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白い結婚三年目、離縁届を置いておきますね  作者: 九葉(くずは)
第4章

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第34話 過去からの影

ベルトラン商会の調査を続けて数日が経った。


その間、リゼットは変わらず独立試験の準備に励んでいた。防護の短剣、治癒の首飾り、複合付与の護符。次々と課題をこなし、腕を磨いている。


私は彼女の成長を見守りながら、同時にエミールからの報告を待っていた。


その日の午後。


書斎で、エミールの部下が詳細な報告書を持ってきた。


「ベルトラン商会についての追加調査、完了いたしました」


「何かわかった?」


「はい。共同経営者のマルク・ベルトランについて、新たな情報が」


私は報告書に目を通した。


「マルク・ベルトランは、七年前にロラン・デュボワと共同で事業を行っていました。魔道具の卸売りです」


「七年前……」


「ただし、五年前に関係を解消しています。ロランがベルモン工房から技術を盗んだ事件の直後です」


私は眉をひそめた。


「つまり、ロランの悪事を知って手を切ったということ?」


「おそらくは。マルク・ベルトランは、その後ベルトラン商会を立ち上げ、堅実な経営を続けています。現在は弟のアランと共同で商会を運営しています」


弟のアラン。先日、工房を訪ねてきた男だ。


「アランの方は?」


「問題ありません。彼はロランとの関わりを持っていません。商会の中でも、対外的な営業を担当しているようです」


私は報告書を閉じた。


ベルトラン商会自体は健全。過去にロランとの繋がりがあったのは事実だが、悪事を知って関係を断っている。


だが、完全に信用するには早い。


「引き続き、動向を監視してほしいの」


「かしこまりました」


部下が退出した後、私は窓の外を見つめた。


リゼットには、まだ伝えていない。商会との提携の話も、過去の繋がりのことも。


彼女に余計な不安を与えたくなかった。独立試験まで、あと二ヶ月半。集中してほしい。


夕方、工房に顔を出した。


リゼットは作業台に向かっていたが、いつもと様子が違った。手が止まっている。何かを考え込んでいるようだ。


「どうしたの」


「師匠……」


リゼットが振り返った。その顔には、困惑があった。


「今日、変な人に会いました」


「変な人?」


「はい。買い物に出た時、声をかけられたんです」


私は椅子に座った。


「話して」


「中年の女性でした。四十代くらいで、質素な服装で。私を見て、突然声をかけてきて——」


リゼットの声が、少し震えた。


「『あなた、フォレ家の子でしょう』って」


私は息を呑んだ。


フォレ。リゼットの姓だ。


「孤児院にいた頃の名前です。私は親を知らないから、孤児院がつけた姓で」


「その女性は、何者?」


「わかりません。でも、私のことを知っているようでした。『大きくなったわね』って言われて」


リゼットの手が震えていた。


「私、親の顔も知らないんです。孤児院に預けられたのは、生まれてすぐだったから。でも、あの人は——私を知っているような口ぶりで」


「何か他に言われた?」


「『月影の工房で働いているのね』って。『立派になって』って。それだけ言って、去っていきました」


私は考え込んだ。


リゼットの過去を知る人物。孤児院に預けられた経緯を知っている誰か。


「その女性の顔、覚えている?」


「はい。でも、見覚えはありませんでした」


「特徴は?」


「四十代半ば、栗色の髪、痩せ型。右頬に小さな傷跡がありました」


私は頷いた。


「わかったわ。調べてみる」


「師匠……」


リゼットの目には、不安と、そしてどこか期待のような光があった。


「私の親……かもしれないんでしょうか」


「わからない。でも、調べる価値はある」


「……はい」


リゼットは俯いた。


私は彼女の肩に手を置いた。


「今は、試験に集中しなさい。過去のことは、私が調べる。あなたは、前を向いて」


「でも——」


「リゼット」


私は彼女の目を見つめた。


「あなたの過去がどうであれ、あなたは私の弟子よ。それは変わらない」


リゼットの目に涙が滲んだ。


「ありがとうございます、師匠」


「泣かないの。まだ何もわかっていないわ」


「はい……」


リゼットは涙を拭い、作業台に向き直った。


私はその背中を見つめながら、心の中で誓った。


この子の過去を、調べる。何があったのか、知る必要がある。


夜、寝室でエミールに報告した。


「リゼットの過去か」


「ええ。孤児院に預けられた経緯も、本当の親が誰なのかも、彼女は知らない。でも、今日、彼女を知っているらしい女性が接触してきた」


「怪しいな」


「そう思う。タイミングが良すぎる」


私は窓の外を見た。


「リゼットが独立試験を控えているこの時期に、急に過去を知る人物が現れた。偶然とは思えない」


「ベルトラン商会の件と関係があるか」


「わからない。でも、可能性はある」


エミールは腕を組んだ。


「リゼットの身元を調べさせよう。孤児院の記録、預けられた経緯、わかる範囲で」


「お願い」


「ただし、彼女には言わない方がいいだろう」


「ええ。今は試験に集中してほしいから」


私はベッドに腰を下ろした。


お腹の子供が、小さく動いた気がした。まだ三ヶ月。気のせいかもしれない。


「シルヴィア」


「何?」


「無理をするな」


「してないわ」


「本当に?」


エミールの目が、真剣だった。


「リゼットのことも、商会のことも、大事だ。だが、今の君には子供がいる。優先順位を間違えるな」


私は苦笑した。


「わかっているわ。でも、リゼットも私の家族よ」


「ああ。だから、俺が動く。君は、できる範囲で見守ればいい」


エミールは私の手を取った。


「一人で抱え込むな。何度も言っただろう」


「……ええ」


私は彼の手を握り返した。


「ありがとう」


「礼はいい。約束しろ。無理はしないと」


「約束するわ」


エミールは頷いた。


私は目を閉じた。


リゼットの過去。謎の女性。ベルトラン商会。


全てが、どこかで繋がっている気がする。


でも今は、彼の言う通りだ。


一人で抱え込まない。できる範囲で、見守る。


お腹の子供のためにも。


翌日、エミールの部下が孤児院の調査を始めた。


リゼットが育った孤児院は、王都の外れにある小さな施設だった。聖堂が運営しており、貧しい子供たちを受け入れている。


報告が届いたのは、三日後のことだった。


「リゼット・フォレについて、孤児院の記録を確認しました」


部下の表情は、複雑だった。


「話して」


「リゼット・フォレは、十九年前、生後間もなく孤児院の前に置かれていました。身元を示すものは何もなく、布に包まれた赤ん坊だけが」


「それだけ?」


「いえ。一つだけ、手がかりがありました」


部下が、一枚の紙を差し出した。


「赤ん坊と一緒に、この手紙が添えられていたそうです」


私は手紙を受け取った。


古い紙。インクは褪せているが、文字は読める。


『この子を、どうかお願いします。私には育てられません。名前はリゼット。どうか、幸せになってください』


短い手紙だった。


「筆跡は?」


「女性のものと思われます。教養のある書き方です。平民ではないかもしれません」


私は手紙を見つめた。


リゼットの母親。教養があり、しかし子供を育てられない事情があった女性。


「他には?」


「孤児院の院長に聞き込みを行いました。十九年前、リゼット様が預けられた時期に、孤児院を訪ねてきた女性がいたそうです」


「女性?」


「はい。二十代前半、栗色の髪。右頬に傷跡があったと」


私は息を呑んだ。


リゼットに接触してきた女性と、同じ特徴だ。


「その女性は、その後も何度か孤児院を訪れていたそうです。リゼット様の様子を見に。ただし、直接話しかけることはなく、遠くから見守るだけだったと」


「つまり……」


「おそらく、リゼット様の母親、あるいは近しい親族かと思われます」


私は椅子に深く座り込んだ。


リゼットの母親。十九年間、遠くから娘を見守っていた女性。


そして今、リゼットが独立しようとするこの時期に、接触してきた。


「なぜ今なの」


「わかりません。ただ——」


部下が言いにくそうに続けた。


「もう一つ、気になることがあります」


「何?」


「孤児院を訪ねてきた女性は、数年前から姿を見せなくなったそうです。ところが、つい先月から、また現れるようになった」


「先月から……」


リゼットが独立試験を受けると決まった頃だ。


「情報が漏れている可能性があるな」


エミールが言った。いつの間にか、書斎に入ってきていた。


「リゼットの動向を、誰かが監視している。そして、母親らしき女性に伝えている」


「誰が?」


「わからない。だが、偶然ではないだろう」


私は立ち上がった。


「その女性を見つけて。話を聞きたい」


「危険かもしれんぞ」


「でも、リゼットのためよ」


私はエミールを見た。


「あの子には、知る権利がある。自分の過去を。母親が誰なのかを」


エミールは黙って私を見つめた。


「わかった。探させる。だが、見つかっても、すぐには接触するな。まず、素性を確認してからだ」


「ええ」


私は頷いた。


リゼットの過去。母親の正体。


そして、誰かがリゼットを監視しているという事実。


嫌な予感がした。


ベルトラン商会の件と、どこかで繋がっているのではないか。


過去からの影が、リゼットに迫っている。


私は、窓の外を見た。


春の日差しは穏やかだったが、雲が少しずつ広がり始めていた。


その夜、工房を閉めた後、リゼットが私のところに来た。


「師匠、少しいいですか」


「どうしたの」


リゼットの顔は、真剣だった。


「あの女性のこと、ずっと考えていました」


「考えるなと言ったでしょう」


「でも、考えずにはいられなくて」


リゼットは椅子に座った。


「私、親のことを知りたいと思ったことがなかったんです。孤児院で育って、弟がいて、弟を亡くして。それが私の全てだと思っていました」


「今は違うの?」


「……わかりません」


リゼットは俯いた。


「でも、あの人が本当に私の母親だったら。なぜ私を捨てたのか、知りたい。なぜ今になって現れたのか、知りたい」


私は何も言わなかった。


「師匠は、ご両親のことを覚えていますか」


「ええ。父は私が十六の時に亡くなったけど、よく覚えているわ」


「どんな方でしたか」


「優しい人だったわ。でも、あまり商売は上手くなくて。借金を残して亡くなった」


私は苦笑した。


「その借金を返すために、私は伯爵家に嫁いだの。政略結婚よ」


「そうだったんですか……」


「でも、父を恨んではいないわ。父なりに、私を愛してくれていたと思うから」


リゼットは顔を上げた。


「私の母親も、私を愛してくれていたのでしょうか」


「わからない。でも——」


私はリゼットの手を取った。


「あなたを孤児院に預けた時、手紙が添えられていたらしいわ。『どうか幸せになってください』って」


リゼットの目が見開かれた。


「手紙……」


「育てられない事情があったのでしょう。でも、あなたの幸せを願っていたのは確かよ」


リゼットの目から、涙がこぼれた。


「師匠……それ、本当ですか」


「本当よ」


「私の母親は、私を……」


「愛していたと思う。少なくとも、あなたを捨てたかったわけではない」


リゼットは泣いた。


声を上げて、泣いた。


私は彼女を抱きしめた。


十九年間、知らなかった事実。母親が自分を愛していたかもしれないという可能性。


それが、どれほどリゼットの心を揺さぶっているか。


「落ち着いたら、話すわ。調べてわかったこと、全部」


「はい……はい……」


リゼットは涙を拭いながら頷いた。


私は彼女の背中を撫でながら、心の中で誓った。


必ず、真実を見つける。


リゼットの母親が誰なのか。なぜ彼女を手放したのか。そして、なぜ今になって現れたのか。


全てを明らかにする。


たとえそれが、どんな真実であっても。


窓の外では、風が強くなり始めていた。


春の嵐が、近づいている。

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