第10話 あなたの隣で
王立契約裁定所からの書状は、朝一番に届いた。
白い封蝋に刻まれた王国の紋章。私はそれを、工房の作業台の上で開いた。
『ヴァルトシュタイン伯爵家との婚姻契約の解消を、正式に認定する。本日をもって、シルヴィア・モンフォールは法的に独身の身分となる』
短い文面だった。
けれど、その一文が持つ重みを、私は静かに噛み締めた。
三年間。
いや、思えばもっと長かったのかもしれない。父が亡くなり、実家が傾き、私には選択肢がないのだと思い込んでいた頃から。誰かに必要とされなければ生きていけないのだと、どこかで信じていた頃から。
でも、違った。
私には手があった。技術があった。六年間、夜ごとに磨き続けた、誰にも奪えないもの。
書状を畳み、作業台の引き出しにしまう。
窓の外では、冬の陽光が白く輝いていた。もうすぐ春が来る。雪解けの季節が。
「……終わった」
声に出してみると、不思議と実感が湧いてきた。
本当に、終わったのだ。
昼過ぎ、工房の扉が叩かれた。
「どうぞ」
振り返ると、エミールが立っていた。
いつもの黒い軍服ではなく、深い紺色の上着を着ている。襟元には銀の留め具。正装、というほどではないが、普段よりも少しだけ整った装い。
「……入っても?」
「はい」
彼が工房に足を踏み入れる。扉が閉まると、急に空気が変わった気がした。
沈黙が落ちる。
エミールは作業台の前で足を止め、私を見つめていた。深い青の瞳。いつもは読み取れないその表情が、今日はどこか緊張しているように見えた。
「離縁が成立した」
彼が言った。
「……ええ。今朝、通知が届きました」
「そうか」
また、沈黙。
エミールの手が、かすかに握られるのが見えた。彼にしては珍しい仕草だった。
「昨日、言っただろう」
「……問いたいことがある、と」
「ああ」
彼が一歩、近づいてきた。
「俺は五年前、君の作品に出会った」
唐突な言葉だった。
「あの頃の俺は……壊れかけていた。婚約者を亡くして、何のために剣を振るうのかわからなくなっていた。生きている意味さえ、見失いかけていた」
エミールの声は静かだった。けれど、その奥に押し殺した感情があるのがわかった。
「そんな時、君が作った剣を手にした。複合付与の、あの剣を」
彼が言っていた言葉を思い出す。『五年間使い続けている』と。
「使った瞬間、わかった。この剣を作った人間は、使い手のことを考えている。どう握るか、どう振るか、どんな状況で使うか。すべてを想像して、寄り添っている」
彼の目が、まっすぐに私を捉えた。
「俺は、その職人に会いたいと思った。どんな人間なのか、知りたいと思った。五年間、ずっと」
心臓が、早鐘を打っていた。
「そして会えた。君は俺が想像していたよりもずっと……強くて、まっすぐで、自分の足で立とうとしていた」
エミールが、もう一歩近づいた。
手を伸ばせば届く距離。
「俺は君を守ろうとした。でも君は拒んだ。正しかった。君に必要なのは庇護じゃない」
「エミール」
「だから、今日は別のことを言いに来た」
彼の手が、私の手を取った。
大きくて、硬くて、けれど温かい手。
「シルヴィア・モンフォール」
彼の声が、低く響いた。
「俺は、君の隣に立ちたい。君を守る者としてではなく、君と共に歩く者として。俺の妻に、なってくれないか」
時間が、止まった気がした。
求婚。
頭ではわかっていた。昨日の「問いたいこと」が何なのか、予感はあった。けれど、実際に言葉にされると、心臓が胸を突き破りそうなほど跳ねた。
「……っ」
声が出なかった。
エミールの手が、私の手を握ったまま、微かに震えていた。彼もまた、緊張しているのだ。いつも冷静で、無表情で、何を考えているかわからないこの人が。
「答えを急かすつもりはない」
彼が言った。
「君は自由になったばかりだ。もう誰かに縛られたくないと思うのは当然だ。だから――」
「エミール」
私は彼の言葉を遮った。
「一つ、聞いてもいいですか」
「……何だ」
「あなたは、私の何を見ているんですか」
エミールの眉が、かすかに動いた。
「私はSランク付与魔法師です。月影の工房主です。でも、それだけじゃない。三年間、何もできずに耐えていただけの女でもある。逃げることもできず、戦うこともできず、ただ……耐えていただけ」
前世のことを、思い出した。
あの時も同じだった。ブラック企業で働き続けて、逃げることもできず、声を上げることもできず、ただ耐えて、耐えて、最後には壊れた。
「私は、強くなんかない」
声が震えた。
「自分で選んできたと言ったけれど、本当は怖かった。いつも怖かった。一人で立つことが。誰にも必要とされなくなることが」
エミールは黙って聞いていた。
「だから……あなたが『共に歩く』と言ってくれた時、嬉しかった。でも同時に、怖かった。また誰かに頼って、また誰かに依存して、また……」
「シルヴィア」
エミールの声が、私の言葉を止めた。
「俺が見ているのは、Sランク付与魔法師じゃない。月影の工房主でもない」
彼の手が、私の頬に触れた。
「俺が見ているのは、怖くても立ち上がろうとする君だ。一人で抱え込みすぎて、でも誰かを頼ることを覚えようとしている君だ。強い君も、弱い君も、全部含めて――君という人間を、俺は見ている」
息が詰まった。
「頼ることは、依存じゃない。共に歩くことは、縛られることじゃない。俺はそれを、君に証明したい。時間がかかってもいい。君が信じられるようになるまで、何年でも」
エミールの目が、真っ直ぐに私を見ていた。
深い青。海の底のような色。その奥に、静かな、けれど確かな熱があった。
「……不器用ですね、あなたは」
私は笑った。涙が滲んでいるのが、自分でもわかった。
「求婚なのに、何年でも待つなんて言う人がいますか」
「悪いか」
「悪くないです」
私は、彼の手を握り返した。
「私も、あなたの隣を選びます」
エミールの目が、わずかに見開かれた。
「エミール・ド・クレシー。私は、あなたの妻になります」
沈黙が落ちた。
そして、彼の顔が――無表情だったはずのその顔が、ほんの少しだけ、緩んだ。
「……ありがとう」
低い声だった。けれど、その声には、今まで聞いたことがないほどの温度があった。
彼の手が、私の腰に回された。引き寄せられる。
「シルヴィア」
名前を呼ばれた。
そして、唇が触れた。
柔らかくて、温かくて、けれどどこか不器用な口づけ。
目を閉じると、涙がこぼれた。
ああ、と思った。
これが、私が選んだ未来だ。
誰かに決められたのではなく、誰かに強いられたのでもなく、私が、自分で選んだ。
この人の隣で、生きていく。
◇◇◇
一年後、春
クレシー公爵邸の一室には、柔らかな春の陽光が差し込んでいた。
窓際に置かれた作業台。その上には、半分完成した魔道具が並んでいる。結婚後も、月影の工房は続けている。場所は王都の店舗から公爵邸の離れに移したが、注文は相変わらず絶えない。
「シルヴィア」
声がして、振り返った。
エミールが扉の前に立っていた。いつもの黒い軍服。深い青の瞳。
「昼食の時間だ」
「もう少しで終わります」
「いつもそう言う」
「本当にもう少しです」
エミールが無言で近づいてきて、私の隣に立った。作業台の上を覗き込む。
「何を作っている」
「護身用の短剣です。依頼主は……ヴァルトシュタイン伯爵家の新しい当主様」
エミールの眉が、かすかに上がった。
「オスカーか」
「ええ。義母の……いえ、マルグリット様の追放後、伯爵家は大変だったそうです。でも、オスカー様は立て直そうとしている。領地経営も、帳簿も、一から学び直しているとか」
「そうか」
エミールの声には、特に感情がこもっていなかった。けれど、否定もしなかった。
私はオスカーを許したわけではない。けれど、恨んでもいない。彼は彼なりに、自分の人生を歩み始めている。それでいい。
「フローラ様は、地方の男爵家に嫁いだそうです。社交界からは遠ざかりましたが、穏やかに暮らしているとか」
「興味ない」
「知ってます」
くすりと笑うと、エミールが不満そうな顔をした。
「笑うな」
「笑ってません」
「笑っている」
「少しだけです」
一年経っても、この会話は変わらない。
エミールは相変わらず無表情で、不器用で、言葉が少ない。けれど、毎日必ず工房に顔を出す。昼食の時間だと言いに来る。夜は一緒に茶を飲む。
静かな溺愛、と誰かが言っていた。言い得て妙だと思う。
「シルヴィア」
「はい」
「昼食を食べたら、庭を歩こう」
「……珍しいですね、あなたが誘うなんて」
「桜が咲いた」
「え?」
「去年、君が植えたいと言っていただろう。東の庭園に。咲いた」
私は目を見開いた。
去年の春、私がふと漏らした言葉を、彼は覚えていたのだ。前世で好きだった花の話を。この世界にも桜に似た花があると知って、いつか植えたいと言ったことを。
「……本当に、不器用ですね」
声が震えた。
「何がだ」
「言ってくれればいいのに。桜を植えましたって」
「驚かせたかった」
「……成功です」
エミールの手が、私の頭に触れた。ぽんぽんと、不器用に撫でる。
「泣くな」
「泣いてません」
「目が赤い」
「花粉です」
「この部屋に花粉はない」
「……うるさいです」
笑いながら、涙を拭った。
幸せだと思った。
これが、私が選んだ人生だ。
前世では得られなかったもの。誰かの隣で、自分の足で立って、それでも一人じゃない。
「行きましょう、エミール」
私は立ち上がった。
「桜を見に」
エミールが頷いた。
その手が、自然に私の手を取る。
窓の外では、春の風が吹いていた。




