第8話 市場の朝と、旅人の面影
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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昼の鐘が3度鳴るころ、グライフェナウの街は夕暮れに向かっていた。
霧のように冷たい空気の中、パンを焼く香ばしい匂いと、どこかで煮詰められる葡萄酒の甘い香りが混ざり合う。
街全体が目覚める瞬間を、田中は石畳の上で感じ取っていた。
冒険者ギルドを出た彼は、カタリナに案内されて市場通りへ向かっていた。
通りの両側には屋台が並び、果物、布地、香辛料、金物――。それらを売る商人たちが声を張り上げるたび、空気そのものが賑やかに震える。
「ここが市場通り。仕事を探すなら、まずはここを見るのが一番」
「すごい活気ですね」
「この街は交易の要よ。北の村から穀物が来て、この街の修道院からは果実酒。フェルデン川の船が着くと、すぐに通りが埋まるの」
言いながら彼女は、慣れた足取りで人混みをすり抜けていく。
彼は、少し遅れてその後ろを歩く。
――異世界。
またその言葉を噛みしめる。
それでも昨日までの不安は薄れ、少し生きる希望が芽生えてきたのを感じていた。
生活の匂いがする。人がいる。働く声がある。
それだけで、少し安心できるものなのだと知った。
「そういえば」
ふと口を開く。
「どうして僕を、仲間に入れてくれたんですか?」
カタリナは振り返り、片眉を上げる。
「理由?」
「はい。見ず知らずの人間を、いきなり信用していいのかなって」
「ふふん、疑り深いのね」
彼女は肩をすくめて笑った。
その笑顔には、からかいと優しさの両方が混ざっていた。
「まずね――。リーナの紹介って言ってたでしょ」
「はい」
「彼女が誰かを頼るのは、本当に珍しいの。あの人、自分より他人の心配ばかりしてる人だから。そのリーナが「助けてやって」って言うなら、理由は聞かなくてもいいのよ」
田中は、静かにうなずく。
彼女の真面目さ、優しさ。
それを知っている人が他にもいる――。そのことが、なぜか嬉しかった。
カタリナは通りを少し外れ、果実を売る屋台に立ち寄った。
「これ、2つ。あとで食べな」
赤く熟れた果実を2つ買い、1つを田中に放ってよこす。
「ほら、1本目の給料」
「早いですね」
「働く前に払っとくの。やる気出るでしょ?」
彼は苦笑しながら果実をかじった。
甘酸っぱさが舌に広がり、喉の奥に柔らかな香りが残る。
「……美味しいですね」
「でしょ? 修道院の果樹園で採れたやつ。寡婦の会が世話してるのよ」
「そうなんですね。彼女達は、この街の要みたいですね」
「そうね。あの人達がいるから、みんなが少し優しくなれる」
歩きながら、カタリナはふと笑みを薄めた。
「それにね、もうひとつ理由があるの」
「理由?」
「あんたを見てると、昔のことを思い出すんだよ……。昔の知り合いに似てるんだ」
田中は少し驚いて足を止めた。
「昔の知り合い?」
「うん。兄貴みたいな人。血はつながってないけど、同じ宿で暮らしてた旅人さ」
カタリナは空を見上げる。
薄雲の向こうで太陽がぼんやりと光り、街の屋根をやさしく照らしていた。
「剣を教えてもらった。笑い方も、生き方も。……でも、ある日突然いなくなっちまった」
「……そうだったんですか」
「顔の作りは全然違うのよ。けど、雰囲気が似てる。人と話してるのに、どこか遠くを見てるとこ。あれがそっくり」
カタリナの声は淡く、懐かしい匂いを帯びていた。
その横顔を見て、田中は一瞬だけ胸の奥に熱いものを感じた。
「だから、放っておけなかったのかもしれないね」
「……ありがとうございます」
「礼なんていらないよ。こっちは勝手にやってるだけさ」
彼女は軽く笑い、再び人混みの中へ歩き出す。
陽光の反射で、腰の剣が鈍く光った。
しばらく歩いた先、広場の中央に噴水があった。
水面が陽を受けてきらきらと光り、風が通るたびに涼しげな音を立てる。
カタリナは石段に腰を下ろし、袋から数枚の硬貨を取り出した。
「分からないと思うから、お金の話もしておくね。これがこの辺りの通貨。金貨、銀貨、銅貨の3種類。金貨1枚が銀貨100枚、銀貨1枚が銅貨10枚。細かい買い物は、半銅貨とか小銅片が主流ね。パン1つが小銅片3つ、葡萄酒1杯で半銅貨ぐらいかな」
「小銅片……細かく分けるんですね」
「貧しい人ほど、銅を叩いて細かくして使うの。ここの銅貨は薄くて柔らかいから」
そう言いながら、カタリナは指先で銅貨を弾いた。
田中は銀貨を手に取り、表面を眺めた。
そこには双頭の鷲の紋章が刻まれている。
「鷲?」
「ああ、双頭の鷲。この国の紋章だよ」
「なるほど。国単位で作られてるんですね」
「そう。王都で打たれた貨幣はどこでも通用する。でもね、銅貨だけは別。地方で、勝手に打つのよ」
彼女は懐から銅貨を取り出した。
表面には、グライフェナウの城壁と、翼を広げた聖獣の姿。
「ほら、こっちはこの街の印。王都の商人には嫌われてるけど、庶民には便利」
「王都の通貨と混ざって混乱しませんか?」
「たまにね。でも、ここの人は慣れてる。銅貨は銅貨。誰も細かいことは気にしないさ」
この街の人々が築いた、地に足のついた経済の形。
彼はしばらく、その手元の硬貨を見つめていた。
「……この街、いいですね」
「何が?」
「人がちゃんと生きてる感じがする」
「ふふ。変な褒め方ね」
カタリナは笑い、立ち上がった。
「さ、もう少し歩こう。夕方までに紹介したい場所があるの」
道を北へ進むと、通りは徐々に人影が減り、代わりに武装した者たちが目立ち始めた。
剣を磨く者、矢を数える者、鎧を売る露店。
冒険者たちの区画だった。
「ここが北門前の市。兵士と冒険者が集まる場所」
「……なるほど。雰囲気が違いますね」
「ええ。緊張感あるでしょ。でもね、ここ数日は静か。“北方の森の魔狼”が現れてから、みんな慎重になってるの」
田中は眉をひそめた。
「魔狼……?」
「知らなかった? 最近、森や畑で人を襲う黒い狼が出るの。領主ルドルフ卿の勅命で討伐が行われたけど、帰ってきたのは半分以下」
「そんな……」
「北方の森は古くから恵みの森と呼ばれてるんだけどね。ここ最近、夜になると魔物がうごめくって話。教会は『神への冒涜』だと言ってるけど、あたしは――」
言葉を切って、カタリナは小さく息をついた。
「教会のやり方が嫌いなのよ。神の名を使って人を動かすなんて、まるで呪いだわ」
黙って耳を傾ける。
剣を背負った彼女の横顔には、正義感と、それ以上に複雑な影があった。
たぶんこの街で、戦いと祈りがどれほど近い場所にあるか、彼女は誰より知っている。
「……カタリナさん」
「ん?」
「どうしてそんなに、この街の人を気にかけるんです?」
「そりゃ、ここがあたしの家だから」
あっけらかんとした口調だったが、芯のある言葉に聞こえた。
「それに――」
彼女はふと立ち止まり、田中のほうを向く。
「この街はね、あんたみたいな顔をしたやつを、放っておかないの」
「僕みたいな?」
「そう。どこか寂しそうで、でも妙に落ち着いてる顔。……昔の兄貴にそっくり」
小さく笑う。
「それ、褒め言葉ですか?」
「さあね」
2人の笑い声が、風に混ざって通りを抜けた。
鐘楼の上では鳩が飛び立ち、陽光が白壁を金に染めていく。
田中はふと思う。
――少しだけ、この世界で生きてみてもいいかもしれない。
そう思うようになっていた。
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