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癒やしを求めたら、奇跡と呼ばれて幽閉されました。  作者: 柊すい
第八章 風の届くところ

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第53話 混乱と祈り

※カクヨムにも同名のものを公開しています。

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 鐘が鳴り響いた。

 最初は1つ、次に2つ。

 やがて、それは無秩序な連打となって修道院全体を揺らした。これは普段の鐘の音ではない。警鐘だった。

 静寂に慣れきった空気が破られ、世界が動き出したかのようだった。


 通路の奥から、誰かの叫び声がした。


 「火事だ! 厨房が燃えてるぞ!」


 別の声が続く。


 「油だ、火の回りが早い!」

 「警鐘を鳴らせ!」


 金属音と足音が重なり、廊下に喧噪が満ちる。

 鉄靴が床を打ち、修道士のローブが翻る。

 その合間を、カタリナと田中は身を低くして駆け抜けた。


 「燃えてるって……誰がやらかしたのよ」

 「分かりません。でも、放火でないはずがない」

 「まったく、タイミングが良すぎる……。助かるけどさ」


 カタリナの息が荒くなる。

 走りながらも、目は鋭く動いていた。

 混乱の渦の中、誰も彼女たちを気に留めない。

 それが、唯一の救いだった。


 焦げた油の匂いが鼻を刺す。

 熱気はまだない。

 マルガレータが放った火は、人を焼くための炎ではなかった。

 だが、その煙は確かに修道院を包み、視界を曇らせていた。


 廊下を抜け、角を曲がる。

 そこでは、修道士たちが水桶を運び、祈りの言葉を叫びながら走っていた。


 「神よ、火を鎮めたまえ!」

 「誰が火を……いや、誰でもいい、急げ!」


 その祈りは、理性と混乱の狭間にあった。

 カタリナは息を殺し、田中を手招きする。


 「こっち、通路を抜ければ中庭に出られる!」


 声は低く鋭い。

 田中はうなずき、影のように後ろへ続いた。


 通路の先は薄暗く、窓もほとんどない。

 階段を上るたびに、外の空気の気配が強くなる。

 煙が遠くから流れ込み、目がしみる。

 咳き込みながらも、2人は止まらなかった。


 カタリナが前を見据えたまま言う。

 その口調に焦りはなく、むしろ戦場での呼吸のように一定だった。

 彼女の後ろで、田中は短く笑う。


 「やっぱり頼もしいですね」

 「口ばっかり動かしてないで、足を動かしなさい!」


 振り向きざまに一言。

 田中は思わず苦笑した。


 その瞬間、鐘の音に混じって――声。


 歌だった。

 遠くから、確かに聞こえる。

 澄んだ女性の声。

 言葉は分からない。

 けれど、それが祈りの旋律だということだけは、すぐに分かった。


 田中が立ち止まり、耳を澄ませた。


 「……歌?」


 顔を上げた。

 聞き覚えがある。

 あの修道士の声――ゲルトルーデ。

 彼女が、この歌を。


 鐘と炎と声。

 3つの音が混ざり合い、夜の修道院を包み込む。

 人々が右往左往し、祈りと叫びが交錯する。


 「……まさか、あの人まで?」


 田中がつぶやく。


 「考えるのはあと。今は動く!」


 カタリナの言葉が鋭く響いた。


 北棟への通路に入ると、空気がさらに白く濁っていた。

 視界の先で、人影がいくつも動いている。

 煙にむせて咳き込む修道士、倒れた者を介抱する者。

 誰も、彼らの顔を見ていない。

 全員が何かに追われるように動いていた。


 「このまま正面に出るのは危険ね。裏手に回るよ」

 「了解」


 2人は脇の小扉へ滑り込み、狭い通路を進む。

 煙の層が薄くなり、代わりに夜風の冷たさが頬を刺した。


 そして、再び――歌。

 今度は、さっきよりも近い。

 高く、澄んで、どこか哀しい。

 鐘の音を押しのけるように、修道院の隅々まで届いている。


 「……歌が移動してる?」

 「礼拝堂から鐘楼へ……いや、逆かもしれません」


 反響する歌声の、正確な位置を掴むのは難しい。

 田中の声に、カタリナがうなずく。


 「わざと動いてるのね。きっと、兵の目を散らすために」


 遠くで怒鳴り声が上がる。


 「歌ってるのは誰だ!」

 「鐘楼を封鎖しろ!」


 修道士たちが走り、兵が動く。

 だが、警鐘は止まらない。唄も鳴り響く。絶対にあり得ない組み合わせが、修道院全体に満ちていた。

 そして、さらに広がっていく。


 混乱が極まり、指示が通らない。

 命令がかき消され、祈りの声が反響する。

 そのすべてを掻き乱すように、歌は続いていた。


 ――誰かが、祈りの代わりに歌っている。

 その想いが、煙の向こうで震えている。


 カタリナは走りながら、ふと息を吐いた。


 「すごいわね。あの人、歌だけで修道院ひっくり返してる」

 「彼女は、ああいう人です」

 「へぇ……知り合い?」

 「少しだけ」


 田中の声は短く、しかし確かな重みを持っていた。


 「……あの人の信仰は、祈りよりも強い。だからこそ、誰も止められない」


 廊下の先に、裏門へ続く通路が見えた。

 月光が石の床に落ち、薄く白い筋を描いている。

 外の風がわずかに吹き込み、煙を押し流した。


 「出口が見えました」

 「よし、あと少し!」


 2人は互いを確認することもなく、同時に走り出した。

 鐘の音が、背後で激しく鳴り響く。

 歌声が、まだ消えない。


 まるで、誰かが2人を導いているかのように。




 裏門の手前で、ひとりの修道士が倒れていた。

 顔を伏せ、咳き込んでいる。

 煙を吸い込んだのだろう。

 カタリナが駆け寄り、肩に触れる。


 「立てる?」

 「だ……大丈夫です。すみません……」

 「いいの、座ってなさい。もうすぐ落ち着く」


 短くそう言って、彼女は水袋を手渡した。

 田中がその様子を見ていたが、何も言わなかった。

 ただ、ほんの少し表情を緩める。


 「助けるんですね」

 「放っとけないでしょ。こいつら、敵じゃない」


 カタリナは軽く笑い、煙の向こうを見た。


 「誰かが歌って、誰かが火を放って。きっと、ターナカのためよ」


 田中の顔には、疲労と安堵が混ざっていた。

 それを聞いたカタリナが、ふっと笑う。


 「ほら、そういう顔が似合うわよ。難しい顔してるより、ずっと」


 裏門は半ば開いていた。

 押すと、ゆっくりと扉がきしむ音を立てて動いた。

 外気が一気に流れ込み、煙の匂いを押し流す。


 そこは修道院の外壁の陰。

 風が強く、灰が舞っていた。


 「出られた……」


 田中が小さくつぶやく。


 「そうね。なんとかね」


 カタリナはうなずきながらも、まだ周囲を警戒していた。


 背後で、鐘の音がひときわ強く鳴り、そして――止んだ。

 代わりに、静寂が訪れる。

 煙は薄くなり、夜風が修道院を撫でていく。


 「……歌も、止みましたね」


 田中がつぶやく。

 その言葉に、カタリナが振り向く。


 「大丈夫かしら?」

 「そう、ですね」


 夜風が2人の間を抜けた。

 遠くの鐘楼の影が、煙の中でぼやけている。

 あの歌の主が、今どこにいるのか分からない。

 それでも――余韻だけは、まだ耳に残っていた。


 「さ、立ち止まってる場合じゃないわ。町中に1度身を潜めるわよ」

 「そうですね」

 「転ぶんじゃないわよ」


 カタリナが軽く笑う。

 その笑いが夜に溶け、緊張がようやく解けた。


 ふと、空を見上げると、雲の切れ間から星が覗いた。

 遠くで灰が舞い上がり、月光を受けて銀の粒のように光る。

 田中はその光景を見つめ、静かに息を吐いた。


 「……きれいですね」

 「そうね。火事のあとに言うセリフじゃないけど、同感だわ」


 2人はゆっくりと歩き出す。

 修道院の鐘楼が遠ざかり、煙の匂いも次第に薄れていく。


 坂を下りきったところで、カタリナが立ち止まった。

 月の光が修道院の屋根を淡く照らし、そこから細い煙がまだ立ちのぼっていた。


 風が吹いた。

 灰がひとひら、彼女の肩に落ちる。

 それを指で払うようにして、カタリナは微笑んだ。


 「みんな、無事だといいけどね」

 「……ええ」


 田中は修道院の方角を見た。

 歌声も、鐘も、人の声も――もう何も聞こえない。

 ただ、夜の静寂の中に、祈りの残響だけがある気がした。


 ふと、彼は胸の中でつぶやいた。


 ――皆の願いが、通じたのだろうか。


 答えは風の中に溶け、澄んだ夜空へ昇っていった。


毎日19:10頃更新しています。

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