第53話 混乱と祈り
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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鐘が鳴り響いた。
最初は1つ、次に2つ。
やがて、それは無秩序な連打となって修道院全体を揺らした。これは普段の鐘の音ではない。警鐘だった。
静寂に慣れきった空気が破られ、世界が動き出したかのようだった。
通路の奥から、誰かの叫び声がした。
「火事だ! 厨房が燃えてるぞ!」
別の声が続く。
「油だ、火の回りが早い!」
「警鐘を鳴らせ!」
金属音と足音が重なり、廊下に喧噪が満ちる。
鉄靴が床を打ち、修道士のローブが翻る。
その合間を、カタリナと田中は身を低くして駆け抜けた。
「燃えてるって……誰がやらかしたのよ」
「分かりません。でも、放火でないはずがない」
「まったく、タイミングが良すぎる……。助かるけどさ」
カタリナの息が荒くなる。
走りながらも、目は鋭く動いていた。
混乱の渦の中、誰も彼女たちを気に留めない。
それが、唯一の救いだった。
焦げた油の匂いが鼻を刺す。
熱気はまだない。
マルガレータが放った火は、人を焼くための炎ではなかった。
だが、その煙は確かに修道院を包み、視界を曇らせていた。
廊下を抜け、角を曲がる。
そこでは、修道士たちが水桶を運び、祈りの言葉を叫びながら走っていた。
「神よ、火を鎮めたまえ!」
「誰が火を……いや、誰でもいい、急げ!」
その祈りは、理性と混乱の狭間にあった。
カタリナは息を殺し、田中を手招きする。
「こっち、通路を抜ければ中庭に出られる!」
声は低く鋭い。
田中はうなずき、影のように後ろへ続いた。
通路の先は薄暗く、窓もほとんどない。
階段を上るたびに、外の空気の気配が強くなる。
煙が遠くから流れ込み、目がしみる。
咳き込みながらも、2人は止まらなかった。
カタリナが前を見据えたまま言う。
その口調に焦りはなく、むしろ戦場での呼吸のように一定だった。
彼女の後ろで、田中は短く笑う。
「やっぱり頼もしいですね」
「口ばっかり動かしてないで、足を動かしなさい!」
振り向きざまに一言。
田中は思わず苦笑した。
その瞬間、鐘の音に混じって――声。
歌だった。
遠くから、確かに聞こえる。
澄んだ女性の声。
言葉は分からない。
けれど、それが祈りの旋律だということだけは、すぐに分かった。
田中が立ち止まり、耳を澄ませた。
「……歌?」
顔を上げた。
聞き覚えがある。
あの修道士の声――ゲルトルーデ。
彼女が、この歌を。
鐘と炎と声。
3つの音が混ざり合い、夜の修道院を包み込む。
人々が右往左往し、祈りと叫びが交錯する。
「……まさか、あの人まで?」
田中がつぶやく。
「考えるのはあと。今は動く!」
カタリナの言葉が鋭く響いた。
北棟への通路に入ると、空気がさらに白く濁っていた。
視界の先で、人影がいくつも動いている。
煙にむせて咳き込む修道士、倒れた者を介抱する者。
誰も、彼らの顔を見ていない。
全員が何かに追われるように動いていた。
「このまま正面に出るのは危険ね。裏手に回るよ」
「了解」
2人は脇の小扉へ滑り込み、狭い通路を進む。
煙の層が薄くなり、代わりに夜風の冷たさが頬を刺した。
そして、再び――歌。
今度は、さっきよりも近い。
高く、澄んで、どこか哀しい。
鐘の音を押しのけるように、修道院の隅々まで届いている。
「……歌が移動してる?」
「礼拝堂から鐘楼へ……いや、逆かもしれません」
反響する歌声の、正確な位置を掴むのは難しい。
田中の声に、カタリナがうなずく。
「わざと動いてるのね。きっと、兵の目を散らすために」
遠くで怒鳴り声が上がる。
「歌ってるのは誰だ!」
「鐘楼を封鎖しろ!」
修道士たちが走り、兵が動く。
だが、警鐘は止まらない。唄も鳴り響く。絶対にあり得ない組み合わせが、修道院全体に満ちていた。
そして、さらに広がっていく。
混乱が極まり、指示が通らない。
命令がかき消され、祈りの声が反響する。
そのすべてを掻き乱すように、歌は続いていた。
――誰かが、祈りの代わりに歌っている。
その想いが、煙の向こうで震えている。
カタリナは走りながら、ふと息を吐いた。
「すごいわね。あの人、歌だけで修道院ひっくり返してる」
「彼女は、ああいう人です」
「へぇ……知り合い?」
「少しだけ」
田中の声は短く、しかし確かな重みを持っていた。
「……あの人の信仰は、祈りよりも強い。だからこそ、誰も止められない」
廊下の先に、裏門へ続く通路が見えた。
月光が石の床に落ち、薄く白い筋を描いている。
外の風がわずかに吹き込み、煙を押し流した。
「出口が見えました」
「よし、あと少し!」
2人は互いを確認することもなく、同時に走り出した。
鐘の音が、背後で激しく鳴り響く。
歌声が、まだ消えない。
まるで、誰かが2人を導いているかのように。
裏門の手前で、ひとりの修道士が倒れていた。
顔を伏せ、咳き込んでいる。
煙を吸い込んだのだろう。
カタリナが駆け寄り、肩に触れる。
「立てる?」
「だ……大丈夫です。すみません……」
「いいの、座ってなさい。もうすぐ落ち着く」
短くそう言って、彼女は水袋を手渡した。
田中がその様子を見ていたが、何も言わなかった。
ただ、ほんの少し表情を緩める。
「助けるんですね」
「放っとけないでしょ。こいつら、敵じゃない」
カタリナは軽く笑い、煙の向こうを見た。
「誰かが歌って、誰かが火を放って。きっと、ターナカのためよ」
田中の顔には、疲労と安堵が混ざっていた。
それを聞いたカタリナが、ふっと笑う。
「ほら、そういう顔が似合うわよ。難しい顔してるより、ずっと」
裏門は半ば開いていた。
押すと、ゆっくりと扉がきしむ音を立てて動いた。
外気が一気に流れ込み、煙の匂いを押し流す。
そこは修道院の外壁の陰。
風が強く、灰が舞っていた。
「出られた……」
田中が小さくつぶやく。
「そうね。なんとかね」
カタリナはうなずきながらも、まだ周囲を警戒していた。
背後で、鐘の音がひときわ強く鳴り、そして――止んだ。
代わりに、静寂が訪れる。
煙は薄くなり、夜風が修道院を撫でていく。
「……歌も、止みましたね」
田中がつぶやく。
その言葉に、カタリナが振り向く。
「大丈夫かしら?」
「そう、ですね」
夜風が2人の間を抜けた。
遠くの鐘楼の影が、煙の中でぼやけている。
あの歌の主が、今どこにいるのか分からない。
それでも――余韻だけは、まだ耳に残っていた。
「さ、立ち止まってる場合じゃないわ。町中に1度身を潜めるわよ」
「そうですね」
「転ぶんじゃないわよ」
カタリナが軽く笑う。
その笑いが夜に溶け、緊張がようやく解けた。
ふと、空を見上げると、雲の切れ間から星が覗いた。
遠くで灰が舞い上がり、月光を受けて銀の粒のように光る。
田中はその光景を見つめ、静かに息を吐いた。
「……きれいですね」
「そうね。火事のあとに言うセリフじゃないけど、同感だわ」
2人はゆっくりと歩き出す。
修道院の鐘楼が遠ざかり、煙の匂いも次第に薄れていく。
坂を下りきったところで、カタリナが立ち止まった。
月の光が修道院の屋根を淡く照らし、そこから細い煙がまだ立ちのぼっていた。
風が吹いた。
灰がひとひら、彼女の肩に落ちる。
それを指で払うようにして、カタリナは微笑んだ。
「みんな、無事だといいけどね」
「……ええ」
田中は修道院の方角を見た。
歌声も、鐘も、人の声も――もう何も聞こえない。
ただ、夜の静寂の中に、祈りの残響だけがある気がした。
ふと、彼は胸の中でつぶやいた。
――皆の願いが、通じたのだろうか。
答えは風の中に溶け、澄んだ夜空へ昇っていった。
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