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エルノワにファーレンハウト辺境伯から結婚の申し込みがあったのは、彼女が十九歳の時であった。
当時エルノワは焦っていた。
理由は自身の結婚について。
貴族に生まれついたなら、政略結婚も当たり前、淑女たれ、可愛らしく女性らしく、寵を得る存在であれ。そして跡取りとなる子を生せ。
さすがにもう少し取り繕った言葉でではあるが、本来の貴族の女性ならばそう教えられて育つ。それ故、本心はともかくとして、考え方としてはそう思うようになって然るべきだ。
それは理解出来る。貴族とは領民あっての貴族であり、より領地を富ませる為の努力を惜しむべきではない。
わかっている。
わかってはいるのだ。
「でも、わたくしには無理ですわ...」
結婚なんてしたくない。
出来る事なら、絵と結婚したい。
エルノワは、物心ついた時から絵を描いていた。
いつから描いていたのか自分ではハッキリとした記憶がない程、ずっとずっと絵を描いて来た。
子どもの頃から絵が好きで。
好きと言う言葉では足りない。彼女の人生全てと言ってもよかった。
絵を描き出すと、呼んでも聞こえず、食事も取らず、睡眠も取らない。
人が日常で行う行動全てをやめてしまうので、彼女の母親や側仕えの者達は、キャンバスの前から彼女を引き離す事が仕事の中で大きな割合となった。
「エルノワお嬢様、構図を考えていて構いませんから、せめて髪の泡を洗い流すまでは浴室から出ないで下さいませ。
え?素晴らしい構図が浮かんだ?お嬢様!まだ流しきれてございません!お嬢様!お嬢様!まだ入浴は済んでおりませんよ!」
「エルノワお嬢様、手を動かしながらで構いませんから、口を開けて、咀嚼して、飲み込んで下さいませ。
はい!あーん。...あーん!止まっております!噛んで噛んで!
...ずっと噛んでいるのではなくて!飲み込んで下さいませ!
お嬢様!お嬢様!まだお食事は済んでおりませんよ!」
一旦絵に夢中になると、始終こんなにありさまであった。
彼女の両親であるフロスティ子爵と子爵夫人は、色々と諦めた。
以前に一度、流石にこれはおかしいのではないか、と彼女の為にと絵を描く事の一切を禁じた事がある。
エルノワが七歳の時であった。
夫妻はエルノワが可愛くて仕方がなかった。
はじめての子で、子爵と夫人のいいとこ取りをして生まれたかのような容姿はそれは愛らしかった。
それ故に彼らは後悔していた。幼かった彼女が絵を描いた時、褒めてしまった事を。褒められて喜んだ彼女は、また絵を描いた。
親の欲目をなしとしても、幼い少女の絵はとても素晴らしいものだった。
この子には才能がある、と画材を与え、美しい景色をみせ、完成した絵を褒め讃えた。
それがいけなかったのではないか、彼女がこうなったのは、自分達のせいではないかと、深く深く後悔していたのだ。
何度絵を描く事を止めさせようとしても、一向に効果がない。
せめて普通の女の子のようにはなれないか。
心を鬼にし、全ての画材を取り上げ、何も無い部屋へ半日閉じ込めたのだ。
結果からすると、彼女は死にかけた。
水も食料もある部屋で、たった半日で瀕死になった。
その時の光景を見てしまった侍女は、その時の事は今でも多くは語らない。
あまりにショックだったようで、聞かれても答えたがらないのだ。
子爵夫妻はエルノワが心配だったが、寝ている時間以外でこれだけ彼女が絵から離れている事が出来たなら、きっと少しづつ改善して行くのではないかと期待もしていた。
もうすぐ晩餐の時刻だ。
夫婦でエルノワの閉じ込められている部屋に向かう。
部屋の前に控えさせていた侍女から、「ずっとお静かになさっておられました」との報告を聞きながら鍵を受け取り、中へ声をかける。
「エルノワ、どうだい?少しは絵から離れられそうかい?」
ノックにも、呼びかけにも返事がない。
「拗ねてしまったか」
「時間が長過ぎましたかしら...、可哀想な事をしましたわ」
「何もない部屋では暇だったろう。寝てしまっているかも知れない」
「エルノワ、開けるよ」
ガチャリ、と鍵を開け扉を開いた瞬間に、二人の目に飛び込んできたのは赤い色。そしてその中で倒れている我が子。
屋敷の中に響き渡った悲鳴は、子爵夫人のものであったのか、その場にいた侍女のものであったのか。
「誰か医者を!早く医者を呼んでくれっ!!」
「エルノワッ!ああ、なんてこと!エルノワ!エルノワ!」
叫ぶ子爵、我が子を抱きしめ泣きながら名を呼び続ける夫人。
侍女が転がるように駆け出し、人を呼びに走る。
騒ぎを聞きつけた使用人達が続々と集まり、大変な騒ぎとなった。
エルノワが倒れていた床には、掠れ掠れになってはいるが、真っ赤な夕焼けの景色が描かれていた。
そう、エルノワ自身の血液で。
彼女は窓から見えた夕焼けを描く為の絵の具、画材としてそれを選んだのだ。他に一切の選択肢がなかったが故に。
後日エルノワは、
「だって、他には水とお菓子しかなかったのよ?クッキーやフィナンシェで夕日は描けないわ」
と言ってのけた。
両手の指全部の皮膚を順に噛みちぎり、出血多量で死にかけながら、最後は意識を失って倒れる。そこまでして床に描いた夕焼けの景色は、描いた本人の、
「乾いてしまうとダメね。やっぱり絵の具じゃないと色が変だわ」
との一言で撤去され、床も張り替えがされた。
それでも、屋敷の人間には、血の夕焼けの間と呼ばれ恐れられているという。
翌日よりしばらくは両手に怪我が傷んだ為か、無理な作画には走らなかったらしい。痛みに呻きながらも少しづつ描いてはいたそうだが。
これがあって、子爵は悟った。
我が娘は生きていてくれるだけで上出来なのだと。
自分で呼吸をし、排泄し、生きている。
それで十分なのではないかと。
食事や入浴、勉強だって絵から気が逸れている時なら出来る。
五体満足で、あまり病気もしない元気な身体で生まれてくれた。
生きて笑顔で過ごす、これ以上何を望むのかと。
子爵夫人は悟った。
自分達にとってはこれほど愛しく可愛らしい娘でも、貴族の娘としてはきっとエルノワはやって行けないと。
跡取りはエルノワの弟、長男であるバリトワがいるから問題ない。
そしてエルノワ本人も悟った。
自分はどうも、まともな人間とは呼べないようだ。
普通の女の子とやらは、絵を描かないし、執着もしないのだそうだ。
信じられない。
絵を描かずにどうやって生きればいいのか。
普通から外れてしまっているのであれば、せめて家族や家の者達にあまり迷惑をかけないよう、異端だと見られないよう努力しなければいけない。
わずか七歳の少女は、普通の人間に見えるように振る舞う努力をはじめた。
ある意味それぞれが前向きに考えて行動をはじめたのだが、残念ながら、この時一つの大きな問題が先送りにされたのである。
彼女は結婚にはむかないだろう点が。
子爵夫妻の、成長すればあるいは...、と淡い期待もあって。