巨大靴下の女の子と真夏の雪遊び
暑さは夏の特権だから仕方がない、と軽々しく諦められない猛暑の今日。
暑い。とにかく暑い。
頬を伝うしずく。軒先から落ちる濃い影。
ぼんやり色あせた木目のある縁側に腰掛け、日影に隠れているのに、
太陽の存在感が母屋の反対側からひしひしと感じる。
目の前の陽光にさらされた池は、沸騰一歩手前に見えるし
曲がりくねった松の木は、暑さに耐えて身をよじっているようだ。
「田舎も暑いじゃないかあ~」
縁側から足先を庭に放り出して、後ろに倒れこむ。
ごつん、と読みかけの文庫本が後頭部に当たった。
暑さで読書に集中できず、途中で床に投げ出した本が再び存在を主張してくる。
「お前がアイスだったら良かったのにな」
俺は手前勝手なことを言って、文庫本を無造作にどける。
どけながら、台所の冷蔵庫に思いをはせた。
冷蔵庫。冷たいものが肩を寄せ合い、ひっそり仕舞われている場所。
そのさらに上位の存在を示す、冷凍庫。氷点下の世界。
アイス、確かあったはず。
都内から、涼を求めて田舎のおばあちゃんの家に来る途中、
どうしても暑さに耐えられなくなったら食べよう、と
非常時用に買っておいたのだ。
山奥のおばあちゃんの田舎は涼しいはず、その目論見はすっかり外れ
さっそく最終兵器アイスを召喚しようとしている。
それにしてもアイス君が羨ましい。
氷点下の冷凍庫でぬくぬく待機しているとは。
俺もアイスになりたい。氷点下の世界に行きたい。
ゆっくりと流れる白い雲。
それがビデオの早回しのように急速に流れ出した。
青空は姿を消し、空一面に真っ白な雲が覆った。
足元から冷たい風が吹き付ける。
あまりの暑さに、感覚がおかしくなったか。
まばたきを数回。
大きく深呼吸すると、凍った空気が肺を冷やした。
がばっと身体を起こす。
目の前には白の、白銀の世界が広がっていた。
俺は氷点下の世界に居た。
「あ、あれ。夏なのに、雪?」
ぼうっとしていたら、勝手に場面転換していたドラマのように
俺はこの状況においてけぼりを食らっていた。
さっきまで沸騰しそうだった池はすっかり凍っていたし、
腰振って曲がっていた松の木は、白い雪を重たそうにかぶっていた。
一体、どうしたというのだろう。
俺に嫉妬されたアイスが望みどおり世界を凍らせたのか、
はたまたアイスになれと理不尽な注文を受けた文庫本が世界を凍らせたのか。
俺は顔を横に振る。
「よし理解した。これは夢だ」
思い返してみれば暑さで頭がぼうっとしていた。
そんな中で氷点下の世界に行きたいと思っていたのだから、
そのまま夢に突入してしまっても不思議でない。
夢以外でこの状況の説明もつかないし。
「まあ、頬っぺたでもつねってみれば夢を確信できるけど」
そんなことをして、夢から覚めてあの暑さに戻るのもこりごりだ。
せっかく見せてくれた極寒の夢。
堪能させて貰おうではないか!
俺は前向きに拳を握り締めた。
そうして改めて庭を見回すと、ぎっしり雪の詰まった中に
ひときわ異彩を放つ存在が目に留まる。
それを一言で表すなら、靴下だった。
市販のものではなく、紫色の毛糸の手編みで繕ったお手製のもの。
ところどころ解れていて、それなりの年季も感じる。
そして、ここまで細部に渡って観察できたのも
靴下の大きさが普通サイズでないからだ。
大人を三、四人並べたぐらい。
奈良の大仏様の履いていた靴下がポロリと脱げて雪の中に置き去りになった、
と言った風情だ。
「なんだろうな、あの靴下」
縁側に座って目を凝らしたところで、それ以上の情報は得られなかった。
雪の中で動く気配もない。
「直接行ってみるしかない、か」
幸い今は雪が降っていない。
恐る恐るつま先から足を降ろすと、ひんやり冷たい感触が伝わってきた。
そのまま力をこめて足に体重を乗せる。
さくっと雪が潰れる音。雪が溶けて水滴が親指の腹に纏う感覚。
目が覚めるような冷たさだったが。
「よし、いけそうだ」
依然として目の前には非現実的な雪景色と巨大な靴下。
目は覚めていない。
一歩一歩、裸足のまま雪の上を歩いていく。
あまりの冷たさに足の表面は微熱を帯びていたが、
痛みを感じることはなかった。
格好も半そで半ズボンで、素肌を刺すような冷たい風が吹きつけるも、
心地良さしか感じなかった。
よくできたお化け屋敷に居る気分だ。
まがい物と知っていながら、
雪や凍てつく風のリアルな感触に、背筋をひやりとさせられる。
「たまらなく、素晴らしい!」
あの輪郭がぼやけるほど暑かった現実とは正反対だ。
この不安定な世界を感じる度に、自分の存在が揺さぶられ、
本能的に出てしまう、生の発露。
これが涼しくて心地良いのだ。
「もう十分に堪能したようなものだけど、
この靴下を無視するわけにもいかないからな」
俺は白銀の中に横たわる、巨大靴下のすぐ近くまで来た。
もしもこの夢を見させてくれた原因がこの靴下にあるのなら、
お礼の一つでも言わなければな。
間近で観察すると、相当履きこまれたことを思わせられる。
毛糸の解れも酷いが、それ以上に複数個所の穴が目立っていた。
どうしてこんなにも穴が開いてしまったのか。
「よっぽど長いこと履いたのか、乱暴に履いていたか、あるいは……」
俺がぶつぶつ呟きながら、ぐるぐる巨大靴下の周りを回っていると、
もぞもぞと靴下が揺れ動いた。
不意打ちだった。歩む足が止まる。
まさか、中に誰か居るのか?
ひゅうと風が心臓を撫でていく。
「うるさいな~もう。気持ちよく眠っているのに」
むくれた女の子のくぐもった声が靴下の中から聞こえてきた。
そして、靴下の穴からひょっこり顔が出てくる。
声の予想通り、女の子の顔だった。
歳は十ぐらいだろうか。
まだまだ幼なさの残る目鼻立ち。
寝起きなせいか、目元が垂れていて、大きな口をあけてあくびもしている。
「あんた誰?」
おでこに前髪をべったりつけながら、女の子が聞いてきた。
「いやいや、俺が聞きたいよそれ」
手を振って言い返す。
「よくわかんない。何でもいいや。じゃあおやすみ」
そう言って女の子が再び靴下の中に潜って行こうとする。
「いやいやいや、待てって。その中に戻るなって!」
俺は慌てて声をかける。
真夏猛暑日に見ている、真冬極寒の雪景色の夢。
その白銀の世界に横たわる、紫色の巨大靴下。
さらにその中から出てきた謎の女の子。
呼び止めない理由はない。
「なに? あたしに何か用があるの?」
「ある! えーと、あるよ。そうだな。今は冬なのか?」
「見ればわかるでしょ」
煩わしそうに女の子が言う。
早くどっかへ行けと、顔が言っている。
「そっかあ、見ればわかるもんなあ。ついでに俺のことも見てくれよ。
これなあ、手足がむき出しで寒くってなあ」
女の子が初めて俺のことをまじまじと見つめる。
胡散臭そうに、ジト目で。
そうして、俺の言葉を確かめるように手と足に視線を向けた。
俺は寒がるように両手を擦り合わせ、右足を上げて左脛に擦りつけた。
この女の子が靴下の精霊的な何かなら、
靴下の一足や二足、くれるのではないかと思い至ったからだ。
「……」
女の子は再度、じっとり俺を見てきた。
あははー、と俺が愛想笑いを浮かべると、靴下の中に引っ込んでしまった。
「っておい! 見なかったのか、俺は寒くて死にそうなんだぞ!」
実際はこの寒さを心地良いとしか思っていなかったので嘘っぱちだが、
引きこもってしまうのならば、なりふり構っていられない。
しかし、女の子は待てど暮らせど、靴下の中から出てこなかった。
とぼけた風が心臓を撫でてゆく。
「ほほう、そうかい。そっちがその気なら、俺にも考えがある」
俺は足元の雪を両手ですくって、手の中で固めた。
作り上げた雪玉を、先ほど女の子が顔を出した紫靴下の穴の中に放り込む。
「きゃっ」
可愛い悲鳴が中から聞こえてきた。
よしよし、と俺は二個目を作って放り投げる。
三個目、投げ入れる。
よんこめ。
「ぎゃあああああ! ばか! おばかさん!
何してくれてんの! あたしの住処にこんなもの入れて!」
四個目を投げようとしたところで、
女の子が叫んで穴から真っ赤な顔を出した。
「だって靴下をくれないから」
「この、ばか! あほ!」
頬をリンゴみたく染め上げ、罵声を浴びせてくる。
そうして俺の投げ入れた雪玉を投げ返してきた。
残念ながらそれは見当違いの方向に飛んでいき、かすりもしなかったが。
「わ、悪かったって。ごめんよ。ただ、靴下が欲しかっただけなんだ。
なかったらこのまま帰るからさ」
「ふんっ」
と、今度は肌色の丸まった何かを投げてきた。
丸みを解いてみると、たらりと平べったい足の形の布が出てきた。
紛れもない、人間が履けるサイズの靴下だ。
ついでと言わんばかりに、橙色の靴下も投げてよこした。
こちらは所々に穴が開いている。
肌色の靴下は足に、穴開きは手袋代わりに装着してみた。
少々ぶかぶかだったものの、着心地は悪くない。
「これでいいの?」
ぶっきら棒に女の子は聞いてきた。
「もしかして、最初から靴下を渡すつもりだった?」
雪玉を投げ返した後、すぐに靴下を投げてよこしてくれた。
あらかじめ用意がなければ、この早さはない。
「さあ、どうだろうね」
つん、とそっぽを向く。
これは本当に用意してたっぽい反応だ。
だったら悪いことをしてしまった。
俺の履く靴下を選んでいる最中に、冷たい雪玉を放り込んでしまったのだから。
「あのさ、靴下ありがとう。君に何かお礼がしたい」
申し訳ない気持ちいっぱいで、俺は申し出た。
「いいよそんなの。あたしその白いの嫌いだし、
この中でずっと寝ていたほうが好きなの」
「子どもの癖に雪が嫌いとは、なんとも現代っ子らしいね」
「あんたが平気な顔して立っているのが信じられないぐらい」
酷い嫌悪感を示している。
確かに雪なんて交通の邪魔だし、雪下ろしをしないと家も潰れちゃうし、
何より冷たい。とにかく冷たい。
寒い冬は暖かくぬくぬく送りたい俺にとっても邪魔な存在である。
しかし、子どもの時は違った。
雪が降りそうな日は、窓の前に立っていつまでも空を眺めていたものだ。
それほど雪を求めていたというのに、
目の前の靴下の中に包まっている女の子は嫌いだという。
「よし決めた。今からこの一面の白銀の世界と戯れて、
雪を好きになってもらう!」
「はあ? やめてよ。これはあたしの天敵よ!
見るのも嫌なの。ぬくぬくこの中で寝ていたいの!」
女の子が靴下の毛糸を首元に寄せて訴える。
「その気持ちもよーくわかる。誰だって寒い冬はコタツにみかんだよな。
だけどな、雪と戯れてこそ冬の醍醐味ってものなんだ。
子どもは風の子で、犬と一緒に庭駆け回るのが仕事なんだよ!」
「うわあ。必死だよこのおじさん」
拍車のかかったジト目に、胸をえぐられそうになる。
「おじさんじゃない、お兄さんだ。
お前こそ、そこまで強情だとはな。
わかった。お兄さんが今から手本を見せよう!」
「てほん?」
疑り深そうな眼差し。
こほん、と咳払いをして俺はしゃがみこんだ。
「今から雪だるまを作る。
俺は下半分のでかいほうを作るから、お前は上半分を作れ」
「ゆきだるま?」
女の子はわかってなさそうに小首を傾げた。
「こうやって最初に小玉を作って、こいつを転がしていく」
強めに固めて、ふんわりと転がしていく。
子どもの時の経験どおり、転がした雪玉に白い雪がくっついていく。
「そうするとだ、こんな具合に地面の雪を巻き込んで、
玉はどんどん大きくなっていくわけだ」
「ほうほう」
「俺はでかく作るから、お前は小さめのを頼んだ」
そう説明しながら、俺は感触を思い出しながら優しく転がしていく。
「げえっ、もしかしてあたしもやるの?」
「さっきそう言っただろ? 上半分はお前の担当だ」
「やだやだやだ。白いの触りたくない!」
駄々をこねる。
こればっかりは触って遊ばないと楽しさ半減だ。
「だったらしょうがない。この雪玉を投げ入れるしか」
転がしていたまだ小さい雪玉を持ち上げて、女の子の目前に持っていく。
「わかった! わかったからそれ以上近づけないで!」
両手で顔を覆って、強く拒絶する。
ここまで雪嫌いなのも珍しい。
むん、と小さな桜色の唇を結んで、
女の子は巨大靴下の中でもぞもぞと動く。
そして、巨大靴下の穴から手足を出した。
ただし何重もの小さな靴下に覆われた、完全防備仕様だったが。
「やればいいんでしょ、やれば」
女の子は俺の真似をして、厚ぼったい靴下の被さった手で雪玉を固めた。
その小さい雪玉を投げやりに地面に転がす。
ころころり、と小さな足跡をつけて転がった。
「いいか、この雪玉を自分の宝物だと思え」
「たたっ、たからもの!?」
素っ頓狂な声を上げる。
「そうだ。大事に、大事に最初は転がして、地面の雪を巻き込んでいくんだ」
俺の説明を聞きながら、女の子は苦虫を噛み潰したような顔を作る。
そうして、恐る恐る、宝物というより劇物を扱うような手つきで
慎重に触れながら転がしていった。
ちなみに俺の雪玉は人の頭ぐらいのサイズになったので、
ある程度目線を切って雑に転がしても、気持ちよく雪を巻き込んでくれていた。
雪玉に悪戦苦闘する女の子の全体像を見てみる。
巨大な紫色の靴下、その五つの穴から顔、両手、両足を出して
巨大靴下を引きずりながら雪玉を転がす。
これで女の子の表情がもう少し楽しげだったら、
靴下の精霊が雪遊びをしているようにも見えたかもしれない。
不満そうに頬を膨らましながら雪玉を膨らましている姿は、
出来損ないの布を被ったお化けが家出をして雪山遭難しているようだった。
俺は手元の転がしている雪玉を確認する。
あと少し転がせばこっちは完成しそうだ。
「先にあれを探しておこうか」
俺は転がしていた雪玉を止めて、立ち上がった。
辺りを見回して目的の松の木を見つける。
その根元を目指して歩く。
小気味いい雪を踏む音。
靴下のおかげで足裏もそれほど冷たくない。
あの子に後でお礼を言わないとな。
松の木の下まで来ると、目的のブツはすぐに見つかった。
雪の重さで折れてしまったであろう、長い枝木。
雪に埋もれかけているので、払ってやる。
あ、あれ。今、変な違和感が。
雪の粒が風に揺らいで。
「おーい、なんでサボってるの?」
凍った池の向こう側で女の子が怪訝な表情で聞いてくる。
「すまん。雪だるまを完成させるための、材料を探してた!」
俺は枝木を掲げた。
雪粒は払われて、もう動いているようには見えない。
そんなことよりも、靴下の女の子がノリノリで雪玉を転がしていた。
地面にびっしり積もっていた雪はすっかりなくなり、
濃い茶の土がむき出しに見える。
「おりゃっおりゃっ」
お相撲さんが張り手をするように、元気に雪玉を転がしている。
どうやら雪嫌いを克服してくれたようで。
「随分と楽しそうだな。こりゃあ、お前さんの作った雪玉が下の方がいい」
雪玉の大きさも逆転していた。
「お兄さん! これ、面白いね!」
「だろう? やってみるまでわからんものさ」
「うん! 嫌いな白いのが丸まってどうしようもなく固まっちゃうの、面白い!」
「どこまで雪嫌いなんだよ、お前は!」
思わず大きな声を上げずにはいられなかった。
ただ素直じゃないだけかもしれないが。
何はともあれ、それぞれの雪玉は完成した。
「よっこいしょっと」
俺の雪玉を持ち上げて、女の子の雪玉の上に乗せる。
まずは胴体の出来上がり。
「そんでもって、雪だるまさんの腕を付けてあげよう」
先ほど持ってきた枝木を女の子の雪玉に、左右それぞれ挿した。
「何これ。腕のつもりなの?」
「そうだよ。腕に見えなくて悪かったな」
「別に、悪いなんて言ってない」
そう言うと、女の子は手袋代わりにしていた一番上の赤い靴下を取った。
「それは、お前の大事な靴下じゃないのか? 雪から守るための」
「何枚も重ねてあるから平気なの」
女の子は雪だるまに挿した枝木の先に、赤い靴下をはめていく。
さっきまで素直じゃなかったのに、今は一所懸命に雪だるまを作ってくれている。
「で、あとは?」
「おう。顔を作っていこう」
俺は土むき出しの地面から手ごろな小石を見つけ、目を取り付けた。
その間に女の子は両足の黒い靴下を一枚ずつ脱ぐ。
こちらも何枚も重ねて履いているので、裸足になることはなかった。
「鼻と口はこれを使って」
「ありがとう」
女の子から黒い靴下を受け取り、一つは丸めて鼻へ、
もう一つは広げて口に付けた。
「おおっ、できたぞ!」
女の子の方を見ると、目を見開いて驚いていた。
「これが、ゆきだるま」
「そうだ。二人で作った雪だるまだ!」
「にっこり笑ってる」
そう呟く女の子の口端には、笑みがこぼれていた。
少しは雪を好きになってくれたか、と一息ついていると
ほろり、はらりと白い粒が風に揺られて舞い降りてきた。
「噂をすれば、雪だるまの完成を喜んで雪のお出ましだ」
「ぎゃああああああ、白いの。白いのが降ってきたあああああ!」
甲高い悲鳴を上げて右往左往する女の子。
「おいおい、こんだけ雪と触れ合って、まだ嫌いなのかよ」
俺が呆れながら声をかけると、女の子は忙しなく動かしていた足を止めた。
困惑したような視線を投げかけて、
「お兄さん。その白いのは、むしだよ?」
女の子は指差した。
俺の頭にかかった白いそれを。
「虫? これは雪だよ」
俺は自分の髪の毛にかかった白いそれを手で掴んだ。
うん、ちゃんと冷たい。
冷たい感触がする。
そうして目前まで持ってきた。
その白い粒は手のひらの上で、蠢いていた。
この揺れは、風のせいじゃない。
小さな白い羽。何本もの細い足。黒い触角。
そう認識した途端、手のひらの上を無数の白いそれが動き回った。
「うっ、うわあ!」
慌てて手を払う。
土むき出しの地面に散らばったそれは、足で宙を漕いでいた。
「おい、急に虫が舞って」
「きゅう?」
女の子が小首を傾げた。
背筋が凍りついていく。
汗のような何かが、首筋を伝っていく。
「最初からだよ」
サクッ、と足を動かすと小気味の良い音が聞こえた。
恐る恐る視線を足元に向ける。
雪を潰していたはずの足周りには、無数の白い虫が蠢いていた。
「あっ、あっ」
口を開いても、空気が入ってこない。
穴の開いていなかったはずの肌色の靴下は、ぼろぼろだった。
足指を出たり入ったりする、小さな虫を感じる。
ぎゃああああああああああああああああああああああああああ
けたたましい悲鳴が、胸の中で響き渡る。
倒れこみたい衝動に駆られるが、
ぎっしり積もった白い虫に包まれる想像が、かろうじて踏ん張らせた。
「あーあ。白いの怒っちゃってる」
巨大靴下の中に居る女の子がため息交じりに言った。
既にその小さな手足は紫色の靴下の中に引っ込んでいる。
「丸めて遊んだから、白いの怒ってたくさん降るよ」
女の子の指摘したとおり、舞っていた白い虫は
吹雪のように大量に降り注いできていた。
顔だけ出していた女の子も、引っ込めようとする。
「まっ、待って」
俺は呼び止めようと口を開くと、その口の中に虫が二、三匹入ってきた。
舌にべっとり張り付く。
「冬までおやすみする。今は夏だから」
そう告げて女の子は巨大靴下の中に帰っていった。
俺は立ち尽くす。
足の肌色の靴下は、白い虫によってボロボロに食い荒らされ
手袋代わりの橙色の靴下も、爪や指が見えてしまっている。
「そうだった。今は、暑い夏だったな」
俺は白い虫だらけの地面に膝をつく。
ざくっ、と耳障りな鈍い音。
目の前には、女の子と一緒に作った雪だるま、
いや虫だるまがあった。
白い虫の死骸で固められた二つの大きな玉。
もげた足、宿主のいない触覚、千切れた羽。
僅かに息のある虫が、顔の表面でちろちろ動いている。
優しくにっこり笑顔を作っていた黒い靴下の口が、
虫歯だらけの歯を見せつけていた。
そんな虫だるまの表情も、白くなっていく。
激しさが極まった虫の吹雪は、虫だるまも俺も
紫色の巨大靴下でさえも、埋め尽くしていった。
暑さは夏の特権だから仕方がない、と軽々しく諦められない猛暑の今日。
俺は目を覚ました。古ぼけた木目の縁側がすぐ横にある。
まばたき数回。がばっと身体を起こす。
「やはり、夢だったか」
目の前には日光で煮えたぎった池と、
日焼け部分を気にしてポーズをとっている松の木があった。
「途中までは最高に冬を満喫していたのに……。
いや、最初からあの雪は」
ぶるっと身体が震える。
両腕をさすって、嫌な思いをしてまで獲得した寒気を払いのける。
「それにしたって、あの靴下の女の子は結局ナニモノだったのだろう」
腕組みをして思案する。
終始白い虫を嫌って、巨大な紫色の靴下に引きこもっていた女の子。
紫色の靴下?
俺はあの靴下をどこかで見たような気がして、慌てて立ち上がった。
居間に行くと、分厚いメガネをかけて本を読んでいるおばあちゃんが居た。
「おや、何か探しモノかい?」
騒がしく来た俺を咎めることもなく、
本から視線を離し、柔和な笑みを向けてくれるおばあちゃん。
「おばあちゃん、冬物の靴下ってどこに仕舞ってあるかわかる?」
「ああ、それならそこのタンスにおいてあったかのお。
一番下か、その上か」
おばあちゃんが示したタンスに飛びつく。
一番下のタンスを開けるとシャツや股引が出てくる。
さらにその奥を探っていくと、あった!
肌色、橙色、赤色、見覚えのある靴下たち。
そして、手編みの毛糸で繕った紫色の靴下を発見した。
あの女の子の入っていた靴下。
畳の上にそれらを広げた。
すぐにそれらが正常な状態でないことに気がつく。
「おやまあ。虫に食われちまってるねえ」
穴だらけの紫色の靴下をおばあちゃんは手に取った。
「わしのお気に入りがほれ、こんなになっちまって」
愉快そうに靴下を振って、目の前で見せてくれる。
「夢と同じ箇所」
夢の中で見た時と同じ箇所に穴が開いている。
ここの、かかとに近いところの小さな五つの穴は、
女の子の顔と手足が出ていたところだ。
「よおく気がついてくれたねえ。さっそく塞いでやらんと」
よっこいしょ、とおばあちゃんは立ち上がって裁縫道具を取りに行く。
俺は紫色の靴下の中に手を入れて、ひっくり返した。
「やはり、居たか」
畳の上に転がったのは見慣れた小さな女の子、
ではなく見慣れた白い虫だった。
「他にも居るな。靴下を食い荒らす白い虫め」
俺はティッシュペーパーを畳の上に広げて、
靴下を引っくり返して白い虫を探していった。
白い虫の集会所じゃないかと思うぐらい、次から次へと出てきた。
「お前さん、わけえのによく平気で触れるねえ」
白い虫を取り除いた紫色の靴下に糸を通しながら、おばあちゃんは感心する。
「大量のこいつに生き埋めにされたからね」
苦虫を噛み潰した顔で、俺は摘み上げた。
そうして確認しうる全ての白い虫を取って、
ティッシュペーパーを丸めた。
そこに黒いマジックで眠たそうな女の子の顔を描き、
てるてる坊主にして縁側の軒先に吊るした。
もう白い虫が降ってきませんように。
感想など残して頂けると嬉しいです。