第4話 私の目は確かだ
翌朝、約束通りエミール・ド・クレシー公爵が工房を訪れた。
昨日と同じ黒い外套。表情の乏しい端正な顔。深い青の瞳が、開店準備中の私を見下ろしている。
「早いですね」
「迷惑だったか」
「いえ……どうぞ、お入りください」
開店前の工房に、公爵を招き入れる。昨日までは想像もしなかった光景だ。
エミールは店内を見回した。棚に並んだ魔石、壁にかけた設計図、作業台の上の工具。昨日の行列の客たちとは違う、静かな観察だった。
「単刀直入に言う」
彼は私の方を向いた。
「月影の工房を、クレシー公爵家が公式に後援したい」
後援。
その言葉の意味を、頭の中で反芻した。
公爵家の後援を受けるということは、その名の下に活動するということだ。保護を受ける代わりに、ある種の従属関係に入る。少なくとも、社会的にはそう見なされる。
「……理由を、お聞きしても」
「君の作品を五年間見てきた」
エミールは淡々と言った。
「技術は王国でも最高位だ。それが匿名のまま埋もれているのは、惜しい」
褒められている。そう分かっていても、素直に喜べなかった。
伯爵夫人だった三年間、私は「道具」だった。家と家を繋ぐための、政略の駒。私自身の意思など、誰も聞かなかった。
また同じことになるのではないか。
「ご厚意はありがたく存じます」
言葉を選びながら、答えた。
「ですが、私は一人でやっていけます。後援をいただかなくても」
「知っている」
エミールの返答は、予想外だった。
「昨日の行列を見れば分かる。君の工房は、後援など無くても繁盛する」
「では、なぜ」
「邪魔者を払う手伝いをさせてくれ」
邪魔者。
その言葉に、胸がざわついた。
「どういう意味ですか」
「伯爵家を出たことで、君を快く思わない者がいる」
エミールは窓の外に目を向けた。商業区の通りを、朝の人々が行き交っている。
「放っておけば、嫌がらせが始まるだろう。取引先への圧力、社交界での悪評、あるいは——」
「もう、始まっているのですか」
「調べさせた」
エミールが懐から封筒を取り出した。
「昨日の時点で、王都の三つの商会に『月影の工房との取引を控えるように』という働きかけがあった。差出人は伏せられているが、出所は明らかだ」
義母。
名前を口にしなくても、分かった。マルグリット・ヴァルトシュタイン。社交界で「鉄の薔薇」と呼ばれる女性。三年間、私を「無能な嫁」として扱い続けた人。
「……まだ一週間も経っていないのに」
「動きが早いのは、それだけ君を脅威と見ているからだ」
脅威。私が?
理解できなかった。私はただ、自分の人生を取り戻そうとしているだけだ。伯爵家に何かを要求したわけでも、復讐を企んでいるわけでもない。
「公爵家の後援があれば、容易には手出しできなくなる」
エミールが言った。
「君の仕事に口を出す気はない。何を作るか、誰に売るか、全て君が決めればいい。私はただ——」
言葉が途切れた。
「ただ?」
「君の邪魔をする者を、排除する。それだけだ」
排除。穏やかではない言葉だった。けれど、エミールの声には熱がなかった。感情を抑えた、事実の提示。
「なぜ、そこまで」
「五年前に言っただろう」
「え?」
「最初の依頼の時だ。手紙で伝えた」
覚えている。五年前、複合付与の剣を納品した時。代金と一緒に、短い手紙が届いた。
『良い仕事だった。また頼む』
それだけ。それだけの言葉だったのに、当時の私には十分すぎるほどの報酬だった。
「君の作品は、使い手のことを考えている」
エミールが続けた。
「自分を飾ることより、相手を思いやることを優先している。そういう職人は稀だ」
「……」
「だから、五年間頼み続けた。君が誰かも知らないまま。信頼できると思ったからだ」
信頼。
その言葉が、胸に沁みた。
三年間、伯爵邸で「信頼」という言葉とは無縁だった。オスカーは私を見ず、義母は私を「道具」としか思わず、使用人たちは主人の顔色を窺うだけ。
この人は、私を——私の「仕事」を、見ていてくれた。
「……考えさせてください」
「構わない。答えは急がない」
エミールは頷いた。けれど、すぐには帰らなかった。
「一つ、聞いてもいいか」
「はい」
「君は、なぜ伯爵家を出た」
予想していなかった質問だった。
「……私を見てくれなかったからです」
気づけば、答えていた。
「三年間、同じ屋敷にいて、夫は一度も私を見ませんでした。私が何を考えているか、何を作っているか、何を望んでいるか。聞かれたことがなかった」
「それで」
「待っていても、何も変わらないと分かりました。だから、自分で選ぶことにしたんです」
沈黙が落ちた。
エミールの表情は変わらなかった。けれど、深い青の瞳に、何かが揺れた気がした。
「——後援の件、受けます」
言葉が、口をついて出た。
自分でも驚いた。まだ考えると言ったばかりなのに。
「いいのか」
「条件があります」
「言ってくれ」
「仕事には口を出さないと、今、仰いましたね」
「ああ」
「それを、契約書に明記してください。後援の対価として何を求めるのかも、全て」
エミールの口元が、かすかに緩んだ。
「分かった。今日中に用意させる」
夕方、契約書が届いた。
エミール自身が持ってきた。公爵の使者ではなく、本人が。
「目を通してくれ。不備があれば修正する」
契約書の内容は、明快だった。
クレシー公爵家は「月影の工房」を公式に後援する。後援の対価として、年に一度、公爵家への優先納品権を認める。工房の経営・制作方針への介入は一切行わない。契約期間は一年、双方の合意により更新。
「……これだけですか」
「不足か」
「いえ。思ったより、控えめだと」
「君を縛るつもりはない」
エミールの声は、相変わらず平坦だった。
「必要なのは、公爵家の名前が君の盾になることだ。それ以上は求めない」
羽ペンを手に取った。インク壺に浸し、署名欄に名前を書く。
シルヴィア、と書いた瞬間——エミールの手が伸びてきた。
「旧姓で構わない」
「え?」
「ヴァルトシュタインの名は、もう君のものではないだろう」
その通りだった。離縁届は受理されている。三十日後には、正式に——。
「モンフォール」
書き直す。シルヴィア・モンフォール。六年ぶりに書く、実家の姓。
署名を終えて、羽ペンを置いた。エミールが契約書を受け取る。その時、指先が触れた。
一瞬だった。けれど、彼の手の温かさが、確かに伝わった。
「……感謝します、閣下」
「エミールでいい」
「は?」
「閣下と呼ばれるのは好まない。仕事相手には名前で呼ばせている」
「で、では……エミール様」
「様も要らない」
「それは、さすがに」
エミールは小さく肩をすくめた。諦めたような仕草だった。
「好きにしろ」
彼が帰った後、私は工房の椅子に座り込んだ。
契約書の控えが、作業台の上にある。クレシー公爵家の紋章——銀の百合——が押された、正式な書類。
後援を受けた。王国最高位の公爵家の。
これで、義母の妨害にも対抗できる。エミールが言った通り、公爵家を敵に回すリスクを冒す者は少ないはずだ。
窓の外が、夕焼けに染まっていた。
そろそろ店仕舞いの時間だ。明日からは、また忙しくなるだろう。後援の噂が広まれば、客も増える。
立ち上がろうとした時、扉の郵便受けに何かが落ちる音がした。
封筒だった。
表には、見覚えのある筆跡。整った、冷たい文字。
差出人の名前を見て、背筋が冷えた。
マルグリット・ヴァルトシュタイン。
封を切る。中には一枚の便箋。
『シルヴィア様
このたび、王立契約裁定所に対し、離縁届の無効申し立てを行いました。
理由は「配偶者による重大な隠し事」です。
届出から三十日以内の申し立てにより、離縁手続きは一時停止となります。
今後の審理において、あなたには伯爵夫人としての義務を果たしていただく必要がございます。
詳細は追って通知いたします。
マルグリット・ヴァルトシュタイン』
便箋を持つ手が、震えていた。
——まだ終わらせてくれないのか。
窓の外を見た。夕焼けが、血のように赤かった。




