第31話・オリビア
「エヴァン、町の宴には参加しないの?」
エヴァンとオリビアはリューベックの宴に参加せず、入り江にある秘密の部屋に火を灯していた。そこに少量のお酒が入ったグラスを持ち運び、以前のように肩を寄せ合って何気ないことをポツポツと言葉にしていく。
「いいんだ。俺が参加したってあいつら、海賊だ何だ言い出すだけだ」
「そうやってまたイジける。ほんと、そんな性格でよく海賊なんてやってたわよね」
救い出した人語を喋る人魚と口調が全然違えば、微妙ながら声色にも変化がみられる。彼女は正真正銘、エヴァンの知っているオリビアだった。
はじめはただ雰囲気が似ていたから、ボニーが彼女を無下に扱う前に盗み出すだけのはずだった。それが命を懸けた戦いに発展するなんて想像もしていなかった。
だが、ボニーにちょっかい出していなかったら、オリビアが転生した人魚に出会っていなかっただろうし、この時間を過ごすことだってできなかっただろう。精霊とか神様とか、形のないものを信じるのも悪くないかもな。はじめてそう思えた。
「……奇跡って、本当に起こるんだな」
「え?」
「お前が今日見せたじゃないか。自分の歌で、人魚も人もつなげちまった」
「ああ、あれ……」
「オリビア、俺と会ったときから人魚の歌の翻訳作業をしてたじゃないか。お前が人魚の歌を通じて魔言語を理解していたから、人間でも歌を歌えるようになってすごい力を引き出したんだろ? あの戦いでみんなが歌えるようになったのも、お前のそうした努力が引き起こしたんだと俺は思ってるぜ」
「どうなんだろ」
おいおい、とエヴァンはついオリビアの肩を軽く揺らす。
「わかんないのよね。あれが本当に届いていたのか。私はただ必死に何とかしなきゃって思ってただけで、みんなやリヴァイアサンに影響を与えたのが歌かどうかはわからない。もしかしたら、私たちの知らない魔言語の効果かもしれないし」
「お前、ホントはわかっててワザと隠してるのか?」
「謎は謎のままのほうがいいことだってあるでしょ。でもね」
「でも?」
「大勢の人の気持ちが折り重なったとき、何でもできるっていうのは証明されたと思う」
「……そうだな」
エヴァンの言葉にオリビアがいたずらっぽく笑った後、持っていたグラスを空にする。それをテーブルに置き、本棚から一冊の本を手にする。
「もしかすれば、この昔話の通りになっただけかも」
「昔話って、あの嘘みたいな伝承の話か?」
「うん。人魚が王子様を助けるためにうたかた草を食べるって話。人魚はうたかた草を食べることで自分の願いを叶えるも、最後には泡になるって話。もしこの昔話を今回の真実に照らし合わせるならば、私と似ていない?」
オリビアの口調からふざけた雰囲気が無くなっていた。
エヴァンだって、何となく察していた。オリビアが転生した人魚が元の人間に戻り、そのまま生活する。そんなおとぎ話のような夢物語、現実にはないことを。夢だからこそ、いつかは目覚めないといけない。
「エヴァン」
名前を呼びながら、オリビアが彼の背中に抱き着く。肘から手に向かってエヴァンはさすり、最後には指を絡ませながら手を握り合う。
「ほんとうに、ありがとう」
「最後まで、迷惑を掛けられっぱなしだ」
「でも、嫌いじゃないでしょ?」
「面倒事が好きになったのは、お前のせいだ」
「トレジャーハンターのくせにドキドキが嫌いなんて。名乗る資格ないわ」
「俺とお前じゃドキドキの性質が違い過ぎる」
しばらくの沈黙。洞窟にできたつらら石から垂れる水の音だけが、たしかに時間が動いている証明のように鳴り響く。
「そろそろ、行こうかな」
「オリビア!」
エヴェンは離れようとする彼女の手をギュッと握る。
「お前が蘇らせたのはうたかた草じゃない、人魚の妙な術のせいだ。お前の気持ちを汲んだのかもしれないが、あいつらだってお前を利用して自分たちの危険を俺たちに知らせたんじゃないか。お前のやったことを考えれば、このまま生きていくことを許されたっていいんじゃないのか?」
あまりにも情けない声。エヴァンは彼女の方を見てしゃべることができない。オリビアも彼がどんな顔をしているのか容易に想像がつき、全身で彼の身体を包み込んだ。
「もし、彼女たちの思惑があったとしても、私は十分に彼女たちからお礼をもらったよ」
「え……?」
「私が心から願ったことは、たった一つだけ」
エヴァンは、彼女と一緒に答え合わせをした。
「最後に一度だけ、一緒に人魚の歌を歌いたい」
答えは正解だった。
でも、この答えが正解でないほうが、どれだけ彼にとっては良かっただろうか。
「私はね、別にこの世界を救う気もなかったし、あなたと最期に歌いたかった。それだけなの」
「でも、それでもお前はー」
「エヴァン、痛いよ」
エヴァンは口調が荒々しくなると共に、いつのまにかオリビアの身体を誰にも渡さないように抱きしめていた。それでも彼はオリビアを抱きしめ続けた。
今にも泡になって空中に消え入りそうなオリビアを、エヴァンは抱きしめ続けた。
「彼女たちはね、最後に私の我がままを叶えてくれたんだよ。人魚ではなく、『オリビア』として最期を生きるチャンスを。うたかた草は無いかもしれないけれど、彼女たちの思いやりは本物」
オリビアの言葉を聞いて、エヴァンはやっと彼女から身体を離していく。自分がこれからどうなるかわかっているのに、すべてを受け入れる覚悟ができている。いつも全力、だからこそオリビアの目はいつも輝いていた。
エヴァンがその目に吸い込まれそうになっていると、オリビアは彼の唇にそっと口づけをする。エヴァンは花でもすくいあげるように彼女の顔を手で包み、その最後の瞬間を摘み取っていく。二人は何百年と錯覚してしまいそうな短い時間を共有し、唇が離れた瞬間に現実世界に引き戻されてしまう。
「じゃあね、エヴァン」
オリビアは部屋にある海へつながる水たまりに飛び込む。オリビア、という声も虚しく、水たまりはブクブクと激しく泡が立っている。
エヴァンが呆然と泡のほうを眺めていると、何かがぷかぷかと浮かんでいるのが見えた。慌てて水たまりに入って確認してみると、人魚をモチーフにした指輪だった。まるで彼女を抱きしめるように、エヴァンは背中を丸めながら指輪を包み込んだ。




