ミント泥棒の手記
新宿にある「プチ文壇バー 月に吠える」様 主催
第1回「ミントはどこへ消えた?」文学賞
(http://magazine.moonbark.net/special/mintliterary1/)
応募作品でした。
見事落選してしまったのでこちらに公開してみます。
ミントを盗んだのは、僕だ。
真剣にそう云いたかったが、歯を食いしばって我慢した。もしもその言葉を口にしてしまったら、僕は警察に連れて行かれるだろう。そして、しばらく部屋に戻れないかもしれない。そうなれば、ミントは水と光と二酸化炭素を失い、たちどころに枯れてしまうだろう。
しかし一方で、僕は何故ミントを盗んだのか、説明しておかなければならない。だからここに告白する。あるいは誰かが読むかもしれない、この短い手紙に。
ある夏の雨上がりの昼、僕は新宿の古い路地裏を彷徨っていた。
当時、僕には行くべき場所が無かった。ただ、時間という見えない力によって、まるで水面の枯葉のように弄ばれていた。その感覚は、今もさほど変わらないのだが、そうした孤独で虚無的な生でも、ふと、誇りを感じる瞬間がある。天は自ら助くる者を助く、ではないが、野良猫のように街を歩いている自分は、生きる権利が与えられているような気がして、さほど憎まないで済んだのだった。
野良猫は一軒のバーに辿り着いた。バーといっても、昼間なので閉店しており、小さな窓から覗く酒瓶だけが、静物画のように沈黙した場所だった。その軒先に一つの植木鉢があり、僕はその前で立ち止まった。
いや、靴の裏がアスファルトに接着され、動けなくなったといってもいい。とにかく超自然的な力によって、僕とミントは強く対峙した。流れ去る人影、硬質の地平、モノクロームの景色の中で、そのミントだけが、翡翠の色彩を放っていることに、僕は気付かされた。
僕はその現象の理解しようと、知性を振り絞った。はじめ、ミントに、「僕に何か用ですか?」とか「どうされたのですか?」と尋ねてみようかとも思ったが、すぐにやめた。相手は植物なのだし、人間と違って言語など必要としないのだ。まずその事実に理解を示さなければ、目の前のミントを失望させてしまうに決まっている。
しかし、どうすればいいのか。
僕は立ち尽くすしかなかった。もどかしい時間が流れる。とにかく集中し、風の音の一つ一つを聴き分けようと努めていた。
そうして一時間ほど経った頃、ミントの生に対する意識やら、諦観やらがが、人間の僕にも少しずつ伝わってきた。
まさか。
僕は閉ざされたバーの扉と、ミントを交互に視線に見つめた。それは、囚われの少女を待ち構える悲劇だった。
季節は夏だ。薄着の男女が、陽気に飲み、騒いでいる──開店時刻を迎えたバーの光景が、蜃気楼のように僕の前に広がった──ラム、ライムとソーダに、ミントの葉をたっぷりと加えたモヒート。あー、さっぱりしていておいしい。うん、うん、ああ、そういえばね。うける。カウンターに取り残されたグラス、グラスに結露した水、氷に張り付いたミントが、ぎらつく太陽の中に立ち尽くす僕を凝視する。
ああ、やめてくれ。
こんなに美しい青が、人間に消費されるために、育てられているというか。
違う、違うんだ。
気が付いたら、僕の両手の内側に鉢植えがあった。
ミントを抱えて街を歩いていると、僕は驚くほど多くの眼と遭遇した。白昼夢に迷い込んだかのように、眼はどこからでも現れ、絶えることなく僕を監視した。僕は人間社会から逸脱し、逃避しようとしていた。それはとても恐ろしく、哀しい事だった。しかし僕は、ミントの高貴な香りに縋るようにして、帰路を急いだ。
部屋に帰り、ドアを背にしたときだ。唐突に、分不相応なことをしてしまった、と考え至った。ミントの鉢は熱く、重く感じられた。人間に対する怒りと悲しみが躰を揺さぶる一方で、僕もまた浅はかな人間なのだという恥ずかしさが、嗚咽となって込み上げてきた。僕はミントを嗅いだ。涙の匂いがした。僕はミントを救いたいと、そう確かに思ったはずなのに、その根底では、あわよくば愛されたい、この清浄な香りを独占したい、とも願ってしまっていたのだった。
その日から続く僕とミントの日々は複雑だ。白く静かな僕の部屋で、ミントは美しく香っている。誰も奪い返しに来ない。誰も寂しいと叫んでいない。だから僕は、ミントを可哀想に、そして愛おしく思う。そして、ミントを失うことを今日も恐れ、あるいはミントが僕よりもふさわしい誰かのそばで咲き誇ることを期待しているのだ。
要するに、僕がミントを盗んだ理由は、恋をしたからということなのだ。それが一時の過ちだったのか、真実の愛へと姿を変えるのかは、今は知る術がない。ただ、この矜持とも罪悪感ともつかない感情が色褪せてしまうその前に、何かに記録しておきたいと、そう思った次第だ。
END
お読みいただきありがとうございました。
なお、このお話はフィクションであり、云うまでも無く僕はミント泥棒の犯人ではありません。またミント泥棒を肯定するものではありません。