第9話 私は、彼女と共に歩む
王立査問会の大広間は、荘厳な沈黙に包まれていた。
高い天井から差し込む冬の陽光が、白い大理石の床に長い影を落としている。正面には五人の査問官が並び、その中央に王国法務卿の姿があった。
傍聴席には貴族たちがひしめいている。夜会で広まった噂を確かめに来たのだろう。月影の工房主がSランク付与魔法師だという話、そして伯爵家の醜聞。彼らの視線が私の背中に突き刺さるのを感じながら、私は証人席に立った。
「本件は、ヴァルトシュタイン伯爵家前夫人シルヴィア・モンフォールに対する、同家太夫人マルグリット・ヴァルトシュタインからの告訴である」
書記官が淡々と読み上げる。
告訴内容は三点。婚姻中の無断営業、伯爵家資産の横領、そして伯爵家の名誉毀損。
私は静かに息を吐いた。予想通りの内容だった。
「被告訴人、反論はありますか」
「はい」
私は用意していた書類を取り出した。
「まず、婚姻中の無断営業についてです。こちらは王立魔法師協会発行の登録証明書です。発行日は七年前――私が十八歳、結婚の四年前になります」
書記官が書類を受け取り、査問官たちに回す。
「また、こちらは月影の工房の創業届と、過去六年間の納品記録です。工房の創業は私が十九歳の時。結婚前から、すべて私個人の名義で運営しておりました」
傍聴席がざわめく。
義母が立ち上がった。
「偽造です! そのような届出が存在するはずがありません。彼女は結婚後、伯爵家の資金を使って――」
「太夫人」
法務卿の冷たい声が遮った。
「発言は許可制です。お座りください」
義母の顔が強張る。しかし査問会の場では、爵位も財力も意味を持たない。彼女は唇を噛み締めながら、ゆっくりと腰を下ろした。
「続けてください、モンフォール嬢」
「はい。次に横領の件ですが――」
私は二つ目の書類を取り出した。
「こちらは伯爵家の帳簿の写しです。過去三年間、月影の工房の売上の一部が『雑費』として計上され、伯爵家の金庫に入金されています。しかし私は一度も、工房の収益を伯爵家に納めた覚えはありません」
傍聴席が再びざわめく。
「さらに、こちらをご覧ください」
三つ目の書類。
「同じ帳簿から抽出した送金記録です。『雑費』として計上された金額と同額が、毎月、太夫人マルグリット・ヴァルトシュタインの個人口座に送金されています」
沈黙が落ちた。
義母の顔から血の気が引いていく。
「つまり、横領を行っていたのは私ではありません。太夫人が、存在しない『月影の工房からの上納金』を帳簿に記載し、その架空の金額を自身の口座に移していた。これが真相です」
「異議あり!」
義母が叫んだ。
「その帳簿は改竄されています! 彼女が――」
「では、証人を呼びましょう」
私は静かに言った。
「ヴァルトシュタイン伯爵オスカー様。証言をお願いできますか」
広間の扉が開く。
オスカーが入ってきた。
彼の顔は青白く、しかしその足取りは確かだった。証人席に立ち、義母を――自分の母を見つめる。
「……オスカー」
義母の声が掠れた。
「何をしているの。あなたは私の味方でしょう」
オスカーは答えなかった。代わりに、懐から一通の手紙を取り出した。
「こちらは、母が私に宛てた手紙です。日付は三年前、私の結婚直後。内容は……」
彼は一度、目を閉じた。そして、読み上げた。
「『シルヴィアの実家は没落寸前。彼女には行き場がない。三年ほど飼い殺しにしておけば、従順な駒になる。その間に月影の工房の権利を移し、モンフォール家の残りの資産も回収しなさい』」
傍聴席が凍りついた。
「さらに続きがあります」
オスカーの声は淡々としていた。しかしその手が、微かに震えているのが見えた。
「『万が一彼女が逃げようとしたら、離縁無効を申し立てなさい。白い結婚の責任は夫にあると法は定めているが、世間はそうは見ない。噂を流せば、彼女の評判は地に落ちる。そうなれば、どこにも行けなくなる』」
沈黙。
義母の顔が、蒼白を通り越して灰色になっていた。
「……嘘よ」
彼女の声は、もはや叫びではなかった。掠れた、か細い音だった。
「そんな手紙、私は書いていない。オスカー、あなた、母を裏切るの……?」
「裏切る?」
オスカーは静かに言った。
「母上。あなたは三年間、私に嘘をつき続けた。シルヴィアが無能だと、価値がないと、伯爵家に寄生しているだけだと。私はそれを信じた。信じて、彼女を……傷つけ続けた」
彼の声が、わずかに揺れた。
「裏切ったのは、あなたです」
義母は何も言えなかった。
法務卿が咳払いをした。
「証拠は十分です。太夫人マルグリット・ヴァルトシュタインを、横領および婚姻詐欺教唆の容疑で拘束します。詳細な審理は追って行いますが、本日をもって社交界への出入りを禁じます」
衛兵が動いた。
義母が連行されていく。その背中を、私は静かに見送った。
恨みはない。憎しみも、もうない。
ただ、終わったのだと思った。
三年間の、長い長い冬が。
査問会が閉廷を宣言した後も、私はしばらくその場に立っていた。
傍聴席の貴族たちが次々と退出していく。好奇の視線、同情の視線、そして――尊敬の視線。月影の工房主がSランク付与魔法師だという事実は、もはや疑いようがなかった。
「シルヴィア」
声がした。
振り返ると、エミールが立っていた。
いつもの黒い軍服。深い青の瞳。無表情に見えるその顔が、しかし今日は少しだけ違って見えた。
「……来てくれたんですね」
「約束した」
短い言葉。けれど、その声には温度があった。
彼が一歩、近づいてきた。
「シルヴィア。俺は査問会の場で言おうと思っていたことがある。だが、あの場では君が主役だった。だから、今――」
彼の視線が、まっすぐに私を捉えた。
「俺は、君を守りたいと言った。君はそれを拒んだ。庇護は要らないと」
「……はい」
「君は正しかった」
意外な言葉だった。
「俺は間違っていた。君を守ろうとすることは、君の力を信じていないことと同じだった。五年間、君の作品を見てきたのに。俺は、君が一人で立てることを知っていたはずなのに」
エミールが、もう一歩近づいた。
「だから、言い直す」
彼の手が、私の手に触れた。
「俺は君を守りたいんじゃない。君と共に歩きたい。君の隣に立つ資格を、これから証明させてくれ」
心臓が、大きく跳ねた。
「……エミール様」
「エミールでいい」
「エミール」
名前を呼ぶと、彼の目がわずかに和らいだ。
無表情だと思っていた。けれど今は、その奥に確かな熱があるのが見える。
「君に、改めて問いたいことがある」
彼が言った。
「だが、今日はここまでだ。君は疲れているだろう。査問会の後だ、休むべきだ」
「……相変わらず、不器用ですね」
思わず、笑みがこぼれた。
エミールの眉が、かすかに動いた。
「笑うな」
「笑ってません」
「笑っている」
「少しだけです」
彼が、小さくため息をついた。
けれどその口元が、ほんの少しだけ緩んでいるのを、私は見逃さなかった。
査問会場を出ると、冬の空気が頬を撫でた。
隣にはエミールがいる。彼の外套が、風に揺れている。
「……終わったんですね」
私は呟いた。
「ああ」
「三年間。いえ、六年間か。ずっと、この日を想像していたわけではないんです。ただ、自分の足で立ちたかった。自分の人生を、自分で選びたかった」
「君は選んだ」
エミールが言った。
「六年前に工房を始めた時も。三年前に結婚した時も。そして今日、ここに立った時も。君はずっと、自分で選んできた」
「……そうでしょうか」
「俺が保証する」
短い言葉。けれど、その重みが胸に響いた。
王宮の門をくぐる。馬車が待っている。
エミールが扉を開け、私が乗り込むのを待った。
「明日、工房に行く」
彼が言った。
「問いたいことがある。……答えを、聞かせてくれ」
心臓が、また跳ねた。
「……はい」
答えながら、私は思った。
明日。
きっと明日、新しい何かが始まる。
三年間の冬を越えて、ようやく――春が来る。




