聴覚
気が付いた時はじめに聞こえたのは、私の背後でごそごそと何かが動く音でした。続いて、扉のガタガタ鳴る音。硬い金属が擦れあう音。液体をかき混ぜるような音。ビリビリ! という聞き覚えのある破裂音――ガムテープでしょうか。それらは数分間にわたって、私の不安をおおいに掻き立てました。
落ち着かなくては、と思って耳を澄ませてみると、かすかに、部活動の生徒の掛け声が聞こえてきて、放課後の学校なんだと分かりました。
「できた」
という声がして、私は背後にいるのが人間だと知りました。若い、女の声……ちょうど私と同じくらいの年代の少女でしょうか。とすると、やはり今私がいるのは学校で間違いなさそうです。そういえば、どこかで聞いた声のような気もしました。
背後で何かの作業を終えたらしく、その少女は私に近付いてきました。側を通り抜けて――衣擦れやスリッパの音の聞こえ具合から、どうやら私は椅子かなにかに座っているらしいことが分かりました――正面に立って、そこで止まりました。やや荒い息遣いが聞こえてきます。
明らかに異様な雰囲気で、私が逃げ出さなかったのは、恐らく動きを封じられていたからではないでしょうか。先程ガムテープを剥がすような音が聞こえましたが、私の身体もガムテープで椅子に固定されていたのでしょう。
少女は、私に話しかけてきましたが、それらはほとんど独り言に近い響きでした。彼女の言ったことはこうです。
「で、できました。ホットチョコレート、飲んでください。好きなんです! あなたのことが……でも私なんかが渡していいのかな良くないよね、断るよねだから来てもらったの――」
先程の、液体をかき混ぜる音。彼女は溶かしたチョコのドリンクを作っていたのでした。バレンタインにホットチョコレートを手渡すのは斬新ですね……。それはいいとして、だとすると、ここは家庭科室でしょうか。
囁きは延々と続きました。聞くだけで気分が悪くなる、ぼそぼそとしたつぶやき声。軽い耳鳴りが絶えず私を苦しめました。
「聖バレンタインの黒魔術の書・第76版には、血を。血液を飲ますのが一番だって。想い慕う相手に自らの純血を捧げるの、それが良いの」
「作り置きはダメで。市販のなんて論外。き、禁忌だから。想い人のすぐそばでチョコは作られなければならない」
「血だけに、血ョコレート……ふふ。ふっ」
「魂、を! 込めてつくったの」
「だけどそれらは外界から隔絶された空間で行わないといけない――」
普段喋らない者にありがちなことですが、彼女は時折咳き込み、音量の調節を間違えました。早口で私への想いを述べていたのでした。その狂的な切実さを孕んだ言葉に戦慄しながらも、彼女を哀れに思わずにはいられませんでした。
精神を病んだ女と、二人きり。家庭科室ほどの広さがあったとしても、あまりぞっとしません。いえ、彼女の声の反響を聞いていると、まるで狭い空間に閉じ込められたような恐怖に襲われます。頭はグラグラしますし、どうやら平衡感覚もうまく働いていないようです。
これからどうなってしまうのでしょうか。ですが私には、聞き耳を立てるくらいしかできません。
ひとしきり話し終えると、彼女はこちらへ近付いてきました。そして、何かが歯に当たってカチっと音を立てました。コップのような容器でしょうか。少女は、手作りのホットチョコレートを無理やり私に飲ませようとしたみたいです。彼女の言ったことによると、血液入りのチョコレートが。
次の瞬間には、液体を嚥下するゴクリという音が聞こえてきました。ああ、これを飲んだら私は死ぬのでしょう。そのうちに、何も聞こえなくなりました。毒が回ったのだと思います。
え、どうして毒だと分かったか、ですって? それはもう、声を聞けば分かります。彼女は私と心中するつもりだったのでしょう。チョコには毒も混ぜていたんだと思います。
あはは! 【視覚】がそんなことを? 毒の回った血液をチョコに混ぜる? ご冗談を。どうしてそんな迂遠な方法をとる必要があるのですか。チョコに直接混ぜるのが一番手っ取り早いでしょう。
それに、その方法だと少女はとっくに死んでいたはずです。私がホットチョコレートを飲んですぐ、気を失ったくらいですから。だから速効性の毒ですよ、おそらく。
明日の朝刊ですか? そうですね……『現代の毒入りチョコレート事件』なんかどうでしょう。あらいやだ。これだとゴシップ誌みたいで、お下品ですね。