第2話 待つ理由がありません
伯爵邸を出て、三日が経った。
王都の商業区、大通りから一本入った路地に、小さな建物がある。二階建て、石造り、窓は大きめ。以前は仕立て屋が入っていたらしく、採光が良い。
ここが、私の新しい居場所だ。
一階を工房に、二階を住居にする予定で、今は開業準備の真っ最中だった。棚を並べ、作業台を設置し、道具を整理する。伯爵邸の離れでこっそり続けてきた仕事を、ようやく表に出せる。
「……よし」
付与用の魔石を棚に並べ終えて、息をついた。
窓から差し込む午後の光が、磨いたばかりの作業台を照らしている。静かだ。誰の目も気にせず、自分の好きなように空間を作れる。この三日間、私は驚くほど穏やかな気持ちで過ごしていた。
伯爵邸での三年間が嘘のようだ。
あの屋敷では、常に誰かの視線を意識していた。義母の評価、使用人たちの噂、社交界での体面。「伯爵夫人らしく」振る舞うことを求められ、自分が何をしたいのかなど、考える余裕もなかった。
今は違う。
ここには、私しかいない。私の判断で、私の仕事をする。それだけでいい。
コンコン、と扉を叩く音がした。
まだ開業前だ。看板も出していない。誰だろう。近所の人が挨拶に来たのかもしれない、と思いながら扉を開けて——
「シルヴィア」
息が止まった。
そこに立っていたのは、オスカーだった。
いつもの茶系の外套、きちんと整えられた髪。財務局の仕事帰りだろうか、書類鞄を手にしている。その姿が、この場所にはひどく不釣り合いに見えた。
「……なぜ、ここが」
「調べた」
短い答え。私が出ていった後、どこに向かったのか、使用人に聞いたのだろう。馬車の行き先を。
「中に入っても?」
「お断りします」
即答した。オスカーの眉がわずかに動く。
「話がしたい」
「署名はしていただけましたか?」
「……まだだ」
やはり。三日待っても届かなかったのは、そういうことか。
「届出は、双方の署名がなければ受理されません。ご存知ですよね」
「知っている」
「では、署名をお願いします。郵送で結構です」
扉を閉めようとした。オスカーの手が、扉の縁を押さえた。
「待ってくれ」
「——何を、ですか」
振り返る。三年間、この人の顔をまともに見ることを避けていた。今は真正面から見据えることができる。
オスカーの表情は、困惑と焦りが入り混じっていた。私が知らない顔だ。いつも無関心で、感情の読めない目をしていた人が、今は明らかに動揺している。
「話し合う時間が欲しい」
「何を話し合うのですか」
「離縁は、急すぎる」
「急?」
思わず、笑いが漏れた。声に出すつもりはなかったのに。
「三年間、お時間はありましたよ」
「それは——」
「初夜に『愛せない』と仰ってから、今日まで。千日以上あったはずです」
オスカーの顔が強張る。私は淡々と続けた。
「その間、私に話しかけてくださったのは何度ですか? 私の好きなものを聞いてくださったことは? 私がどんな仕事をしているか、ご存知ですか?」
沈黙。
「答えられないでしょう。あなたは私を見ていなかった。今さら『話し合いたい』と言われても、何を話すのですか」
「……考え直してくれないか」
オスカーの声が、少し掠れた。
「伯爵家の体面がある。君が出ていけば——」
「体面」
その言葉で、全てがわかった気がした。
やはり、この人が気にしているのは「私」ではない。「伯爵夫人に逃げられた伯爵」という評判だ。私自身には、最後まで興味がないのだ。
「体面でしたら、ご心配なく。『白い結婚』は離縁の正当な理由として認められています。有責はあなた側になりますが、表沙汰にするつもりはありません」
オスカーが息を呑む。「白い結婚」という言葉を、私が口にするとは思っていなかったのだろう。
三年間、一度も——そう、一度も。結婚は成立していない。夫婦としての営みは、何もなかった。それを法的な用語で突きつけられて、彼はようやく事態の深刻さを理解したらしい。
「君は、本気なのか」
「本気でなければ、届を用意したりしません」
「……後悔させるぞ」
その言葉に、私は小さく首を傾げた。
「何を、ですか?」
「君が出ていったことを、後悔させて——」
「どうぞ、ご自由に」
オスカーの言葉を遮った。感情は込めなかった。込める必要がなかった。
「後悔するかどうかは、私が決めます。あなたではありません」
沈黙が落ちた。商業区の喧騒が、遠くから聞こえる。馬車の音、商人たちの声、子供の笑い声。私たちの間には、言葉がない。
ずっとそうだった。でも、もう同じ沈黙ではない。
あの頃の沈黙は、私を押し潰すものだった。今の沈黙は、私が選んだものだ。
「……署名は、する」
オスカーが、低く言った。
「届を渡してくれ。今、ここで書く」
工房の奥から、控えの離縁届を取ってきた。机の上に広げる。オスカーはペンを取り、一瞬だけ躊躇してから——署名した。
インクが乾くのを、二人で黙って見つめていた。
「受け取った。届出は私が行います」
「……ここで、何をするつもりだ」
オスカーが、工房の中を見回した。棚に並んだ魔石、作業台に置かれた工具、壁にかけた設計図。彼の目が、それらを一つ一つたどっていく。
初めて、私の「仕事」を見ているのだと気づいた。三年間、同じ屋敷にいて、一度も見なかったものを。
けれど、もう遅い。
「私の仕事です」
それだけ答えた。詳しく説明する義理はない。
オスカーは何かを言いかけて、口を閉じた。踵を返し、扉に向かう。その背中に、私は声をかけなかった。
引き止める言葉など、持っていない。
扉が閉まる。足音が遠ざかる。
私は一人、工房の真ん中に立っていた。
手の中には、署名済みの離縁届。これを届け出れば、三十日後には正式に——私は自由になる。
窓辺に歩み寄り、外を見た。オスカーの姿は、もう見えなかった。
棚の隅に、木製の看板が立てかけてある。三年前から準備していたもの。表面には、細い文字で刻んである。
「月影の工房」
持ち上げて、光にかざした。私が彫った文字、私が選んだ名前。夜ごと月明かりの下で作り続けた、努力の結晶。
扉を開けて、外に出た。看板を掛ける金具は、昨日のうちに取り付けておいた。
慎重に、看板を掛ける。
一歩下がって、見上げた。「月影の工房」の文字が、午後の陽光を受けて静かに輝いている。
六年間、匿名で活動してきた。(結婚してからの三年間は、隠れながら)「月影の職人」として、顔も名前も隠して、ただ作品だけを届けてきた。
でも、もう隠す必要はない。
「さあ」
声に出して、呟く。
「正体を明かしましょうか」




