星の海を泳ぐ柩
地球は美しい星だと、何世紀も昔、人々は誇り高く思っていたらしい。今では、他の星の美しさに唇を噛む日々だ。
――火星人向けの食糧が一カ月分。トルド星からの贈り物で、リータとビヨンダの詰め合わせ。宇宙浮遊用のエネルギーパック。酸素ボンベの追加。あと、囚人がひとり。
「毎月見るけど、囚人なんか何に使ってるんだろ……」
一昔前は、地球の発展の為の『積極的協力』により、たくさんの死刑囚を研究所の外から半強制的に連れてきては、死刑より恐ろしい人体実験を行っていたらしいが、それはもう政府によって禁止されている。とはいえ、この研究所は今や国を代表する大企業だ。政府もおいそれと口を出せないのが現実であった。
そんなことを考えながら、手元の紙の情報をパソコンに打ち込んでいると、背後で扉が開く音が聞こえた。
「兄さん。進捗はどう?」
振り返ると、弟のアキが立っていた。白衣の裾を翻しながら、颯爽と部屋を横切り、僕の傍までやってくる。
「もう少しで終わるよ」
「そっか! 偉いね、随分仕事が早くなった」
「……お前に言われても何も嬉しくないんだけど」
――弟のアキは弱冠二十歳にして、父親である社長の右腕役を務めている。その誰にでも好かれる明るさと明晰な頭脳は、地球内外から注目を受けているそうだ。
本当に出来た人間だと思う。社会に適合できなくて、親の脛をかじっているこんな人間にまで、仕事を与えて、居場所を作ってくれているんだから――今時、子供でも出来るような簡単な作業をしたくらいで、「偉い」と褒めてくれるんだから。
「その仕事が終わったら、いつも通り、リリーにご飯あげてくれる? リリー、兄さんがいくと喜ぶんだよ」
「無表情なのに喜ぶとか、わかるんだな」
嫌味のつもりだったが、アキは人が良さそうににこにこと微笑んでいる。
「……あ、そうだ。これ、あいつにやってもいいか?」
机の引き出しを引き、中に入れていたクレヨンと画用紙を取り出した。僕が小さい頃に使っていたものの余りだ。アキはそれを冷めた目でちらりと見ると、すぐにまたにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「もちろん! 兄さんは優しいね。本当に偉いよ」
アキはそれからも数言、僕を褒める発言を繰り返し、そして部屋を出て行った。
――『偉い』なんて、自分より下の人間に使う言葉だ。
僕は机の引き出しを閉め、虚しくなって溜息を吐くのだった。
宇宙人の存在が判明してから早数百年。今や地球人たちは宇宙人との交流と研究に心血を注いでいる。地球人と同等、もしくはさらに高等な知能を持つ宇宙人とは異星間交流を、地球人以下の知能、あるいは獣的な宇宙人は確保、いわゆる拉致を行って人体実験を行っているのだ。
リリーはその後者の方の宇宙人だった。最近新しく発見された惑星、ルボル星の人型生命体。被験体番号はJK―00。見た目は人間の少女そっくりであるが、感情によって表情を変化することがない。嬉しい時も悲しい時も真顔である――そもそも、知識のない僕には彼らルボル星人に感情というものがあるのかどうかさえわからないが。
右手にはよく焼けたステーキの載った皿を、左手にはクレヨンと画用紙を持って、僕はリリーが収容されている場所に向かった。被験体番号:Jと書かれた黒い扉の前に立つと、僕が首からぶら下げているIDカードに反応して、扉が勝手に開く。その向こうには監獄のような廊下が伸びている。左右を透明な壁が挟み、その向こう側には様々な宇宙人が個別に収容されていた。中には危険度の高い宇宙人もいて、僕が廊下を歩いていくと、奇声を上げて透明な壁に激突してきたりする。とはいえ、もう慣れた。
Jの廊下をしばらく進むと、やっとお目当ての場所に着いた。透明の壁越しに、リリーの姿が見える。一人でボールを突いて遊んでいたらしい彼女は、僕の姿を認めると、ボールを投げだして壁のすぐ傍まで近づいてきた。
「やぁ、リリー」
壁と同じく、透明な扉に引っ付いているスキャナーにIDカードを通す。僕は卑しくも親の脛かじりの身であるが、「弟の僕が兄より権限を持っているのはおかしいから」と、アキが、社長である父親に頼み込んでくれたおかげで、僕のIDカードはこの施設の大抵の場所で通用した。
扉を開けて中に入ると、リリーが僕の周りをぐるぐると歩き回った。動きに合わせて金色の長髪がふわふわと揺れる。大きくて丸い真っ青な瞳がキラキラと輝いてステーキを見つめていた。
テーブルにステーキを置いてやると、リリーはきちんと椅子に座り、両手を膝の上に置いた。僕がナイフを使ってステーキを六等分にしてやり、フォークを渡すと、彼女はぶすりと肉を突き刺して無言のまま食べ始めた。リリーの見た目は人間で言う十八歳くらいだが、知能は幼稚園児か小学校低学年くらいのもので、放っておくと、大きなステーキを丸ごとフォークで刺し、そのままかぶりついてしまうのだ。その様子を見かねて、僕がステーキを切り分けてやると、その日から、彼女は僕がそうするのを待つようになった。
「美味しい?」
尋ねるが、リリーは返事をしない。僕らはお互いに言葉がわからなかった。それに、彼女は表情すら変えやしない。彼女が何を思っているのか、僕にはさっぱりわからない。
――だから、たとえ、リリーが罵声を吐いても僕にはわからない。
幼い頃から、罵声を浴びて生きてきた。
子供の笑顔は宝物、と人は良く言う。子供が無邪気に笑うと、それだけで幸せな気分になるのだとか。僕は信じられない話だ、と思っていた。
子供の頃のことをよく覚えている。僕の顔を見た人は、みんな、顔をしかめていた。にこりと笑いかけたりすれば、幸せになるどころか、おぞましいものを見たような目をして逃げていった。そして、「何て醜いの――」と囁いていた。中には真正面からそう言ってくる人もいた。僕はまだ幼くて、それがどういうことなのかよくわかっていなかった。どうしてみんな僕のことを嫌うのだろうと、何もわからずに毎晩泣いていた。
自分の顔が他人を不快にさせるほど醜いのだと知ったのは、小学校にあがった頃だった。心無い、いや、正直なクラスメイトが、僕の顔なんか見たくないから、もう学校に来るなと言い放った。それを見咎めた先生が言った。どんなに個性の強い人でも学校にくる権利はあります、と。僕は先生が真剣な口調でそう言うのを聞いて、僕はそれほどまでに醜いのだと知った。その先生は、とてもいい人で、生徒の話をじっくり聞いてくれたけど、僕との個人面談だけは、いつもどこか違うところを見ていた。
普通の子供の笑顔が、どれほど素晴らしいものなのか僕は知らない。素直な子供たちは、誰も僕なんかに笑いかけてはくれないからだ。それでも、偽物の笑顔を浮かべて、その裏で僕への嫌悪感を押し殺している大人たちと会うよりはずっとましだった。偽物の笑顔に会い、その裏側に気付くたび、僕は耳には聞こえない罵声に身を刺されていた。
その点、リリーは罵声を吐くこともなければ、表情も変えない。その裏で何を考えていようが、僕にはわからない。刺さらない。僕はリリーの傍では、安心して笑っていられた。
三分ほどでリリーはステーキを平らげ、それからやっと、僕が画用紙とクレヨンを持っていることに気が付いた。彼女が首を傾げている様子を見ながら、僕はテーブルにそれらを広げてやる。
「これはお絵描きをする道具だよ」
そう言ったのだが、リリーは何を勘違いしたのか、黄色のクレヨンをむんずと掴むと、僕に向かって投げつけてきた。
「違う、違う! これはこうやって絵を描くんだ」
投げられたクレヨンを拾い上げ、画用紙にぐりぐりと絵を描きつける。リリーを書こうと思って、いろいろ試してみたが、僕は不器用だった。目の青色と顔の肌色が混ざって微妙に怖い顔になる。僕は自分の画力にがっかりしながらも、その絵を指差して、次はリリーを指差した。
「これ、リリーね。こうやって絵を描く。わかる? リリーの星にお絵描きの文化とかなかった?」
リリーは見様見真似で真っ赤なクレヨンを掴み、画用紙にぐりぐりと塗りつけた。真っ赤な丸が出来たのを見て、彼女は甲高い奇声を上げる。それから何かまくし立てるように叫んでいたが、何せ無表情なので何が言いたいのかわからない。リリーもしばらくして話しかけるのは諦め、クレヨンで絵を描き始めた――伝わったようだ。
僕はふぅと溜息を吐きながら、リリーの隣の椅子に腰かけた。そこでやっと、透明な壁の向こう側に弟を見つけた。
「やぁ、兄さん。リリーはお絵描きできそう?」
「今、やってると思うよ。ルボル星にも絵を描く文化はあるみたいだ」
「伝わったんだ。兄さんは凄いなぁ。リリーにボール遊びを教えたのも兄さんだもんね。僕が何か教えようとしても、何も聞いてくれないしな、その子……」
そう言うアキが久々に悔しそうな顔をしたので、僕は少し誇らしい気分になった。兄さんは「凄い」なぁ、だった。「偉い」なぁではなかった。
「根気強く接したらいいんだよ。言葉は通じないけど――」
「あ、ちょっとごめん、兄さん」
調子に乗って話をしようとしたら、アキのポケットで通信機が鳴った。彼はそれを耳に当て、ぎょっと目を丸くする。
「――ごめん、兄さん、急ぎの用だ。リリーをよろしく。話はまた今度ね」
「あ、あぁ……」
アキは早口でそう言うと、珍しく走って去っていった。余程の連絡があったらしい。そういう様子を見ると、ちょっと感心されたくらいで調子に乗った自分が恥ずかしくなった。
リリーは一心不乱に画用紙に絵を描いている。夢中になって色を選び、クレヨンを戻す手間も惜しくてテーブルに投げ捨てている様子は、地球人の子供が絵を描く様子と何も変わらない。
リリーは頭が悪い。せっかく連れてきたというのに、言葉も分からず、表情の変化もないので、研究が非常に難儀しているらしい。身体に関する検査は、人間とほぼ同値かそれ以下の性能しかないことが早々に判明してしまった。身体検査以外で、コミュニケーションがとれない状態でも行える実験は少なく、研究者たちは扱いに困っているそうだ。毎食のステーキを用意するのも手間がかかって大変だという。
役に立たず、手間がかかり、頭が悪い。リリーへの心無い言葉で痛むのは僕の胸だった。それらの言葉は僕に向けられるものと全く同じだったからだ。
「……だからって、君は僕なんかと一緒にされるのなんかごめんだよな」
僕と違って、リリーは眩いほどに美しい女の子だ。
ぽつりとそう呟いたが、リリーはお絵描きに夢中で、こちらを振り返りもしない。相変わらずの無表情だが、何となく楽しそうに見えた。
「どれだけ君が馬鹿にされていても、僕だけは君のことを大事に思っているからね」
僕はそう言って、リリーの頭を軽く撫でた。リリーはこちらを見ることもなかった。
――そして僕は見た。
リリーにお絵描きを教えた、次の日のことだった。僕は今日も一人きりの部屋で簡単な仕事をしていたが、いつもリリーへご飯を運ぶように言ってくるアキが、いつになっても来なかった。
仕事に夢中になるあまり、リリーのことをつい忘れてしまったのだろう。僕はそう思った。そして、可哀想なリリーの様子を見に行こうと部屋を出た。片手にはオリガミを持っていた。宇宙人と出会うより遥か昔に、日本で流行っていた遊びだ。僕は不器用だからあまり好まないが、手先を動かすのが好きな研究者の中で最近流行っているそうだ。昨日のリリーのお絵描きの様子からすると、このオリガミも気に入ってくれるんじゃないかと、僕は思っていた。
そして僕は見た。
リリーの部屋に、リリーと、そしてアキがいた。リリーは、アキにステーキを切り分けてもらって、いつものように食べていた。アキはその様子を隣の椅子に座って眺めている。僕は何故か二人から隠れるようにしながら、その様子を見ていた。アキは何事かをリリーに話しかけているようだったが、リリーは何の反応もなくステーキを食べている。
アキが手を伸ばし、ステーキを食べているリリーの頭を撫でた。すると、リリーはステーキからアキへと視線を移し、彼の顔をじっと見つめた。アキは微笑む。リリーはしばらくその顔を見つめた後、またステーキを食べ始めた。
――僕は居たたまれなくなってその場を飛び出した。持っていたオリガミを両手でぐしゃぐしゃに握り潰す。羞恥と悔しさとが同時に沸き上がってきた。
アキとリリーの様子は、普段の僕らとほとんど変わらなかった。いや、昨日、僕が頭を撫でた時は、リリーは振り返りさえしなかったのだ。
何が、僕だけは君のことを大事に思っている、なのだろう?
何て、一方的な想いなのだろう。
わかっていたのに、わかっているつもりだったのに、リリーにとって自分は特別な存在ではない、という事実がやけに胸を締め付けた
*
その日の夕暮れのことだった。
「――だから、兄さん、リリーを処分してもいいかい?」
え、と聞き返したつもりだったが、声にならなかった。僕はパソコンから顔を上げ、アキを振り返る。彼は不満そうに両肩を竦めたが、しかし顔は笑っていた。
「話、ちゃんと聞いてた? 新しいルボル星人を連れて帰ることが出来たんだよ。その人はリリーなんかよりずっと賢いし、器用でね、少し教えるだけで、もうかなり意思疎通が図れるようになったんだ。どうやら、リリーは向こうの星でも随分と出来損ないみたい」
「でも……」
出来損ない、という言葉が胸を刺す。
唾が喉に絡み、上手く言葉が出なかった。それをどう捉えたのか、アキは携帯式の液晶パネルを取り出すと、僕にその画面を見せた。画面に映っているのは、リリーと同年齢くらいの女の子だった。柔和に微笑んでいる。どう見ても人間に見えた。
「笑ってる」
「うん。表情がないのがルボル星人の特徴だと思ってたんだけど、違ったみたいだ。資料を作り直さないと。連れて戻るのが難しいとは言え、たった一体で判断するのは駄目だね。まぁ、今回は運が悪かったとして……」
「だ、だったら、個体差を調べる為にも、リリーは生かしておくべきじゃないか?」
「必要ないよ」アキは優しげに目を細めた。「もう身体のデータは取り切ってあるから。ルボル星人はこの星での生命維持が大変でね、二体もいると厄介なんだ。だから……」
「でも……、お前は……」
今日の昼間に見た光景が脳裏に焼き付いていた。僕が言い淀んでいると、アキは不思議そうな顔をして首を傾げた。
「僕が? どうしたの?」
「昼に、リリーと仲良さそうにしてたじゃないか。それなのに、処分してしまって、お前は辛くないのか?」
やっとのことで言ったのに、アキはきょとんとしていた。しばらくして言葉の意味を理解したように、彼はあぁと声を上げて笑う。
「別に仲良くなんかしてないよ? 僕にとってリリーは研究対象でしかないんだもの」
そのさらりとした言い方から、それが嘘ではなく、本当の事なのだとわかった。僕にとっては仲が良さそうに見えたあの状況も――僕がリリーとどこかで通じ合えていると思っていたあの日々も――アキにとっては、そして、リリーにとっては、大したことではなかったのだ。
「大丈夫だよ、兄さん」アキがもう一度写真を見せてくる。「新しい子も兄さんに世話をしてもらうから。ね? ホラ……可愛い女の子だよ」
「――お前は」
反射的に言葉が飛び出した。
「お前は、リリーが可愛い女の子だから、僕が相手してると思ってたのか?」
するとアキが面食らった顔になった。明らかに図星の様子だった。僕の表情を見て、アキは自分が兄を侮辱したと察したらしい。気まずそうに顔を歪めたが、しばらくしてまた笑顔になった。
「そんなこと、思うわけないじゃないか。ねぇ、兄さん。リリーを処分するよ。構わないね?」
僕は反対しようとした。ここで反対しなければ、リリーも、僕のプライドも、全部全部終わってしまう。しかし、アキの優しい笑みの奥にある、冷ややかな侮蔑に晒されると、僕は言葉が出ないのだった。そういう風に、僕は生きてきたのだった。
あぁ――
僕とリリーの日々が脳裏に蘇る。それが、さっき見たアキとリリーが並んで座っている光景と重なっていく。
気が付けば僕は首を縦に振っていた。
アキは満足そうに、褒めちぎるような言葉を並べると、また急いだ様子で部屋を出て行った。扉が閉まる音を聞いた後、今まで感じたことのないくらいの虚しさが襲ってきた。僕はその虚しさから逃げるように部屋を飛び出した。
ふと気が付けばJと書かれた黒い扉の前にいた。僕の優秀なIDカードに反応して扉が開く。このまま廊下を歩けばリリーのところへ着く。僕はふらついた足取りで廊下を歩いた。リリーの部屋に近づいていくと、ガチャガチャとドアノブを捻り続ける音が聞こえてきた。静かな廊下に響き渡る無機質な音に、ぞっとするものを覚える。しばらく歩いていくと、リリーが透明な扉に張り付いて、一心不乱にドアノブを回しているのが見えた。リリーは僕を見つけると、奇声を上げながらドンドンと扉を叩く。僕は思わず悲鳴を上げそうになった。
逃げたいに違いない。きっと自分の運命を知ったのだ。リリーはギャアギャアと高い声を上げて扉を叩いている。
「ごめん……ごめん、リリー、守れなくて……ごめん……」
リリーへの罪悪感と何とも言えない悲しさが涙としてこみあげてくる。僕が俯くと、リリーは扉を叩くのを止めた。でも、きっと、リリーには涙の意味は伝わらない。今まで僕の感情が彼女に通じたことなんか、一度もなかったのだ。常に僕からの一方通行だった。僕はそんなことを思いながらも、溢れ出る涙を手のひらで拭って顔を上げた。ここで泣くのは自分を慰め、正当化するだけだと思った。
――そして、目の前に広がるものを見て驚いた。
リリーは透明な壁の向こう側で、僕に見えるように画用紙を広げていた。前に僕が書いた下手くそなリリーの隣に、もっと下手くそな絵が描き足されている。僕らしき、人間の絵だ。
色同士が混ざり合って、肌が灰色になっている。腕は肩ではなく首のところから伸びているし、胴体に反して足が短すぎ、また靴が異様に大きい。あと髪の毛の本数が少なすぎる。僕はまだそこまでハゲてない。
あまりの下手さに思わず笑ってしまうと、リリーは僕の書いたリリーを指差した。見てみると、眼の色の青と肌の色が混ざり合って気持ち悪い色になっていた顔に、赤色の線が付け足されていた。両目の下の部分に、一つ、大きく、両端が上を向いている半弧の赤い線。
「? 何これ?」
僕が首を傾げているのにもお構いなしで、リリーはドアノブを軽く回し、扉を開けろと催促をする。僕は自分のIDカードをスキャナーに通し、扉を開けた。その途端、リリーは画用紙を僕に突き出してくる。思わず受け取ると、リリーはもう興味を失ったようにくるりと踵を返した。
リリーはそのまま小走りで部屋の隅へ向かう。そこには遊び道具の詰まった箱が置いてある。彼女はその中からボールを取り出した。ぽんぽんと床で跳ねさせ、それから僕の方を向く。
――遊ぼう。
僕にはリリーが微笑んだように見えた。そしてもう一度、画用紙の中のリリーを見た。
リリーは、画用紙の中で、僕の隣で、笑っていた。
*
――父もアキも僕を舐めすぎだ。僕という人間の愚かさを舐めすぎだ。
リリーの手を引き、廊下を駆け抜ける。行先は緊急脱出用の超小型宇宙船・ポッドが置かれている場所。ボタン一つで遥か遠い星まで逃げられる優れもの。許容人数は二人。十分だ。
途中でアキの部下と出会った。眠そうな顔をしていた彼は、僕とリリーが駆け抜けていくのを見て、一瞬で青ざめた。怒鳴るように叫ばれ、すぐに追いかけられたが、次の扉を通過してしまうと、彼はもう追いかけてこなくなった。彼にはここまでくる権限がないのだ。こんな卑しい僕にはあるのに。父も、アキも、僕を舐めているから。
「乗るんだ、リリー」
緊急用のポッドの使い方は流石に僕でも知っている。リリーをポッドの中に押し込むと、彼女は怯えたように叫び声を上げた。僕はとりあえずそれを無視し、ポッドとの連絡部屋に誰も入ってこれないよう、扉の前に椅子を並べた。原始的な方法だが、今時これが一番効く。
それからポッドに飛び乗ると、リリーが怖がって震えていた。設置されている操作卓の電源を入れ、目的地を入力すると、その星の容貌が画面に映る。白と赤のコントラストが美しい星、ルボル星。リリーは液晶に映った母星を見て、途端に静かになった。その瞳の奥がキラキラと輝いている。
「兄さん!」
緊迫した声を上げながら、アキが扉を開けて飛び込んできた。しかし、椅子のバリゲードで立ち往生し、悔しそうに唇を食む。僕はアキがバリケードを突破する前に逃げ出そうと、ポッドの扉を閉めようとしたが、それより先に彼は叫んだ。
「リリーを連れて逃げるなんて無理だよ! ルボル星がどれだけ遠いか分かってるのか!」
「このポットの全速力で一カ月だろ! ギリギリ持つ!」
本当にギリギリだった。予備エネルギーまで全て使い切って、何とか持つかどうか、というラインだ。
「それまでの食料はどうするの!」
椅子のバリケードの向こうで、何故かアキが嘲笑した気がした。僕は無性に頭にきて、怒鳴るように言い返した。
「馬鹿にするなよ、基本的な食糧なら詰まれてるのは知ってるよ! それだって一カ月は持つようになってる!」
「リリーの食料が何か知らないの?」
僕は、肉だ、と答えようとして、ふと言葉に詰まった。
――何の肉だ?
僕が答えられないのを見て、アキはやれやれと言いたげに息を吐いた。その隠しきれない嘲笑で、僕はふと気が付いた
この会社に輸入されていたもので、アキがこんなに僕を侮蔑するほどに、特別変なものはなかった――月に一度、一人だけ、この会社に連れてこられていた囚人を除いては。
「――人間の肉か」
「そうだよ。少なくとも地球のものでは、人間しか彼らは食べられない」
アキはもう笑っていなかった。いつも笑顔の裏に隠していた侮蔑と嫌悪とを露わにしながら、椅子のバリケードを崩し始めた。彼がドンと押せば、そのバリケードは意外にも簡単に崩れてゆく。
「でも……でも、リリーは僕を襲ったりしなかったぞ」
「兄さんは生きてる魚を丸かじりするの? 豚にそのまま食いついたりする? 彼らもそう。よほど腹が減ってない限り、調理されたものしか食べない。彼らにとって僕らは魚や豚と同じなんだよ」
アキは不快感に溢れた表情をしている。バリケードが壊れていく。
「兄さん、いい加減、現実見た方が良いよ」アキが冷ややかに言った。「言葉も通じないのに、宇宙人と気持ちが通じ合うわけないだろ」
僕はリリーを振り返った。リリーは無表情で僕を見上げている。その腕に、この騒動でクシャクシャになってしまったものの、さっき僕に見せてくれた画用紙を大事そうに抱えていた。
画用紙に描かれたリリーは、笑っている。今、画用紙を抱えているリリーは悲しいほどの無表情だけれども、そんな彼女が描いた彼女自身は、子供のような無邪気な笑顔で笑っていた。
――それで十分だった。それで、僕には十分すぎた。
「僕を舐めすぎだよ。僕は、もっと馬鹿だぜ」
僕はそう言い、ポッドの扉を閉めた。閉める直前、アキがぎょっとした顔をしたのが見えた。
脱出のボタンを押せば、僕らは地球から抜け出せる。
僕は、すぐ傍で、やっぱり無表情で立ち尽くしているリリーの頭を撫でた。
大丈夫だよ。食糧なら、君の目の前にあるから。
命に代えて、君を母星に帰してあげる。
それが僕の愛だ。君への、君の笑顔への、せめてものお返しだ。
*
肉、美味しい。この部屋に連れてこられて、だいぶん経った。パパとママの顔を忘れてしまいそうだ。最近は痛いこともされない。暗い部屋にも連れていかれない。肉、美味しい。パパとママはしょっちゅうわたしに痛いことをした。それと比べたら幸せ。肉、美味しい。ここには誰もいないけど。肉、美味しい。美味しい肉を持ってきてくれる人は、いつもすぐにどこかへ行く。肉、美味しい。まぁ、何か言われても、何を言ってるかわかんないけど。肉、美味しい。でも、わからないのは、すごく、いい。怒られてても、馬鹿にされても、何もわからないんだもん。肉、美味しい。ここではひとり。肉、美味しい。誰もわたしをいじめない。天国みたい。
ある日、誰かがやってきた。肉を置いてもすぐにどこかへいったりしなかった。肉、美味しい。肉、美味しい。その人は、私の肉を奪おうとした。びっくり。怖い人。でもすぐに返してくれた。肉は小さくなってたくさんになってた。肉、もっと美味しい。肉、美味しい。その人はわたしが食べ終わるまでずっと待っていた。肉、美味しい。その人は、次の日も、その次の日も来た。毎日来た。毎日、私の肉を小さくしてたくさんにしてくれた。肉、美味しい。ある日、その人は丸くて柔らかいものをぶつけてきた。痛くなかった。けどむかついた。その人にぶつけると、その人は笑った。その人はまた私にぶつけてきた。私もまたその人にぶつけた。笑った。なんだか嬉しくなった。肉、美味しい。その人が来るたび、丸いもの、投げた。その人笑う。笑えない私に、笑う。私、笑わない、笑えない、けど、その人は笑ってくれる。ここ、天国だ。
肉、美味しい。その人、今度はいろんな色の棒を持ってきた。投げようとしたら違うみたいだった。それを白い四角にぶつけると、線や絵になった。お絵描きの道具だ! 私は描いた。描きたいものがあった。頑張って描いた。頑張って描いたのに、あの人、来ない。はやく来て欲しいのに。はやく見せたいのに。今日は、違う人が来た。違う人は、あの人みたいに、私の頭を触る。肉、美味しい。けれど、美味しくないような気もした。やっぱり、出来損ないの私を、あの人も、嫌いになったのかな。肉、まずい。あの人に、会いたい。笑ってほしい。私は笑えないけれど、もう一度でいいから、笑ってほしい。
出来損ないの私に笑いかけてくれるのは、あなただけだから。
*
――ある夜、ルボル星に一機の小型宇宙船が漂着した。ルボル星人は怯えて逃げ惑ったが、どれほど待っても宇宙船から何かが出てくることはなかった。しばらくしてから、一人の勇気ある若者が、宇宙船の扉を開けた。
その中では、幸せそうに微笑んでいる宇宙人の男と、彼に寄り添うように横たわっている少女の、二つの死体が安らかに眠っていたという。
所属する文芸部に夏頃提出した短編です。
読みかえしてみたら、そんなに悪くもないな、と思ったので、こちらにも。
お楽しみいただけたら幸いです。