第8話 自分の足で立ちたい
エミールが来なくなって、五日が経った。
後援契約は維持されている。工房の周囲には、相変わらず護衛が配置されているらしい。けれど、本人は姿を見せなかった。
毎晩淹れていた二人分の茶を、一人で飲む。作業台の向かい側には、空の椅子がある。彼が座っていた場所。
「……当然よね」
呟いて、作業に戻った。
私が「庇護は要らない」と言ったのだ。彼を傷つけたのは、私の方だ。
査問会の準備は、一人で進めていた。横領の証拠、義母への送金記録、時系列を整理した書類。全て揃えた。あとは、審理の場で提出するだけ。
けれど、作業を続けるほどに——前世の記憶が蘇ってきた。
中堅メーカーの設計技師。繁忙期の連日深夜残業。同僚が次々と倒れていく中、「私は大丈夫」と言い続けた。誰にも頼らず、一人で抱え込んで。
結果、死んだ。
三十歳。くも膜下出血。デスクに突っ伏したまま、意識を失って——そのまま。
「……一人で頑張りすぎて、結局死んだんだ、私は」
声に出して、初めて気づいた。
今も同じことをしている。
一人で全部やろうとしている。誰にも頼らず、自分の力だけで。それが「自立」だと思っていた。
でも——。
エミールの言葉が蘇った。
『君は、一人で抱えすぎる』
『一人じゃないと、知っていてくれ』
あの言葉を、私は拒絶した。「庇護は要らない」と。「自分の足で立ちたい」と。
それは本当だ。誰かの所有物になりたくない。道具として扱われたくない。
でも——「頼る」ことと「所有される」ことは、違うのではないか。
「自立」と「孤独」は、違うのではないか。
扉を叩く音がした。
顔を上げる。また、オスカーだろうか。四度目。もう何を言われても——。
「シルヴィア」
扉を開けると、確かにオスカーがいた。けれど、その顔は——今までと違っていた。
疲弊している。目の下の隈は濃くなり、頬は痩せ、髪も乱れている。数日間、眠れなかったような顔。
「……入っても、いいか」
「何の用ですか」
「謝りに来た」
予想外の言葉だった。
「謝る?」
「母のことを、調べた」
オスカーが、一歩、工房に入ってきた。足取りが重い。
「君が言った通りだった。帳簿の改竄。横領。ジャン=ルイとの共謀。全部——本当だった」
「……」
「信じられなかった。信じたくなかった。母が——あんなことをしているなんて」
彼の声が、震えていた。
「でも、調べれば調べるほど、証拠が出てきた。五年前から。いや、もっと前から——父が生きていた頃から」
「お父様の頃から?」
「父は軍務で忙しかった。家の財務は、全て母に任せていた。その頃から——」
オスカーが、顔を覆った。
「私は何も知らなかった。何も見ていなかった。母のことも、君のことも」
沈黙が落ちた。
私は、何と言えばいいか分からなかった。彼の苦しみは本物だ。それは分かる。けれど、だからといって——。
「母を、告発する」
「え?」
「査問会に、証拠を提出する。母とジャン=ルイの共謀を示す手紙がある。私が——私の名前で」
「オスカー」
「母に言われて動いていたのは事実だ。『離縁を止めろ』と命じられて、君のところに来ていた。でも——」
彼が、顔を上げた。
「これは違う。君を縛りつけて、不正を隠蔽して——こんなやり方は、違う」
「……」
「シルヴィア。君を——追い詰めて、すまなかった」
初めて聞く言葉だった。
三年間の結婚生活で、一度も。その後の来訪で、一度も。彼が私に「すまなかった」と言ったことはなかった。
「やり直しを求める資格は、私にはない」
オスカーが言った。
「分かっている。三年間、君を見なかった。今さら『分かった』と言っても——遅い。君が言った通りだ」
「……ええ。遅いです」
「だから——離縁無効の申し立ては、取り下げる」
心臓が、大きく跳ねた。
「君は、自由だ」
オスカーの目には、涙が滲んでいた。けれど、声は——静かだった。諦めと、決意が入り混じった声。
「最後に一つだけ。君は——正しかった」
「何が、ですか」
「出ていくと決めた、君が。三年間耐えて、自分で選んで、出ていった君が」
彼は、小さく笑った。苦しそうな笑みだった。
「私には——できなかった。母に逆らうことが。自分で決めることが。ずっと」
「……」
「君を見て、ようやく分かった。自分で選ぶことの重さが」
沈黙が落ちた。
私は——何を感じているのか、自分でも分からなかった。怒りは、もうなかった。悲しみも。ただ——空虚な疲労感と、わずかな安堵。
「査問会で、会おう」
オスカーが言った。
「私は、母を告発する。君は——君の人生を生きろ」
彼は踵を返し、扉に向かった。その背中を見送りながら、私は——何も言えなかった。
引き止める言葉は、持っていない。許す言葉も。
ただ、見送るしかなかった。
扉が閉まる。静かな音。
私は椅子に座り込み、深く息をついた。
夕方、郵便受けに封筒が落ちていた。
クレシー公爵家の紋章が押された、白い封筒。
心臓が跳ねた。エミールからだ。
震える手で封を切る。中には一枚の便箋。見慣れた、簡潔な筆跡。
『シルヴィア
数日、顔を出せなかった。考える時間が必要だった。
君が言った通りだ。庇護という言葉は、傲慢だった。君を守るつもりで、君を縛ろうとしていた。
婚約者を失った時、私は何もできなかった。だから——次こそは、と思っていた。守れなかった悔いを、君で晴らそうとしていた。
それは、君への愛情ではなく、私の自己満足だった。
査問会には出席する。
君の隣に立つ資格を、私に問わせてくれ。
守るのではなく、共に歩く資格を。
エミール・ド・クレシー』
文字が、滲んだ。
自分が泣いていることに、気づいた。
「……馬鹿」
声が震えた。
「馬鹿。馬鹿よ、あなたは」
便箋を握りしめる。涙が、止まらなかった。
『隣に立つ資格を問わせてくれ』
その言葉が、胸に響いた。
守るのではなく、共に歩く。庇護ではなく、対等に。
——それが、私が欲しかったものだ。
窓の外を見た。夕暮れが、街を染めていた。
その夜、もう一通の封筒が届いた。
王立査問会の紋章が押された、公式の書類。
『シルヴィア・モンフォール殿
王立査問会への出席を命じます。
審理事項:ヴァルトシュタイン伯爵家における財務不正の疑い、ならびに関連する婚姻詐欺の教唆について。
出席日時:五日後、午前十時。
王立査問会』
離縁の審理ではない。義母の不正を裁く、査問会。
オスカーが動いたのだ。彼の告発が受理されたのだ。
私は便箋を——エミールの手紙と、査問会の召喚状を——並べて見つめた。
「終わらせよう」
声に出して言った。
「そして——始めよう」
窓の外では、月が昇り始めていた。




