第35話 噂の行方
リゼットの母親を捜索して、一週間が経った。
エミールの部下たちが王都中を探し回ったが、あの女性は見つからなかった。まるで霧のように消えてしまったかのようだ。
「申し訳ありません。手がかりが途切れてしまいました」
部下が報告に来た時、私は工房で作業をしていた。
「孤児院の周辺、リゼット様が買い物に行く市場、全て調べましたが、それらしき女性の目撃情報はありません」
「そう……」
私は手を止めた。
「ただ、一つだけ気になることが」
「何?」
「孤児院の元院長——ドミニク・ガレという男ですが、数年前に解任されています」
「解任?」
「はい。孤児院の資金を私的に流用していた疑いで。現在は王都の外れで隠居生活を送っているようです」
私は眉をひそめた。
「その男と、リゼットの母親に関係が?」
「わかりません。ただ、リゼット様が孤児院にいた時期と、この男が院長だった時期は重なっています。何か知っているかもしれません」
私は考え込んだ。
元院長。資金流用で解任。リゼットの過去を知っている可能性。
「その男に会えるかしら」
「手配いたします。ただし——」
部下が言いにくそうにした。
「解任された人間ですので、協力的かどうかはわかりません」
「構わないわ。会うだけ会ってみる」
「かしこまりました」
部下が退出した後、私は窓の外を見た。
春の空は曇っていた。雨が降りそうだ。
リゼットは今日も独立試験の準備をしている。あの夜から、彼女は以前にも増して真剣に取り組んでいた。母親のことを知りたいという気持ちが、彼女を駆り立てているのかもしれない。
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昼過ぎ、エミールが書斎に呼んだ。
「少し、面倒なことになった」
彼の表情は険しかった。
「何かあったの?」
「社交界で、噂が流れている」
「噂?」
「月影の工房の弟子が、実は犯罪者の娘だという噂だ」
私は息を呑んだ。
「リゼットのこと……」
「ああ。孤児院出身で、素性がわからない。もしかしたら、罪人の血を引いているのではないか、と」
「誰がそんなことを」
「出所は不明だ。だが、広まり始めている」
私の手が震えた。怒りだった。
「リゼットは何も悪いことをしていないのに」
「わかっている。だが、噂というのは厄介だ。真実かどうかは関係ない。広まれば、それだけで害になる」
エミールは窓際に立った。
「独立試験を控えた弟子に、こんな噂が立てば——」
「試験に影響が出る、ということ?」
「可能性はある。審査員の心証が悪くなれば、公正な評価を受けられないかもしれない」
私は立ち上がった。
「誰かが意図的に流しているのよ。タイミングが良すぎる」
「同感だ」
エミールは振り返った。
「ベルトラン商会との関連を調べている。今のところ、直接の繋がりは見つかっていないが——」
「でも、疑わしいわ」
「ああ。リゼットに接触してきた母親らしき女性、孤児院の元院長、そしてこの噂。全てが繋がっている気がする」
私は拳を握りしめた。
「リゼットには、まだ言わないで」
「いいのか」
「今言っても、彼女を傷つけるだけよ。噂の出所を突き止めて、潰してから伝える」
エミールは頷いた。
「わかった。俺の方でも動く」
「ありがとう」
私は書斎を出た。
工房に向かう廊下で、私は深く息を吐いた。
誰かがリゼットを狙っている。彼女の独立を妨害しようとしている。
なぜ。何のために。
答えはまだ見えなかった。
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工房に着くと、リゼットは真剣な顔で作業台に向かっていた。
「師匠、おかえりなさい」
「ただいま。調子はどう?」
「はい。今日は複合付与の練習をしています」
リゼットの手元には、小さな指輪があった。防護と治癒促進、二つの付与を一つの品に込める高度な技術だ。
「見せて」
私は指輪を手に取った。
付与の紋様を確認する。二つの回路が、干渉することなく共存している。魔力の流れも安定していた。
「よくできているわね」
「本当ですか」
「ええ。この調子なら、試験は問題ないわ」
リゼットの顔が明るくなった。
「ありがとうございます」
私は指輪を返した。
彼女の笑顔を見ながら、胸が痛んだ。
この子は、何も知らない。自分に対する噂が広まっていることを。誰かが、彼女の未来を潰そうとしていることを。
「師匠?」
「何でもないわ」
私は首を振った。
「続けなさい。私は少し休むわ」
「はい。お体、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。少し疲れただけ」
私は工房の隅にある椅子に座った。
リゼットは心配そうな目で私を見ていたが、やがて作業に戻った。
私は目を閉じた。
お腹の子供が、小さく動いた。三ヶ月半。少しずつ、存在を主張し始めている。
この子のためにも、リゼットのためにも、守らなければ。
噂を潰す。真実を明らかにする。そして、リゼットを無事に独立させる。
それが、今の私の使命だ。
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夕方、工房を閉める頃、思わぬ来客があった。
「失礼いたします」
扉を開けて入ってきたのは、若い女性だった。二十代前半、茶色の髪、穏やかな顔立ち。見覚えがある。
「あなたは……」
「お久しぶりです、公爵夫人。マリー・ローラン……いえ、今はマリー・ガレと申します」
私は目を見開いた。
マリー・ローラン。かつて、孤児院への寄付を取り次いでくれた商会の娘だ。数年前に結婚して、名前が変わったと聞いていた。
「お久しぶりね。どうしたの?」
「実は、お伝えしたいことがあって参りました」
マリーの表情は真剣だった。
「孤児院のことです」
私の心臓が跳ねた。
「孤児院?」
「はい。私、今は孤児院の運営を手伝っているんです。夫がドミニク・ガレの甥で……元院長の」
私は息を呑んだ。
「ドミニク・ガレの」
「はい。解任された後、叔父は隠居していますが、孤児院の運営権は甥である私の夫に移りました。私も、できる範囲で手伝っています」
マリーは一歩前に出た。
「公爵夫人、最近、孤児院の過去の記録を調べている方がいらっしゃいますよね」
「……ええ」
「リゼットさんのことでしょうか」
私は警戒した。
「なぜそう思うの?」
「リゼットさんは、孤児院で一番の年長者でした。私も、子供の頃に何度か会ったことがあります。とても聡明で、弟思いの子だった」
マリーの目が悲しげになった。
「弟さんが亡くなった時、彼女がどれほど悲しんでいたか……今でも覚えています」
私は黙って聞いていた。
「公爵夫人にお伝えしたいのは、叔父のことです」
「ドミニク・ガレのこと?」
「はい。叔父は、解任される前に、孤児院の記録をいくつか持ち出しています。その中に、リゼットさんに関する書類もあったはずです」
私は身を乗り出した。
「どんな書類?」
「詳しくは知りません。でも、叔父は『いつか使える』と言っていたそうです。何かの取引材料にするつもりだったのかもしれません」
「取引材料……」
「最近、叔父のところに誰かが訪ねてきたという話を聞きました。商人風の男だったと」
私の頭の中で、点と点が繋がり始めた。
ドミニク・ガレ。リゼットに関する書類。商人風の男。
「ベルトラン商会の人間かもしれないわね」
「わかりません。でも、叔父は金に困っています。情報を売ることくらい、平気でするでしょう」
マリーは私の目を見た。
「公爵夫人、リゼットさんを守ってあげてください。あの子は、何も悪いことをしていません」
「……ありがとう、マリー。教えてくれて」
「いいえ。私は、正しいことをしたいだけです」
マリーは頭を下げ、工房を出ていった。
私は一人、立ち尽くしていた。
ドミニク・ガレが持ち出した書類。リゼットの過去に関する何か。
そしてそれが、誰かの手に渡ろうとしている。
噂の出所は、おそらくそこだ。
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夜、エミールに報告した。
「ドミニク・ガレか」
「ええ。元院長が持ち出した書類に、リゼットの情報があるらしいわ」
「それを誰かが買おうとしている、と」
「そう考えるのが自然よ」
エミールは腕を組んだ。
「ガレに会う必要があるな」
「私も行くわ」
「駄目だ」
「なぜ?」
「君は妊娠中だ。危険な場所には行かせない」
「でも——」
「シルヴィア」
エミールの目が厳しくなった。
「俺が行く。君は、リゼットの傍にいてやれ。彼女を守れるのは、君だ」
私は反論しようとしたが、言葉が出なかった。
彼の言う通りだ。
私には、守るべきものが二つある。お腹の子供と、リゼット。
「……わかったわ」
「明日、ガレのところに行く。結果は、すぐに報告する」
「お願い」
エミールは私の肩を抱いた。
「心配するな。必ず、真実を明らかにする」
「信じているわ」
私は彼の胸に顔を埋めた。
明日、全てがわかる。
リゼットの過去。噂の出所。そして、誰が彼女を狙っているのか。
嵐は、まだ続いていた。
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その夜、私は夢を見た。
リゼットが泣いている夢だ。
「師匠、私は……私は誰なんですか」
「あなたは、リゼットよ。私の大切な弟子」
「でも、みんなが言うんです。私は犯罪者の娘だって。汚れた血が流れているって」
「そんなことない。あなたは——」
夢の中で、私は手を伸ばした。
でも、リゼットは遠ざかっていく。
「師匠……助けて……」
「リゼット!」
目が覚めた。
息が荒い。額に汗が滲んでいた。
隣でエミールが眠っている。起こさないように、私はそっとベッドを抜け出した。
窓から外を見る。
夜明け前の空は、まだ暗かった。
「大丈夫よ」
私は自分に言い聞かせた。
「必ず、守ってみせる」
東の空が、少しずつ白み始めていた。




