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第10話 第1遭遇

*ちょっと長いですが、後半に、出ます。

 夜7時、三津木ディレクターはアートリングを主体としたスタッフと共に紅倉美姫の屋敷を訪れた。今回の事件の最重要人物であるあのビデオ少女の母親から少女の行方を捜索してほしいと依頼があったためだ。三津木は驚き、飛びついた。母親の要望は「紅倉美姫さんに」お願いしたいということだったが、拙いことに、今ここには岳戸由宇が同行している。仕方がない、電話があったとき由宇は局に打ち合わせに来てもらっていたし、共同で事件を解決するという約束で彼女を除け者にするわけにはいかない。

 岳戸由宇がスタジオ外で紅倉美姫と行動を共にするのは今回が最初で、おそらく二度とないだろう。由宇は紅倉の壮麗なお屋敷を憎々しげに眺めている。

 一同は芙蓉美貴によって広い豪華な応接間に案内された。ここで30分ほど打ち合わせをして少女の家のある新潟県へ向かう予定だ。残念ながら三津木は現地へ同行できない。こっちでいろいろやることがある。何しろ3日後の放送に間に合わせなくてはならないのだ、もう二度とやりたくはなかったがまた生放送ということになりそうだ。

 現地取材のチーフはアートリング社長の等々力力(とどろきちから)ディレクター。背は高くないがプロレスラーみたいにパンパンに肉体の張ったひげモジャの精力的なおっさんだ。彼を使うことに局内で問題視する向きが強かったが、紅倉美姫が彼にやってもらった方がいいだろうと意見してくれて、決まった。三津木としては気心の知れたやりやすい仲間だ。

 アートリングの等々力社長と7人のスタッフ、東日テレビからディレクターとアシスタントディレクター2人、岳戸由宇と彼女のマネージャー加納夏美、そして紅倉美姫と芙蓉美貴、総勢15名が新潟へ向かい、さらに地元テレビ局のスタッフが加わる。大所帯だが、電話で得た情報から取材は広範囲になり2班に分かれる可能性が高い。ちなみに岳戸由宇はマネージメントを芸能プロダクションに任せている。芙蓉美貴が揶揄するように本人もあくまで芸能人でいたいのだ。

 紅倉美姫が登場した。いつにも増して色が白い。

「大丈夫ですか? 昨日はたいへんだったようですね?」

 紅倉美姫も芙蓉美貴も右手に包帯を巻いている。紅倉美姫はええと頷いてふらふらおぼつかない足取りでソファーに座ると大儀そうにはあとため息をついた。相当まいっているらしい。

「魔界、へ行って来られたとか?」

「そうです。そのことをお話ししなければ」

 紅倉は一同を見渡し、由宇に軽く微笑んだ。由宇はヒクリと眉を吊り上げた。

「今回の相手は人間ではありません。つまり、幽霊も悪霊も元は人間ですから。しかし今回の相手は、人間ではないのです。動物霊というのとも違います。完全にこの世の物ではありません。そして一番理解してもらいたいのは、圧倒的に強力で、我々人間には決して歯の立つ相手ではないということです。性格的にも何を考えているのかさっぱり分かりません。つまり、・・・・非常に危険で、命の保証は出来ない、ということです」

 スタッフたちは青ざめた。何人かは既に紅倉と仕事をしている。不必要に人を怖がらせて面白がるような人間ではない。

「魔界の解説は番組用にとっておきましょう。しかし危険だからといって、逃げるわけにはいきません。わたしの認識が甘いせいでどうやら既に犠牲者は多数出ているようです。これからもっと増えるでしょう」

 一同固唾をのんで紅倉に注目している。由宇まで面白くない顔をしながら耳は集中している。紅倉は話す。

「とても悪い予感がします。我々のこの世界が、未来への不安に恐れ戦いています。一つだけ、光明があるとすれば、この悪い予感の内にある個人の強い思惑を感じることです」

 由宇は平静を装いながら、内心ギクリとしている。

「今回の事件の主体は魔界の存在ですが、それを呼び寄せている人間の意志を感じるのです。それをつきとめれば、もしかしたら事態を納めることが出来るかもしれません」

 紅倉美姫ほどの人間の控えめな発言に三津木は強い不安を感じた。

「岳戸先生」

 紅倉に呼びかけられて由宇ははた目にもはっきり驚き慌てた。

「な、なによ?」

「先生はもちろんご存じですが悪霊の本体というのは複数である場合がほとんどです。ですよね?」

「そ、そうよ。常識よ」

「そうなのです。いかに悪霊怨霊といえど純粋に単体で人を呪い殺すほどの凄まじい力を持ったものはごく稀です。基本的に魂だけの霊より肉体を持った生者の方がずっと強いのです。ですから何か目的を持った霊は、仲間を呼び寄せ、取り入り、利用し、集団で強い力を発揮するのです。そこが霊に関する問題を複雑で理解しがたいものにしています。今回魔界を呼び寄せている意志も、単体ではないと思います。複数の元凶が存在し、それを操っている黒幕がいると考えられます。それを探り出さなければなりません。岳戸先生」

「なによ?」

「先生ほどの方に釈迦に説法のようで申し訳ないのですが、どうぞくれぐれもお気を付けください。霊たちは一度既にこの事件に関わっている岳戸先生の強い霊力をなんとか自分たちの都合のいいように利用できないか狙っていると思います。彼らの本拠地に入ればきっとあちらの方から先生に接触してくると思いますから、どうぞくれぐれもお気を付けください」

「分かってるわよ、そんなこと」

 由宇はふてくされて答えた。


 三津木は局への帰りがてら由宇とマネージャーを東京駅に送っていくことになった。由宇がどうしても車での長距離移動を嫌がったためだ。幸い新幹線の最終にはまだ間がある。さらに由宇の我が儘・・提案でスタッフも4名いっしょに行くことになった。たしかに由宇の周りでは何が起こるか分からない。カメラが一台あった方がいいだろう。三津木は紅倉に挨拶し、訊いた。

「岳戸先生の方は大丈夫でしょうか? まあ、その、いろいろな意味で・・」

 三津木の苦笑いに紅倉も苦笑した。

「まあ、大丈夫でしょう。あれだけクギを刺しておきましたから」

「じゃあさっきのは嘘ですか?」

「いえ、そうとは言い切れません」

 紅倉はスッと冷たい顔になって言った。

「言ってはなんですが岳戸先生が霊に利用されやすいのは確かです。問題はどちらかというとご本人の方にあるように思いますが」

「はあ、すみません、同感です」

 紅倉はニコッと笑った。

「ですから、あれだけ脅しておけば大丈夫でしょう」

 三津木も安心して笑った。

「では先生、よろしくお願いします。事件も、・・由宇のことも・・・」

「はい」

 三津木は紅倉の顔を見て泣きそうに顔を歪めた。頭を下げ、車に戻った。



 新潟へは高速道路で5時間ほどの道のりだ。芙蓉の運転するハイブリットカーは2台のバンと1台の乗用車の後に続いて走っている。芙蓉と紅倉の二人きりだ。紅倉は免許を持っていないので運転は芙蓉一人で行う。等々力は芙蓉の疲労を心配したが、芙蓉は一人の方が気楽でいいと言った。

「ごめんなさいね、美貴ちゃん、無理させちゃって」

 後部座席で紅倉が申し訳なさそうに謝った。

「いえ、今日はわたしも朝が遅かったですから平気です。先生、眠くなったらどうぞ休んでください」

「うん」

 芙蓉は紅倉が自分の運転する車以外では決して外出したがらないのを知っている。芙蓉はそれをとても光栄に思っている。

 到着は1時頃になるだろう。今日はそのままホテルで休み、明日の朝一番で現地スタッフが合流し、少女の捜索の開始となる。

 高いビルが減っていき、住宅街を抜け、だんだん明かりが減っていき、やがてバイパスの外は真っ暗になった。

 1時間近く走ったところで突然切ってあったカーナビが点いた。芙蓉は念のため切った。また点いた。後部座席へ呼びかける。

「先生」

 紅倉は眠そうにうんと頷いた。

「いったん止まりましょう」

 ウインカーで合図を送り、次のパーキングエリアに入った。車を降りてやってきた等々力にカーナビの異常を知らせた。さすが手慣れたもので既にカメラを回している。

「上信越道に入れと?」

 一行は関越自動車道を走っている。上信越自動車道へはこの先の藤岡ジャンクションで分岐する。

「長野県経由で遠回りになりますね? 先生、何か意味があるんでしょうか?」

 紅倉は半眼になっているが眠いのではない。遙か遠くを見通しているのだ。

「助けを求めている人がいます。死のうとしていますが、本心では死にたくない。死を選ばざるを得ないほどの恐怖に怯えています。行ってあげなくては」

 等々力が暗い不安そうな声で訊く。もちろん演出だ。

「先生、それはこの事件に関係あるんでしょうか?」

「おそらく。彼を怯えさせているものの背後に魔を感じます。まだ遠くにいますが、迫ってくる気配を感じます。それがやってくる前に彼と接触しなければ」

「芙蓉さん、先導をお願いできますか?」

「先生、よろしいですか?」

「ええ」

 芙蓉の車を先頭に再スタートした。大きくカーブして上信越自動車道=長野方面へ向かう。芙蓉は時々バックミラーで先生の様子を見た。黒いシルエットがライトに照らされるたび半眼の瞳が宝石のように光った。

 すっかり山の中に入り連続するトンネルをいくつも通り抜けた。バックミラーの中の先生の顔が微かに歪む。トンネルは霊が多い。先生の霊力を頼って寄ってくるのだ。特に今は遠方の意識を探るため霊波のアンテナをかなり広げている。雑音が大きく先生も頭が痛そうだ。

 1時間半ほど走ってカーナビが路線変更を指示した。更埴ジャンクションから長野自動車道に入る。それまで矢印で方向を示すだけだった画面が目的地を告げた。

「先生。待本市だそうです」

 先生は黙って頷いた。辛そうだ。

 30分ほど走って市内に入ると突然カーナビが消えた。

「先生」

「大丈夫。場所は分かっています。五柱神社です」

「五柱神社?」

「大丈夫。彼はずっと迷っています。わたしたちが着くまで首をくくることはないでしょう・・」

 安心したように眠ってしまった。結局カーナビを動かしたのは先生御自身だったのだろう。大丈夫と言われても芙蓉は五柱神社なんて知らない。結局またカーナビを点けて音声認識で目的地を表示させた。先生は実際はカーナビの使い方なんてご存じない。まったくの機械音痴だ。目的地は待本インターチェンジを下りてすぐの田圃の中だった。


 五柱神社は田圃の中のこんもりした丸い丘の上にあるらしかった。赤い鳥居が立ち、その向こうに石階段が延びている。満月一歩手前の月が西の空低く、巨大に黄色く、薄い雲が卵黄に混じった血液のように赤茶色に煙っている。木立の中は真っ黒だ。

 車を適当に止めて、等々力始めスタッフたちがわらわら降りてきた。

「先生、ここですか?」

「はい」

 芙蓉は先生に手を差し伸べたが、先生は大丈夫と制した。昼間はしょっちゅうけつまずいて転んでいるくせに、こういう暗闇では平気でスイスイ歩く。目もパッチリ開いてもう眠気も消えたようだ。

「あそこ」

 先生の指さす先、茂みに隠すように中型のオートバイが置かれていた。

「居ますねえ」

 等々力が感心して言った。

「どうしましょう、呼びかけてみた方がいいでしょうか?」

 丘は昼間ならどうといったことのない広さだが、とにかく真っ暗な斜面なので人一人捜すのもたいへんそうだ。首をくくろうというのなら、まさか境内のすぐ脇ではするまい。

「そうですね。ごそごそ登っていったら何事かと警戒されるでしょうから」

 そこで等々力が自ら声を出した。

「おーい、誰かいるかー?」

 返事はない。

 等々力がもう一度呼びかけようとするのを先生は止めた。

「けっこうです。彼もわたしたちの存在に気付きました。ゆっくり登っていって警戒を解きましょう」

 一行は先生を先頭に鳥居をくぐり階段を上りだした。鳥居をくぐった途端にそれまで周りから聞こえていた蝉の声が消えた。まるでシェルターに入ったように外の音が遮断されている。ジャリ、ジャリ、と石段を踏む音が静かに響く。自然の森らしく樹木が濃密に空間を覆っている。ただ、真っ黒で、カメラ用の照明だけが限られた範囲を色のない白で浮き上がらせている。

「見ていますね。カメラは向けないでください、左の、上の方です」

 芙蓉もその人物の意識を捕らえようと神経を集中させようとしたが、静かすぎる静寂が邪魔をして全然集中できなかった。

「聖域ですからね。彼は良い場所に逃げ込んだものです」

 芙蓉の霊能力など先生の足元にも及ばない。

 スタッフがわっと階段につまずいた。なんだろう、本当に静かで、声が吸い込まれるようだ。

「もうすぐですよ」

 先生の声に励まされて先を見ると夜空が開いて、やがて奥に社殿が見えた。屋根の厚いなかなか立派な社だ。境内へ上がると手前と奥の左右、社を中心にした四方に小さなほこらがあった。

「中心に天を統べる大神、四方に人界を守護する天使。わたしのためのような神社ですね」

 先生は嬉しそうに言った。中央の社に歩み出てパンパンと柏手を打ち一礼した。芙蓉と等々力も倣った。

「さて、少しお話ししましょうか。

 まずあの少女の霊の映っているビデオには背後に恐ろしい魔界の存在を感じました。

 そして放送された番組からは一人の女性の強い憎悪の念を感じました。

 この二つはそもそも別のものであったと思われますが、今や一つに融合して凄まじい邪悪な力を得ています。あのビデオは放送以前に既に一つ、忌まわしい悲劇を引き起こしているようです。それがテレビで放送され、全国の無数の人々に対して見せ物にされたことによって憎悪の念が再燃し、魔界の力と融合して爆発したようです。

 さて、あのビデオを作った人たちは彼女にどんなひどい仕打ちをしたのでしょうねえ? 青木さんにそのことを聞けなかったのは残念ですねえ。もうそのことを話せる人は一人しか残っていません。みんな、あっちへ逝ってしまいましたよ。ねえ、話してくれませんか?あなた。彼女は今もひどく怒っています。あなたが最後です。もうあなたしか残っていないんですよ」

 先生がつと視線を走らせた。等々力の顔を向けた方にカメラと照明が向く。ざわざわっと真っ黒な闇が動く。木々が白く浮き出す。ギクッとカメラが動揺し、戻る。幹の陰から幽鬼のように男性が立ち現れた。芙蓉はその背後の宙空に輪になったロープがぶら下がっているのを視た。

 男はしばらくじっと闇の中にたたずみ、意を決したように天の開けた表に踏み出した。

「あなたは、誰です?」

 憔悴しきった神経質な目で先生に問うた。痩せぎすの二十歳くらいの学生風の男だ。先生は微笑む。

「そうか、あなたが紅倉美姫とかいう霊能者か?」

「とかいう、っていうのはちょっと心外ですが。わざわざ東京からあなたの助けを求める声を辿ってきたのですよ」

「なるほど、本物、ってことか。助けを求めていたか、俺が・・」

 男は自棄気味に笑った。口の端がえぐれたように真っ黒な陰ができた。

「ま、自業自得だよな、インターネットであのビデオが出回り始めてから嫌な感じはしていたんだ、あの野郎どこまでこいつで遊びやがるんだ、ってな」

 男は、自身も悪鬼のようにどす黒い怒りを込めて言った。

「あいつ、とは、青木さんのことですか?」

「ああ、そうだよ。全部あいつのせいだ! ・・ちっくしょう、なんで俺が最後なんだ? あいつを最後にするべきだろう? それとも、・・・・俺の方をもっと恨んでいたってことか?・・・・・・」

「長谷川さん・・でよろしいですか?」

 男・・長谷川はニヤリと笑った。

「すげえな、名前まで分かるんだ? それとも映研のメンバーを調べたのか?」

「いえ、そちらの調べはこれからの予定だったのですが。では、あなたは恨みの主が・・嶋村・・早苗さん・・だと思っているのですね?」

「当然だろう」

「嶋村さんは今どちらにいらっしゃるんです?」

「え?」

 長谷川はポカンとした表情になった。

「死んだ・・んじゃないのか? だって、お化けだろう?」

「悪霊の正体が死霊とは限りません。ということは、あなたは彼女の現在を知らないのですね?」

「ああ、知らないよ。卒業して・・、いや、あれ以来彼女とはそれっきりだ。俺はてっきり・・自殺でもしたんだと思っていた・・・・」

 長谷川は自分の出てきた森の方を見た。それが、・・自ら命を絶つことが、自分に掛けられた呪いを解く唯一の方法と思い詰めていたらしい。

 それほど恐ろしい思いをしていたのか? 等々力が訊く。

「いったいどうしてあなたは自殺しようなんて思ったんです?」

「テレビだよ」

 長谷川は視線を宙に向けてボーッと憔悴しきって言った。

「いや、最初は電話だったか。はっきりしない。いきなり悲鳴が聞こえてきたんだ。いたずら電話だと思ったよ。でも、なんか聞き覚えがあってさ、すっげえ嫌な感じがして。2度目にかかってきたときはっきり分かった。あれは、あのビデオの音声だ、って」

 長谷川はブルッと震えた。目玉が異様な光を放っている。極度の脅えだ。等々力が訊く。

「あのビデオって、女の子の幽霊が映っている?」

「いや、その後のだ」

「後の?」

 先生がさえぎった。

「それについては後で。それで?」

「ああ・・。順番がはっきりしないんだけど、チラチラテレビでも見るようになったんだ、その、早苗の映っているビデオを。ほら、視界の端っこでなんか怪しい影が見えるんだけど、振り返ると何もない、って感じさ。何気なくテレビの画面が視界に入っていて、何か変なのが映っていたなって、後から思い出すとそれなんだ。何度も電話がかかってくるようになって・・、ああちくしょう、頭がごっちゃだ、俺は誰がこんな悪趣味ないたずらしやがるんだって頭に来て、いや、どうせそれは青木の奴に決まってんだが、ところがそれが彼女からの電話や実家からの電話までその悲鳴が聞こえて、だからそれは本当に電話から聞こえているんじゃなくって俺の頭の中で聞こえているんだろう、馬鹿やろう、いいかげんにしろ!って怒鳴り返してやったら、翌日大学で彼女に平手打ちされたよ。へへ、俺、もう頭がおかしくなっているんだ。間宮の奴がビルから飛び降りた気持ちがよーく分かるぜ。自分の頭の中からは逃げ出せないからな。おかしくなって、死ぬ方がましって思えてくるさ。へへ・・」

 長谷川は顔を歪めて泣きそうになった。

「それはいつ頃からですか?」

「そうだな、半年くらい前からか。だがここ数日は特にひどい。あの番組を見てからだよ!」

 先生は考えながら言う。

「でも半年前からなんですね? その、・・わたしはよく分からないんですけれど、インターネットのビデオっていつ頃から流れ始めたんです?」

「ああ・・、そういえばそうだよ、実際どうだか知らないけれど俺が見たのは半年くらい前だ。それからだよ、その幻覚が始まったのは。だから最初はそれを見たせいでそんな幻覚を見たり聴いたりするんだろうって思っていたんだ」

 先生は考える。

「なるほど。手抜かりでしたね。つい自分が苦手なものでそちらの可能性を見落としていました。

 さて、もっと話を聞きたいところですが、彼女が迫っています」

 長谷川はギクリとして脅え、芙蓉もスタッフも緊張した。先生は等々力始め取材スタッフにクギを刺す。

「いいですか、ここから先番組のことは一切忘れて自分の身を守ることだけ考えてください。でないと、死にますよ」

 先生は皆を社の濡れ縁に上げ、四隅の地面に銀の「天使」を置いた。高さ4センチほどの純銀製の天使の像だ。他の霊能者は結界を張るときに盛り塩やお札を使うが、天然の天才である先生は我流でこれを使う。先生も濡れ縁に上がってきて再度言う。

「カメラは禁止。当然照明もマイクも駄目。絶対にしゃべらないこと。息も、死なない程度に止めていなさい」

 皆しゃがんで、背中を丸めた。

 照明が消された。まさに墨を流したような暗黒に包まれた。月も既に沈んだらしく空さえ暗い。いや、星もない。真っ黒だ。重い。鉛の壁に包まれたような圧迫感を感じる。風もない。空気が湿って澱んでいる。臭いが強い。湿った沼地の草いきれ。むせ返る青臭さ。なんだろう? 世界が、違っている。

 先生が手で皆を制した。ゆっくり、前方を示す。ぞわぞわと皆の背筋に怖気が走った。

 遠く、人が歩いてきた。

 世界が違っていることがはっきり分かった。あそこは階段のまだ先のはずだ。その宙に伸びる道を、闇に浮かんだ灰色の人影がゆっくりゆっくり、やってくる。目が慣れたのか、周囲が青く浮かんできた。またも怖気が走った。別の森になっている。樹木がうねり、密生している。熱帯の森のようだ。生命力に溢れているようで、そのくせそこには死しか感じられなかった。無数の死が累積している。この森は、死の上に成り立っている。むせ返る臭気は、樹皮から染み出す、柔らかな地面からぐずぐず溢れ出す、大量の黒い血の腐敗臭だ。数人が思わず吐き気に口を押さえた。芙蓉は、慣れている。

 灰色の人影がゆっくりゆっくり、近づいてきた。奇妙だ。両手を前に突きだして手のひらを広げている。髪が長い。細い体。女だ。ぺたり、ぺたり。裸足で歩いている。地面は半分固まって粘ついている。ぺたりぺたり、ぴち、ぴち。四角い布に頭と腕の穴を開けただけの服とも言えない服。灰色。膝小僧の覗く裾は黒く汚れている。細い脚。ぺたりぺたり、ぴち、ぴち、ぴち。恐怖が限界に近づく。少女は目を閉じ、上向かせた顎をブツブツ何か呟くように小刻みに動かしている。恐ろしくて目を逸らすことさえ出来ない。少女は目をつぶっている。眼球がまぶたの下でぷるぷる動いているのが分かる。ブツブツ呟いている。スタッフの一人がガクリと前にのめり、芙蓉は慌てて押さえた。ぶつぶつ。おいでおいでおいで。招いている。隠れたって分かるよ、おいで、出ておいで。芙蓉もつい先生の様子を伺う。先生の眼球は毛細血管に覆われ完全に黒目が失せている。

 少女が立ち止まった。すぐ下、2メートルほどの距離だ。少女は不思議そうに小首を傾げた。開いた手のひらで空間を撫でる。目は閉じたまま、眼球だけ中で忙しく動き回っている。口がゆっくり開いていった。

「キュルキュルキュルキュルキュルキュルキュルキュル」

 テープの早回しみたいな甲高い音が大音量で流れ出した。あっとみんな頭を押さえた。人間の声ではない。脳内の一部をひどく刺激する魔のさえずりだ。

「キュルキュルキュルキュル」

 やめてくれ!と思わず叫びたくなる。頭に指を突っ込んで脳味噌をかき回したくなる。

「キュルキュル」

 気が狂う!

 頼れるのは先生だけだ。皆の視線が少女から逃げて先生に集中する。先生は真っ赤な目を開いたまままるで眠っているように微動だにしない。

「キュルキュルキュル・・」

 少女は再び小首を傾げ、あきらめたように口を閉じ、ゆっくり後ろを向いた。ヒイ・・・・・・ッと、皆いっせいに息を飲んだ。少女の黒髪の頭はパックリ割れ、真っ赤な脳味噌らしきものが蠢いていた。

 ぺたり、ぺたり、ぺたり、ぺたり・・。少女はゆっくり去っていく。足裏に赤黒い粘液が糸を引くのが見えた。ぴち、ぴち、ぴち。ぺたり、ぺたり、ぺたり。去っていく。

 どれほどの時間が過ぎたのか、すっかり感覚が麻痺している。少女の姿が、ようやく闇に消えた。ほおー・・・・、とため息をつく。

 スタッフがカメラを構えた。先生の目に黒目が現れ、ギラリとスタッフを睨んだ。

「まだよ!」

 遅かった。少女が猛烈な勢いで走ってきた。裾をからげ、赤く濡れて粘つく地面を激しく蹴って。迫る。顔。目は閉じている。まるで糸で縫われたように。しかしまぶたの上に血管が集まって赤い目のようになっている。口は、笑っている。黒い空洞が見えた。突き出した手が、バチン、と先生の結界にぶち当たった。見えない壁を押して、肩と首をカクカク激しく振り立てている。

「キュルキュルキュル」

 喜びの声か? 空洞の口を開いて顔を結界に押し付けた。グルグル動いていたまぶたが、ゆっくり、赤い糸を引いて開いた。

「ぎゃあああああああああああああああああああっ!!!」

 とうとうたまらず皆悲鳴を上げた。

 先生は以前悪夢の予言の中でこう言った。「これは、なんでしょう? 花が見えます。真っ赤な・・、薔薇・・・・。恐ろしい・・・・・・・・」それを今、芙蓉たちも見ている。

 少女の開いた目に眼球はなく、代わりに先生の予言通り真っ赤な薔薇が花開いた。ただし、ひとかけらの美しさもない。それは肉の花だった。肉の襞が折り重なり、薔薇のように見えている。まぶたの下で蠢いていたものはこの肉の襞たちだったのだ。少女はもともとこの魔界の住人なのだろうか? それとも魔界に取り込まれた、元はふつうの可憐な少女だったのだろうか? 失った眼球の代わりに、内から肉襞の固まりが弾けだしている。瞬きの度、ぷちぷち、襞が跳ねた。赤い汁が飛ぶ。

「ひいいいいいいい・・・・」

 大の大人たちが怯えてすっかり腰が抜けている。芙蓉も人のことは言えない。

 先生はフッと息を吐いた。

「駄目ですね。このままでは全員魔界に取り込まれてしまう」

 先生は立ち上がり、階段を下りた。芙蓉は先生!と止めようとしたが、声も出ず、手も動かなかった。

 先生は、グッと、少女の顔を掴んだ。グイと押す。踏み出す。少女を後退させる。先生の全身から白い湯気が立った。すぐに赤く染まった。先生も血の汗を噴き出している。押す。後退させる。先生の後ろ姿が、赤い霧で煙った。

「先生!」

 芙蓉はようやく涙を流しながら呼びかけた。瞬間、世界が消えた。いや、元に戻った。冷たい、夜気。まともな世界の空気だ。

 地面に先生が倒れていた。

「先生!」

 ライトが灯る。芙蓉は泣きながら駆け寄った。

「先生、先生えー・・・」

 芙蓉に抱きかかえられ、先生はぐったり力が抜け、口と鼻から血を流していた。

「ああ、先生、先生! ああ、・・先生っ!・・・・」

 先生を抱きしめた。守れなかった、自分は無力だ!

「美貴・・ちゃん・・・・」

「先生!!!」

 先生は弱々しく微笑んだ。目は閉じたままだ。芙蓉はその目の開くのが怖かった。まさか先生まであの・・・・

 ゆっくり開いた。充血がひどいが、元の目だ。良かった・・・。

「さすがにまいったわ。動けない。また休まなければ・・」

「休んでください!」

 芙蓉は涙が溢れてきて、先生の顔を濡らしてしまった。等々力たちが手伝うと言うのを断って芙蓉は先生を抱いて階段を下りた。汗をかいたが、まともな運動の汗が嬉しかった。魔界に生身のまま入って、生還した。奇跡だ。生きている実感が限りなく喜びを溢れさせた。先生のおかげだ。芙蓉は改めて先生に感謝し、尊敬の念を新たにし、そして、愛しく思った。この方は特別だ。神の与えてくださった奇跡と救いだ。しかし、先生御自身は決して幸福ではない。自分が、力の限り先生のお世話をしていこう。


 先生は待本市内の救急病院に入院した。全身に軽度のやけどを負っていた。内臓からの出血もあった。魔界の怪物との対決がいかに凄まじいものだったか伺われる。芙蓉は先生の手を握り、治癒力を高める気を送り続けた。自分の霊能力で人より優れているのはこれくらいだ。先生は「素晴らしい力ね」と褒めてくれるが、先生が芙蓉を弟子に決めたのは単に人物を気に入られたからだと芙蓉自身は思っている。それでも少しは先生のお役に立てる、今は。

 等々力は困った。芙蓉の見立てでは紅倉先生は少なくとも明日の昼までは絶対安静だ。芙蓉も先生に付き添うと言う。等々力は眠る先生に遠慮してそっと芙蓉にお伺いを立てた。

「我々はどうするべきでしょう?」

 芙蓉は等々力の後ろの長谷川を見る。ひどいショックを受けているが、自分同様先生への感謝と尊敬を持ったようだ。

「あなたは青山市の出身ですか?」

「ええ。実家があります」

 芙蓉は先生を見て考える。この際仕方ないだろう。それに先生にこれ以上危険な目に遭ってほしくない。

「では等々力さんたちは長谷川さんと青山市に向かって岳戸先生と合流してください。わたしと先生は先生の回復次第合流します」

 等々力があからさまに不安そうな顔をする。

「だいじょうぶでしょうか、その、岳戸先生で?・・」

 だいじょうぶのわけない、と、芙蓉も思うが。

「岳戸さんに任せるしかないでしょう。彼女も、少なくともわたしよりは霊能力は上です」

「はあ・・」

 等々力も仕方なく頷く。いつもなら内心面白くなりそうだと無責任に喜ぶところだが、今回ばかりはさすがにそういう気持ちにはなれない。岳戸由宇ではあれに対抗できない。我々は、死んでいる。

「ではできるだけ早いご回復を祈っております」

 それがまったくの本心だ。等々力は先生に深々礼をして、病室を出た。長谷川はまだ不安だ。

「・・また、来ないだろうか?」

 あれが。

「しばらくはないでしょう。向こうも相当痛手を負っているはずですから」

 当てずっぽうだ。そうとしか言えない。芙蓉からも訊く。

「あれが、嶋村早苗さんですか?」

「いやあ・・」

 長谷川は困惑する。

「違う・・ような気がする。子ども・・だったよねえ?」

 ような気がする、というのは芙蓉も理解できる。あれは人間の皮をかぶった怪物だった。人間としての個性はなかった。それに嶋村早苗が彼と同年代なら21、2歳のはずだが、あの少女はせいぜい15歳くらいにしか見えなかった。

 違うのか? 芙蓉も内心困惑している。では、あのビデオの少女か? その彼女を捜しに我々は来たのだが・・・

「あなたもホテルに泊めてもらいなさい。岳戸先生に守っていただくように」

「岳戸由宇って、当てになるのか?」

「・・・・・・・」

「頼むよ、早く来てくれよ」

 長谷川も先生に一礼して、大いに心残りしながら病室を出た。

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