第6話 君は一人で抱えすぎる
オスカーは、翌日も来た。
昼下がり、客足が途切れた時間帯。扉が開く音がして、顔を上げると——昨日と同じ、栗色の髪と琥珀の瞳がそこにあった。
「また来ました」
「お断りしたはずです」
「話を聞いてくれ」
オスカーは一歩、工房の中に入ってきた。昨日より踏み込んでいる。追い返すべきだと思いながら、私は作業台から動かなかった。
「夜会のことは聞いた」
彼が言った。
「君が——Sランク付与魔法師だということ。月影の工房を六年間やっていたこと。全部」
「ええ。エミール様が公表してくださいました」
「クレシー公爵か」
オスカーの声に、わずかな棘が混じった。
「随分と親しいようだな」
「後援契約を結んでいます。仕事上の関係です」
「仕事、か」
彼は工房の中を見回した。棚に並んだ魔道具、壁の設計図、作業台の上の工具。昨日も見ていたはずなのに、今日はもっと長く、一つ一つを確かめるように見ている。
「三年間、同じ屋敷にいて——私は何も知らなかった」
「ええ」
「君がこれほどの能力を持っていたことも、夜な夜な離れで作業をしていたことも」
「知ろうとしなかったからです」
「分かっている」
オスカーの声が、低く沈んだ。
「だから——今度こそ、ちゃんとしたいと思っている」
「ちゃんと?」
「君の価値が分かった。今なら、前とは違う関係を——」
「お断りします」
私は、静かに言葉を遮った。
オスカーの顔が強張る。
「なぜだ。私は、君を——」
「私は」
立ち上がった。作業台を回り込み、オスカーと向かい合う。
「"価値があるから"愛されたいのではありません」
「——」
「Sランク魔法師だから。才能があるから。そういう理由で『戻ってこい』と言われても、嬉しくないんです」
「シルヴィア」
「私が欲しかったのは、そういうことじゃない」
三年間、溜め込んでいた言葉が、静かに溢れ出した。
「ただ、私を見てほしかった。私が何を考えて、何を感じて、何を作っているのか。才能の有無とは関係なく、"私"という人間を見てほしかった」
「……」
「あなたにはそれができなかった。三年間、一度も」
「今からでも——」
「遅いんです」
言い切った。声は震えなかった。
「私は、私を見てくれる人と一緒にいたい。"価値がある"と言われてから振り向く人じゃなくて、最初から見ていてくれた人と」
オスカーの顔から、血の気が引いていく。
彼は何かを言おうとして、口を開き——閉じた。言葉が見つからないのだろう。当然だ。反論の余地がないのだから。
「……母の申し立ては」
長い沈黙の後、オスカーが言った。
「取り下げない。今は、まだ」
「そうですか」
「だが——」
彼の眉が、わずかに寄った。
「母が何を企んでいるのか、私にも分からなくなってきた」
「どういう意味ですか」
「離縁無効の理由は『隠し事』だった。だが、君が能力を隠していたのではなく、私たちが見ていなかっただけだと——夜会で分かった。母も、それは理解したはずだ」
「それでも、申し立てを取り下げないと」
「ああ。別の理由があるのかもしれない」
オスカーの目が、迷いを帯びていた。これまで見たことのない表情だった。
「シルヴィア。君は——母から、何か聞いていないか」
「いいえ」
「そうか」
彼はそれ以上追及しなかった。踵を返し、扉に向かう。
「私は」
去り際、オスカーが振り返った。
「君を取り戻したいと思っている。それは本当だ」
「……」
「だが、その方法が分からない。今の私には」
「方法はありません」
静かに言った。
「私は、もうあなたの妻ではない。これ以上、縋られても困ります」
オスカーの顔が、苦しげに歪んだ。
けれど彼は、何も言わずに出ていった。扉が閉まる。鈴の音が、長く響いた。
私は椅子に座り込み、深く息をついた。
その夜、エミールが来た。
約束通り——いや、約束というほど明確なものではない。「明日も来る」「茶を飲みに」と言っていただけだ。それなのに、彼は本当に来た。
「今日は早いですね」
「夜会がなかった」
「毎日夜会があるわけではないでしょう」
「だが、今日は特に何もなかった」
彼は工房の椅子に座った。昨夜と同じ場所。正装ではなく、普段着の黒い外套。
私は台所で湯を沸かし、茶を淹れた。二人分のカップを作業台に並べる。これが習慣になるのだろうか——昨夜思ったことが、早くも現実になりつつあった。
「今日、オスカーが来ました」
「聞いた」
「え?」
「工房の周囲には、護衛を置いている。報告が上がった」
「護衛……」
知らなかった。いつの間に。
「公爵家の後援を受けている以上、君の安全は私の責任だ。嫌なら外すが」
「いえ——ありがとうございます」
素直に礼を言った。護衛がいると知っていれば、オスカーと二人きりになることへの緊張も少しは和らいだかもしれない。
「何を言われた」
「『価値が分かった』『今度こそちゃんとする』と」
「それで?」
「断りました」
エミールのカップが、わずかに止まった。
「……そうか」
「私は、"価値があるから"愛されたいわけじゃないんです」
言葉が、自然と溢れた。オスカーに言ったのと同じことを、もう一度。
「見てほしかった。私を。才能とか、能力とか関係なく」
「……」
「あの人にはそれができなかった。三年間。だから、今さら『分かった』と言われても——」
「君は、正しい」
エミールが言った。
「え?」
「価値が分かったから愛する。それは、条件付きの愛だ。条件が変われば、消える」
「……」
「君が求めているのは、そうじゃない。違うか」
「はい」
頷いた。彼は、分かっている。私が何を言いたいのか。
「私の婚約者も」
エミールが、静かに言った。
「条件など関係なく、私を見ていてくれた」
「リディア様——でしたか」
「覚えていたのか」
「昨夜、名前だけ」
「ああ」
エミールの目が、遠くを見た。
「病だった。治癒魔法でも治せない、原因不明の病。三年間、闘病した」
「三年……」
「その間、彼女はずっと笑っていた。私が辛い顔をすると、逆に慰められた」
「……」
「最後の日も、笑っていた。『あなたは大丈夫』と言って」
エミールの声は、いつも通り平坦だった。けれど、その目に——深い悲しみと、後悔が滲んでいた。
「守れなかった」
「エミール様」
「どれだけ金を使っても、どれだけ魔法師を呼んでも、彼女を救えなかった。私には、何もできなかった」
「それは——あなたのせいではありません」
「分かっている。頭では」
彼は、自分の手を見下ろした。
「だが、心がそれを認めるまで、五年かかった」
五年。
彼が私の作品に出会ってから、今日までの時間。
「君の作品に出会ったのは、彼女が逝った直後だった。何もかもどうでもよくなっていた時期だ」
「……」
「あの剣を使った時——生きていてもいいと、初めて思えた」
息が詰まった。
「だから、君には無理をしてほしくない」
エミールが、私を見た。
「一人で抱え込んで、潰れてしまうのは——見たくない」
「……私は、大丈夫です」
「その言葉を、彼女も言っていた」
「え」
「『大丈夫』と言いながら、一人で全部抱えて、笑って——逝った」
エミールの声が、かすかに震えた。
「だから、頼ってくれ。頼れ、とは言わない。ただ——一人じゃないと、知っていてくれ」
窓の外は、もう深夜だった。月明かりが、工房の床を照らしている。
「……分かりました」
言えたのは、それだけだった。
エミールは頷き、立ち上がった。空のカップを作業台に置く。
「明日も来る」
「茶を淹れておきます」
「ああ」
彼が去った後、私は窓辺に立った。
月が、欠けかけていた。三日月に近い細い光。
——一人じゃない。
その言葉が、胸に残っていた。
翌朝、郵便受けに封筒が落ちていた。
王立契約裁定所の紋章が押された、公式の書類。
封を切る。中には一枚の通知書。
『シルヴィア・ヴァルトシュタイン殿
離縁無効の審理が正式に開始されました。
出廷命令を同封いたします。
第一回審理は、二週間後に王立契約裁定所にて行われます。
王立契約裁定所 法務官』
手が、わずかに震えた。
——義母が、本格的に動き出した。
窓の外では、朝の光が商業区を照らしていた。けれど、その光が——少しだけ、冷たく感じた。




