第33話 二つの知らせ
朝の診察は、あっけないほど短かった。
「公爵夫人」
白髪の老医師が、穏やかに微笑んだ。
「おめでとうございます。ご懐妊です」
その言葉が、頭の中で何度も反響した。
「……本当ですか」
「ええ。間違いありません。おそらく、二ヶ月ほどかと」
二度目の妊娠。
エリーズの時と同じ感覚。体の重さ、朝の吐き気、説明しにくい違和感。
全てが、繋がった。
「お体を大切になさってください。エリーズ様の時と同様、無理は禁物です。工房のお仕事も、できる範囲で」
「わかりました」
私は立ち上がり、医師に礼を述べた。
足がふわふわする。三年前と同じだ。
書斎に向かう廊下で、自然と足が止まった。
窓から差し込む春の光を浴びながら、私はお腹に手を当てた。
また、命が宿っている。
エリーズに、弟か妹ができる。
「……嬉しい」
声に出すと、涙が溢れそうになった。
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書斎では、エミールが待っていた。
窓際に立ち、腕を組んでいる。私が入ると、すぐに振り返った。
「どうだった」
その声には、隠しきれない緊張があった。
私は彼の前に立った。
「エミール」
「ああ」
「二人目よ」
沈黙が落ちた。
エミールは、何も言わなかった。ただ、私を見つめていた。
「妊娠、確定しました。二ヶ月だそうです」
彼の目が、ゆっくりと見開かれた。
「本当か」
「ええ」
「本当に……?」
「何度聞いても同じよ」
私は笑った。
エミールが、私を抱きしめた。
強く、でも優しく。壊れ物を扱うような、慎重さを持って。
「ありがとう」
掠れた声だった。
「また、君が……俺たちの子供を……」
「泣いているの?」
「泣いていない」
「嘘つき」
「うるさい」
私は彼の背中に手を回した。
大きな背中。三年前と変わらない、温かい背中。
「エリーズに、どう伝える?」
「そうだな……」
エミールは私を離し、顔を拭った。目が赤い。
「驚くだろうな」
「喜ぶと思うわ」
「そうか」
「お姉ちゃんになるんだもの」
私たちは顔を見合わせた。
そして、二人で笑った。
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昼食の席で、エリーズに伝えた。
「エリーズ」
「なあに、ママ?」
「ママのお腹に、赤ちゃんがいるの」
エリーズは首を傾げた。
「あかちゃん?」
「そう。あなたの弟か、妹よ」
しばらく、エリーズは考えていた。
三歳児には、難しい概念かもしれない。
「エリーズがおねえちゃんになるの?」
「そうよ」
エリーズの目が、ぱっと輝いた。
「おねえちゃん!」
彼女は椅子から飛び降りて、私のお腹に耳を当てた。
「あかちゃん、いる?」
「まだ小さいから、音は聞こえないわね」
「いつあえるの?」
「あと七ヶ月くらいよ」
「ながい……」
エリーズは不満そうな顔をした。
「でも、エリーズがおねえちゃんになるんでしょ?」
「そうよ」
「じゃあ、まつ!」
エリーズは胸を張った。
「おねえちゃん、あかちゃんをまもるの!」
私は娘を抱きしめた。
「ありがとう、エリーズ」
エミールが、私たちを見つめていた。その目は、穏やかだった。
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午後、工房に向かった。
リゼットに伝えなければならない。
工房の扉を開けると、リゼットは作業台に向かっていた。独立試験の課題に没頭している。
「おかえりなさい、師匠」
「ただいま。少し話があるの」
リゼットの手が止まった。
「何かありましたか」
「座って」
二人で椅子に座った。
「リゼット、私、妊娠したの」
リゼットの目が見開かれた。
「……本当ですか」
「今朝、医師に診てもらった。二ヶ月だそうよ」
「師匠……」
リゼットの顔が、複雑な表情になった。喜びと、そして——不安。
「独立試験の時期と、重なるわね」
私は正直に言った。
「私は出産まで、前回と同じように過ごすつもりよ。工房は続ける。でも、臨月に近づけば、あなたに任せることが増えるわ」
「はい」
「独立試験は、三ヶ月後。私がまだ動ける時期だから、サポートはできる。でも、出産後はしばらく休むことになる」
リゼットは黙って聞いていた。
「つまり、あなたが独立した後、私がすぐに指導できない可能性があるの。独り立ちする覚悟が、より必要になるわ」
「……わかりました」
リゼットは顔を上げた。
「私は、大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
彼女の目には、迷いがなかった。
「師匠に教わったこと、全部身についています。独立しても、やっていけます。師匠が出産で休んでいる間も、自分の足で立ちます」
私は微笑んだ。
「頼もしいわね」
「師匠のおかげです」
「そして」
リゼットは続けた。
「おめでとうございます、師匠」
「ありがとう」
「エリーズ様に、弟か妹ができるんですね」
「ええ」
「エリーズ様、喜んでいましたか」
「大喜びよ。おねえちゃんになるって、胸を張っていたわ」
リゼットは笑った。
「エリーズ様らしいです」
私たちはしばらく、穏やかな時間を過ごした。
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夕方、工房を閉める準備をしていると、扉が開いた。
「失礼いたします」
見知らぬ男が立っていた。
四十代半ば、商人風の身なり。どこかで見たような顔だが、思い出せない。
「どちら様ですか」
「申し遅れました。私はアラン・ベルトラン。王都の魔道具商会で働いております」
「ベルトラン商会……」
聞いたことがある名前だった。中堅の商会で、評判は悪くない。
「本日は、お弟子様のリゼット嬢についてお話がございまして」
私の表情が変わったのを、男は見逃さなかった。
「いえ、決して悪い話ではございません」
「お聞きします」
「実は、リゼット嬢が独立試験を受けられると聞きまして。当商会では、有望な若手付与魔法師との提携を考えております」
「提携?」
「はい。リゼット嬢が独立された暁には、当商会で製品を取り扱わせていただきたいのです。販路の提供、素材の優先供給、資金援助なども検討しております」
悪くない話だった。
独立したばかりの職人にとって、商会との提携は大きな支えになる。販路や素材の確保は、一人では難しい。
だが、三年前のことが頭をよぎった。
ロラン・デュボワ。甘い言葉で近づき、技術を盗もうとした男。
「リゼットには、私から伝えます」
「ありがとうございます。ご検討いただければ幸いです」
男は名刺を置いて、去っていった。
私は名刺を見つめた。
「アラン・ベルトラン、ベルトラン商会」
調べる必要がある。
三年前の二の舞には、させない。
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夜。
寝室で、エミールに商人のことを伝えた。
「ベルトラン商会か」
「知っている?」
「名前は聞いたことがある。中堅の魔道具商会だな。評判は悪くない」
「でも、念のため調べてほしいの」
「ロランのことがあったからか」
「ええ」
エミールは頷いた。
「わかった。部下に調べさせる」
「ありがとう」
私はベッドに横になった。
今日は、いろいろなことがあった。
妊娠の確定。エリーズへの報告。リゼットへの報告。そして、商人の訪問。
「疲れたか」
「少しだけ」
エミールが隣に来た。
「無理をするな」
「してないわ」
「前と同じことを言うな」
私は苦笑した。
「今回は、本当に無理していないわ」
「信じてやる」
エミールの手が、私のお腹に触れた。
「まだ、何も感じないな」
「当たり前よ。二ヶ月じゃ」
「エリーズの時は、いつ動いた」
「五ヶ月くらいよ」
「そうか。待ち遠しいな」
私は彼の手の上に、自分の手を重ねた。
「ねえ、エミール」
「何だ」
「今度は、男の子かしら」
「どちらでもいい」
「本当に?」
「ああ。君に似た子なら、どちらでも」
私は笑った。
「また、同じことを言う」
「何度でも言う」
エミールは私の髪を撫でた。
「眠れ。明日も、仕事があるだろう」
「ええ」
私は目を閉じた。
二つの知らせ。
新しい命と、新しい出会い。
どちらも、私の人生を変えるものになるかもしれない。
でも、怖くはなかった。
隣には、彼がいる。
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翌日。
エミールの部下から、早くも報告が届いた。
「ベルトラン商会について、調べがつきました」
「話せ」
「商会自体は健全です。取引記録にも、不審な点はありません。ただ——」
「ただ?」
「商会の共同経営者の一人が、以前ロラン・デュボワと取引があったようです」
私は眉をひそめた。
「ロランと?」
「はい。ただし、ロランが逮捕される前のことです。現在は、関係が切れています」
微妙な情報だった。
ロランとの繋がりがあったことは事実。だが、現在は切れている。
「リゼットには、詳しく調べてから話すことにするわ」
「かしこまりました」
部下が退出した。
私は窓の外を見た。
春の日差しが、庭園を照らしている。
嵐は去ったと思っていた。
でも、油断はできない。
リゼットを守る。この子を守る。家族を守る。
それが、私の役目だ。
窓の外で、エリーズがマルトと遊んでいた。
小さな娘が、笑いながら走り回っている。
あの子も、いつかはお姉ちゃんになる。
私は微笑んだ。
未来は、まだ始まったばかりだ。




