第7話 彼女は私の庇護下にある
審理まで、あと十日。
工房の作業台には、仕事の道具ではなく書類が広がっていた。魔法師協会の登録証、資格試験の合格通知、過去六年分の納品記録。全て、私が「隠していたのではなく、聞かれなかっただけ」と証明するための証拠だ。
その中に、奇妙なものが混じっていた。
伯爵家への納品記録。三年前から二年前にかけて、私は匿名のまま伯爵家に魔道具を納品していた。義母が知らないうちに、使用人経由で注文が来ていたのだ。屋敷の防犯魔道具、馬車の照明具、侍女たちが使う小物類。
その記録と、伯爵家から届いた支払い明細を照らし合わせた時——違和感があった。
「数字が、合わない」
呟きながら、指で追った。
私の納品額と、伯爵家が支払った額。後者の方が、一割ほど多い。
誤差、とは思えなかった。三年分の取引で、全て同じ比率でずれている。まるで、誰かが意図的に——。
前世の記憶が蘇った。
中堅メーカーの設計技師。けれど、経理部との打ち合わせも多かった。帳簿の読み方は、一通り知っている。不正の兆候も。
「中抜き……いえ、これは」
違う。私への支払いは正当な額だ。問題は、伯爵家が「余分に」支払っている方。つまり、伯爵家の中に、架空の上乗せをして差額を懐に入れている人間がいる。
誰が。
納品の窓口は、伯爵家の財務担当。オスカーではない。彼は王宮財務局の仕事で忙しく、家の経理には関わっていなかったはずだ。実務を取り仕切っていたのは——。
「ジャン=ルイ・ベルナール」
名前が浮かんだ。
オスカーの部下であり、伯爵家の財務にも関わっていた男爵。目立たない、印象に残らない顔。義母の茶会で何度か見かけた程度だけれど、財務の実務は全て彼が担当していたと聞いている。
私は、手元にある全ての帳簿を広げ直した。伯爵家への納品記録だけでなく、王宮騎士団への納品、大商会への納品。全てに、控えを取っていた。職人の習慣だ。
「ここにも、ここにも——」
騎士団への納品では、差異はなかった。大商会も同様。問題があるのは、伯爵家への納品だけ。
そして、差額の送金先を追っていくと——。
「義母様」
名前が、口をついて出た。
送金記録の一部が、マルグリット・ヴァルトシュタインの個人口座に流れていた。ジャン=ルイが上乗せした分の、約半分。残りは彼自身の懐だろう。
横領だ。
しかも、義母が共謀している。
私の魔道具への支払いを水増しし、差額を二人で分けていた。五年間、あるいはそれ以上。
「だから——」
全てが繋がった。
義母が「離縁無効」を申し立てた本当の理由。「隠し事」など口実に過ぎない。私が伯爵夫人でいる限り、家の財務に口を出す権利がない。外部の人間として帳簿を調べることもできない。
逆に、私が完全に離縁してしまえば——自由に動ける。
「私を縛っておきたかったのね」
伯爵夫人という檻の中に。
扉を叩く音がした。
「シルヴィア」
オスカーの声だった。三度目の来訪。
「……今日は、何の用ですか」
扉を開けると、彼が立っていた。昨日より疲れた顔をしている。目の下に隈があった。
「話がある」
「何度お断りしても、同じことですか」
「君がうんと言うまで、来る」
「私の答えは変わりません」
「なぜだ」
オスカーが、一歩踏み込んできた。
「夜会で君の能力を知った。君がどれほどの人間か、分かった。今度こそ——」
「だから、それが嫌なんです」
私は、声を上げていた。
普段なら抑えられる感情が、溢れていた。帳簿を調べて分かった真実。義母の計略。その渦中にいたはずの夫が、何も知らない顔でここに来ている。
「"能力を知ったから"戻ってこいと言われて、嬉しいと思いますか」
「シルヴィア」
「三年間、私を見なかった。話しかけなかった。父の葬儀にも来なかった。それが——夜会で『すごい人だった』と知った途端に態度を変える。そんなの——」
「違う、私は——」
「何が違うんですか」
言葉が止まらなかった。
「あなたは今も、私を見ていない。見ているのは『Sランク魔法師』という肩書きだけ。私が何を感じて、何を考えているか——聞いたことがありますか? 一度でも」
オスカーの顔が、蒼白になった。
「私は——」
「あなたのお母様が何をしているか、知っていますか」
「母?」
「帳簿を調べました。伯爵家の財務に、不正があります」
「何を——」
「ジャン=ルイ・ベルナール男爵。彼が横領しています。そしてその金の一部は、あなたのお母様に流れている」
沈黙が落ちた。
オスカーの目が、大きく見開かれていた。
「嘘だ」
「証拠があります」
「母が——そんなことをするはずが——」
「信じたくない気持ちは分かります。でも、事実です」
私は作業台の上の帳簿を指した。数字の羅列。けれど、読み方を知っていれば——一目瞭然。
「離縁無効の申し立ても、このためです。私を伯爵夫人のまま縛っておけば、外部の人間として調べられない。家の恥を外に出させないために——」
「黙れ」
オスカーの声が、震えていた。
「君は——母を陥れようとしているのか」
「違います。私はただ——」
「信じられない。母がそんなことを——君の言葉など——」
彼の声が、荒くなっていく。感情を抑えられなくなっているのが分かった。私も、疲れていた。何度も同じことを言って、何度も聞いてもらえない。
「帰ってください」
「シルヴィア」
「もう、話すことはありません。審理で会いましょう」
「私は——」
「彼女は私の庇護下にある」
低い声が、割って入った。
振り返ると、エミールが立っていた。いつの間に入ってきたのか。工房の扉は開いていた。
「これ以上、彼女を追い詰めるな」
「クレシー公爵——」
「帰れ」
エミールの声は、いつも通り平坦だった。けれど、その目には——冷たい怒りがあった。
オスカーが、一歩後ずさった。
「君に何の権利が——」
「後援契約を結んでいる。彼女の安全は、私の責任だ」
「安全? 私が妻を傷つけるとでも——」
「元妻だ」
「……っ」
オスカーの顔が、歪んだ。怒りと、屈辱と、何か別のもの——悔しさ、かもしれない——が入り混じっていた。
「覚えておけ、公爵。彼女は——」
「帰れ」
エミールが、一歩前に出た。同時に、私の手を取った。
指が絡む。温かい手のひら。私を、オスカーから引き離すように。
「彼女は私の庇護下にある。手出しはさせない」
オスカーは、何も言えなかった。拳を握りしめ、私たちを睨み——踵を返した。
扉が、乱暴に閉まった。鈴の音が、耳障りに響いた。
沈黙が落ちた。
エミールの手は、まだ私の手を握っていた。
「……ありがとうございます」
声を絞り出した。
「助かりました」
「当然のことをしただけだ」
エミールの声は、いつも通りだった。けれど、握る手に——わずかに力がこもっている気がした。
「エミール様」
「何だ」
「庇護、と仰いましたね」
「ああ」
「私は——」
言葉を選んだ。慎重に。
「誰かに守られたいのではありません」
エミールの手が、止まった。
「自分の足で立ちたいんです。庇護という言葉は——私には、重すぎます」
沈黙。
エミールの表情は変わらなかった。けれど、その目に——何かが揺れた。戸惑い、かもしれない。傷、かもしれない。
「……そうか」
彼は、私の手を離した。
「言い過ぎた」
「エミール様」
「今日は帰る」
短く言って、彼は扉に向かった。背中を見送りながら、私は言葉を探した。何か——何か言わなければ。
けれど、何も浮かばなかった。
扉が閉まる。静かに。オスカーの時とは違う、静かな音。
私は一人、工房の真ん中に立っていた。
作業台の上には、横領の証拠が広がっている。義母の計略。オスカーの無理解。そして——エミールとの間にできた、小さな溝。
窓の外を見た。夕暮れが、街を染めていた。
その夜、エミールは来なかった。
茶の習慣が、途切れた最初の夜だった。




