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「何故君と結婚したいと思ったか?簡単さ。君がとても可愛かったから」
「だって、一度しかお会いしてなかったのに」
「はははっ、君だって一度も会っていない男と結婚したじゃないか。
まあ、本当は会っていたけどね」
未だにエルノワは、ヴァインとはじめて会った時の事を思い出せないでいる。
「はじめての出会いが、ヴァインだけの思い出だなんてなんだか悔しいですわ」
「確か私が九歳か十歳の頃だし、エルはもっと小さい七、八歳だろう?覚えていなくて当然だ」
「でも貴方は覚えていらっしゃいますわよ?」
「だって君は他の誰とも違う特別だったもの。運命だったのさ」
わたくし達夫婦の間には、共通する話題がほとんどなかった。
会ったのは一度きりで、ヴァインしか覚えていないし、それ以外となると、今度はわたくしが家にこもってずっと絵を描いていたので知らない事ばかりになる。
それでも、不思議と話題が尽きる事がなかった。
楽しかった。
「おや、このスケッチの風景は、クニッソ山脈をフロスティ領から我が領に向かう方向からの眺めではないかい?
ああ、やっぱり。よく遠乗りにいったよ。あの辺りは開けていてとても眺めがよくてね。一度通っただけであの場所を描くとは、さすが私のエルだ」
「はははっ!一分しか見れなかったのかい?それは悪い事をした。でも私は君の側仕えに感謝しなければならないな。
放っておいたら、すべて描き上がるまで君との再会はお預けだった」
「エル、エル」
名前を呼ばれるのが心地良い。
ヴァインは毎日、手袋の上から左手薬指にキスをする挨拶を欠かさない。最近少し慣れたと思っていたのだけれど、
「耳」
とヴァインが笑いながら、自分の耳をチョンチョンと指さしてこちらを見る。
「...?」
「赤いよ」
言われて、慌てて両手で自分の耳を覆い隠す。
「ははははっ。素直で可愛らしい耳だ。主人の変わりに気持ちを教えてくれる」
手紙の中ではあれほど紳士であったヴァインは、人をからかったり、妙に意固地であったりと存外子どもっぽい所のある人であった。
それは日常の行動でも、いくつか見てとれた。
例えばエルノワの目の前で咳混んで呼吸が覚束無くなっても、決してエルノワに自分の世話はさせなかった。触れる事だけは許さなかった。
例えばいくら体調がすぐれない日であっても、意識がある時は左手にキスの挨拶は欠かさない。
自分の意識があまりない時でも、絵を描きながらでいいから、側にいて欲しい、など。
エルノワもヴァインの側から離れなかった。
朝夜とも問わず眠ってしまうヴァインは、目を覚ます時間も疎らだ。
彼が目を覚ました時に一番最初に顔を見せてあげたかった。
ヴァインの部屋は広かったので、エルノワのベッドなどを持ち込み、本当に常に一緒にいるようにした。
水を飲ませたりぐらいは許してくれるようになった。
目覚めた時間が昼間であれば、カーテンを開けて空を見せたり、夜であるならば美しい月夜には共に月と星を眺めたり。
ヴァインは自分が咳をしたり吐いてしまう姿を見せたくないと、最初難色を示していたが、
「夫婦が別々の寝室だなんて。不仲のようで嫌ですわ。
わたくし達はこんなに仲良しですのに。ねぇ、旦那様?」
としつこく言い聞かせ、許可を取る前にさっさとベッドを持ち込んでしまった。
「私の奥さんは、随分と大胆だ」
と言われれば、
「わたくしの旦那様はちょっと頑固な所がおありですの。ですからわたくしも負けてられませんのよ」
と返す。
「困ったなぁ。...でも、君が近くにいてくれるのは、心強いよ」
「わたくしも、いつもヴァインが近くにいてくれて、心強いですわ」
「...私はもう、動く事もままならない。何かあっても君を守れないのに...?」
「動く事が必要ならわたくしがしますわ。守るとはどうすればいいのかわかりませんけれど、頑張ってわたくしがヴァインをお守りしますわ。わたくしの旦那様がこうしてわたくしの側にいてくださる、これ以上に心強い事などありませんわよ?」
心から思っている事を、伝える。
貴方は貴方で、ただ存在してくれているだけでいいのだ。
それ以上など、何も望まない。
「エル...。エル。私の奥さん。
私は君に逢えた事を神に感謝するよ」
震える声がこんなにも愛おしい。
「なら、わたくしはヴァイン、貴方に感謝しますわ。
貴方がわたくしと貴方を出逢わせてくれた」
「...なんだか、ややこしいね」
「ふふふ、そうですわね。ややこしいですわね」
「でも、楽しい」
「ええ、楽しいですわね。とても」
意味があるかと問われれば、少し考えて、特にはないかなと答えるような、何気ない会話。
それがこんなにも楽しくて幸せだ。
幸せだからこそ、恐ろしい。
おやすみなさいと目を閉じたら、もう二度と目覚めないのではないだろうか。
もう二度と声が聞けなくなるのではないだろうか。
彼が、消えて居なくなってしまうのではないだろうか。
...死んでしまうのではないだろうか、と。




