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五十六億七千万年後の仏

 極楽庁の昼。

 食堂は、いつもほんのり甘い匂いがする。湯気に混ざるのは、炊きたての米と味噌の香り。地獄の硫黄とは違う、どこまでも“人の食卓”の匂いだった。

 天望は定食の味噌汁をひと口すする。隣で炎獄が箸を動かしながら、ぼそりと呟いた。

 

「極楽の飯ってなんか……健康的だな」

「そうなんですよね。まあ悪いわけではないんですが」

「飲み会の後とか良いかもな」

「逆に昼これだと夜ガッツリいきたくなるんですよ」

「なるほどだからお前地獄来てんのか」

「ええ。硬め濃いめ普通」

「塩分過多」

 

 そんな穏やかな空気の中——端正な顔立ちに似合わぬ特大ボイスが食堂を満たした。

 

「A定食でひとつ! えっ電子マネー不可!? 未来では現金など無いのに!?」

 

 金糸の入った法衣は、まるで光そのものを縫い込んだように眩しい。姿勢も、声も、完璧に出来すぎている。なのに、全部うるさい。

 全員が一瞬で箸を止める。隣のテーブルでは阿修羅がカレーのスプーンを宙で止めた。

 

「……なんかまた変なのが来たな」

「あれは……弥勒菩薩様ですね」

 

 小声で言う。弥勒は食堂のカウンターで何か騒いでいた。

 

「未来へ行きましょう! 食も、会議も、すべてアップデートの時です!!」

「A定食は四百円だよ」

「残高ならあるのにっ!!」

 

 どこから取り出したのか、金色の端末を掲げている。その光が天井の蓮模様に反射して、昼の食堂がまるで後光の中に沈んだみたいに眩しくなる。

 

「……」

「……おい天望」

「はい」

「あいつ、まさかこの後の会議参加すんのか」

 

 炎獄と天望は顔を見合わせた。


 *

 

 極楽庁・会議フロア。講話イベント準備会議。

 

「では次、講話PRの地獄セクション――」

 

 摩訶迦葉が議事を進め、炎獄はスクリーンに導線図を映す。その横で閻魔が進行台本をめくり、天望が端で議事録を取っている中、吉祥天は照明の角度をいじりながら自撮りしていた。

 そこへ、扉が軽やかに開く。

 

「おはようございます! 天上天下唯我独尊! 最も尊い未来の仏陀、弥勒菩薩でございます!」

 

 極楽で一番もったいない仏、弥勒菩薩が金の衣をたなびかせてやって来た。

 

「お釈迦様の代理で参りました! なぜなら僕は未来の仏陀なので!」

「あ、確かに今日お釈迦様来られないって連絡ありましたね」

「はい! なので未来の仏陀ことこの僕、弥勒菩薩が参りました!」

 

 迦葉は眉間を押さえ、炎獄は眉をひそめ、閻魔は笑いを堪え、天望は議事録に“弥勒菩薩登場”と書き込んだ。

 

「天望、ずっと思ってたんだが、なんだ未来の仏陀って」

「弥勒菩薩様、五十六億七千万年後に仏陀……つまり、お釈迦様と同じ如来になられる事が確定してるんですよ」

「気のなっげえ話」

「それでも未来は僕らの、いえ僕の手の中なので!」

「極楽って変なやつしかいねえのか?」

 

 炎獄は腕を組んで睨み、閻魔は面白がるように口の端を上げる。迦葉は胃の痛みを堪えながら議事進行を止めた。そして天望は、「まあこうなるよね」という顔で議事録に追記する。

 

「未来の仏陀は合理的なんですよ! だってほら、この講話イベント、地獄と極楽で連携してるでしょ?」

「まあな」

「それをいちいち申請書出して、会議室集まって、じゃあ次は何日にまた会議、って、あー非効率的! 全然未来じゃない!」

「胃が……」

「だから未来化しましょう! 全てオンラインで解決! 会議は全てホログラム出席! 因果もデータベース化して、輪廻もワンクリックでいけるようにしましょう!」

「待て待て待てそのシステムは誰が構築すんだよ」

「大丈夫です! “未来形式”に合わせるだけですから!」

 

 弥勒が誇らしげに胸を張る。炎獄はこめかみを押さえた。天望はこの議事録を取る必要があるのか悩んだ。迦葉は胃を押さえ、吉祥天は自撮りを加工する。閻魔は扇ぎながら、にやりと笑った。

 

「へぇ〜、“未来形式”ねぇ。……釈迦とはだいぶ違うわけだ?」

「え?」

「釈迦は言ってたな。花は咲く時に咲き、散る時に散る。お前の言う“未来”じゃ、咲く前に剪定されちまいそうだけど、そこんとこどうなわけ?」

「そ、それは、古い過去の――」

「未来だの進化だのは結構だが、あいつが頑張って喋くってるありがた〜いオハナシ、もうちょっとちゃんと聴いてやんねえと可哀想なんじゃねえのぉ?」

 

 弥勒の口が止まる。閻魔は机の上の朱肉を指で弾き、赤を見つめながら言った。炎獄が「ジジイ、煽りすぎ」と小声でつぶやく。閻魔は笑いながら朱印を押した。

 

「ま、俺らの時代じゃ理解できねぇもん、見せてもらおうじゃねえか。……未来の仏、だっけ? でけえ口叩いてんだ、釈迦如来超えてくれるんだよな、当然」

 

 弥勒が金色のケースに包まれた端末を取り出す。映し出されたスクリーンと画面が同期する。彼の指先が軽やかにスワイプした。

 

「説法もアップデートが必要なんです! なので、ちょっとだけ未来化しまーす!」

 

 Enter。

 画面に《アップデート完了/非建設ログ削除》の表示。

 

「……ん?」

「……はい?」

「弥勒様、今なにを消しました?」

「え? アップデートのため、まずはデータに無駄なキャッシュが多かったので過去の庁内サーバー上の“非公式ログ”を消しました!」

 

 その言葉に、天望の手が止まる。震える手で自分の端末を開き、沈黙。三秒ほど固まった後、見下ろしたまま音もなく口を開いた。

 

「……来週の」

「ん?」

「来週のレース出走者の、過去データまとめたメモ、が」

「レース? ああ! 罪人ダービーですか? あれも煩悩を刺激する非効率的な催しです! 未来では全部無くします!」

「非効率的……」

「はい!! 無駄です!! だってあれ、賭けでしょ? 未来では正解が常にAIで予測されて——」

 

 ダンッ

 

 乾いた音がした。天望の手が机を叩いた音だった。周囲の空気が一瞬で凍る。数秒、音が消えた。呼吸だけが動いている。吉祥天の画像加工の手も止まった。

 炎獄が何か言いかけた、その前に——天望は吼えた。

 

「弥勒――――――――――――ッッッ!!!!!!!!」

 

 まさに咆哮。その場の全員が目を丸くする。誰もが固まる中、天望だけがゆらりと立ち上がり、弥勒菩薩の眼前に迫る。

 天望の細い指が弥勒菩薩の美しい金色の衣の首元、もとい胸ぐらを掴んだ。

 

「え、え、え、え」

「お前ッ!!! 何したかわかりますか!!!」

「は? え? え?」

「非建設的だ!? あれは研究です!!!」

「け、研究!?」

「亡者の行動パターン、過去レースの勝率、傾向、統計して照合!!!!」

「……賭けですよね?」

「そうです賭けです!!! そこに“祈り”があるんです!!!!」

 

 音圧で机の上の茶が震える。閻魔が頬の内側を噛み、炎獄は息を呑む。

 

「誰もが“次こそは”と思って走ってるんです!! もう救われない魂たちが、それでも走って、転んで、立ち上がる! それを“無駄”って言えるほどあなたは人間を見たことがあるんですか!!」

「に、人間……?」

「罪人本人だけじゃない! 調教師も、管理師も! 罪人主も! そして何より私達罪人ダービーファンの夢がそこにあるんですよ!!」

「ゆ、ゆめ」

「どんな事故が起こるかもわからない! レース中に予後不良になるかもしれない! 虐待ではないかとの声だってある! そんな事はわかっています、だけど!! 私達はあのレースに想いと夢を賭けた!!」

「ッ」

「ひとりひとりに人生がある、ひとりひとりに得意なコースがある! 芝が得意、ダートが得意、マイルが得意! 枠順、三途の川の流れ、風向き、全部運命なんです! 無駄な情報なんか何ひとつありません!!」

「…………」

「あなたが消したのは、ただのメモじゃありません。誰かが生きた記録です。愚かで汚くて、でも、確実にそこに“生きていた”人たちの軌跡を無駄だと言うなら、そんな未来はいらない!!!」

 

 天望の胸が上下する。静寂。

 金色の衣が一瞬だけ、風で揺れた。

 

「……非建設的、ね」

 

 天望は低く笑う。

 

「あなたの未来って、“誰のため”の未来なんですか」

 

 胸ぐらを離されても、弥勒は何も言えなかった。

 金色の端末の光が落ちる。沈黙の中、天望の目の端が、ほんの少しだけ湿る。ただその場に居た弥勒以外の全員は思っていた。

 

 ――めちゃくちゃ良い事言ってる風だけど、すごい私的利用なんだよな……

 

 閻魔が肩を震わせ、炎獄は顔を覆い、吉祥天がこっそり録画していた。

 

「すみませんでした……」

「戻しなさい」

「えっ、でも、消しちゃっ」

「戻しなさい」

「……はい……」

 

 弥勒の指が小刻みに震えている。未来の仏の手が、過去に怯えていた。

 未来の仏は会議室の一番端で、データの復元作業に従事。

 天望がガンッ! ガンッ! と椅子の音を立てながら席に戻ってくる。

 流れる様に一本咥えた煙草に、炎獄は黙って横から火をつけた。灰皿代わりの紙コップに、灰が静かに落ちる。誰も会議室は禁煙だなんて言えないまま、吐き出した煙がゆるやかに吸い込まれていった。

 スクリーンに映る“リストア中”のポップアップ。

 弥勒の打鍵音と、天望の息を吐く音だけが会議室に響いている。金糸のきらめきも、弥勒の声も、いまはすべて静かだ。

 ただ副流煙だけが、会議室の天井に溶けた。


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