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白い結婚三年目、離縁届を置いておきますね  作者: 九葉(くずは)


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第5話 月影の職人の正体

義母の手紙から、三日が経った。


「離縁無効の申し立て」は、正式に受理されていた。王立契約裁定所から届いた通知書によれば、離縁届の効力は一時停止。審理が行われるまで、私は「係争中の身」ということになる。


理由として挙げられていたのは、「配偶者による重大な隠し事」。


つまり、私がSランク付与魔法師であることを夫に隠していた、という主張だ。


馬鹿げている。


作業台の前で、私は書類を広げていた。王立魔法師協会の登録証、資格試験の合格通知、そしてSランク認定書。全て、結婚前——あるいは結婚直後に取得したものだ。


隠していたのではない。聞かれなかっただけだ。


三年間、オスカーは私の能力に一度も関心を示さなかった。義母もそうだ。私が何をしているか、何ができるのか、誰も聞こうとしなかった。それを今さら「隠し事」と呼ぶのは、あまりにも身勝手だった。


「……でも、証拠は必要ね」


呟きながら、書類を整理する。


審理では、「隠していた」のではなく「聞かれなかった」ことを証明しなければならない。そのために、時系列を明確にした書類を揃えておく。結婚前の資格取得、結婚後の活動記録。全てに日付と協会の認証印がある。


客観的な証拠さえ揃えれば、義母の主張は崩せるはずだ。


扉を叩く音がした。


「シルヴィア」


エミールの声だった。


「開いています」


扉が開き、黒い外套の長身が入ってきた。三日前に後援契約を結んでから、彼は毎日のように顔を出すようになっていた。依頼の相談、という名目で。


「今夜、王宮で夜会がある」


「存じています」


季節の大夜会。全ての貴族が参加を期待される、社交界最大の行事の一つだ。伯爵夫人だった頃は、私も出席していた。オスカーの隣で、誰とも話さず、壁際に立っているだけの時間だったけれど。


「君は行かないのか」


「係争中の身ですから。伯爵夫人として出席するわけにもいきませんし、かといってモンフォール子爵家の令嬢として出るのも……」


「分かった」


エミールは頷いた。


「なら、私が代わりに話す」


「何を、ですか」


「君の正体を」


心臓が跳ねた。


「月影の工房主が誰なのか。Sランク付与魔法師であること。結婚前から資格を持っていたこと。全て、公の場で明かす」


「待ってください。それは——」


「義母側の主張は『隠し事』だろう。なら、こちらから公開すればいい。隠していたのではなく、見ようともしなかっただけだと」


エミールの声は、いつも通り平坦だった。けれど、その目には静かな怒りが宿っているように見えた。私のための怒り——かどうかは分からない。けれど、少なくとも、義母のやり方を不快に思っているのは確かだった。


「……いいのですか」


「何が」


「公爵閣下が、私のような者のために、公の場で発言なさるのは」


「私のような者」


エミールが、わずかに眉を上げた。


「君はSランク付与魔法師だ。王国に五人しかいない。その事実を伝えることに、何の問題がある」


反論できなかった。


「私の目は確かだ」


エミールが言った。


「五年間、君の作品を見てきた。その価値を疑う者がいるなら——私が証人になる」


夜会は、深夜まで続いた。


私は工房にいた。作業をしながら、時計を何度も見た。今頃、王宮では何が起きているのだろう。エミールは本当に「公表」したのだろうか。社交界の反応は。義母は。


答えは、夜会が終わった頃にやってきた。


扉を叩く音。開けると、エミールが立っていた。夜会用の正装——黒の燕尾服に、公爵家の紋章が入った白い襟飾り。


「終わった」


「……お疲れ様でした。どうでしたか」


「入っても?」


頷くと、彼は工房の中に入ってきた。作業台の脇にある椅子を引き、腰を下ろす。正装のまま、小さな工房の椅子に座る公爵。奇妙な光景だった。


「王立魔法師協会の長にも確認を取らせた」


エミールが言った。


「『月影の工房主は、当協会のSランク登録者であり、その活動は協会の認可を受けている』——公式声明として発表させた」


「協会が動いたのですか」


「Sランク魔法師の名誉に関わる問題だ。協会にも利害がある」


それはそうだ。Sランク魔法師を「無能」と呼ぶことは、協会の審査能力を否定することに等しい。


「私からも発言した。『月影の職人とは、シルヴィア・モンフォール嬢のことだ。彼女は王国に五人しかいないSランク付与魔法師。無能な嫁などと誰が言った?』——と」


息が止まった。


「……本当に、言ったのですか」


「言った」


エミールの表情は変わらなかった。けれど、その声には、かすかな——満足のようなものが混じっている気がした。


「会場は騒然だった。伯爵家夫人——元義母の顔は見ものだったぞ」


「義母様は」


「何も言えなかった。協会の公式声明と、私の証言。覆す材料がなかった」


胸の奥が、熱くなった。


三年間、「無能」と呼ばれ続けた。社交界では「冷遇されている哀れな妻」として同情と嘲笑を向けられた。それが——一夜で覆った。


「……ありがとうございます」


声が震えた。


「感謝することではない。事実を伝えただけだ」


「それでも」


言葉が続かなかった。何と言えばいいのか分からなかった。


沈黙が落ちた。けれど、不快な沈黙ではなかった。


「茶を」


自分でも何を言っているのか分からないまま、口が動いていた。


「淹れます。少し、待っていてください」


「……ああ」


工房の奥にある小さな台所で、湯を沸かした。茶葉は、開業祝いに近所の商人がくれたものだ。質は悪くない。


二人分の茶を淹れ、作業台に並べた。エミールが、無言でカップを受け取る。


「君は」


一口飲んでから、彼が言った。


「なぜ、付与魔法師になろうと思った」


「……幼い頃から、物を作るのが好きでした」


答えながら、自分の茶を啜る。


「前世——いえ、子供の頃から、『誰かのために作る』ことに意味を感じていたんです。使う人が喜んでくれたら、それが一番の報酬だと」


「前世?」


しまった。


言葉が滑った。前世のことは、誰にも話していない。エミールにも、当然。


「……言い間違いです。気にしないでください」


「そうか」


エミールは追及しなかった。ただ、その青い瞳が、一瞬だけ私を深く見つめた気がした。


「私も」


彼が言った。


「物を作る者への敬意がある」


「え?」


「五年前——婚約者を亡くした」


心臓が、大きく跳ねた。


エミールの声は、いつも通り平坦だった。けれど、その目が、一瞬だけ遠くを見た。


「病だった。長い闘病の末に逝った。あの頃の私は——何もかも、どうでもよくなっていた」


「……」


「そんな時に、君の作品に出会った。複合付与の剣を頼んだのは、試しだった。新人の職人がどれほどの腕前か、確かめるつもりで」


「覚えています。最初の大口依頼でした」


「届いた剣を使った時、驚いた」


エミールが、自分の手を見下ろした。


「握りやすさ、重心、魔力の流れ。全てが、私の手に合わせて作られていた。注文書には、そんな細かい指定はしていなかったのに」


「依頼書の筆跡と、同封されていた古い剣から推測しました」


「分かっている。だからこそ、驚いたんだ」


エミールが、私を見た。


「君は、顔も知らない依頼主のことを、そこまで考えて作った。その誠実さに——救われた気がした」


救われた。


その言葉が、胸に沁みた。


「だから、五年間頼み続けた。君に会いたいと思いながら」


「……エミール様」


「今日、ようやく——いや、これは前にも言ったな」


彼は小さく笑った。笑みというには淡い変化だったけれど、初めて見る表情だった。


「君は、一人で抱えすぎる」


「え?」


「係争中の身で、工房の経営もしながら、義母の妨害にも対処しようとしている。無理をするな、とは言わない。君が選んだ道だ。ただ——」


言葉が途切れた。


「ただ?」


「一人じゃないと、知っていてくれ」


窓の外は、もう深夜だった。月明かりが、工房の床に淡く落ちている。


「——今日は、ありがとうございました」


言えたのは、それだけだった。


エミールは頷き、立ち上がった。空になったカップを作業台に置く。


「明日も来る」


「依頼ですか」


「茶を飲みに」


「……は?」


「君の淹れた茶は、悪くなかった」


それだけ言って、彼は扉に向かった。背中を見送りながら、私は呆然としていた。


公爵が、茶を飲みに?


扉が閉まる音がした。静寂が戻る。


作業台の上には、二つの空のカップ。


これが習慣になるのだろうか——そんなことを、ぼんやりと考えた。


翌朝。


開店準備をしていると、扉が叩かれた。エミールにしては早い。


「はい、どちら——」


言葉が止まった。


扉の前に立っていたのは、オスカーだった。


栗色の髪、琥珀の瞳。財務局の制服を着た、見慣れた姿。けれど、その目には——昨夜の夜会で何かを見た後の、動揺が残っていた。


「シルヴィア」


「……何の用ですか」


「話がある」


「署名は済んでいるはずです。これ以上、私たちの間に話すことは——」


「戻ってこないか」


息が止まった。


「昨日の夜会で聞いた。君が——君の本当の能力を」


オスカーの声が、震えていた。


「三年間、同じ屋敷にいて、私は何も知らなかった。君がどれほどの——」


「そうですね」


私は、静かに言葉を遮った。


「知らなかったでしょう。知ろうとしなかったのですから」


「シルヴィア」


「ご用件が『戻ってこい』だけなら、お引き取りください。お客様がいらっしゃる時間です」


オスカーの顔が、苦しげに歪んだ。


けれど私は、その表情に心を動かされなかった。三年前なら、きっと違っただろう。今は——もう、遅い。


「……また来る」


それだけ言って、オスカーは去っていった。


私は扉を閉め、深く息をついた。


背中を壁に預けながら、思った。


——まだ、終わらないのか。


窓の外では、朝の光が商業区の通りを照らしていた。

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