第55話 報せの朝
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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エピローーーーーーーグ!
夏の曇り空は低く、街を覆うように垂れ込めていた。
修道院の門前では、若い修道士たちが掃除している。
人々の話し声が、途切れ途切れにしか聞こえない。
市場の喧騒は戻りつつあるのに、誰も声を張らなかった。
――あの日から、半月が経った。
グライフェナウの街は、静かに再び動き始めていた。
炊き出しの列ができ、子どもたちは焦げ跡の残る壁の前を走る。
人々は目を合わせずに笑い、笑いながら目を伏せた。
「マルガレータが、処刑されたらしい」
市場の噂が風に乗って広がる。
「修道院に火を付けたらしい」
「それじゃ、死罪は仕方が無いな……」
「らしい」という言葉だけが街を包み、信じる者と疑う者を、等しく沈黙させていった。
灰の匂いを含んだ風だけが、街を横切っていった。
実際、調理場で彼女は捕らえられた。
幸いボヤではあったものの、火を付けたのは事実。
彼女も言い逃れはしなかったという。
いつの時代も放火は重罪だ。
有力な商人に娘とて、例外ではなかったのだ。人々はそう言葉にして納得していた。
――けれど、誰も知らない。あの火が、誰かを逃がすための灯だったことを。
それでも、食べさせなければならない人たちがいる。
鍋の横で、ひとりの女性が椀を並べていた。
リーナだ。
まだ並ぶ人は少ないが、もう少ししたら大忙しになるだろう。
彼女は、修道院から声が掛かったものの、何もおとがめはなかった。だから、そのまま寡婦の会にいる。
彼が、またこの街に立ち寄ることがあったとき、温かい椀を手渡す為、今日も働いていた。
通りかかった子どもが、摘んだ花の束を彼女に渡す。
リーナは笑って言った。
「ありがとう。そうやって、誰かを思えるのは大切な事よ」
子どもは小さくうなずき、走り去る。
風が通り抜け、花びらがひとひら舞い上がった。
――彼女は、もう声を張り上げて祈ることはない。
けれど、静かに生きることを続けている。
朝露の残る屋敷の庭で、イザベルは花弁を水面に浮かべていた。
屋敷には人の気配が少なく、彼女の父も都へ出たきり戻らない。
かつての信仰を、誰が継ぐのか。
それを考えることが、今の彼女の日課だった。
彼女の出した命令書は、結局うやむやにされたままだった。
とは言え、それをほじくり返すことは得策ではない。
心にわだかまりは残る。
でも、田中が無事逃げられたのは分かっていた。あの日のボヤと騒ぎが、そう彼女に確信させていた。
水に浮かぶ花が揺れ、光を返す。
その反射を見つめながら、彼女は小さくつぶやく。
「届かなくても……手を伸ばすことに意味があるのね」
指先が水面を撫でる。
波紋が広がり、消える。
その目に映るのは、過去でも、神でもなく――これから生きていく自分の姿だった。
同じ時刻、港町の朝。
霧が白く、帆がぼんやりと浮かぶ。
グレータは甲板の上で、濡れた髪を結い直した。
海の匂いと、鉄の味のする風。
指先に少しだけ、紙の感触が残っている。
ギルドの帳簿を閉じた夜の、あのざらつき。
グレータは、捜査の手が及ぶ前に冒険者ギルドから姿を消した。
マスターは、印章が盗まれたと届け出ている。
そのためギルドとは関係なく、グレータが個人で書類を偽造した、ということになっていた。
グレータのポケットの中に、小さな印章がある。
彼女はそれを握りしめ、ぽつりとつぶやいた。
「沈黙のままでも、意味はある。……ねぇ、マスター」
声は波に消えた。
彼女は祈らない。
ただ、前を見て立つ。
船が動き出し、海鳥が鳴く。
風が頬を打つ。
それだけで、生きていることを確かめられた。
街はまだ朝靄の中に沈んでいた。
石畳の上を行き交う荷馬車の音、遠くから聞こえる金槌の響き――商業都市らしい、せわしない音が戻ってきている。
ヘルミーナはその音の1つ1つを、確かめるように聞いていた。
かつてこの街を出たときを思い出し、いまはその喧噪が懐かしく、胸の奥をあたためてくれる。
婚約者の彼は、鍛冶場の前に立っていた。
煤にまみれた顔、太い腕。以前より少し痩せたようにも見える。
「おかえり」
その一言で、胸の奥がほどけた。
彼女は言葉にならず、ただ笑ってうなずいた。
彼の掌は硬く、焼けた鉄の匂いがした。その匂いは、どこか安心できる現実の匂いだった。
昼過ぎ、鍛冶場の奥で2人は新しい店の話をした。
「武器だけじゃない。修理と小物、旅人向けの道具も扱いたい」
「なら、表にガラス窓をつけましょう。通りから見えるように」
「それがいい」
「多くの人の、憩いの場所にしたい。心が安まる、暖かい場所にしたいの」
ヘルミーナがそう言うと、彼は小さく笑ってうなずいた。
打つ鉄の音が、少し明るく響いた気がした。
もう祈りの言葉も、涙も要らない。ただ、ここで手を動かし、生きていけばいい。
外では風が吹き、旗がはためいた。
市場へ向かう人々の声が混じり合い、街は確かに生きている音を奏でていた。
ヘルミーナは小さく息を吐き、宙を見上げた。
炉の光に照らされながら、ヘルミーナはゆっくりと髪を結い直した。
そのころ、丘の上。
草が濡れ、遠くに街の塔が霞んで見えた。
旅装束の女がひとり、丘を登っていく。
ゲルトルーデ。
彼女は、夜中に礼拝堂で歌ったことを問題視された。
それ以外の騒ぎとの関連も、強く疑われた。
知らぬ存ぜぬを貫き通したが、修道院の心証も悪く、放校という扱いになった。
むしろ、この程度で済んだのは、修道院も事をあまり大きくしたくないのだろうと想うことにした。
かつて白い衣をまとっていた女は、今は粗末な外套を羽織り、手には破れた紙片を持っていた。
そこに書かれているのは、古い祈祷文。
そして、震える筆跡で書き加えられた1文。
「願わくば、冒険者にも――光を」
彼女は立ち止まり、目を閉じた。
唇が、かすかな旋律を紡ぐ。
それは、かつて礼拝堂で歌ったあの唄。
静かに、風に乗って流れていく。
癒やしを求めて歩いた者がいた。
傷を負いながらも、誰かを救おうとした者がいた。
その人に導かれ、光を見た者たちがいた。
人はその名を口にしない。
けれど、胸の奥に残る温もりが、確かに覚えている。
――あの人が、ここにいた。
――誰かの痛みを引き受けて、歩いてくれた。
歌はやがて、谷を越える。
リーナの手の中の、花びらがひとつ揺れた。
イザベルの屋敷では、水面が小さく震えた。
グレータの船の帆が、風を受けて膨らんだ。
ヘルミーナの傍で、打った鉄が赤く弾けた。
そして、丘の上で唄うゲルトルーデの目に、ひとすじの涙が光った。
彼女の声は震えていたが、途切れなかった。
それは悲しみではなく、願いだった。
届かなくてもいい。
けれど、いつか――この歌を思い出してくれたなら。
「ターナカ……」
最後に彼女は、小さく名前をつぶやいた。
慈愛に満ちた表情で。
心からの感謝を込めて。
その微笑みこそが、彼が残した――癒やしの祈りだった。
第一章完結です!
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