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昼夜は勝手に降り注ぐ

 極楽の天井は、薄い絹のような雲で常に覆われている。

 陽は刺すような熱を持たず、月は深い影を落とさない。


 その日、天望はふいに立ち止まった。背後に感じた、性質の違う明かり。

 影が伸び、光が落ちる。気配ではない。風でもない。浮かぶように、ただそこに在った。

 

「ヤァヤァ、ここに居たのかい。矮小でわからなかったよ。なあ日天(にってん)

「マァマァ、私たちが見つけてやれなかっただけだよ、月天(がってん)

 

 対のようなふたり。

 柔らかく暖かな光を纏った太陽の神、日天子(にってんし)

 それから、冷ややかな光の縁を落とす月の神、月天子(がってんし)が揃って天望の前に立っていた。

 

「あ、あの……」

「わからないか、そうだろうネ。君はただ見上げていただけなのだから」

「ああ月天、あまり意地の悪い言い方をするんじゃないよ」

「だが日天、あまりに盲。ひどく滑稽(こっけい)じゃないか」

 

 月天は薄ら笑いを浮かべ、天望の周りをぐるりと回る。ゆらりとたなびく羽衣が取り囲むように前を通り過ぎた。見下ろすように覗き込んで、天望の髪を一房摘むと、滑らすように離した。

 

「望んだものを手に入れて、尚望む。その癖、落ちぬ月を待つばかり」

「すみません、意味が……」

「わからないかい? 本当に?」

「……はい」

 

 日天と月天は目を見合わせる。そして、両端から日天が天望の右手を、月天が左手を取ると、唇に弧を描いた。

 

「では我々が示さねばならないな。日天」

「そうとも月天。私は昼を、お前は夜を」

「あんなに焦がれてくれたこの魂に」

「どこを見るべきか教えてあげよう」

 

 ただ退屈しのぎか。それとも大義か。彼らは静かに、しかし確実に、世界の明暗を揺らしていく。

 天望は両手の暖かさと冷たさに戸惑うままだった。


 *


 極楽、第三会議室。

 打ち合わせにやってきた炎獄の頭が、目の前の光景にまだ追いついていなかった。

 天望のすぐ背後に、太陽の光が立っている。より正確に言えば、日天が天望の背に影を落とさぬよう、わざわざ角度を調整しながらぴったり張り付いている。その姿が、炎獄の脳の処理を完全にブロックした。

 

「当日のタイムスケジュールなんですが、演者の入り時間から逆算してスタッフは……」

「おい進めんな進めんな」

 

 普通に進行しようとする天望に、炎獄が手を横に振って止める。後ろが気になり過ぎて打ち合わせなんてどうでも良かった。

 

「何だそいつは」

「こちら日天子様で……その、今日はずっと私の側にいると」

「……あぁ?」

「ヤァヤァ君は閻魔の駒か。私が日天だ。よろしく頼むよ、炎獄鬼」

 

 にこやかに、太陽の光をそのまま形にしたような微笑。だがそんなことより、炎獄の視界には“顔が近い”“天望の肩触ってる”という情報だけが高速で流れ込んでくる。

 

「で、なんで天望の後ろにぴったりついてんだ」

「オヤオヤオヤ、気付いていないとは」

 

 日天は穏やかに首を傾げた。

 

「彼女は少し後ろに下がる癖があるだろう。だから私が押してやらないと」

「…………は?」

 

 わからない。いや、わからんでいい。神に地獄の理屈が通じるはずもない。

 天望が困ったように眉を下げる。

 

「すみません炎獄、あの……日天子様が横で様子を見ると言って聞かなくて……」

「見るとも。君の視線の癖はとても興味深い。炎獄鬼、彼女はね――」

 

 日天の言葉は続く。炎獄は聞いていないようでいて、すべて耳の奥に落ちていく。

 天望の癖。目を逸らす、少し引く。集中する時は髪を触る。どれもこれもとっくの昔に炎獄も知っているのに、今それをしたり顔で説明される。けれど今、それを“他の誰か”の口から聞かされる不快は、言葉にできない。

 

「……天望」

 

 抑えた声が喉から擦れた。

 

「部外者だろ。そいつは」

 

 思った以上に低い音が出て、炎獄は自分でも驚いた。

 天望の視線が揺れ、バツが悪そうに手元の資料を握る。

 日天は、その言葉さえ風のように受け流した。

 

「今が昼である限り、私から逃れることなどできぬのに?」

 

 日天は軽やかに答えた。その言葉は優しく聞こえるのに、どこか決定的だった。押し付けではない。まして挑発でもない。ただ当たり前の神の言葉。

 それでも炎獄からすれば、十分に居心地が悪かった。

 

 会議室を出る頃、極楽は少しだけ明るさを落としていた。

 天望に見送られて極楽庁舎を出た時、ちょうど炎獄の正面から月天が揺らめきながらやってきた。橙と薄青が境で混ざり、緩やかな夕暮れを作る。

 

「サァ、夜が来たよ。僕の時間だ、日天」

「アァ、昼は眠ろう。君の番だ、月天」

 

 日天は天望の背から離れ、代わりに月天が薄い羽衣を纏わせるように天望に寄り添った。自然な流れで天望の手を取ると、またぴたりと背後につく。

 

「……おい」

「何かな炎の鬼。これから僕らの夜なのだが」

 

 月天が天望の髪を指先で掴み、なぞるように広げて落とす。いやに艶かしく、いやに耽美。

 

「天望、お前、いつまでこいつといるつもりだ」

「え……どう……なんでしょうね……」

「……は?」

 

 煮え切らない返事に、炎獄の語気が強くなる。

 天望が目元に明らかな怯えを見せたが、炎獄の視線は背後の月天に向いたまま。月天は口の端を吊り上げて、わざわざ天望の体を覆うように、だが触れない距離で手を伸ばした。

 

「無理もないネ、月はそこに在るだけで狂わすのさ。その衝動の言い訳のひとつにでもしたらいい」

「……んだと」

「ンン、ご覧よ天望。最早隠そうともせぬ。あれは君の何だろうネ」

 

 天望は月天の言葉で、炎獄を見た。怒っている。と言ってしまえば簡単だが、その苛立ちの理由を考えて素直に受け取れるほど、強くはなかった。

 

「臆病だ、実に臆病。逃げなくては追えぬか」

 

 月天は天望の手を引き、炎獄に背を向けさせて連れて行く。途中わざとらしく振り返り炎獄に視線を流すと、天望の背に手を当てて去った。

 それを止める理由も、権利も、炎獄は持っていなかった。

 

「あ、あの、月天様」

「サテどうする天望、君、酒はやるのかい? いっそ本当にこのまま君と遊んでも僕は困らないが」

「……それは」

「理由がいるかい? 僕は夜、人を狂わす月。月に狂うは道理」

「私には……」

「月はどこまでもついて行くよ。それとも何か、誰かに義理立てする必要があるのかい」

 

 天望は言葉を飲む。何かに怯える必要も、誰かに咎められる謂れも、今は無い。だって、炎獄とは何もない。友達。

 月の光は柱のように注ぎ、星屑の瞬きが群青天鵞絨の天幕を揺らす。

 

「……月天様」

 

 天望が立ち止まる。その拍子に、引かれていた手がするりと抜けた。

 

「ンン?」

「すみません、友人が辛そうだったので、行ってきてもよろしいですか」

 

 月天は目を丸くした。満月のような瞳が天望を見る。

 少し空いてから、仰け反って笑った。

 

「滑稽、滑稽! そうか君、わかっていて目を逸らすか! はっは! よろしいよろしい。心で理解し、頭で否定する。アア、かくも人とは面倒なものよ!」

 

 月天の笑いは、喜びではなく“観測の成功”に近かった。

 ひとしきり笑い、目の端に涙さえ浮かべた月の神は、緩やかな弧を描いたまま天望を撫でた。

 

「僕を射抜かんとしたあの瞳を、その意思を持って逸らしているならばそれもひとつ。だが君は望み、掴んだ。その力がある。ゆめゆめ忘るるなかれ」

 

 月天はそう告げると、夜の闇に溶けるように消えた。

 

 *


 炎獄は自室で、握った鍵を床に叩き付けた。金属音と共に跳ね返り、鍵束が床に転がる。

 頭をぐしゃぐしゃに掻き、体をソファに沈めた。

 

「クソ、クソ、クソッ!」

 

 何も言えなかった。止められなかった。手を引かれて去る背中を、ただ立ち尽くして見ている事しか出来ない歯痒さは、苛立ちになって炎獄を支配していた。

 

「夜だと? ……ざけんな、クソ、マジで殴る、絶対地獄堕とす……」

 

 夜から連想する事なんて、考えたくもない。だが、どうしても浮かぶ。天望の手を取った月天も、それを振り払わなかった天望にも、理不尽だとわかっているのに腹の底が煮えくり返る。

 それでも、炎獄は走って奪いになど行けなかった。苛立つ権利さえ本当は無いことを、冷静な頭でわかってしまっている。

 唇を噛む。食い込んだ牙でほんの少し血が滲んだ。この衝動をぶつける先も無く、ソファで頭を抱えた。

 

「あーーーー、クソ……何だよ……あーー……」

 

 この部屋の天望の痕跡が、つらい。もし本当に天望に別の男が出来た時、本当なら“良かったな”と言わなくてはいけないはずなのに、炎獄はその自信が微塵もなかった。

 誰よりも“幸せになれよ”と言いたいのに、言えない。

 音にして吐き出すしか出来ない中、炎獄の部屋の扉が二回叩かれた。一瞬無視しようかと思ったが、もう一度叩かれ、炎獄は重い腰を上げた。

 扉を開く。少し視線を下げると、今一番会いたくて、会いたくなかった天望が立っていた。

 

「……お前」

「炎獄」

 

 天望は困ったように笑う。炎獄はその姿を見た瞬間に、嫌な想像が駆け巡った。喉の奥で、何を言えばいいかが詰まって出てこない。

 

「……入ってもいいですか?」

「お、おう」

 

 天望が部屋に上がると、この部屋が馴染む気がした。炎獄の部屋のはずなのに、天望の方が似合う。

 天望は床に転がった鍵を拾い、慣れたように所定の位置へ掛ける。

 

「月天は……」

 

 炎獄は言いかけて、噤んだ。知りたいのに、聞きたくない。

 

「帰られましたよ。多分」

「……そうか」

「炎獄が怒ってたから、ごめんねが先かなって」

「謝るような事したのかよ」

「えー? 全然。でも怒ってたらとりあえず謝っといた方が得じゃないですか」

「……それでお前神様放ってきたのか」

「ま、そうですね」

 

 天望は近くのスーパーの袋を持って掲げる。

 

「昼と夜は勝手に来るけど、炎獄は来てあげないとご飯食べないでしょ」

「……なんだ、それ」

 

 部屋の中は、陽の光でも月の光でもなく、行燈の火の灯りで満ちていた。

 笑って流せるほど、器用には出来ていないのに。心の内で煙を上げ始めたそれを、炎獄は飲み込んだ。

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