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白い結婚三年目、離縁届を置いておきますね  作者: 九葉(くずは)


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第3話 私の作品を、五年間

工房を正式に開いて、一週間が経った。


看板を掲げた翌日から、少しずつ客が来るようになった。最初は近所の商人が様子を見に来る程度だったけれど、三日目には騎士団の下級騎士が剣の付与を依頼に来た。五日目には、大商会の使用人が「主人の名代で」と防犯魔道具を注文していった。


口コミが広がっている。


「月影の工房」という名は、六年前から知る人ぞ知るものだった。十九歳で創業してから、顔を出さず、手紙と代理人だけでやり取りを続けてきた。結婚してからの三年間は、伯爵邸の離れで夜ごと作業を続け、人目を忍んで納品を重ねた。


その積み重ねが、ようやく表に出る。


午前中の依頼品を仕上げ、棚に並べた。小さな護身用の短剣。「握り手になじむ」付与を施したもの。依頼主は商家の娘で、夜道が怖いのだと言っていた。


使う人の手に、ちゃんと収まるように。それだけを考えて作った。


窓の外に、視線を感じた。


顔を上げると、工房の前に二人の女性が立っている。一人は侍女らしき服装。もう一人は——金髪碧眼、淡いピンクのドレス。儚げで小柄。


フローラ・メルヴィル子爵令嬢。義母マルグリットの姪だ。


扉が開いた。来客用の鈴が鳴る。


「まあ、本当にこんな場所にいらっしゃるのね」


フローラは工房の中を見回しながら、わざとらしく目を丸くした。


「シルヴィア様、お久しぶりですわ。お元気そうで何よりですこと」


「……フローラ様」


作業台から立ち上がる。礼は最小限にした。伯爵夫人だった頃なら、もっと丁寧に対応しただろう。今の私は、ただの職人だ。


「ご用件は」


「あら、冷たいのね。せっかくお見舞いに来て差し上げましたのに」


フローラの目が、棚の魔石や工具をなめるように見ていく。


「社交界では噂になっていますのよ。伯爵夫人の座を追われて、平民のような暮らしを始めたって」


追われたのではない。自分から出た。訂正しようかと思ったけれど、やめた。この人に何を言っても意味がない。


「お気遣いありがとうございます」


「可哀想に。こんな狭い場所で、汗水垂らして働くなんて」


フローラは大げさに溜息をついた。侍女が後ろで、同情するような顔を作っている。


私は作業台に戻った。


「申し訳ありませんが、仕事中ですので」


「まあ、お仕事ですって」


くすくすと笑う声。


「何を作っていらっしゃるの? お針子さんのような内職かしら」


答えなかった。工具を手に取り、午後の依頼品の仕上げを始める。商会向けの防犯魔道具。「侵入者を感知する」付与と、「所有者に警告を送る」付与の複合だ。


フローラが何か言っている。声は聞こえるけれど、意味のある言葉としては入ってこない。「無視なさるの?」「やっぱり伯爵夫人には向いていなかったのね」。


集中する。


魔力を指先に集め、魔道具の核に流し込む。二つの付与を干渉させずに定着させる。高度な技術が要る作業だ。雑念が入る余地はない。


「——聞いていらっしゃるの?」


フローラの声が、苛立ちを帯びてきた。


「シルヴィア様」


「次のお客様が来る時間ですので、そろそろ」


「お客様? こんな場所に?」


フローラは鼻で笑った。


「誰がいらっしゃるのかしら。近所の八百屋さん?」


「さあ。私には分かりかねます」


作業を終え、魔道具を布で包んだ。フローラは腕を組んで、まだ何か言いたそうにしている。


扉の鈴が鳴った。


「ごめんください。月影の工房は、こちらで間違いないか」


低い、落ち着いた男の声。


フローラが振り返る。私も顔を上げた。


扉の前に、長身の男が立っていた。黒い外套、黒い髪。年齢は二十代後半だろうか。整った顔立ちだが、表情が乏しく、どこか近寄りがたい。


その後ろに——人が並んでいた。


「副団長殿、こちらで合っているようです」


「ああ、看板が出ている。噂通りだ」


工房の前に、行列ができていた。五人、七人——いや、もっといる。先頭には王宮騎士団の制服を着た男。副団長の階級章が胸元で光っている。その後ろには商会の紋章が入った服を着た男、貴族らしき身なりの女性、さらに人影が続く。


フローラの顔から、血の気が引いていく。


「月影の工房が店を開いたと聞いて、予約を取りに来た」


副団長が言った。


「本日分は空いているか」


私は作業台を回り込み、副団長の前に立った。


「申し訳ありません、本日の枠は埋まっております。来週でしたら、若干の空きがございますが」


「そうか。では来週の予約を入れたい。団員の剣を三振り、付与の更新を頼む」


「承ります」


副団長と話している間、視界の端でフローラが後ずさるのが見えた。侍女の腕を引っ張り、行列の脇をすり抜けていく。


誰も彼女を見ていなかった。


三人目の客の対応を終えた頃、行列は残り一人になっていた。


黒髪の青年。最初に扉を開けた男だ。


ずっと待っていたらしい。他の客が話している間も、静かに工房の隅に立ち、棚の品を見るでもなく——私の手元を見ていた。


「お待たせしました。ご依頼でしょうか」


近づいて、ようやく気づいた。


深い青の瞳。どこかで——いや、「見た」のではない。「知っている」感覚だ。声と、視線の質。


「久しぶりだな、月影の職人」


低い声が、記憶を揺さぶった。


五年前。「月影の工房」を始めて一年が経った頃、初めて大口の依頼をくれた客がいた。「複合付与の剣」という難しい依頼。当時の私には挑戦だったけれど、その依頼があったから技術を磨くことができた。


以来、年に数回、必ず依頼をくれる。手紙のやり取りだけで、顔を合わせたことはない。職人の匿名性を守る慣習に従って、私は仮面を着け、彼も——名前を明かさなかった。


「あなたは」


「気づいたか」


青年の口元が、かすかに緩んだ。笑みというには淡い変化だった。


「君の作品を、五年間使い続けている。作り手が変われば分かる」


心臓が跳ねた。


五年間。顔も知らなかった上客が、目の前にいる。


「どうして、ここが」


「伯爵夫人が離縁したという噂を聞いた。月影の工房が店を開いたとも」


青年は淡々と言った。


「二つを繋げるのは、難しくなかった」


私の正体に気づいていた。いつからだろう。離縁の噂を聞いてから? それとも——もっと前から、薄々感づいていたのだろうか。


「安心しろ、誰にも言っていない」


私の動揺を見透かしたように、青年が言った。


「ただ、ようやく君自身に会えた。それだけだ」


——ようやく。


その言葉が、胸に残った。


青年の視線が、私の手元に落ちた。作業台に置いたままの工具、仕上げたばかりの魔道具。真剣な目だ。品定めではない。職人への、敬意を込めた目。


「……明日、正式に依頼に来る」


青年は踵を返した。扉に向かいながら、振り返る。


「今度は仮面なしで話そう」


「お名前を」


呼び止めた。五年間、知らなかった名前。


青年は一瞬、間を置いた。それから、静かに告げた。


「クレシー公爵。エミール・ド・クレシー」


扉が閉まる。鈴の音が、長く響いた。


私は動けなかった。


クレシー公爵。王国最高位の公爵家。その当主が——五年間、私の顧客だった。


窓の外を見た。黒い外套の背中が、通りを歩いていく。振り返ることはなかった。


——五年間。


私が伯爵邸で透明人間のように過ごしていた三年間も、彼は依頼を続けてくれていた。顔も名前も知らないまま、ただ「作品」だけを見て。


胸の奥が、じんわりと温かくなった。

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