第54話 祈りの街を出て
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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本編最終回!
エルンストは、机に両肘をついたまま、宙を見つめていた。
夜が明けきる前の修道院は、まだ少しだけ煙を吐き出している。
塔の影が白んだ空を裂くようにそびえ、その頂には、灰が薄くまとわりついていた。
「してやられたか――。いや、なるほど」
小さく吐き出した言葉は、ため息とも笑いともつかない。
蝋燭の炎が揺れ、壁に彼の横顔を長く映す。
疲労の影は濃いが、目だけは眠っていなかった。
机の上には数冊の書類が散らばっている。
「祈祷観察記録」
「信仰維持実験報告」
「群衆心理変動の経過」
どれも彼が自らの手で記したものだった。
彼はそれらをゆっくりと手に取り、1枚ずつ確認する。
書かれているのは、記録の数々。
信仰を数字に置き換え、信念を統計で並べる。
その冷たさが、彼の矜持だった。
だが、今夜だけは――少し違った。
「……結果としては、失敗だな」
彼は書類を閉じ、立ち上がる。
窓の外では、まだ兵たちが慌ただしく動いていた。
人々の怒号。走る音。だが、死者はでていない。
「誰も死ななかった、か。……皮肉だな」
彼の唇の端に笑みが浮かんだ。
火を放った者も、歌を歌った者も、そして逃げた者も。
誰ひとりとして殺されず、祈りも絶えなかった。
――それは彼が想定していた「信仰の崩壊」とは、まるで逆の結果だった。
「神は沈黙した。だが、人はまだ祈っている」
その言葉をつぶやくと、彼は窓の外へ視線を向けた。
夜明けの光が街を染め、煙を透かして灰色の世界を照らしている。
その光景は、敗北の風景ではなかった。
むしろ、実験者としての彼にとって、見事な検証結果だった。
「やはり、人の信仰は構造ではなく情動だ。……美しい」
独り言のようにそう言い、彼は椅子に戻る。
蝋燭の火がゆらぎ、机上の銀のペンがかすかに光を返した。
新しい紙を取り出し、記す。
「実験は完遂。対象群、脱出。民衆、祈りを維持。
失敗のようで、最良の結果。――記録者、エルンスト」
彼はペンを置き、深く息を吐く。
机の上の煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐いた。
「祈りを喰らう街。……いや、祈りで保たれる街か」
独白のようなその言葉が、静まり返った部屋に沈んでいった。
灰皿に火種を落とすと、エルンストは目を閉じる。
その口元には、わずかな笑み。
勝者でも敗者でもない、人間の顔だった。
夜が明けた。
修道院の方角にはまだ煙が薄く残り、朝風に流されている。
街の通りには、昨夜の混乱を知らない人々が、ぽつりぽつりと歩き始めていた。
パン屋の窯の匂い。水を撒く音。
どこか、日常が戻りつつある。
その片隅を、フードを被った2人が足早に歩いていた。
カタリナと田中だった。
「人通りが増える前に、抜けたいわね」
「門は封鎖されてますね。見張りも増えてます」
「そりゃそうでしょ。修道院が燃えたんだもの」
カタリナはフードの裾を引き、笑う。その笑顔に、疲労の影は見えなかった。
強さというより、淡々とした覚悟。
田中はその背中を見つめながら、歩調を合わせた。
路地の先、市場の方から、1人の女性が歩いてくる。
この時間にしては珍しい。
ふと、彼女がこちらに気づき、足を止めた。
「……ターナカさん?」
その声に、田中が振り向く。
朝日に照らされた顔――ヘルミーナだった。
「ヘルミーナ……!」
驚きのあまり、声が少し大きくなった。
カタリナが素早く手を構える。
「声を落として」
ヘルミーナは荷物を抱え直し、周囲を見回した。
「どうしてこんな時間に……?」
田中は一瞬、言葉に詰まる。
代わりに、カタリナが1歩前に出た。
「ちょっと厄介なことになってる。安全な場所を借りたいんだけど、案内できる?」
ヘルミーナは一瞬迷ったが、すぐにうなずいた。
「わたしの宿でよければ……。裏通りにあります」
「助かるわ」
カタリナがうなずく。
「あなたがいてくれて、あたしたちは、本当に運がいい」
「そんな……。ミーネなんて……」
3人は街の裏通りを抜けていく。
夜明け前の空は、灰色に溶けかけた群青。
通りの端に立つ街灯が、まだその光を保っている。
ヘルミーナの宿は、北の倉庫街の外れにあった。
油灯の灯りに照らされた古びた木扉を開けると、乾いた木の匂いとパンの焼け残りの香りが入り混じる。
奥の方で猫が小さく鳴き、やがて静かになった。
「ここです。宿の主人はまだ寝てますから、足音を立てないように」
ヘルミーナが先に立ち、2人を奥の部屋へ案内した。
狭いが清潔な部屋。木の机と、ベッドが1つ。
カタリナは扉を閉め、背中で支えるようにしてしばらく耳を澄ませた。
外の気配がないことを確かめると、ようやく息を吐く。
「……助かったわね。でも、しばらくは、動かない方がいい」
田中がうなづく。
「ええ。あの辺り、まだ警備が残ってるはずです」
「修道院の方で何があったんですか?」
ヘルミーナが控えめに尋ねる。
田中は一瞬、言葉を選ぶように沈黙した。
代わりにカタリナが口を開く。
「ちょっとした騒ぎよ。こっちには罪はないけど、説明してる暇もないの」
「……なるほど」
「それより、あなたこそ、こんな時間に何を?」
カタリナの疑問はもっともだ。
「仕事の帰り、ですよ」
ヘルミーナはそれ以上何も言わず、ベッドの端に腰を下ろした。
田中がその隣に座ると、彼女は小さく笑った。
「こうして会うのも、久しぶりですね」
「ええ。まさか、こんな形で再会するとは」
田中が苦笑する。
「ふたり、随分親しそうね」
カタリナが、何気なく投げた言葉は、少し乾いた響きを持っていた。
田中が気づいて答える。
「彼女には以前、世話になったんです。……パンを分けてもらったり」
「へぇ、ずいぶん面倒見のいい人ね」
「そんな……。ミーナは、当然のことをしたまでです」
ヘルミーナは優しく微笑むだけだった。
「――さて」
カタリナが机に腰を預け、現実的な声に戻る。
「ここから先、どう動くかを決めないとね。今はまだ、さすがに門が閉まってるけど、昼なら搬出ルートが使える」
「搬出ルート?」
「商人用の通行証。グレータが作ってくれた。これを使えば堂々と出られるの」
懐から取り出した書状には、正式な印章が押されていた。
田中が驚いたように目を見開く。
「用意がいいですね」
「備えあれば、ってやつよ。逃げ道は先に決めておくものよ」
ヘルミーナが小さくうなずく。
通行証。修道院の煙。2人の行動。
彼女の推理が間違っていなければ、かなり重大な事件に巻き込まれていると判断できる。
色々な思案が巡る。
田中との逢瀬も思い出す。彼は、ヘルミーナにとっても失いがたい人物だ。
そして、1つの結論に達する。
「……もし、よければ」
言葉をただす。
「もしよければ、わたしの故郷までご一緒に。ちょうど、帰るつもりだったんです」
「帰る?」
「北の谷を抜けた先にある、ヴェルザイムという町をご存じありませんか? 私はその街出身で、そろそろ帰ろうと思っていた所なんです」
ヘルミーナは少し遠い目で語る。
「はい。長かったんです、この街の生活も。お金も貯まったし、もう十分です」
彼女は、視線を田中に移す。優しい眼差しで。
「ターナカさん。いかがですか?」
彼は少しだけ考え、静かにうなずく。
「ええ。もう、この街に留まる理由はありません」
「なら決まりね」
カタリナが立ち上がる。
「ヘルミーナ、悪いけど昼までに外で少し用意を頼める? 水と、その町までの食糧、それから目立ちにくそうな外套を2つ。用意でき次第、出発するわ」
「分かりました。では、少し離れた朝市で手に入れてきますね」
その声を聞きながら、田中は窓の外を見た。
街の向こうには、灰色の塔が霞んで見えていた。
「……あの煙、もう消えましたね」
「煙は消えるけど、いろいろ火種は残るわね」
カタリナの声は静かだった。
「それが、人間の祈りってもんよ」
その言葉を、ヘルミーナは少し離れた場所で黙って聞いていた。
表情には複雑な色が浮かんでいる。
――この2人は、同じ方向を見ていないようで、どこか似ている。
そんな感覚だけが胸に残った。
昼。
商人の荷車が並ぶ北門前の広場は、喧騒に包まれていた。
出入りする人々の間を、カタリナ、田中、ヘルミーナが歩く。
ヘルミーナは手に持つ木箱を抱え、商人の顔で笑っている。
「これで本当に堂々と出られるのね?」
「堂々と、が1番怪しまれないのよ」
カタリナが胸を張って答える。その姿にヘルミーナが小さく感嘆した。
衛兵が許可証を確認する。
「――搬出許可、確認。通れ」
重い門がゆっくりと開く。
陽の光が差し込み、3人の影が長く伸びた。
田中は足を止め、最後にもう1度だけ街を振り返った。
修道院の塔が遠くに霞み、灰が風に舞っている。
――祈りの街。
神に届かなかった祈りは、今も人の中に残っている。
「……行こう」
カタリナが言う。
ヘルミーナが微笑み、うなずいた。
3人はゆっくりと歩き出した。
背後で門が閉まる音が響き、灰色の街は遠ざかっていく。
陽光の下、風が新しい匂いを運んできた。
カタリナは小さく息をつき、ぽつりとつぶやいた。
「神に届かなくても、祈りは消えない。人が人を覚えている限り――ね」
田中はその言葉に短く笑った。
誰かが、自分を覚えていてくれる。
それだけで、生きる理由には十分だった。
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