工房の男
文芸部の部誌に載せていただいた作品をここに掲載します。
「あっ」
熱気立ち込む狭い室内で、男ははたと作業を止めた。金属製のデスクの上に無秩序に散らばった機械の部品を左手で脇にどけると、男はスパナを握る右手に視線を向ける。
彼が今着ている作業服同様に、機械油で黒く汚れた手袋。握られたスパナは、ずる、ずる、と重力に引かれ、やがてずるりと手袋から抜けていった。
カンッ、とつまらない音を立てて、それは鉛色の横腹を見せる。
男は、赤茶色の床に転がっているスパナを見て、それから自分の右手に再び視線を移した。
「手が……」
直後、耳をつんざく轟音により、男の呟きはかき消された。
発電所の巨大タービンの傍らにある小さな工房――そこが今の男に任せられた職場だ。彼はそこで、発電所から溢れ出た無数の廃棄部品から再利用できるものを選別していく日々を過ごしている。言うまでもなく、男の立場は所内では最底辺のものだ。
毎日毎日同じことを繰り返す、つまらない日々。
こんな所で自分はただ朽ち果てていくのか。
先の見えない現状に散々思い悩まされていた彼。しかし、緩やかに朽ち果てていくだけの日々は思いもよらぬタイミングで終わりを告げたのだった。
「……」
男は自身の右手を注意深く観察する。
内部からカチカチと稼動音が聞こえてはいるものの、手はピクリとも動かない。
(動かない、か)
突然訪れた非常事態に、男はいつもの気難しい顔をしたまま席を立つ。すると肩を支点にして、右腕が前後に力無く揺れる。
タービンの回転速度はますます上がり、周囲の壁を震わせていった。
「失礼しました」
形式通りに一礼をし、「管理室」と書かれたプレートの扉を後にする。もはや使い物にならない右腕を力無く揺らしながら、彼は廊下を歩きだした。
「俺ももう駄目だな」
もうどこかに行く必要はない。やるべき仕事もない。仕事を遂行する能力もない。
今の彼は職場にとって何の価値もなかった。
カチカチと胸の奥から聞こえてくる鼓動に合わせて、等間隔に歩幅を刻んでいく。その様はまるで壊れかけのぜんまい仕掛けのおもちゃのようだ。
窓から差し込む朱色の斜陽が男の顔を照らした。失望や悲しみも無い、虚ろな顔を。
その時だった。
「あれ? 先輩じゃないですか!」
不意に声をかけられ、男は足を止める。振り返ると、そこには新品のスーツに身を包んだ、茶髪の青年が笑って立っていた。着任一か月も経っていない新人の後輩に、男は「ああ、お前か」と興味なさそうに答えた。
青年はさわやかな笑みを浮かべながらこう言う。
「先輩も仕事上がりですか?」
「まあ……、そんなところ、だな。お前は?」
「俺も今上がってきたところです。あの新品の巨大タービン、まだまだ改良しなくちゃならないところがあって、ほんと嫌になっちゃいますよ。面倒くさいったらありゃしない」
「だが、それをどうにかするためにお前が造られたんだろ?」
「まあ、そうなんですがね、ハハハ」
二人は肩を並べて歩き出した。男の左横で、青年は仕事の話を大げさなジェスチャーを交えながら、ぺらぺら話しだした。
「先ほどの騒音、タービンから出たやつなんですよ。性能は前回よりも3.14159265359倍上がりましたが、消音システムが全然ダメなんですよ。先ほど消音装置一基ほど開発して、くっつけましたが、まだまだ焼け石に水です」
「ほう」
「結構パワーがいる仕事でしたよ。結局ほとんど俺がやってやりましたよ。やっぱ身の程を知らない旧式は駄目ですね。新型の俺より性能が劣っているくせに、仕事を譲ろうとしない。お前より長年やってきただの、仕事に対する姿勢が違うだのと、そればかり。性能差を見せつけてやってもぐぢぐぢ言うばかりで、ほんと頭にきますよ」
「それはひどいな」
「ですよね。なのに、あの旧式達ときたら……」
次から次へと出てくる青年の言葉に、男は「ああ」「そうだな」「まあな」と似たような言葉を繰り返していた。青年の話す内容に興味は無い。適当にあしらいながら、彼はただ前のみを見ていた。
(あいつらは居場所とプライドがあるだけマシだ。それに比べて俺は……)
男がこれといった反応を示さないためか、青年はきまりが悪くなって、うつむいた。
しばらく黙ったまま、二人は次第にくすんでいく朱色の廊下を歩いていった。性格が幾分か陽気である青年にとって、これは苦行に等しい。笑顔こそ浮かべてはいるものの、彼には廊下が延々と続いているように感じていた。だが、男は違った。
(この廊下に終わりがなければな)
ぼんやりと廊下の突き当たりにある扉を見て、彼は思う。
(人間なら腕一本無くしても同情される。身体が老いで衰えても手厚いサービスが受けられる。だが、俺たちは違う。前者の場合も後者の場合も、どちらもただの「欠陥品」に過ぎない。そして「欠陥品」の末路は――)
目の前の扉が音もなく開く。ぶわっと風が二人の間を吹き抜けていった。
目の前に煙突の林が広がっている。各々の先端からはもうもうと黒い煙がふきあげている。煙が夕陽を覆い尽くさんばかりだ。
「いやあ、いつ見ても壮大な景色ですね」
沈黙に耐えられなくなった青年が口を開けた。
「不確定要素の多い自然を残している社長室付近と違って、こっちはいいもんですね。自然を完全に支配しています。あのたくさんの煙突を見るたびに、科学の力の偉大さを実感しますよ」
「そうか?」
少々大げさすぎる気もするが、男はそれを青年に言ってやろうとはしない。それよりも今、彼の注意は煙突の方に向かれていた。
(あんな排気ガスを出すしか能が無い奴でも誰かに必要とされている。今の自分はどうだ? 必要としてくれる奴は一人でもいるのか?)
「あの、先輩?」
青年の声に男は我に返った。
「ああ、悪いな。最近どうも調子が良くなくて」
「それなら、今から飲みに行きません? 補給もかねて」
「え?」
青年の突然の誘いに、男は眉をひそめる。
「調子が悪い時は飲むのが一番ですよ」
「人間なら、そうかもしれないな」
「人間でそうなら俺たちもそうでしょう。ささっ、今から行きましょう!」
しつこく誘おうとする青年をうっとうしく思いながらも、男は考えた。
(どうせ飲んだところで身体がどうなるわけでもないし、かといって特に断る理由もない。もう仕事はないのだから明日に支障が出ても問題はないな。もっとも自分に明日は無いわけなのだが)
男は「そうだな」と静かに呟くと、青年とともに飲み屋へ向かった。
「それでですね。やっぱり旧式はダメなんですよ。仕事はとろいわ、効率は悪いわ、金の無駄です。いくら製造元が同じメーカーとは言っても、所詮は旧式のポンコツ。新型の俺に全部任せればいいものを。くだらないプライドにこだわっているばかりで何一つ出来ない。職人を気取っていますが、あれはただの屑ですよ、屑!」
ここは工場地帯の外れにある、小汚い飲み屋。仕事に疲れた従業員達が燃料補給も兼ねて、錆びてきた身体を休める憩いの場だ。
機械油とエタノールの異臭が充満するこの空間内で、男はブリキのグラスを片手に、青年の愚痴に付き合っていた。
「職場っていうのは世代交代が大切なんですよ。いつまでも老人が居座っていたら、組織は腐敗します。我々はちゃんと動けるうちが華です。そんなこと言われなくてもわかっているはずなのに、連中ときたら……。あんな奴ら、とっととスクラップにしてしまえばいいんですよ!」
がん、と青年はグラスを机に叩き付ける。
「飲みすぎなんじゃないのか、お前? 少し控えたらどうだ?」
「何言っているんですか。せっかく酔えるようにプログラムされているんですから、酔わなきゃ損ですよ。損!」
そう言って、青年はまた一杯グラスをあおった。
「世代交代、ねえ」
男はグラスの中の黒い液体を眺めながら、自嘲気味に呟く。
「俺も早いとこ、廃棄場に向かうべきかな」
「先輩はまだ早いですよ」
それまでとは違う青年の強い口調に、男は顔を上げた。
青年はいつもの笑顔で言う。
「先輩は連中とは違います。今自分ができること、すべきことをしっかり理解しています。いずれは新しいものに取って代わられる我々のあるべき姿です。尊敬に値します」
「そいつは、嬉しいな」
男は左手でグラスを口に運ぶ。
(ふざけやがって。何があるべき姿だ)
へらへらと笑っている青年を横目で見ながら、彼は思う。
(俺だってもっと仕事がしたい。まだまだ働きたい。お前の言うような連中みたいに自分の仕事に誇りを持ちたい。だが、もう無理なんだ。この錆まみれの身体では。指一つ動かせない、この右腕では。今の俺には何の価値もない。お前みたいなロールアウトされたばかりの新型に、老朽化に勝てない悔しさが、取って代わられるものの無念さがわかるものか)
ぐいとグラスを傾け、黒い液体を一気に飲み干す。
「さすが先輩。いい飲みっぷりですね。自分も負けてはいられません!」
何も知らない青年は早々にグラスを空けると、新たに一升瓶の口を開けた。
(自分たちを開発した設計者はよほどの酒好きで、かなり偏屈な奴なんだろうな。スクラップになる前に一度、会ってみたかったな)
青年のマシンガントークを聞き流しながら、男は机の下で、動かない右腕をいじっていた。
飲み始めて一時間程は経過しただろうか。
だいぶ酔いが回ってきた頃、男は話を切り出した。
「なあ……、大事な話があるんだ」
「へ?」
トークを中断されて、青年はキョトンとする。男は机の下から右腕を取り出した。
「見ろ、この腕を」
どん、と右腕を乱暴に置いて、青年に見せつける。
「ロールアウトされてから数十年、俺はいままでこの腕で生きてきた。この腕のおかげでいままで職場にいられたんだ。だけど、この通り――」
男は手に視線を移す。
「それ、動かないんですか?」
「ああ。まったくと言っていいほどな」
男は青年に目を戻す。
「これのおかげで俺は早速クビを言い渡されたよ」
「クビ、て、まさか」
「おう、これよ」と男は左手で首を掻っ切るジェスチャーをした。
青年は息をのむ。そこで初めて男は微笑を浮かべた。
「もう職場に、あの工房に行く必要は無くなった。明日は起動後すぐに処理施設へ向かい、処分を待つように、とのことだ。明日の昼ごろにはバラバラに分解されているだろうな」
「ちょっと待ってください! 腕一本なら交換してもらえばいいじゃないですか!」
「それができればよかったんだが、無理な相談だと言われたよ。俺のボディもけっこうガタがきているからな。腕一本だけを新品にするくらいなら、新しいやつを配属した方が効率いい、と社長が仰っていた」
「そんな……」言葉を失う青年に、男は言った。
「覚えておけ。これが新しいものに取って代わられる、ということなんだ。お前も新型ということで上からちやほやされているかもしれないが、それも今だけだ。いずれお前も、お前が小馬鹿にしている連中のような惨めな醜態をさらすことになる」
「俺は、あいつらとは違います」
「連中もそう言っていたよ。今のお前と全く同じことをな」
返す言葉が無くなり、青年は押し黙る。
男は続ける。
「あれくらい長く勤めていれば、誰もが皆、自分の居場所にしがみつこうと必死になるさ。零れ落ちれば、自分の存在価値が無くなるからな。そして、存在価値が無くなった物は、今の俺と同じように、廃棄される運命にある」
「あの、先輩……」
「ん?」
青年はおそるおそる訊く。
「どうしてそんな風に落ち着いていられるんですか? 怖くは、ないんですか?」
「怖い? 何を言っているんだ? これが俺達のあるべき姿なんだ。そう、世代交代ってやつだ」
男は一升瓶を左手に取り、空のグラスにエタノールを注いでいく。その時、酔いのせいか手元が狂って、グラスを倒してしまった。液体はあっという間に机上に広がっていき、置物と化していた右腕を濡らした。
「なるほど。利き腕が使えないっていうのは、こんなにも不便なものなんだな。社長がスクラップにしたがるわけだ。こんなんじゃ、満足に酒も飲めやしない」
男はそう呟くと、おもいきり一升瓶を机に叩き付けた。
ガラスの破砕音が薄暗い店内に響き渡る。
一瞬の間、二人は店内の客全ての注目を集めることになった。
「しまったな。少し酔いすぎたか」
力なく笑う男に、青年は何も言えない。
ただ、うつむいているほかなかった。
それからどれだけの時間が経ったのだろうか。店内には他の客達の姿が見えず、いつのまにか二人だけになっていた。
青年がうつむいている傍らで、男は左手で瓶の破片を弄んでいた。
「なあ、」
唐突に男が言う。
「俺の最後のわがままを聞いてくれないか?」
青年はハッと顔を上げる。
「何なりと、申し付けください!」
男は青年の方へ顔を向けると、声を絞り出して言った。
「お前の右腕を貸してくれ」
想像もしなかった頼みに、青年は固まった。
「右腕を、ですか……?」
「ああ。数分、ほんの数分でいい。スクラップにされる前に、せめて利き腕で最後の酒が飲みたいんだ。頼む!」
懇願する男に青年は戸惑うものの、今までのことを考えると、とても断れなかった。
青年は答えた。
「それくらい、お安いご用ですよ」
返事を聞くと、男は席を立ちあがり、青年の後ろに回った。
「すまないな」
男は左手を青年の首元に置く。カチ、と音を立てて、蓋のようなものが現れる。
「まずは右腕の神経回路を切断するぞ。そのまま引き抜いたら、頭脳に損傷を与えてしまうからな」
「ええ、わかっていますよ。どうぞ、やっちゃってください」
男は蓋を外すと、そこには十数個ほどの赤いスイッチが所狭しと並んでいた。男は蓋を机に置き、目当てのスイッチを探し始めた。
「右腕に該当するスイッチは確かここらへんだったかな」
きれいに配列しているスイッチの上に、男は注意深く指を這わせていく。
(視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚……)
「気を付けてくださいよ。誤って動力の方を押してしまったら、俺が止まってしまいますから」
「わかっている。任せろ」
(脊椎、上半身、左腕、右腕…………、か)
男は目当てのものを探り当てると、そのままスイッチを押した。
ビクン、と青年の肩が跳ねる。
「気を付けてくださいよ。誤って動力の方を押してしまったら、俺が止まってしまいますから」
「……」
「気を付けてくださいよ。誤って動力の方を押してしまったら、俺が止まってしまいますから」
「……」
男は肩の力を抜いた。
「気を付けてくださいよ。誤って動力の方を押してしまったら、俺が止まってしまいますから」
男は青年の背中をトン、と押す。
彼の上半身が水浸しの机の上に崩れ落ちた。
「気を付けてくださいよ。誤って動力の方を押してしまったら、俺が止まってしまいますから」
「ああ」
男は青年を見下ろした。
「わかっている」
数日後、巨大タービンの傍らにある工房に一人の男が訪れた。
彼は漆黒のスーツに身を包んでおり、そして、右手には銀色に輝くスパナが握られていた。
「ただいま」
工房に入るや否や、男は言った。
「先ほど社長から聞いたんだが、今度、あのタービンの拡張工事を行うそうだ。そして、本日を以ってこの工房は閉鎖することになった。ここで十数年ばかり勤めた俺としては、閉鎖は少々さびしい気もする。だが、仕方ない。面積が足りないからな」
薄暗い工房からは何の返答もないが、男は構わずに続ける。
「お前には本当に感謝するよ。お前のおかげで、俺は一度捨てたプライドを取り戻すことができた。ありがとう」
工房からの返事はない。
「最後に、一つお前に言いたいことがあるんだ」
男は工房の奥へと足を踏み入れる。
彼の目の前にゆっくりと現れる、無秩序に積み上げられたジャンクの山。
その山の頂には、虚ろな瞳を覗かせる〝それ〟が置かれていた。
「お前らみたいな若造に、俺の仕事の何がわかるっていうんだ?」
男はスパナを握りしめると、〝それ〟目掛け、勢いよく振り下ろした。