第1話 三年間、ありがとうございました
朝の光が、白いテーブルクロスの上に四角く落ちている。
銀の食器が小さな音を立てた。私の向かいで、夫——オスカー・ヴァルトシュタイン伯爵が、黙々とスープを口に運んでいる。
今日も、会話はない。
結婚して三年。同じ屋敷に暮らしながら、私たちが言葉を交わすのは月に数度だけだ。それも「今夜は夜会がある」「承知しました」程度の、事務的なやり取り。
夫の横顔を見る。栗色の髪、琥珀の瞳。温厚そうに見えるけれど、その目が私を見ることは、ほとんどない。
結婚初夜、彼が言った言葉を、私は今でも覚えている。
『愛せない』
たった一言。それだけで、私の結婚生活は決まった。
理由は聞かなかった。聞いても意味がないと思ったから。政略結婚だということは、最初からわかっていた。モンフォール子爵家の長女として、ヴァルトシュタイン伯爵家に嫁ぐ。家のために。それが、私に与えられた役割だった。
でも——せめて、人として扱われたかった。
一年目。私は夫に歩み寄ろうとした。好きな本の話をしようとしたし、一緒に食事をする時間を増やそうともした。返ってきたのは、困惑したような沈黙だけ。
二年目。父が病に倒れた。危篤の知らせを受けた日、私は夫に「実家に戻りたい」と願い出た。彼は言った。『わかった。行っておいで』——それだけ。付き添いの申し出はなく、馬車の手配すら使用人任せだった。
父の葬儀にも、彼は来なかった。『仕事が立て込んでいる』という伝言が届いただけ。
三年目の今。私はもう、何も期待していない。
「……ごちそうさま」
オスカーがナプキンを置いた。椅子を引いて立ち上がる。このまま書斎に向かい、夜まで顔を合わせない。いつもの朝だ。
「お待ちください」
私の声に、彼の足が止まった。
振り返った顔には、かすかな困惑が浮かんでいる。私が自分から話しかけることなど、もう何ヶ月もなかったから。
「何か」
「お話があります」
テーブルの上に、一通の封筒を置いた。
三年間、準備してきたもの。資格証、貯金、住む場所。全てを整えた上での、これは——決断だった。
オスカーが封筒を手に取る。中身を見た瞬間、その目がわずかに見開かれた。
「……離縁届?」
「はい」
動揺が、彼の顔をよぎった。けれど私は、もうその表情に心を動かされない。三年前なら、きっと「やっと私を見てくれた」と喜んでいただろう。今は違う。
彼が動揺しているのは、体面を気にしているだけだ。伯爵夫人に逃げられた、という噂が立つことを。
「待ってくれ。何かあったのか」
「何か、ですか」
私は静かに笑った。笑うしかなかった。
「三年間、何もありませんでした。それが理由です」
オスカーの眉が寄る。彼は頭の良い人だ。財務局の次官を務めるほどの実務能力がある。でも、今この瞬間、彼は私が何を言っているのか理解できていない。
そのことが、何よりも雄弁に、三年間の全てを物語っていた。
「初夜に『愛せない』と仰いましたね」
「……それは」
「社交界では、私を一度もエスコートしてくださいませんでした。いつも代理の方に任せて」
「君が人混みを苦手だと聞いていたから——」
「誰から聞いたのですか? 私に確認しましたか?」
沈黙。
「父の葬儀には、来てくださいませんでしたね」
「あれは、本当に仕事が——」
「義母様の茶会には、お忙しい中でも顔を出されていましたのに」
彼の顔から、血の気が引いていく。
私は感情を込めずに言葉を並べた。怒りも、悲しみも、もう枯れてしまった。残っているのは、静かな確信だけだ。
この人は、私を見ていなかった。三年間、一度も。
「シルヴィア」
初めて、名前を呼ばれた気がした。結婚してから、彼が私の名前を呼んだのは何度あっただろう。両手で数えられるかもしれない。
「君は——」
「私は、あなたの妻でした」
過去形を使った自分に、少しだけ驚く。でも、それが正しいと思った。
「三年間、ありがとうございました。どうか署名をお願いします」
オスカーは何かを言いかけて、口を閉じた。視線が離縁届に落ちる。震えてはいない。ただ、何かを探すように、紙面をなぞっている。
反論が見つからないのだろう。当然だ。私が並べたのは、全て事実なのだから。
「……考える時間をくれ」
「いいえ」
私は首を振った。
「三年間、考える時間はありました。お互いに」
立ち上がる。椅子を引く音が、静かな朝食室に響いた。
「届は置いていきます。署名されたら、郵送してください。届出は私が行います」
オスカーは動かなかった。引き止める言葉も、追いかける足も、彼は持っていなかった。
——そうだろうな、と思う。
彼にとって私は、最初から「いてもいなくても同じ」存在だったのだから。
玄関で、小さな旅行鞄を手に取る。中身は着替えと、いくつかの書類だけ。三年間暮らした屋敷から持ち出すものは、驚くほど少なかった。
ふと、廊下の壁にかかった燭台が目に入る。
柔らかな光を灯す、魔法の燭台。私が作ったものだ。嫁いできた最初の年に、夜の廊下が暗くて怖いと言った侍女のために、こっそり付与した。
あの人は、知らないだろう。
この屋敷にある魔道具のいくつかが、私の手によるものだと。三年間、同じ屋敷に暮らしていて、一度も気づかなかった。
私の仕事も、私の才能も、私自身も——何も見ていなかったのだから、当然のことだ。
扉を開けると、初夏の風が頬を撫でた。
馬車が待っている。行き先は、王都の商業区。結婚前から、夜ごとに通い続けた、私だけの場所。
「月影の工房」
声に出して呟くと、不思議と心が軽くなった。
やっと、私を始められる。
馬車に乗り込む直前、振り返った。伯爵邸の窓に、人影は見えなかった。
——それでいい。
私はもう、誰かに見送られることを期待しない。




