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奈々希 ‐ななき‐

作者: まなみ


    ※


「海に来た~~~!」

そう叫びながらはいていたサンダルを脱ぎ捨て、海に一直線に走るのは山下希。明るい性格でアウトドアが好きな彼女はこの夏のバカンスの発案者。希が豪快に海に倒れ込むと、夏の強い日差しを受け宝石のように輝く水しぶきが四方八方に飛び散った。

「希、そんな子供みたいにはしゃがないの!!」

腰に手を当て、まるで母親が子供を叱るように目くじらを立てるのは一之瀬由奈。バカンスを発案したのは希なのだが、直前になって宿の予約や旅費の管理など難しい事は彼女に放り投げられたのであった。そのせいで今日からお世話になるのは、いかにも幽霊が出そうなボロい宿。そのイラつきのせいでもあるのか、今日は特に機嫌が思わしくなかった。

そんな由奈の機嫌の悪さなど気にも留めない希はのんきなもので、先日買ったばかりのハワイアンテイストのビキニを見せびらかすように海水を吸って重くなった服を脱ぎ捨て、髪を高等部の高い位置に束ねる。今も腰に手を当て自分を睨んでいる由奈の方に向き直ると満面の笑みでVサインを突き出し、沖の方へと勢いよく泳ぎ始めた。

「希ちゃんー! 服 脱いだら日焼けしちゃうよー。」

後ろから歩いてきた松本美紅は希の脱ぎ捨てたサンダルを片手に叫んだ。

この様子を、さらに後方からもう見飽きたと言わんばかりの顔で眺めるのは、宮野哀・秋川和人・奥中司・神崎純である。この七人はN大のテニスサークルの面々。大学生最後の夏の思い出を作りにこのビーチへやって来たのであった。


徐々に小さくなっていく希を見つめ、呆れた顔をする由奈に美紅が言った。

「きっと、私達に心配かけないように必死なんだと思うよ?」

どこか悲しげな表情の美紅に由奈は今も沖へと向かって泳ぐ希の姿を見つめた。まるで、悲しみを紛らわせるように…。そして、その涙を自分達には決して見せまいとしているように…。

由奈も、それは理解しているつもりだったのだろう。視線を落とすと「分かってる。」と呟いた。


「長いよね…。」

不意に波打ち際を歩き始めた由奈、美紅もゆっくりとその後を追いかける。波の音にかき消されてしまうのではないかと言うほどに小さい声で由奈は言った。

「うん。」

美紅は静かに頷き、自分達のはるか後方で私達に背中を向けている哀達に目をやった。どうやら宿に帰るところらしい。

しかし、美紅は自分の前を歩く由奈に宿に戻ろうとは言い出さなかった。

まるで海底を歩いているような沈黙が二人の間に流れる。ビーチのざわめきが凄く遠い。

「哀は知ってるの?」

「うん。昨日 希ちゃんが話したって。でも、あんまり興味ないみたいだった。」

会話が途絶えた事を不安に思ったのか、由奈がそんな事を言った。

暗い沈んだ雰囲気から一転、拍子抜けするほどの質問を振られた美紅は笑いながら答えた。

それにつられ由奈も微笑む。

「哀には色恋沙汰なんてまだ早いか…。」今度は、妹の恋愛事情を心配する姉ような表情で肩をすくめるが、どこか安心したように見えるのは、姉と言うより父親の心境に近いのかもしれない。

「あら、宮野さんってああ見えて精神年齢は由奈より高いと思う。」

美紅はそんな由奈を茶化すように言った。

「はーぁ! うちの男どもは、なんでこーもヘタレなんだろ……。」

呆れたように空を仰ぐ由奈。

美紅は、嫌味を言ってもいつものように突っかかってこない由奈に少し感心しながらも、今回のことを由奈なりに重く受け止めてるのだと思った。

「ここで覚悟決めて、最終日に告るって…。」その言葉を境に、また深い沈黙が二人を包んだ。


       ※


「あいつら、どこまで行ったんだよ…。」

一足先に宿に戻っていた哀、司、純、和人、後から加わった希の五人は待てど暮らせど帰ってこない二人を心配していた。哀に関しては、黙々と本を読みふけっているので、まったくそんな感じはしないが…。

「…ていうか、司達の部屋は隣でしょ!? 何でこっちに居んのよ」そう言って怒り出す希。

「いいじゃん。男三人、あの四畳半の狭い部屋に居んのはキツイんだよ。」そう言う司は希の手札から一枚ぬきとり自分の手札に加える。

「にしてもあの二人、ここに何しに来たか分かってるのかなぁ…。」心配そうにつぶやく和人。読書にいそしむ哀以外の四人はひら机を囲み、トランプで遊んでいる。

そんな中、その行為には不釣り合いなほどに暗い和人の口調に希と純は首をかしげた。

「バカンス。」

「海水浴。」

口をそろえて、それが当然とでもいうように言う二人に和人と司は呆れた。心なしか四人の後ろにいる哀の表情が明るくなったが、その微かな表情の変化に気付いた者はこの部屋の中にはいなかった。

呆れ過ぎて頭を抱える和人に代わり司は自分の手札のトランプを机に置くと、いつまでも首をかしげる希と純に言った。

「あのな~。俺達、もうすぐ卒業! 社会人なんだ、この意味分かるか??」

机から身を乗り出し、向かいに座る二人に顔を近づける司だったが、その二人の表情がどう見ても分かっていないという風だったので、司は肩を落とした。

「カズ…、代われ……。」

その言葉を聞いた和人が苦笑いを浮かべてから、今度はより明確に説明を始める。

「簡潔に言えば、卒業した後に自分は何をしたいのか、考える旅行って感じかな。俺は大学院に進むと思う。で、司はミュージシャン。まっ、俺としては司のその無謀な考えこそを考え直してほしいけどね…。」

それを隣で聞いていた司は、隣で肩をすくめて話す和人の腹に強烈なパンチを食らわせた。

「……!!」

「うっせーな。俺も潮時だと思ってんだよ…。」ボソッと呟いた。

「司…。」痛みなど忘れ、和人は真っ直ぐにその悲しげな、何か大切なものを手放す覚悟をしたというような表情を見つめた。

しかし、腹の痛みに耐えられたのはものの数秒で、次の瞬間には吐き気がするほどの痛みが和人を襲う。

悶える和人には目もくれず、司は再び希と純に顔を寄せた。

「で、お前らには何かあんのか?」いつもと変わらない明るい口調だ。

……。しかし、部屋の中に沈黙が続き、二人の答えに少しばかり期待を寄せていた司は見るも無残に玉砕した。

薄々こうなる事を予想していた和人は、這うように哀に近づくと痛みに歪む顔を無理に笑顔に変え、「宮野さんは?」と尋ねた。

「別に。」

本から目を離さずにそう答えた哀の態度は、和人の腹の痛みは増幅させる結果となってしまった。

「ただいま。」そんな暗い声が部屋に響いたのは、それから暫くしてのことだった。

何故か、その中に女子高生と思わしき満面の笑みを浮かべた少女が追加されている事に、机を囲む一同は目を点にした。


       ※


暗い沈黙のビーチを歩く由奈と美紅。

いつの間にか、ビーチの端の岩場まで来てしまった二人。引き返そうと踵を返した二人の耳に女の子のすすり泣くような声が聞こえた。ふと立ち止まった二人は岩場を振り返った。

「ひょっとして…、こんな昼間から幽霊…!?」

ふざけたように言う由奈の背中を叩きながら美紅が前に出た。

「なわけないでしょ。」美紅はそう言って何のためらいもなく岩場に近づく。「迷子とかじゃないと良いけど…。」

そこには、中学か高校生くらいの女の子が立っていた。

美紅に気がついた少女は、不安そうに身を縮めた。

「どうした?」美紅の後ろから顔を出した由奈は、美紅よりも先に少女に近づきながら言う。由奈とそれほど変わらない背丈の少女は、怯えたように言った。

「N大って…どこですか?」

少女の口から自分達の通う大学の名前が出た事に少し驚いた。まさか海に来てまで大学の話になるとは思ってもいなかったからだ。由奈と美紅は顔を見合わせて首を傾げた。

「N大に何か用でもあるの?」

美紅は、その顔にまだ緊張の色がうかがえる少女を優しく見つめ、ゆっくりと歩み寄る。怯えたように声を震わせている、この少女がとてもかわいく思えた。

「えっと。私、そこのテニスサークルに用が…。」俯きながらもそう答える少女。

それを聞いた二人は再び顔を見合わせた。

「私達、N大のテニスサークルのメンバーなんだけど…、何か用?」

由奈が少し不審がりながらもそう答えると、少女の顔は怯えが消え、急に明るさを取り戻した。

そして、とんでもない事を口にする。

「私、未来から学生時代の両親を探しに来たんです!! それで―――。」

そう言いかけて、少女は目の前の二人の異変に気が付いた。こっちを見て放心状態だ。

その姿に首を傾げる少女。さも自分に非はないと言いたげな、のっけらかんとした表情だ。しかし二人のこの異変は誰がどう見ったって彼女のせいであることは明確で、今すぐにでも病院に連れて行って薬を飲ませようとさえ思う。何の変化のない二人に少しばかり動揺し始める少女だったが何かに気がついたのか、美紅に笑いかけてきた。

「実紅さん!!」

「は、はい。」急に名前を呼ばれて、驚いた実紅は我に返った。

「実紅さん、でしょ?」

「え…ええ。」

「やっぱり~! 私 間違ってなかったんだね!!」

美紅は目を疑った。

さっきまで縮こまっていた少女とは、まるで別人のようだ。その落ち着いた容姿からは想像が出来ないほど、幼い子供のようにはしゃいでいた。

あまりにも嬉しそうに自分の世界にハマるこの少女には、水を差すようで悪いとも思った美紅であったが、やはり聞かずにはいられない事があった。

「あの…、ところで どちら様?」必死にこの状況を把握しようと少女に尋ねる。隣にいる由奈はまだ放心状態から抜け出せずにいた。


「あ、そっか。ここでは初対面なんだよね。私は奈々希って言います!!」



名前を聞いたところで、この非現実的な状況を納得できるはずもない、由奈と美紅の二人はとりあえず奈々希をつれ、宿に戻った。

「ただいまぁ」二人は疲れきった様子で部屋に入った。

そこには、うつ伏せに倒れ込み腹を押さえて苦しそうな和人の姿、四畳半の和室をでかでかと陣取る机から身を乗り出し呆れた顔を希と純に向ける司。相変わらず、その輪から外れて黙々と本を読む哀。由奈と美紅は、あまりの状況の変化に突っ込むことも出来ないでいた。

「遅いぞ。」司が体勢を戻しながら言う。

奈々希は不思議そうに辺りを見渡した。そんな奈々希を見た純が四つん這いの体勢でこちらに近づいてきた。奈々希も純と目線を合わせるように身を屈め膝を抱える。純は奈々希をじっと見つめ、次に苦笑いを浮かべる由奈や美紅の顔を見上げた。

「この子は??」

純のその言葉に哀以外が、満面の笑みを浮かべる奈々希と苦笑いの由奈達を見比べた。

一人壁にもたれ読書にふける哀はほぼ無表情。哀は「誰?」と視線を移さず淡々と言った。

その光景を見る奈々希の顔が緩んだ。

奈々希に興味津々と言った様子の純を押しのけると、スリッパを脱ぎ捨てて部屋見上がり込んだ。

「お母さーん!」

「え!? おか…っ。……え~~~!!」その場にいた全員が奈々希のその言葉に驚き、慌ててこの少女の視線の先を探す。

少女の向かった先は、何とこんな状況にもかかわらず読書に没頭する哀。

奈々希は、とても二十歳を超えているとは思えない小柄な哀の体に抱きつくと、その無表情の顔に自分の頬をすりよせた。

一瞬にして部屋中の空気が凍結する。


……………。

「え~~~~~~~~~~~~~~!!」

その場にいた全員が、一斉に声を上げるが純だけが事の重大さが分かっていないようにキョトンとしていた。

部屋中の視線が哀に向いてるというのに、当の本人はまるで、何事も無かったように本から目を離さない。首にしがみついている奈々希にさえも興味を示さなかった。


「あれ、本当だったの!?」

美紅が信じられないと言ったように、由奈の方を見た。

由奈の頭はこの非現実的なこの状況をすんなり受け入れられるようには出来ていないらしい。頭を抱え、壁に体を預けていた。

「子供…、いたのか??」司は誰に尋ねる訳でもなく、呟くように口を開いた。

「いくつの時の…?」それに応えるように和人が言う。どこからどう見ても自分達の背丈とかわらない少女。は、中学生…、下手をすれば高校生って可能性だってないわけではない。

「十五か六…だとしたら、哀ちゃんが小一のときの?」希が恐る恐る口にした。

それに対して、和人や司はそれを聞いて安心したように微笑んだ。いくらなんでも小一の母親なんている訳もなく、この少女があだ名感覚で哀をそう呼んでいるに違いないのだと勝手に解釈してくれたようだ。

しかし美紅は「違うの。」と思わず口を挟んでしまった。

由奈も慌てて間に入った。

「そうそう…この子は、何て言うか……哀の未来の子供っていうか…。」

再び、部屋に沈黙が流れた。

由奈の説明は、どう見たって無理がある。勝手に良いように解釈してもらっていた方が都合が良かったかもしれないが、目の前にいるこの少女の嬉しそうな顔を見ると言わずにはいられない気持ちになったのだ。しかし、こんな話を上手く説明できるかと聞かれればそれまでだ。いくら奈々希自信がそう言っているからって、そんな話を信じろという方が無茶と言うものだ。

ただ一人を除いては……。

「へー、そうなんだ。君、いくつ?」純が奈々希の傍に擦り寄る。

部屋に何とも言えない妙な空気が流れる。

由奈達は呆れて言葉も出ないと言った感じだ。信じてくれるのは有り難いが、こうもあっさり認められてしまうと友達として情けなくもなってしまう。

しかし純はそんなこと気にもとめず、相変らず空気の読めない好奇心の塊のような笑顔を浮かばせていた。

奈々希は哀の首に巻き付けた腕を少し緩め、振り替えった。

「えっと、十歳です…。」

これまた信じられない答えが返ってきた。

「十歳!?」哀以外が、口を揃えて叫んだ。その場にいた女子達はとても小学生には見えない色気を兼ね備えた容姿に驚き、男子達はその色気に息をのんだ。

そして奈々希は、自分に向けられた女子達の嫉妬にも似た視線と、男子達のまじまじと自分を見つめる視線に自分が疑われていると思ったのか、いきなり立ち上がり声を大にして叫んだ。

「嘘じゃないもん!」

一瞬、その場にいた全員が少女の口にした「嘘」というのが、どちらにかかっているのかと思った。未来から来たという非現実的な話の事を言っているのか、それともこの容姿にして自分は小学生だと言った事に対してなのか。

「奥から秋川和人、神崎純、山下希、奥中司!!」どうやら、その答えは前者だったようだ。

奈々希は震える声で叫んだ。

それは、どうすれば自分のことを信じてもらえるのだろうかと、その幼い心で必死に考え編み出した言葉のように半信半疑だった由奈達に届いたのであった。

「本当だもん! 私は未来から来たの!」

奈々希は言い終わると、興奮をなだめるように肩で大きく息をした。

するとそれまで本を読んでいた哀が顔を上げた。 「嘘じゃない」淡々とそう言うとまた本を読み始めた。

「…?」

部屋に居た全員の視線が哀に集中する。

「たぶん」哀はそう付け足すと口を硬く結んだ。

奈々希の目から涙が落ちる。

「お母さん…。」奈々希はまたしても、哀の首にしがみ付いた。


こうして、未来から来たという少女・奈々希は、満場一致の可決によりこれから先のバカンスを共に楽しむこととなった。



その日のうちに、奈々希を歓迎するパーティーが純の提案で始まった。


午後から天気は傾き始めたため、薄暗いビーチには由奈達の他に海水浴客は数えるほどしかいなかった。

ビーチに設置したテーブルにお菓子の袋や紙コップなどを広げた由奈達は、そのテーブルの周りをソフトドリンクを手にして取り囲んだ。

「さー、これから未来の宮野っちの子供の歓迎会を初めまーす! かんぱーい」純がグラスを持った手を前に差し出すと、みんながそれについてグラスを掲げる。

乾杯が終わると、奈々希が慣れた動きで立ち上がった。十以上も年の離れた由奈達を前にしているというのに、物怖じしていないし緊張すらしていない。やはり初対面ではないのだと改めて思い知らされた気がした。

「宮野奈々希、十歳です。2018年5月7日生まれです。好きな食べ物は、お母さんの作るハンバーグです。」自己紹介を終え、席に着く奈々希。

「18年生まれって事は、奈々希ちゃんは十七年後から来たってことか…」そう感心したように呟く和人。 普通ではありえない自己紹介にも、もう誰も動じない。脳が麻痺してしまったのだ。

すると司が他の男子二人の肩に腕を回すと、半ば強引に自分の元へ引き寄せた。純と和人は持っていたドリンクをこぼさないよう気を配りながらも、司の言葉に耳を傾ける。

「そんなのとより、宮野がハンバーグって方が驚きだろ? 結婚ってのもイマイチ想像つかねーし。」そう囁く司は女子の会話に嫌々と言った様子で加わっている哀に盗むように目を向けた。そして自分が頭に浮かべてしまった雑念を払うかのように頭を振る。

「そっかなー。宮野っちって料理上手だよ。調理実習の時、先生にいつも褒められてたし。」中学時代から哀と幼馴染の純は自分の事のように自慢げに話した。

「へー。宮野さんが料理なんて俺もイメージなかったな…。」

相変わらず、感心したような口ぶりの和人に司は少々呆れ気味に続けた。

「っていうか、宮野って謎じゃね? 笑ったとことか見た事あるか?」司に真剣な顔でそう言われた和人は一瞬考え込んでしまった。中学時代からの付き合いだという純までもが司のその問いには首をかしげざるを得なかった。

「テニスの試合のときも、表情一つ変えないからな…。」と和人。

すると和人の表情が一瞬にして変貌した。

冷や汗を流し、微かに震えているように見える。

その変化は、司や純との会話によるものではなかったのである。


「確かに、宮野っちって、告白されても無表情だし。うんうん。」そう一人で納得したように頷く純。

そこでいったん会話がストップした。純の発した言葉の中にどうしてもスルー出来ない物が混じっていたからだ。冷静沈着、正直言って何を考えているか全く理解できない。そんな哀が…。

「告白!? あの宮野が?」司は、この場に女子たちがいるのを忘れ、大声を出してしまった。慌てて口をふさぐ。どうやら女子は女子で大いに盛り上がっているようで司の大声を気にとめてはいなかったようだ。

「うん、中学の卒業式前日に。あっさり玉砕って感じだったけどね。」

どこが自慢げに話す純。

「なんだよ、それ…」和人が震える声で呟いた。

その反応には司も純も驚いたようで、少し動揺しながらも「なに、暗い顔してんだよ!!」と司は和人の肩を叩きなが、雰囲気を変えようと精一杯に笑い飛ばしていた。

それらの会話が和人の耳には、いっさい何の音も聞こえなくなっていた。

自分だけが、何か聞いてはいけない未来を聞いてしまったような気がして…。


         ※


「ねぇ、由奈は大学卒業したらどうするの?」美紅は、紙コップに入ったドリンクを風呂上りの牛乳のように一気に飲み干す、由奈に尋ねた。

由奈は空になった紙コップをテーブルに戻すと、考える間もなく「実家の手伝い。」と即答した。

「そっか。由奈のことろって農家だっけ?」

「そ。今はこっちで一人暮らししてるけど、大学出たらいったん家もどんないと。」

「へー。由奈ちゃんって一人暮しなんだ。」凄い、凄い、といつものようにはしゃぐ希。隣で黙って話を聞いている奈々希の方が二人にはどう見たって大人に見えた。

「そう言う美紅はどうなのー? 一時期は『本気でアイドル目指すんだぁ』とか言ってたじゃん。」由奈は茶化すように言った。

「ちょっとやめてよ。奈々希ちゃんの前で! 第一、そんなの子供の時の話でしょ。」

「じゃぁ、今は?」

急に顔を赤くして焦り出した美紅にさらに追い打ちをかけるように由奈はニヤつきながら言った。

「そ、それは……だから…えーと……」

美紅は、困ったように明後日の方を向く。

すると、そんな美紅を見てか助け舟でも出すかのように奈々気が明るい口調で言った。

「私は歌手になりたいです。お父さんがミュージシャンだったんですよ。」鼻高々に自分の父親の話をする奈々希。しかし、自分から話しだした話題だったにもかかわらず、その表情には暗い影が落ちているように思えた。

「奈々希ちゃん、ナイスフォロー。」由奈は奈々気に満面の笑みで親指を立てた。

美紅は何とも腑に落ちないと言った表情で由奈を睨んだ。自分が言うか…と、突っ込みたくなるがグッとこらえる。

「へー、奈々希ちゃんって将来、歌手になりたいんだぁ。」気分を変えて話し出した美紅だったが、次の希の一言で場の空気はさらに右肩下がりに落ちていく。

「そういえばさ、奈々希ちゃんの名前。何で苗字が『宮野』なの?」

ほとんど会話に参加していなかった哀も、さすがにこの話題には反応をせざるを得なかった。周りには気づかれないほどの微かな表情の変化、しかし奈々希はそれを見逃しはしなかった。しばらくの沈黙に、どう切り出そうか困っていた奈々希だったが目の前に佇む哀の視線に意を決して口を開いた。

「お父さん、私が小さい時に死んじゃったから…。」

「ご、ごめん!」

希は気を落ち着かせるためなのか、手にした紙コップに半分ほど残っていたジュースを一気に飲み干してから、もう一度「ごめんなさい」と呟いた。

「あ、いえ…そんな。」少し困ったように両手を顔の前でひらひらとする奈々希の横顔を、和人がとても深刻そうな顔で見つめていた。

「でも、一度だけお父さんが出てる映像を見た事あるんです。」

「お父さんって、テレビに出るほど有名な人だったんだ…。」そう呟いた由奈は自分の顎に手を当てて何やら考え始めた。しばらく由奈の考えを待つため、その場に沈黙が流れる。

その答えを待たずして哀が口を開く。

「今も有名。」

「って、可能性もあるよね。」と由奈が付け足した。

「あ、いえ。お父さんはただの会社員で、たまにバンド仲間とライブをしてたぐらいだって、お母さんが。」その言葉に、由奈達の視線が哀に向けられる。

しかし、奈々希のこの母親とは比べ物にならない社交的さは、いったい何なのだろうと頭を抱えたくなる。十歳にしての子の落ち着きはやはり母親譲りなのだと思うが…。

哀は紙コップにストローをさし、そしらぬかを出ジュースを飲んでいた。

「ひょっとしたらこの中に、哀の旦那がいるかもしれないね。あはは。」そう言いだした希に奈々希を含めた四人が驚いた。由奈や美紅、哀が驚いたのはもちろん、希自身の片思いの相手がここにいるから。もしその人物が奈々希の父親なのだとしたら、笑いごとではない。

そして奈々希の言っている事が未来で起こる事実なのだとしたら。希はこの場にいた全員が認めるほどの馬鹿なので、そこまで考えてものを言っているようには見えなかったが、希はどこか無理に笑っているように見えた。

「映像を見た事あるなら、顔とか分からないの?」と美紅が聞いた。

「見たのは私が幼稚園ぐらいの時だったし…、その後、そのテープをなくしちゃって…。」思い出すように目線を左上に向けた。

「そっか…。」と、残念そうに肩を落とす三人。

しかし哀だけは無表情のままストローをくわえていた。


歓迎会が終わり、後片付けが始まった。

「あとは自分がやっておく」奈々希はそう言って、みんなを宿に返した。

砂の上に重ねて置いてある紙皿、その周りに散らばった後片付けに使用した新聞紙の切れ端。それらを持っていたポリ袋に入れる。何度も屈んでは立って、立っては屈んで。繰り返すうちに心に溜め込んでいた悲しみが溢れ出した。

「泣いちゃ…ダメなのに……。」

奈々希は止めどなく自分の目からこぼれ落ちる涙を止めようと、歯を食いしばる。しばらくは、それでもゴミ拾いを続けていた奈々希だったが、ついに手が止まってしまった。

「お父さん……。」そう呟く奈々希。周りには少なからず海水浴を楽しむ観光客が沢山いる。ここで泣いてはいけないと、奈々希は目を力の限り、きつく閉じた。

奈々希には、分かっていたのだ。自分が探し求めていた父親が誰なのかも、そしてその人があの人達の中にいるという事も。その人に自分の父親である事を伝える事がどんなに残酷であるかと言う事も。




奈々希はその後、何食わぬ顔で一日を過ごした。

母親と、そして自分のことを娘とは知らない父親と…。


そして、奈々希が未来にやってきて二日目の昼のこと。

「あーぁ。また奈々希ちゃんの勝ち!?」

「奈々希ちゃんってホント、神経衰弱 強いよね~」

「にしても、希はボロ負けしすぎでしょ…。」

「希ちゃんは、こういうの苦手だしね。」

「一之瀬だって、人のこと言えねーだろ? さっきから山下といい勝負だぞ。」

「なによ、司だってさっきから負けっぱなしじゃない!」司に掴みかかる勢いの由奈を隣にいた希と美紅がなだめる。その場が笑いに包まれた。

いつものようにその輪には入ろうとしない哀。今日は珍しく和人も一人で携帯をいじっていた。

そんな和人を一番気にしていたのは奈々希であった。

その夜、既に布団の中で寝息を立てていた哀の横に奈々希は横になった。掛け布団を頭の先まで引き上げた奈々希はその中で身を縮めた。嬉しさで思わず口からぼれてきそうな笑い声を必死にこらえる。

「まだ、寝ないの?」奈々希の左隣に寝ていた美紅が不意に声をかけた。

「毎晩、そうしてるわね。でも、夜更かしは良くないわ。」美紅は笑いながら言う。

「はい。」奈々希はそう返事をすると、頭を布団から出し寝る体勢を取った。

それを見てさらにクスクスと笑う美紅。

「哀と…、お母さんに会えて嬉しい?」

「はい。」

「こんな無口で愛想のないお母さんで、奈々希ちゃんも苦労するでしょ。」美紅は、自分の隣で寝ている希と奈々希ちゃんの向こう側で寝ているし哀を見比べた。

希の方は凄い寝相だ。掛け布団を蹴散らかし、お腹をかきながらムニャムニャと口を動かす。それに対して静かに布団にくるまり寝息を立てる哀。背を向けているため表情は確認できないがいつもと変わらない無表情なのだという事は奈々希にも美紅にも想像がついた。

「分かってますから。お母さんが……」言いかけて、奈々希は急に口をつぐんだ。

美紅は不思議そうに暗闇の中で奈々希の蒼白とした顔を見つめた。そして、すぐに奈々希が慌てて口をつぐんだ訳を知る。「うるさい。」哀のそんな声が聞こえたからだ。

しばらくしてから、奈々希は笑いをこらえるようにして、「てれかくし。」と美紅に向かって口をパクパクさせた。それを理解したのか美紅も「だね。」と口パクで伝えた。二人は今も起きていて自分達の会話を聞こうと神経を尖らせているかもしれない哀に気付かれないよう声を殺して笑っていた。


翌日は奈々希以外の全員は朝から買い出しなどで部屋を留守にしていた。奈々希は哀がいつも読んでいる文庫本をペラペラと眺めながら一人、暇を持て余していた。

すると、そこに一足早く和人が帰ってきた。

「早かったですね。」

奈々希がそう声をかけても反応はなく奈々希は一瞬ムッとしたが、すぐさま和人の醸し出す異様な雰囲気に気付いて言葉を失った。

和人とは、未来で比較的 付き合いが長い奈々希。奈々希は和人のこんな顔を始めた見た気がした。その形相を目の当たりにした奈々希は覚悟を決め、口を開いた。

「気付いてたんですね…。」

そう口にした奈々希に和人は目を合わすことなく、悔しげに唇を噛んだ。

「司、なんだな…。奈々希ちゃんのお父さんって。」

「はい。」

しばらくの沈黙の後、和人がゆっくりと口を開いた。

「奈々希ちゃん、お願いがあるんだ…。」

「お願い…?」思いがけない言葉に奈々希は首をかしげた。

和人はそれだけ言うと再び部屋を出て行った。


しばらくして、和人の元に由奈達が慌てた様子でやってきた。

「和人、奈々希ちゃん知らない?」

自分達男子が泊る部屋に、女子達が凄い形相で押し入ってきたので和人は少々慌てた。持っていた携帯をその場に置くと由奈達に駆け寄る。

「何かあったの!?」

「買い出しから戻ったら、奈々希ちゃん どこにもいないのよ!」

「宿の中は一通り探したんだけど見つからなくて。…今、希ちゃん達が外を探してる。」由奈の後ろから美紅が言った。美紅の後ろで哀が無表情のまま和人を見ていた。

無表情だから余計にそう思うのかもしれないが、和人には哀が自分を睨みつけているように思えた。何もかも見透かしたような真っ直ぐな目で、私の娘に何をしたんだと、責め立てられているような気さえした。

「とにかく和人も来て。」

由奈達も司や希、純と合流し奈々希の捜索を始めた。

宿を出た哀が何の迷いもなく向かったのは昨日、由奈と美紅が奈々希を発見した岩場とは真反対の位置にある切り立った崖だ。なぜ哀がそんなところへ向かったのか、きっと哀自身にも解からなかったに違いがなかった。強いて言うならば親子であるからだろうか。未来であっても過去であっても哀と奈々希には、同じ血が流れているからであろうか。結果から言えば、奈々希はそこにいた。一人静かに眼下に広がる大海原を眺めていたのだから、哀と奈々希は親子で、その思考回路も似通っているのだろう。

「みんな、貴方のこと心配してる。戻った方がいい。」抑揚のないその言葉に、奈々希は涙を流した。どんなに素っ気なく、一見なんの感情もこもっていないように思えるこの言葉の中に奈々希は確かに見つけたのだ。ほのかに温かい愛情を。

「お母さん、どうしよう…。」

背中を丸め、肩を震わす奈々希が、燦々と降り注ぐ爽やかな午後の日差しに透けて見える気がした。まるで、今の奈々希の心を映し出すかのように。一人の、わずか十歳の少女の透けてしまうほどのか弱くも美しい心のように。

哀は思わず口に出しそうになった。いつもと変わらない口調で、「貴方はいつまで、ここにいられるの?」と。

当然と言えば、当然の事だ。なぜ自分は今までそんな事を考えなかったのだろうと哀は自分を恥じた。彼女自身 表に出さなくても、娘に会うという信じ難い状況に動揺し、困惑し、そして愛おしさもあったかもしれない。

「大丈夫。」

そう一言告げた哀は、一人で宿へと戻って行った。


「奈々希ちゃん!」

奈々希が宿へ戻って気なのは夕方になってからのことだった。由奈達は哀から奈々希は大丈夫だと伝えられてはいたのだが、夕方まで戻ってこなかった彼女を心配していた。

「勝手にいなくなっちゃって、ごめんなさい。…あの、それで皆さんに話したい事があるんですが。」


        ※


時刻は午後七時を回っていた。

奈々希に話があると言われた由奈達は、一つの部屋に集まり奈々希の話を今か今かと待ちわびていた。

そこに浮かない顔をしている人物が二人。和人と希である。そんな二人の暗い表情を気にしながらも奈々希は本題に入った。

「私、みんなに謝らなくちゃいけない事があるんです。」

「謝る?」由奈は首をかしげると、自分達の前に立っている奈々希を見上げて言った。

希や純や美紅も意味が分からないと言ったように顔を見合わせる。その後ろで和人が切なそうな表情を浮かべながら座っていた。和人に背を向ける形で奈々希の話に耳を傾ける由奈達はもちろんその事に気づかない。

しかし、和人と同じようにみんなから少し離れて座っていた哀だけが「貴方が出した答え、間違ってない。」と呟いた。

「ごめんなさい!! 私、ホントは知ってたんです。」奈々希は頭を深々と頭を下げた。それまで泣くまいと目に溜めこんでいた涙が畳みに落ち、シミを付けた。

そんな奈々希の言動に由奈達は動揺を隠せずにいた。お互いがお互いの顔を見つめ、なんとか平常心を取り戻そうとする。

「知ってたって、お父さんのこと…?」

「はい。」奈々希は頭を上げると、大きく深呼吸をしてから話し始めた。事故で亡くなった自分の父がこの中にいる事。そして、自分がなぜ嘘をついてしまったのかと言う事を。

「このまま伝えない方がいいと思いました。でも昨日、秋川さんが……」

それまで黙って聞いていた司の顔が途端に青白くなった。何か言おうと口を開くが震えが酷く思うように声が出せない。今日の朝、買い出しの途中で和人に言われた事を思い出したのだ。


「なんだよ、いきなり夢を諦めるなって。一番バカにしてたのお前だろ?」

コンビニに向かう途中、後ろからそれを追いかけてきた和人は息を切らしながら「夢を諦めるな」と俺に言った。

「気が変わったんだよ。この前の司の真剣な顔見てな。」と。

別に変ったはなかった。

いつもと変わらない口調、いつもと変わらない表情。


「私、思ったんです。お父さんの歌がもっと聞きた―――。」

「ふざけんな!!」

奈々希の言葉を遮るようにして司が叫んだ。

その場が静まり返る。そんな中で哀と和人だけが、真っ直ぐとただ一点を見つめていた。

そんな和人に司は立ち上がり睨みつけた。

「カズ…、知ってたのか……?」静まり返った部屋に緊張が走る。時が止まってしまったかのような部屋に、司の低い声だけが響いた。

「……。」和人は何も答えないどころか、司と目を合わせようともしない。

「知っててあんなこと言いやがったのかって聞いてんだ!!!」

和人に飛びかかろうとする司。そんな司を純が羽交い絞めにする。それでも司の気が沈まることはなく、訳も分からずその場に座る由奈達は呆然とそんな司達を見上げていた。

奈々希にいたっては、あまりの事に腰を抜かしその場に座り込んでいた。当然の事かも知れないが、奈々希はこんなに人が取り乱しているところを初めて目の当たりにするのである。その人物が自分の父であるなら余計に、十歳の少女が目の当たりにするには酷過ぎる状況であるのだ。

「どうせ死ぬんだから、せめて好きな事だけでもやらせてやりたいってか? ふざけんな!」

「司! 落ち着きな。奈々希ちゃんもいるんだよ!!」

由奈と美紅が、司をなだめようと立ち上がる。その後ろで呆然としている希の目からは自然と涙がこぼれ落ちていた。

「司が奈々希ちゃんのお父さん…? 司が死ぬ…? 司が哀ちゃんと…???」

女子三人の中で今、一番状況を把握していたのは希であろう。奈々希から話があると声を掛けられた時からこの名前だけは口にしないでほしいと願い続けていたのだから。




「司が…奈々希ちゃんのお父さん……?」司がいなくなった部屋で由奈、美紅、純の三人は和人から真実を聞かされていた。奈々希はと言うとさっきから膝を抱え、部屋の隅で一人泣いていた。あんな状況を目の当たりにしてしまったのだから仕方がない。和人は後悔していた。

何で自分は奈々希にこんな大役を任せたのだろうと。こうなる可能性を考えなかったわけではない。考えていたはずなのに、と頭を抱えていた。

他の三人も、奈々希のことは気になるが、友達が死んでしまうという未来を知った今、奈々希より司の方が先に出てしまう。

そして、他の誰よりもその事にショックを受けていたのは希だと言う事もこの場にいた全員が分かっていた。しかし、何と声をかければいいのか分からない。気休めの言葉なんか口が裂けても言える状況ではなかった。

「………そんな事、ありえない!」希はそう叫び、立ち上がった。

「司と哀ちゃんが結婚する? 子供ができる? そんなの、有り得ない。有り得る訳ない! おまけに司が死ぬって、何よそれ…。信じれるわけないじゃない!!」そう怒鳴る希の視界に、愕然と自分を見つめる奈々希の姿が目に入った。

「希…。奈々希ちゃんがいるのよ。これ以上言わない方がいい。」由奈が希の肩に手を置いた。

頭では分かっている。自分がどんなに酷い事を言っているのか。しかし、この憤りを外に出さずには居られなかった。

希は部屋を出て行こうと扉の取っ手に手をかけた。

「…ごめん。……奈々希ちゃんも、ごめん。」そう言うと希は部屋を立ち去った。


部屋には重たい空気が流れた。残された人は順に立ち上がり、部屋を出て行く。

純が部屋を出て行き、続いて美紅が。そして最後に「ごめんな…」と呟きながら和人が部屋を後にし、残ったのは奈々希と哀だけとなった。

「言っちゃダメだったのかなぁ?」奈々希は泣きながら言った。出てくる涙を必死に拭いながらも、次第に嗚咽を漏らしながら母に尋ねた。

「人に死を伝える事は辛いこと。でもそれは強くないと出来ない。」ほとんど抑揚の無い声で哀は言った。

「貴方は強い。でも、まだ十歳。それ以上の強さは求めない。」




その日の夜、二つ取っていた部屋の片方に司が閉じこもり、和人や純がもう一方の女子達がいる部屋に上がり込んだ。

「こっちは五人でも定員オーバー何だけど?」

自分達の部屋に転がり込んできた男どもに由奈は言った。

女子の集まるこの部屋にはもう布団が引かれて由奈達も部屋着に着替えていた。奈々希は由奈達の服を借りているのだが、スタイルは由奈や美紅達とも見劣りすることはない。

「ほら、純。やっぱ不味いよ…。」他の客に気を使っているのか、和人は純の耳元で囁いた。それに比べて純ときたら、「いいじゃん、いいじゃん。」と子供のように駄々をこねる。

「ホントにうちにはお子様が多くて困るわ。」由奈は奥で布団にシーツを引く希に目をやる。それに気づいた希は苦笑いを浮かべた。

「たくっ…。入れてあげても良いけど、私達が寝る前には帰ってもらうからね。」そう言って純達を睨みつける由奈に相変わらずの純が「えぇぇー」と文句を言おうと口を開く。

「も、もちろん。」

これ以上もめたら困ると思った和人が、慌てて純の口をふさいだ。部屋に上がる純達と入れ替わりに、部屋から哀が出て行く。和人や由奈達は不思議そうにその背中を眺めていた。



哀の向かった先は司が閉じこもる隣の部屋。司をビーチへ連れ出すためだ。


漆黒の海が一面に広がるビーチを歩きながら哀が司に言った。

「あの子の言うこと信じる?」

相変わらずの抑揚のない話し方。感情を読み取ることができない表情。

すると、後ろからついてきていた司が立ちどまった。それに気付いて哀も振り向かずに止まる。

「何なんだよ…。アイツの父親が俺だって分かった途端、嫁気取りか!?」司は声を荒げてそう言うと、自分に背を向ける哀の小さな肩を掴み、そのまま哀を体ごと自分の方へと振り向かせた。

「信じねーぞ、俺は!! お前と結婚するって事も、俺が死―――っ!!!」

司は一瞬言葉に詰まった。振り返る哀が泣いているように見えたからだ。肩まである黒髪が乱れ、その奥から雪のような白い肌に伝う一筋の涙。

初めて見る哀の涙に司は動揺を隠せなかった。

しかし次に、哀の口から出た言葉はいつもと変わらない何の感情も読み取れないものだった。

「……それは良かった。」

哀は淡々と言うと、司の手を振り払い宿に戻って行った。

「ど、どういう意味だよ!?」我に返った司が叫んでも、哀が振り返ることは無かった。


哀が部屋に戻ると扉の前には部屋着姿の希が腕を組んで仁王立ちしていた。

「こっち…」哀はそう言って希の前を通ると、そのまま振り向く事なく一直線に廊下を進む。

古い木造のこの宿の廊下は、普通に歩くだけでもぎしぎしと音が鳴る。その音が夜の静まり返ったこの空間に響く。

廊下の奥にあるのは大広間へと続く大きな扉。そにもたれかかるようにして立つ哀。後から付いてくる希をじっと見つめた。

「…司と何話してたの?」哀に数秒の遅れをとりながらも大広間の前までやってきた希は、いつもと何やら態度の違う哀に少し語尾を強めて言った。

希の質問を聞こうともしない哀。「奥中が好き?」そう聞いた。

「は?」

自分の質問を無視された希は、顔をしかめた。

「あなたにとって私は邪魔。でも、奥中が私と結婚しなくなれば、彼女は生まれてこない…。自分の恋か、彼女の命か。」

それだけ言うと、哀は部屋に戻って行った。

呆然とその場に立ち尽くす希。

「ちょっと、待っ…」振り向き、そう叫んだときにはもう哀の姿はなかった。




哀が部屋に向かう途中、純や和人とすれ違った。どうやら由奈達に部屋を追い出され、自分達の部屋に帰るわけにもいかず、廊下で暇を潰しているようだった。

哀はそのまま二人の前を通り過ぎたのだが、二人はそんな哀を見て叫んだ。

「宮野さん!?」

「宮野っち、どうしたの!?」

哀はそんな二人を無視して部屋に駆け込んだ。


「宮野さんのあんな顔、初めて見た…。」

「僕もだよ…。」



真っ暗な部屋の中、哀はその場に座り込んだ。

哀は自分自身のずる賢さに身震いした。「命」なんて引き合いに出した自分は卑怯なのだと、哀は震える手で自分を抱きしめるように力を込めた。

本心で司や希に、あんな事を言った訳ではなかった。

哀はただ守りたかったのだ。自分を「母」と慕ってくれたあの少女を。

失いたくはなかった。

それは、哀が初めて感情を表に出した瞬間だったのかもしれない。暗く、静まり返ったこの部屋で。


司が奈々希の言っている事を受け入れれば未来は少なからず変わってしまうのだろう。そんな不安定な未来に奈々希の存在を位置付けてくれるものなんてなにもない。

希の恋が実っても、当然 奈々希は生まれないのだ。


奈々希たちの寝息が響く暗闇に、哀の目からこぼれ落ちた涙が光った。

その時、ノックの音が背中から哀に伝わった。

「哀、居る?」扉の向こうから聞こえるのは、か細い希の声。

哀は目を閉じると、大きく肩で息を吸った。

これは自分が望んだ結果だ。そう哀は覚悟した。

「あたしね…、諦めようと思うの。司のこと……」扉の向こうから聞こえる希の声は、今にも消えてしまいそうで…震えていた。

哀の目からより一層 大きな涙がこぼれる。自分からこうなる事を望んだ。なのになんで自分が泣くのか、哀自身が理解できないでいた。

“本当にそれで良いの?”思わずそんな言葉が口をつきそうになる。

恋か命か。希に迫ったのは自分なんだ…。


    ※


「宮野っち大丈夫なの?」

心配そうに由奈にそう尋ねる純。

「まだ熱が引かないみたい。一応、今日は一日寝とくようには言っておいたけど…。」

哀が寝ている部屋の前に全員が勢ぞろいしていた。

気まずそうな顔の希や司や和人。そんな三人にどう声をかけて良いか分からない奈々希を含める他の四人も浮かない顔で黙り込んでしまった。

「お母さん、きっと疲れちゃったんだろうな…。私のワガママのせいで。」奈々希がそう呟いたと同時に希や司が弾かれたように視線を上げた。

「奈々希ちゃんのせいじゃないよ! むしろ私達が大人げなく動揺したせい…。」

「山下の言うとおりだ。宮野が体調崩したのが精神的な問題なんだとしたら、俺達のせいだ。」

そう言って再び俯く二人に、周囲は困惑した。

「あんた達…。」

そんな周囲の沈んだ空気をものともせず、奈々希は明るい口調で言った。

「ううん、私のせいだよ。だから私が未来へ持って帰る。」

「え?」

奈々希の言った言葉の意味が分からない希や司、由奈達であったが、奈々希の表情はこれまでにないくらい晴れやかで、母親が体調を崩した事で気を落としているんじゃないかという心配のなくなった由奈達は、あまりその言葉の意味を深くは考えなかった。


「お母さん、大丈夫?」

由奈達がいなくなった廊下は急に静かになった。

奈々希は戸にもたれかかり、母に話しかけた。中に入ろうかとも思ったが、今 哀の顔を見てしまうと泣いてしまいそうだったから外から離す事にしたのだ。

「良かった、私。これでお父さんはずっと音楽を続けられる。」

部屋の中から何の気配もしない。

眠っているのかもしれない哀に向かって奈々希は続けた。

「ホントはね、お父さんが事故に遭った時、私やお母さんも車に乗ってたんだ…。大きいトラックと正面衝突して私達の乗る車はガードレール下に落ちってた。お父さんは引き上げられる前に私やお母さんの前で…死んだ。『なんで、諦めちっまたんだろうな』ってお父さん言ってた…。そー言うのってさ、忘れないんだよ。どんなに小さい時に見聞きした事だって…。」

しばらくそんな話をしていると、大広間の方から司がやってくるのを見つけ奈々希はその場を離れた。


      ※


哀は不思議でたまらなかった。

戸の向こうで、未来を語る奈々希の声がとても遠くに聞こえた。熱のせいだろうか。

奈々希の言ったことすべてが他人事のように聞こえてしまうのだ。

哀は重い自分の体を起こすと、よろける足で部屋の戸を開けようとした。その時、奈々希の言った一言に哀の体は金縛りにでもあったように固まってしまった。

「悲しみも苦しみも全部、私が持って帰る。……何もかも。」

手が震えていた。

戸の向こうで遠のいていく奈々希の足音が聞こえた。とっさに呼びとめようと口を開いた。

だが、声が出なかった。出なかったというよりも、出せなかった、という方が近いのかもしれない。急に声の出し方を忘れてしまったような気さえした。

「宮野。起きてるか?」

戸の向こうから聞こえる司の声に、哀は涙を流していた。

その優しい声から次に出るであろう言葉が容易に想像できてしまったから。哀の一番聞きたくなかった言葉であるという事は考えるまでもなかった。

「入るぞ。」

その言葉に焦った哀は力の限り、戸を押さえつけた。


守りたかったものが、消えて行く…。

八人のかけがえのない思い出とともに―――。



「来ないで!」哀は叫んだ。

今までに聞いた事のない哀の声に司は戸から手を離した。それでも哀が戸を押さえつける手を緩める事はなかった。

沈黙が続く。今まで聞いた事がない哀の怒った声に、司は戸惑っていた。

何と声をかければいいのか分からなかったのだ。

「宮野…。俺―――…」

哀はその先を聞きたくなくて、耳をふさごうとした。

その時だった。

―――また、未来でね―――

不意に、奈々希の声が聞こえたような気がした。

そして、その声に重なるように「信じるよ。」という声が、戸の向こうから聞こえた。


    ※

―――また、未来でね―――

空耳であって欲しい。自分の思い過ごしであって欲しい。そう思いながら、ゆっくりと戸を開けた。

そこには誰もいなかった。

「哀? どうしたの?」大広間の方から由奈がやってきた。

不思議そうな顔で哀を見つめる。

「な…、奈々希は?」哀は恐るおそる、由奈に尋ねた。

「七機? なにが?」

そんな事を言う由奈にさっきの声が空耳ではないと思い知らされた哀は、途端に力が抜け、哀はその場に座り込んだ。

「どうしたの?」

由奈の後ろからやってきた希。

二人はさらに、哀に追い打ちをかけるような事を言った。

「それよりさ…。明日で、この旅行も終わりじゃん。……忘れてないよね…。」不安げにそう言う希。そんな希の肩に手を置いた由奈が言った。

「分かってるって。司に告るんでしょ? ちゃんと覚えてるよ。」

それを聞いて、由奈に笑いかける希。哀はそんな二人を茫然と見上げていた。



翌日の午後、哀達七人は海水浴場を後にした。


海水浴場から戻って四日目の朝。

哀の記憶から、とうとう奈々希の存在が消えた…。



そして、いつもと変わらない日常がやってくる―――。

七人の希望を乗せて。

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