第16話 中に居るもの
三津木は芙蓉紅倉との電話を終え、頃合いを見て等々力の携帯にかけた。
「桜野葉子の母親と会ったんだろう? どうだった?」
『いやまいったまいった。ただ者じゃないなあの母親。岳戸さんがさ・・』
由宇が紅倉美姫の言っていたどんなひどい目に遭ったのか聞いた。ちょっと薬が効きすぎだろうか?
「で、岳戸先生は?」
『一足先にホテルに戻った。立ち直るまでしばらくかかるんじゃないかな?』
それは好都合。三津木は等々力に力を込めて言った。
「等々力さん。いいか、絶対に岳戸先生をあの家に近づけるんじゃないぞ。いいか?どんなことがあってもだよ」
『え? そうなのか? なんで?』
「紅倉先生の厳命だ。いいかい、先生が自分でこれは命令だって言ったんだぞ、彼女をあの場所に近づけたら、今度こそ取り返しのつかないことになる、ってね」
『そりゃ怖いな。了解した。ところで先生は?』
「うん・・。別の一件をお願いしている。等々力さん。あなたにも謝らなければならないことがある。また後で、ゆっくり話します。とにかく岳戸先生の方をよろしくお願いします」
『ちと荷が重いがな、分かった。抑えておくよ』
「すまないね」
謝りながら切った。等々力は三津木と由宇の関係を知っている。三津木はさてと考えて、桜野卓蔵氏に電話することにした。桜野家当主で、葉子の祖父だ。3日前にあの家の撮影をお願いして、快く許可してもらった。それを取り消してもらおう。家主が駄目だと言えば撮影は出来ない。まあ中に入れないだけだが。要は由宇が興味をなくしさえすればいいのだ。警察の方の許可はもらってある。紅倉美姫の名は強力だ。
「あ、もしもし。わたくし先日お電話しました東日テレビの三津木と申します。その節はどうも。あの実は御当主にお願いしたいことがございまして。は、取り次ぎお願いします」
電話に出たのは秘書・・ではなく執事なのか。当たりの良い年輩の紳士だ。しばらくしてその紳士の慌てた声がした。
『ああ、三津木様。旦那様なんでございますが、それがその・・、たいへんご立腹でいらっしゃいまして』
「は? 怒ってらっしゃる? なんでまた?」
『それが、あの家を他人に覗かせるなどとんでもない、絶対にいかんと。警察が既に調べたことを申しますと、その・・なんたることか!と、激怒されまして・・』
「はあ・・。あのしかしそれは・・」
『旦那様はそこで殺人事件が起こったこともご存じなく・・、いえ、ご存じのはずなんですが・・、その、たいへん申し上げづらいのですが・・、少々呆けておられるようで・・・』
「は? 呆けてらっしゃる? しかし、あの、先日ははっきりと・・」
『そうなんでございますが・・、どうやらその、その時点で既に呆けてらっしゃったようで・・・・』
「・・・・・・・」
桜野卓蔵氏は御年85歳。呆けてもおかしくない歳だが、未だ名義だけとはいえいくつもの系列会社の名誉会長を務め、グループ全体に睨みを利かせているという。それが、実は呆けていた?
まあそれならそれでいい。本人が絶対駄目と言うなら由宇を近づけない十分な理由になる。
「分かりました。いったん撮影は控えさせてもらいます。すみませんが後ほどまた連絡させてもらいますので・・」
突然電話の背後からうおおお・・という咆哮が聞こえた。
「ど、どうしました?」
『あ、あの、旦那様が』
うおおという声が近づき、執事は電話口を離れた。旦那様、と慌てた声が聞こえる。三津木はじっと耳を澄ました。
旦那様、お気をしっかり。おい、何をしている、早くお医者様を! ああ、晴美様、知世様、いけません。紗恵様、お二人を早く。ああ、なんでございます、旦那様。は?は? 緑海お嬢様でございますか? いえ、こちらにはおいででは・・。いえ、こちらはお嬢様の娘様方で。ああ、旦那様!
おおお、緑海よ、緑海よ。許せ、許してくれ。オレはおまえが怖かったんじゃ。ちゃんと守ってやったじゃろう? なあ、守ってやったじゃろう? 言うことはなんでも聞いた、な? なんじゃ、なんでそんな目でオレを見る? 嫌じゃ、その目は嫌じゃ。オレを見んでくれ。嫌じゃ、嫌じゃと言うてるじゃろう。いね。いねくなれ。もうオレはいらねだろ?勘弁じゃ、もうー勘弁してくれ。く、来るな、あっち行け。
ああ、これ、知世様、いけません。
じーじ。あそぼ。きゃはははははは。
い、いね・・、う・・、ううううううううう・・、かっ・・・・・・・・・
だ、旦那様、旦那様!
三津木はじっと耳を澄まし続けた。ドタドタと足音が入り乱れている。大人たちの慌てた声に混じって幼女のあどけない声が聞こえた。
あーあ、じーじ動かなくなっちゃった。かくれんぼかな?
馬鹿ね、離れなさいよ、お祖父様は死んじゃったのよ。
馬鹿って何よー。馬鹿は紗恵お姉ちゃんよ。あたし紗恵ちゃん嫌い。
何よ、あたしだってあんたなんか嫌いよ。
えーん、晴美お姉ちゃん、紗恵ちゃんがトモちゃんのこと嫌いだってー。
いいじゃない、別に、紗恵ちゃんなんて。
そうだよね。きゃはははは。
知世! 晴美ちゃんも!
ばーか、ばーか、馬鹿紗恵。隠れるってね、鬼になることなんだよ。
鬼? 馬鹿ね、隠れたのを見つけるのが鬼でしょ?
ばーか。鬼籍って知らないの? 鬼ってね、死んだ人のこと言うのよ。きゃははは、ばーか、やっぱり知らないんだー? きゃはははは。
ば、馬鹿っ! な、なにがかくれんぼよ? あんたたち、おかしいわよ?
トモちゃんおかしくなんてないもん。ねー、晴美ちゃん?
そうだね。馬鹿におかしいなんて言われたくないわよね。
あ、あんたら・・・
やーい、馬鹿馬鹿、ばーか。きゃははは。
いいかげんにしなさい!
・・・・ぶったね? 晴美ちゃん、紗恵お姉ちゃんがトモちゃんぶった。
そうね、ぶったわね。
許せないよね?
そうね、許せないわね。
な、なによ、晴美ちゃん、知世? な、なによ、嫌よ、何する気よ!?
こ、これっ、お嬢様方、何をしてらっしゃいます? さ、あっちへ行ってらっしゃい。今お母様をお呼びいたしますから。ああ・・
ガチャンと受話器が置かれた。もうとっくに切ったと思っていたのだろう。相当慌てている。
しかし、今の子どもたちの会話はなんなんだろう? 確か一番下の知世はまだ5歳だ。鬼籍だなんて、祖父の家に預けられているせいでそんな言葉を覚えたのだろうか? しかしそれを鬼とかくれんぼにかけて平気で笑っているなんて、幼児ながらちょっと異常ではないか? 母親も相当異常なようだが、娘たちもまた然りのようだ。
・・・桜野卓蔵氏は死んだのか? バタバタと、なんとも突然なことだ。これは偶然なのか? いや、そうではあるまい。三津木は等々力にかけた。
『もしもし』
「もしもし、三津木です。今は?」
『我々もホテルに向かっているところ。取りあえずどこ撮ったらいいのか分からないんで作戦会議』
「桜野卓蔵氏が亡くなったらしい」
『卓蔵って誰だっけ?』
「桜野家の当主、爺様だ。今電話中に突然倒れたらしい」
『そりゃあ、たいへんなんじゃないか?』
「でしょうね。そっちのBNTに情報渡すから、こっちの方にも状況教えてくれるよう頼んでおきます」
『よろしく。じゃあ・・、こっちはどうすんだ?』
「海岸の家の撮影は卓蔵氏に拒否された。だから取りあえず撮影は出来ない。岳戸先生にもそのように言ってください。・・卓蔵氏ね、どうやら呆けていたらしい」
『呆けて? えーと、家のことは?』
「だから全然分かっていなかったらしい。殺人事件のこともね」
『ウーン・・、そうなのか? それを周りの人間たちは気付いていなかったのか?』
「ええ・・、どうやらそうらしいんです」
『なんかそれもおかしくないか?』
「おかしいですよねえ? おかしいって言えばね、今その実家の方で預かっている3人の娘たち、2番目の娘はまともらしいが、下の二人は・・相当変ですよ」
『・・嫌だなあ。俺もあの母親見ていてさ、すっごい若くて美人なんだけど、なんか気味悪くてね。おかしいよな、あの家族、絶対』
「ええ。ま、とにかく紅倉先生のおっしゃったように・・」
『了解。岳戸先生は絶対あの家には近づけさせないよ』
「よろしく。じゃ、また」
三津木は次に芙蓉の携帯にかけたが、『ただいま電話に出られません』とのことだった。運転中だろう。紅倉先生は携帯の使い方を知らない。仕方ない、先生には峰谷早苗のことをお願いしている。そちらに集中してもらわないと。
これからどうなるのだろう? やはり事件の中心はこの異常な桜野家であるらしい。そのゆかりの謎の家に、いったい何が隠されているのだろう?・・・
等々力たちがホテルに到着すると、岳戸由宇はまだ帰ってきていなかった。等々力は慌ててマネージャーの加納の携帯にかけた。電源が切られていた。どこにいる?と考えて、まさかとこちら地元のBNTの撮影班に電話した。取りあえず人手は足りているので局に帰って情報収集を頼んである。ディレクターが出た。
「等々力です。今どちらです?」
『今事件現場の海岸の家に向かっているところです』
「なんだって!? おいおい、勝手なことされちゃ困るよ。誰が・・って、おい、まさか岳戸先生か!?」
『はあ、そうですよ』
ディレクターに別に悪びれたところはない。
「い、行くな! と、とにかくホテルに戻ってこい」
『は? はあ。じゃあ戻りま・・』
『等々力さ〜ん』
等々力はビクッとした。岳戸の声だった。乗っていたのか。いつもはスタッフとの同乗は嫌うくせに。岳戸はディレクターの携帯を奪って話した。
『ふふーん、邪魔しようったって、ダ・メ・よ』
「先生、ふざけてる場合じゃありません。駄目なんですよ。そうだ、家主から撮影許可が取り消されましてね、今三津木さんが交渉してるんです。ですからもうしばらく待ってください」
『あ、そ。じゃあ向こうで待つわ』
「駄目だ! あんたは近づいちゃいかん!」
しまった、と思ったらしばらくの沈黙の後岳戸が陰険な声で言った。
『あの女の差し金ね?』
やはり気付いていた。
「・・そうです。紅倉先生の命令だそうです。命令ですよ?あの人がそんな風に言ったことないでしょう? それに、家主の許可が取り消されたのも本当です。さらにその家主、桜野家の当主が急死したらしいんです。ねえ、戻ってくださいよ。おかしいですよ。行っちゃあいけない。あなたがそこに行ったら、なにかとてつもない恐ろしいことが起こるんだ。ねえ、長い付き合いじゃないですか、頼みますよ」
『長い付き合いを言うんならねえ・・』
暗く怨念がこもっている。
『紅倉ごときにかしずいてんじゃないわよ! 何よ、どいつもこいつも紅倉先生紅倉先生って!』
ヒステリックに叫んだ。
『馬鹿にするんじゃないわよ、ちくしょうっ! みんなみんなあ・・、ぶっ壊してやるう!』
「岳戸さん!」
駄目だ。切られた。あの母親に受けた屈辱ですっかり頭に血が上っている。
「くそー、どれだけ先行された?」
いったんBNTに向かったのなら距離的にはこのホテルの方が近いはずだ。ただ、同じ市内だ、大した差はない。とにかく、急がねば。
等々力はスタッフをせき立てて現場に向かった。11時50分到着。となりのアパートの駐車場に止めさせてもらって野原に走った。岳戸たちの姿はなかった。とっくに着いていると思ったのだが・・。それにしても、・・・・なんなんだろう、この景色は?
真っ赤なハマナスが空き地全体を占領していた。それどころかとなりのアパートまで、いやいや、道路を挟んだ向こうの松林にまで勢力を伸ばしている。間のアスファルトの道路はでこぼこに浮き上がってひび割れている。異常だ。
問題の家はというと、足場を組んで青いビニールシートで覆われているが、なんだろう、シートの向こうに黒い陽炎が立っている。なんとなくミシミシ音が聞こえてきそうだ。まさか岳戸たちは既にあの中に入っているのだろうか?
歩道にはまだ4社ほど撮影隊が粘っている。近くの人間に訊いた。
「ここに岳戸由宇は来ませんでしたか?」
「いや、来てないよ。来るの?」
無邪気に喜んでいる。馬鹿、この状況が分かってんのか?しかし、すると岳戸たちはどこにいるんだ? 等々力は再びディレクターの携帯にかけた。
「出ろよ、出ろよ。おっ、等々力だ! 今、どこだ?」
ディレクターが答えた。
『海ですよ。そちらどこです? 家の裏ですよ。来てくださいよ、ちょっとすごいことになってますよ』
「海?」
等々力は反射的に顔を上げた。家の裏の林を下りていけば砂浜だ。あれか、と思った。上空にカモメが数十羽群れている。
「行くぞ、砂浜だ!」
等々力は汗を流して走り、スタッフたちも追いかけて走った。他の撮影グループまで仲間と顔を見合わせて追いかけてきた。アパートの裏手に林を通る道がある。坂道を駆け下りると波の音が聞こえてきた。白い砂浜と波の反射が眩しい。水着姿の海水浴客たちが砂浜に突っ立っていた。波打ち際に何か見ている。カモメたちが鳴き声もうるさく上空を群れ飛んでいる。いた、岳戸由宇だ! 相変わらず周囲から浮きまくっている。岳戸のいるところを中心に海水浴客たちは気味悪そうに波打ち際を見ている。
「岳戸先生!」
等々力は怖い声で呼びかけてハアハア息をついた。
「勝手なことせんでください! 君らも!」
地元BNTのスタッフも叱る。
「わたしの指示に従ってもらわにゃ困る!」
命に関わる、ということを彼らは理解していない。BNTスタッフは不満を顔に表し、岳戸は等々力をフンと嘲った。
「これを見て、それでもまだ撮影するなって言うの?」
なに?と等々力は岳戸たちの背後の海を見た。白い。貝の群だ。ハマグリだろうか、10センチ近くある大型の白い殻の貝がびっしり海中を埋め、波打ち際まで上り詰めている。幅2メートルほどで、ずっと沖の方まで続いている。まるで真っ白な道のようだ。
確かに異常な光景だが、これをどう捕らえるだろう? 海中に白い道が出来ているのだ、見ようによってはロマンチックと取られないこともない。しかし見つめる海水浴客たちの顔色は良くない。上空で群れ飛ぶカモメたちのみゃーみゃー言う鳴き声が不気味だ。港で見るカモメは旅情を誘って情緒があるが、大型の鳥を間近に大量に見れば、それは、怖い。そして何か強迫観念に駆られたように浜に乗り上げてきた白いハマグリたちはブクブク泡を吹きながら、パカッと開くとムッと鼻を突く臭気を発した。現れた実は緑色に変色して、腐っているようだ。カモメたちはご馳走を発見して寄ってきたものの、野生の直感でこの貝たちが食べては危険なものと分かっているのだろう。人間たちも感じている。見渡すとこの付近で海に浸かっている人間は一人もいない。
他局の人間が勝手に岳戸にマイクを向けた。
「岳戸先生、この現象はいったいなんなんでしょう? あの殺人のあった家と、今起こっているバケモノ変身現象と、何か関係があるのでしょうか?」
等々力はムッとしたが、岳戸は等々力を後目に得意になってカメラに向かって答えた。
「当然です。ここに集まってきた数千数万の貝たちにはそれぞれ海で死んだ者の魂が乗り移っています。これだけの海の死者が集まってきているのです、これがただ事であるわけありません」
岳戸は嫌みったらしく等々力に笑いかけて言った。
「紅倉先生によるとあの家は非常に危険で、近づいてはならない場所なんだそうです。その通りでしょうね、ご覧なさいここからでも家の上空に立ち上る黒い陽炎が見えます。間違いなく、今に恐ろしいことがおきます」
「先生、その紅倉さんは今どちらにいらっしゃるんです?」
「さあ? どこなの?」
等々力に質問した。全員が等々力に注目した。等々力は、知らない。岳戸は哄笑した。
「おほほほほほ。賢い人ねえ。危険だから近づかないのね、紅倉さんは。おほほ。とんだ臆病者じゃなくて?」
ギラリと岳戸の目つきが変わった。
「偉そうに。人に指図するんじゃないわよ。わたしがみんなばらしてやるわよ、あの家の秘密も、紅倉の正体も!」
噛みつきそうに歯をむき出して、ふと、瞬間的に岳戸の顔から一切の表情が消えた。カメラを覗いていた他局のカメラマンがヒッと悲鳴を上げて思わずファインダーからのけ反った。
「どうした?」
「い、いえ、今・・。気のせいかな?・・」
ファインダーを覗き直した。一瞬、女の顔が見えたのだ、後ろから手を回して岳戸の顔の右半分を指で掴み、左の半分からぬっと顔を出して。そう、その女の顔は岳戸の顔から抜け出てきたのだ。真っ黒なストレートの髪に、岳戸よりずいぶん若い、20くらいの、真っ白な肌の女だった。その目が、岳戸の数千倍、怖かった。しかし今覗くファインダーにその顔はない。気のせいだったのか。しかしまるで魂の抜けたような岳戸のこの顔はなんだ?
「先生、どうされました?」
岳戸はスッと腕を上げ浜茶屋を指さした。一軒、畳敷きの休憩所の付属した大きな店がある。
「しばし休む」
言うと岳戸はさっさと一人で歩き出した。
「先生」
スクープを物にしたい他局のリポーターが等々力たちを差し置いて追いすがる。
「これからどうなるんでしょう? 先生は何かおやりにならないんですか?」
岳戸に見られてリポーターは思わずひっと立ちすくんだ。しかし岳戸はニヤリと笑って妙に優しく言った。
「しばし待て。じきに時が来る。面白い見物が始まるゆえ、しばし待ちおりょう」
時代がかった物言いをすると、どこかいつもと違う貫禄を漂わせて浜茶屋に入った。アイスグリーンティーを注文して「美味であるな」と呑気に堪能している。マスコミスタッフは呆気にとられつつ自分たちも浜茶屋でコーラやら昼食に焼きそばを注文した。岳戸は静かに満足そうな笑みを浮かべ海を眺めている。海中の白い道に、彼女は何を見ているのか?・・・・
等々力は三津木に電話して現状を報告した。
「どうする?」
『なんとか岳戸先生をそこから引き離せないか?』
「駄目・・なんじゃないかな? いつもと違うよ。妙に芝居がかっているが・・、ありゃあ本物だな、憑かれちまってるよ。ありゃあ・・、例のじゃないか?・・・・」
『まさか!・・、あれ、か?』
「だと思うね、オレは」
三津木の震える息づかいが感じられる。
『・・やっぱり、浄化されてなかったんだ・・・・』
三津木の恐怖が等々力にも理解できる。等々力も目撃者の一人だ。
「それについて紅倉先生は何か言ってないのか?」
『いや・・、先生はそれについてはいっさい何か言ったことはない・・』
「そうか・・。やっぱり、駄目だ、っていうのが解っているんだろうな・・・」
『・・・・・・・』
それ、とは、心霊アイドルリポーターだった岳戸由宇、当時の美崎優、を襲った怨霊のことである。あの事件は等々力たちの間でタブーになっている。優が岳戸由宇として再デビューする直前お世話をしてくれていた霊能師の先生が40代の若さで心臓発作で亡くなっているが、等々力たちは決して口にしないが由宇が殺したのではないか?と疑っている・・。
それが、今、由宇の表面に現れた!?
あの紅倉美姫でさえ祓えないとあきらめている、等々力たちが出会った悪霊の中でも最悪最強の怨霊だ!・・・・
「紅倉先生が言っていた悪霊の中の黒幕っていうのは、あれのことなのかな?」
『そうかも知れません・・。分かりません・・・・』
「どうする? 先生とは連絡つかないのか?」
『今は・・、駄目だ・・・』
「そうか・・。どうする?・・」
『・・待つ、しかないだろうな、紅倉先生を・・』
「・・間に合うか?」
『分からん・・』
「そうだな・・。俺たちは見ているだけしかないな・・」
つくづく無責任だと思う。基本的にただの面白半分の野次馬根性だ。これも現実。そう思ってカメラを回しているが・・、言い訳だ。俺たちは何かとんでもない面白いことが起きるのを期待している・・。今、間違いなくそれが起ころうとしている・・・・、起きてから後悔するのは目に見えているのだが・・。
由宇は暗闇の中に居た。もちろん心の中でのことだ。目は見えている。真昼の眩しい太陽に照らし出される、突如海中に現れた白い道を眺めている。しかし、それを見ているのは由宇ではない。由宇の中に居るもう一つの人格だ。
ヌイ姫。
由宇が生きている中で唯一絶望的な恐怖を抱く名前だ。
違う、とずうっと思っていた。自分の中にいらっしゃるのは仏様である、と、ずうっと信じていた。いや、そう思おうとしてきた。それを今、完全に否定されている。
『何をそのように恐れておる?』
由宇は震え上がった。ヌイ姫は笑った。
『考え違いをいたすな。わらわはそなたの味方じゃ。そなたに力を与え、そなたの欲しい人生をくれてやっておるであろうが?』
そうか?そうなのだろうか?わたしが望んだ生き方なのか?
『わらわは味方じゃ。安心いたせ』
信じようとする。しかし足の底からわき上がってくるガタガタ言う震えはどうしても止めようがない。
『よいわ。震えておれ。わらわがそなたに力を与える。そなたはわらわの望むように事を行えばよい。それがそなたの望みでもあるのじゃ』
何を望む?
「あ、あ、・・」
震えを押し殺して問う。
「あなたは、あの家に潜む物と手を組むつもりですか?」
そんなことを自分は望むというのか!?
『かの物はわらわに国を与えると言うておる』
「それをお信じになるのですか?」
『信じるわ。かの物が望むのは今の世を終わらせることのみ。その後に生まれいづる世に興味は持っておらん』
「では、あなたもこの世を終わらせることをお望みなのですか?」
『決まっておろう。なんならわらわが死の前に味わった屈辱と苦しみをそなたもう一度味わってみるか?』
瞬間的に由宇は滂沱(ぼうだ)の涙を噴き出させた。一切の力が抜け落ちた。
「お、・・・・・・・・・・
おっしゃるままにいたします・・・・・」
ヌイ姫は満足そうに頷いた。
『それでよい。わらわの望みはそなたの望みじゃ。共に手を取り合っていこうではないか』
由宇は恐ろしい。何が恐ろしいと言って、絶対に抵抗できないことが恐ろしい。心の自由がないことが恐ろしい。自分とヌイ姫の心が重なっていることが恐ろしい。自分とヌイ姫が同じ人間であることが一番恐ろしい。ヌイ姫は自分に語りかける、絶対に背けないことを知りながら。
『新しい世でわらわは国を持つ。その国の主君にそなたがなるのじゃ』
「わたしが、王・・、女王に?・・」
『そうじゃ。女の治める女王国じゃ。ふふふ、気に入った男を好きなだけ身近に侍らすがよい。全てそなたの物じゃ』
「わたしの物・・」
『そうじゃ。好きであろうが、男が?』
ほほほほ、ほほほほ、ほほほほ・・・・
女たちの笑い声がエコーして起こった。いったい何人の女が由宇の体に巣くっている? 自分の心は、そのどれほどを占めているのか?
『好きなだけ男を抱けばよい。新しい世では、それが理となる』
「ことわり?」
『今の世の理は終わる。女が男を支配するのが理となる。男は女に奉仕するだけの奴隷となる。男がそれを喜びとするのじゃ、どうだ、楽しかろうが?』
女たちの笑い声。由宇はどうしようもない恐怖と嫌悪感を感じる。それではまるで・・、由宇が見たあの母親の心の中ではないか?
『どうした? それがなんだと言うのじゃ? そなたもそれを望んで、行ってきたではないか?』
由宇は思い出す、自分の日々を。夜の、生活を。ああ、嫌だ、不潔だ! そんなことを自分が望むはずはない、操られているのだ、この女たちに! 自分じゃ、ないっ!!!
助けて・・・・
由宇の心に無数の細くしなやかな手が絡みつく。心がとろけていく。抵抗できない。
『楽しめ。男の性など、われらの食い物じゃ。食らえ』
由宇の心は抵抗できない。舌なめずりする。食べたい、男が!・・
由宇は涙を流した。彼女は、心の底から男を憎みきっている。彼女の心に一片の愛も残っていない。
三津木さん・・・。
その由宇の最後の思いまで、由宇の中の女たちは食らいつくした。
空っぽになった由宇の心にヌイ姫は冷たく言った。
『そなた気付いておるか、そなたの魂に糸がつながれておることを?』
「いと?・・」
『伝心の糸じゃ。あの紅倉とかいうおなご、小賢しや』
「べにくらみき・・・・・・」
由宇の心にどす黒い怒りがふつふつとわいてきた。ヌイ姫は喜んだ。
『そうじゃ。あの者、女のくせにこの世の味方になって我らの邪魔をいたす。いずれ、懲らしめてやらねばならぬな』
「・・紅倉美姫!・・・」
『焦るな。まだかの物の力が手に入っておらぬ。待つのじゃ。あの者、いざとなれば命を懸けて我らの邪魔をいたすぞ』
「邪魔など、出来るものですか!」
『するぞ。あの者には出来るのじゃ。だから邪魔じゃ。あやつめ糸を伝ってこちらの動きを探っておるが、逆にわらわもあやつの動きがよう分かるわ。あやつもすぐに我らの邪魔ができなくなる。その時を狙って行うぞ』
「はい!」
もはや由宇の心に少しも迷いはなかった。この世を滅ぼして新しい国の女王となる。すべてを、我が物にする!
ニタリと、由宇はヌイ姫と同じ笑みを浮かべた。