民に糾弾した。国民はその嘘を信じた。我々は負けて、懲役に服することになった。圧倒的な力の前では、若者の理想論など取るに足らないハエのようなものだったのだ。

 独房に入る直前、私と玄、そして他の残党たちは契りを交わした。お互いの腕に切り傷を作り、血を交えた。私たちは義兄弟になった。そして、死んだ同胞に代わって復讐を果たそうと誓った。

 その後玄は軍の科学実験の被験者として政府の施設に送られ、私は大学時代の実績を買われて研究員の助手として同じ軍事施設に就労させられた。

 そこで研究されるのは戦争という科学だった。多大な被害を与えられる大量殺人兵器。偵察のためのステルス機やナノサイズロボット。そして紛争地帯の現地制圧に必要な人間の兵器化。殺戮は合理的に、潜入は狡猾に、制圧は圧倒的に。政府は多額の資金を投入して鋼血部隊の開発を急いだ。玄は強靭な喉から音声兵器の実験体に抜擢され、奇跡的にも実験は成功した。そこまで数十人と声を失くしてきた仲間が、次から次へと、スラム街の裏路地に密かに打ち捨てられていくのを私は見ていた。手術が成功した夜に玄は泣いた。玄の部屋は私の部屋から離れた被験者用の独房だったが、拡声された獣のような慟哭は屋内に響き渡り、しまいには研究員が睡眠剤を打たなければいけないほどだった。その日から、私は研究施設からの逃亡を企てるようになった。

 私は政府に洗脳されたかのように装い、研究所内での地位を高めていき、やがて米国での研修機会を得るに至った。渡米した私はそのまま自ら開発した機器を使って姿をくらまし、亡命に成功した。

 米国に渡った私は個人で軍事兵器を開発する事業を立ち上げた―これがキングテックという会社だ。私の顧客は外国政府から民間軍事企業まで幅広く、研究所で養った実力が会社の業績を支えた。当然日本政府と軍部は私を捜索していたため、事業は全て代理を立てて行った。一方、日本では玄が未だに研究施設に監禁されているという情報を私は得ていた。政府が、鋼血部隊の実用化に関する法整備に難色を示していたからだ。人間兵器の製造は国民に知らされておらず、厳しい世論を危惧して政府は慎重に事を進めていた。同時に、軍部は早くから部隊の前線への投入を望んでいた。私は出来るだけ早く日本に帰らなければいけないと思った。

 そして五年前、私は数々の整形を施し、身分を偽り、仕事は全て後任に任せて日本へ帰ってきた。帰ってきた私を待ち構えていたのは、軍部史上最悪の囚人脱出劇のニュースだった。世間に対しての説明はそうだったのだが、私には空の青を見るよりそれが被験者らの脱走であるということが明瞭だった。逃亡者のリストと、尋ね人の張り紙が決定的な証拠だった。二十数年たっても変わらない玄の顔がそこにあったからだ。

 私はバスが爆破された場所から、かつての青年革命隊の隠れ家に玄がいることを推測した。私たちは新月の夜、月夜烏の丘で落ち合った。実に二十五年ぶりの再会だった。私の顔は見る影もなかったが、玄は私の声ですぐに私が私であることを確信した。声を自在に変化することができるようになった彼は、人の声に大変敏感になっていた。

 玄と私は様々なことを話した。青年革命隊のメンバーは、二十数年のうちに全員が被験者として拘束され、実験の後に、スラムで日陰者としての生活を送っているとのことだった。もはや消息も分からない彼らを除けば、青年革命隊の構成員は私と彼の二人だけだった。

 私は革命の必要性を強く説いたが、玄は渋った。彼には仲間がいて、その中には子供もいる、と。彼らを危険から守ることが彼の第一の使命であり、流されたいくつもの血を政府と軍に浴びせ返すのは時機が訪れた時で良いと彼は頑固に主張した。

 私は夜が明けるまで彼を説得しようとした―彼と彼の仲間の能力、私の財力と兵力を持ってすれば、暴力的な革命も不可能ではないはずだった。しかし彼は、これはもう青年革命隊ではないのだと私に言った。これからは、血の代償と共に手に入れたその機械化された身体を、鋼の心で制御しなければいけない、とね。決して軍部が命名したように、「血を流すための鋼の部隊」であってはいけない、と。最終的に折れたのは私だった。私が経済的に援助をし、一方玄とその仲間たち―君たち―には政府と軍の動向を調べてもらうことになった。私も前線に残りたかったが、キングテックの技術開発は依然として大きく私に依存していた…このような辺鄙な地で研究を続けることが一番役に立つだろうと私は思った。

 『血と鋼の同盟』は、玄の決意に敬意を示してつけた名前だ。血塗られた復讐心を抱くのは老害の我々だけでいい。これからの時代を切り開くのは、君たちだ」

 榊原代表はそこで話を止め、すっかり冷めた紅茶に口を付け、アキに微笑みかけた。アキの耳の中ではまだ、二十五年前の玄さんの慟哭が部屋の中で響いているような気がしていた。

「つまらない長話をしてしまったね…しかし私たちは思っているよりも一人ではないということは付け足しておくよ。産業界の知人でも、政府の一部の軍需産業に対する不満を持っている者も少なくない。国民も高い税金と軍事費への大量出費に嫌気がさしている。その時は、いずれ来るに違いない」

 

 テーブルの重い空気に耐えかねたのか、車掌が榊原代表に最近の開発品を見せてほしいと願い出て、榊原代表も快くこれを承諾した。

「ここが私の試作品置き場だ」

 三人は広々とした地下室に案内された。榊原代表が手を叩くと明るい照明が灯り、アキは思わず息を飲んだ。想像もつかないような機械技巧の数々が目前に広がっていた。

 人を運べる鉄の馬に、手のひらサイズの蜘蛛型ロボット、線虫のように身をよじらせる鋼の蛇…。説明をする榊原代表の目は子供のそれのように輝き、三人を出迎えたときの作られた笑顔が、心の底から咲く笑顔に変わっていた。車掌は元からメカ好きなのか榊原代表の説明を一心不乱に聞き入り、チェシャ猫も興味深そうな顔で一つ一つの試作品を眺めていた。アキはただ発明品の多さに圧倒されながら、呆然と部屋を見渡していた。

 ふとアキの視線に胸像型のロボットが目に入った。精巧な顔の造りは人間そっくりで、アキはふと月子さんを思い出して悲しくなった。いまごろ月子さんは何をしているのだろう。アキの安全を気にかけてくれているのだろうか。

「ああ、それは疑似パートナーロボットだ」

 榊原代表が近寄ってきてアキに言った。

「遠隔地に赴いた兵士が精神的に病まないための話し相手になる。妻や子供の情報を入力すれば、それを真似てあたかも家族が近くにいてくれているかのように感じることができる」

 アキは頷きながら、この月子さんそっくりのロボットを、胸を締め付けられる思いで見つめ続けた。家族…アキにはないものが、普通の人には当たり前のように安らぎを与えるのだという事実に、アキは傷ついていた。情報をなにもインプットされていないそのロボットは平然とした顔でこちらを見返していた。


 その夜、アキはなかなか寝付くことができなかった。榊原代表が貸してくれた部屋は一人で使うには広すぎて、居心地が悪かった。暗闇から誰かに見られているような錯覚に陥り、何度も寝返りを打った。ここでは軍人が部屋に突入してくる心配はなかったが、アキは早くも隠れ家の蟻の巣のような部屋を懐かしく思い出していた。

 アキはしばらく暗闇の中で寝返りを打っていたが、一時間ほど経っても寝つけられず、やがて諦めてベッドからはい出た。そのまま静かに玄関の扉を開けると、そっと外に出ていった。

 外の空気はひんやりと涼しく、蛙や梟の鳴き声が周囲の木々から聞こえてきた。月はほぼ見えず、そのかわり満天の星空がアキを見下ろしていた。周囲の建物は黒々と立ちそびえ、どこか不気味な雰囲気を醸し出していた。

 こうして暗闇の中に立ち、星空を見上げると、アキは自分の悩みが小さく思えた。今ここで、自由に生きていることそのものに価値があるに違いない。星の美しさを他の誰かに伝えたいという不思議な衝動にアキは駆られた。

 ふと背後で物音がし、アキは慌てて振り向いた。星明かりに照らされてチェシャ猫が扉を開けて出てきたのだ。アキと同様に、思いがけない他人の存在に驚いているようだった。玄関で硬直したように立ちすくむチェシャ猫は、薄いパジャマの生地のせいで昼間見るより頼りなさそうに見えた。

 二人は黙ってお互いを見つめたが、視線の交錯を先に振りほどいたのは琥珀色の瞳だった。少し顔を強張らせながら建物に戻ろうとするチェシャ猫に、アキは声をかけようとしたが、喉はまるで何かが詰まったかのように機能しなかった。扉は閉まり、アキは再び寂しさと共に闇夜に残された。



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