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結婚後の生活は、本当に何も変わりのない今まで通りの生活であった。
幼い頃から続けてきた、同じ生活。
最大であり、唯一の心配事であった結婚という問題がなくなった為、エルノワは筆がのっていた。
しかも、今まで描いた絵はもはや屋敷に飾る場所もなくなってきていて、だからと言って我が家から持ち出すわけにも行かず。
溜まっていく一方であったのに、送り付けても良い場所が出来た。
相手は喜んでくれて必ず感謝とエルノワの絵を褒める言葉を綴った手紙をくれる。
愛しい妻へとの言葉と共に、ネックレスなどの宝石が贈られる事まであった。
さらに季節ごとにも届けられる様々な贈り物の数々に、お飾りの妻にまで気を使って下さるとは、ヴァイン様はなんてお優しい、気づかいのある方なのかとエルノワは関心しきりであった。
十九歳で結婚して四年。
絵と手紙でのやり取りは続いており、エルノワの中でヴァインは同士のような存在になっていた。
会った事もなく、姿も声も、何も知らない。
それなのに、家族であり妻であり。
まるで近くに共にあるような。
なんとも不思議な感覚であった。エルノワにとって大切な人でありとても好感は抱いているが、恋心と呼ぶには文字の中でのヴァインの人柄しか知らない。自分でも旦那様にむける気持ちは言葉に表しにくい感情だ。
「エルノワ、大事な話しがあるのでキリのいい所で私の部屋に来なさい」
いつものように絵を描いていると、深刻そうな顔をした父に呼び出された。
「あんな顔をして...、何かあったのかしら?」
今日はもう終いにしようとしていたので、軽く片付けをしてそのまま父の部屋へとむかう。
「お父様、エルノワです。宜しいでしょうか」
「入りなさい」
入ると、真面目な顔で父が言った。
「単刀直入に聞く。ヴァイン様に会いたいか?」
え?何故今になって?
今までこの四年間、そんな話は一度もなかったのに。
「急にどうしたのですか?ヴァイン様に何かあったのですか?」
「ヴァイン様がお前に会いたいとおっしゃられている。お前が会いたくないのであれば断ってもかまわないそうだ」
ヴァイン様がわたくしに会いたいとおっしゃって下さっている。
わたくしからお断りする理由はありません。
「会いたいか、会いたくないかで言えばお会いして、直接今までのお礼を申し上げたいとは思いますが...」
「そうか...」
「あの...、いけませんでしたか?」
最初から難しい顔をしていた父が、会いたいと伝えた後さらに険しい表情になっている。
「そうではなくて...。ままならんものだな」
いつも落ち着いている父が、ガリガリと頭を掻く。
こんな仕草は初めて見たかも知れない。
「私からお前に伝えるべきかどうかの判断に迷っている。
迷っているうちは伝えないでおこうと思う。すまないがもう少し時間をくれ。
ああ、辺境伯領へむかう準備は急いでしておいてくれ。なるべくすぐに発って欲しい。
場合によっては数日から数ヶ月の滞在にもなるかもしれない。必要なものはなんでも準備しよう」
「す、数ヶ月!?」
一体どういう事なのだろうか。突然のお呼び出しに、長期滞在まで。
エルノワは絵に関わる事以外でほとんど屋敷から出て過ごした事がない。
ときたま花の時期などの季節の盛に、別荘へ長期滞在して作画に打ち込む事はあったが、それ以外の経験がないのだ。それも、長くて一ヶ月程度。
はじめての他家への長期滞在が数ヶ月。考えるだけで気が遠くなりそうだ。
「やっぱり取りやめにする事は...」
「...会いたいと思う気持ちが少しでもあるなら、お受けしたほうがいい」
「そうですか...、うう」
わたくしが子どもの頃からの側仕えや侍女達も連れて行く事になり、一気に屋敷な中が騒がしくなった。
「お嬢様は、画材の確認を中心にお願い致します」
滞在中に必要なものは皆に任せた、と言うかエルノワにはよくわからなかったので任せるしかないのだが。
言われた通りスケッチ用の用紙や絵の材料を準備する。
長期滞在への不安や、必要なものの準備に追われ、お父様が険しい表情をしていた事を忘れてしまっていた。
結局、出立当日、お父様に言われるまで、伝えるべきかどうか迷っていると言っていた何かの事を失念していた。
「直接、自分の目で見て知ったほうがいいのかもしれん。
ヴァイン様によく仕えるように。いつでも連絡するんだよ」
自分の目で見て、とは一体なんの事だろうか。いったい何が待っていると言うのだろうか。
お伺い致します、とむすんでヴァイン様へ出した手紙にも返事は来ていない。
「行ってみるしかありませんわね」
エルノワを乗せた馬車は一路ファーレンハウト辺境伯領へと向かった。