悪魔への女神の祝福
紀元1919年4月16日 旧ドイツ帝国 バイエルン州(現バイエルン・レーテ共和国)
バイエルン共和国はバイエルン・レーテ共和国に名前を変えた。
しかし州都バイエルンは全体的に灰色の空気につつまれ、重く澱んだ空気に満ちていた。
人々が口を開けば景気の悪さ、先行きの見えなさが、まず話題に上る。
西部戦線から失明して戻ってきたがようやく視力が戻ってきて働いている。
予想は外れ相変わらず軍人のままだが。
変な話ではあるが国家首脳がなくなっても社会生活に大きな変化はなかった。
たとえば軍人は給料をもらい軍務をこなし、公務員は書類に判子をついていた。
街の人々も今までと変わらず働いて賃金を稼ぎ、商品を店で買っていた。
流通しているのは以前と変わらず帝国マルクである。
帝国そのものはなくなってもその枠組みの中で庶民は生きていた。
若干は変わったこともある。
たとえばバイエルン州は赤色革命によりバイエルン・レーテ共和国と名乗るようになった。
軍人は帝国所属ではなく軍人組合の所属になった。
それぞれ大隊から1名が代表になり、連絡会に出て軍務を受け取って大隊に通達する。
他の組合はどうやってるか知らないが軍人は上からの命令を伝えるだけなので、元伝令兵の勲章持ちということで立候補した俺が代表に選ばれていた。他の大隊も似たようなものらしい。
このレーテという仕組みは旧ロシア帝国域ではソビエトというらしい。
かの国もソビエト共産主義連邦と名前を変えてこの仕組みでやってるとか、戦勝国と敗戦国が同じく帝政から組合政に変わるとかなんの冗談だと思う。
とはいえレーテの会合に顔を出していると有力者に顔を覚えてもらえる。
今日、カール・マイヤー少佐から諜報部への移動を打診された。
大学で勉強も出来るし、給料も上がる。階級も伍長になるそうだ。
主たる任務は国内防諜と広報演説で荒事からも遠そうではある。
「おじさま、寒さには気をつけて、いってらっしゃい」
ヒトラー家の玄関ドアで送りだしてくれるのは11才になったゲリである。
彼女は私が目が見えない間はずっと手を引いてくれた。
目が見えるようになったときには自分のことのように喜んでくれた。
私がレーテの会合に出るときは必ず玄関まで見送ってくれる。
早く結婚していれば、これくらいの娘がいたかも知れない。
そう思うと姪というよりは娘に近い感情をいだいているような気がする。
最近バイエルンと中央政府の間がきな臭い。
早めにどこかに移動した方がいいかも知れない。
移動のときはゲリやアンゲラ伯母さんに戦禍が及ばないように注意しておいたほうがいいだろう。
その二日後にはアドルフは諜報部に移籍を決断。ゲリだけを伴いヘッセン州フランクフルトに移動した。
彼の予想は当たっていて、4月13日にはロシア人のプロの赤色革命家オイゲン・レヴィーネにより再革命が勃発、バイエルン・レーテ共和国、二回目の樹立宣言が発せられていた。それに対してワイマール共和国中央政府は5月始めに義勇軍を主体とする討伐隊を派遣・制圧。
中央政府はバイエルンを軍政下に置いた。
その制圧の前にレーテ共和国成立のため有力者からとっていた人質を共産党員が虐殺するという事件が起こっていた。
アドルフ・ヒトラーは軍人レーテ代表代理になっていたので当然すぐに人質を要求されたであろうことを考えると間一髪で逃げ出せたことになる。
その後も中央政府主導で5000人を越えるレーテ共和国協力者に対する苛烈な裁判があったことを考えると、このとき幸運の女神は彼に微笑んでいたといえるだろう。