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癒やしを求めたら、奇跡と呼ばれて幽閉されました。  作者: 柊すい
第八章 風の届くところ

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第52話 準備と再会

※カクヨムにも同名のものを公開しています。

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 夜の修道院は、まるで世界が息を止めているかのように静まり返っていた。

 厚い石の壁に囲まれた回廊には、わずかな風の音さえ届かない。

 月明かりが高窓から差し込み、床に細く光の帯を落としている。

 その光を避けるように、カタリナは壁際を滑るように進んだ。


 胸の奥で、鼓動が早鐘のように鳴る。

 けれど彼女の動きは、驚くほど静かだった。

 靴底を床に擦らず、影の中を渡る。

 訓練でも経験でもない。ただ、これまでに幾度も命を懸けた旅路の中で身についた「生き残る術」だった。


 角を曲がると、灯火を手にした修道士兵が1人、巡回しているのが見えた。

 まるで小さな明かりが夜の静寂を踏みにじっているようだった。

 カタリナは壁の柱陰に身を寄せ、息を止める。

 足音が近づく。

 彼女の手は、腰の短剣の柄を軽く握った。


 ……今。


 兵が目の前を通り過ぎた瞬間、彼女は背後に回り、腕で首を締め上げた。

 男が短くうめく。

 力を入れすぎないよう、慎重に気を配る。

 やがて抵抗が途切れ、兵士はぐったりと力を失った。


 カタリナはゆっくりと男を床に横たえ、息を整えた。

 手袋の指先に、冷たい汗が滲んでいる。

 彼女はその顔を見下ろし、小さくつぶやく。


 「悪いね。でも、あんたを傷つけに来たわけじゃない」


 言葉はほとんど無意識だった。

 罪なき者の命を奪えば、それは祈りを踏みにじる行為になる。


 倒れた兵の脇を抜けると、通路の奥に小さな扉が見えた。

 ――地下へ続く階段。

 そこが、田中が囚われている牢への道だった。


 足を踏み入れた瞬間、冷気が頬を撫でた。

 下へ降りるたびに空気が湿り、匂いが重くなる。

 蝋燭の明かりが遠くでちらつき、石壁に淡い影を揺らしている。

 その揺らぎの中に、鉄格子の並ぶ牢が見えた。


 カタリナは足を止め、しばし呼吸を整えた。

 その向こう、薄暗い牢の奥で、ひとりの男が静かに座っている。

 鉄格子越しの月光が頬を照らした。

 彼女はその姿を見て、心の底に熱が広がるのを感じた。


 「ターナカ……」


 その声は、ささやきに近かった。

 けれど田中は顔を上げ、確かにその声を聞き取ったようだった。

 静かに立ち上がり、鉄格子に手をかける。


 「……来てくれたんですね」

 「大丈夫かい、ひどい顔してるよ」

 「ええ、本当に疲れました。もうだめかと思っていた所です」


 冗談めかして言いながらも、カタリナの胸の奥には緊張が残っていた。

 田中が少しだけ笑う。

 その表情を見て、彼女はようやく息を吐いた。


 「鍵は、多分これだと思います」


 田中がポケットから取り出したのは、3本の小さな鉄の鍵だった。

 蝋燭の光に照らされて鈍く光る。


 「薬酒の瓶の底に沈んでたんです。差し入れの中に、こっそりと」

 「なるほどね。……リーナ、やるじゃない」


 鍵を受け取り、錠前に差し込む。

 1つ目――回らない。

 2つ目――噛み合わない。

 3つ目。


 わずかな手応えとともに、「カチリ」と音が響いた。


 その音が、やけに大きく聞こえた気がした。

 牢の中の空気がわずかに動く。

 鉄扉が開き、冷たい空気が流れ込んだ。


 「……出よう」


 カタリナが、田中の手を取る。そして、1歩踏み出す。

 その足音がやけに軽く響いた。




 通路の奥には、誰もいない。

 ただ、遠くで風が通る音が聞こえる。


 「行きましょう。長居は無用ね」


 カタリナの言葉には、焦りよりも静かな決意がこもっていた。


 走り出そうとした田中の足がもつれてしまう。軽口は叩いたものの、彼の体は、想像以上に衰弱しているようだった。

 苦笑いする田中の手を取ると、カタリナが引き起こす。


 「本当に、迎えが遅くなって済まなかった」


 田中は、首を横に振る。

 服についた埃を払うと、石壁に手を添え、1歩進む。

 道は狭く、湿り気を帯びていた。

 空気の中に、冷たさと鉄の匂いが混じっている。


 残った体力で必死に進む。

 地上へ向かう階段の入り口が、やっと見える。

 蝋燭の火が小さく揺れ、2人の影を壁に映す。

 その影は、まだ夜の底に縛られているように見えた。


 「……助かりました」


 少し落ち着いた所で、田中が小さく言った。

 声の震えはなく、思った以上に落ち着いている。


 「助けたなんて大げさよ。迎えに来ただけ」


 カタリナは笑いながらも、声を低く抑えた。

 この場所では、笑い声ひとつが刃より危険になりかねない。


 「この街の人たち、あんたのことで毎日そわそわしてたのよ。ターナカを返せって祈ってる連中までいたわ」


 田中は目を伏せた。


 「……祈り、ですか」

 「ええ。信じるとか崇めるとか、そういうのとは違う。帰ってこいって、素朴に願ってるだけ。それって、あんたがこの街で、ちゃんと生きてた証拠よ」


 彼の唇がかすかに動く。

 何か言いかけて、言葉が喉の奥で止まった。

 代わりに、短く息を吐いて笑う。


 「……みんな、優しすぎますね」

 「優しいだけじゃ生き残れないわ。でも、誰かを想う気持ちは、案外強いものよ」


 カタリナの声は、まるで夜の底に染み込むようだった。

 田中はしばし無言で彼女を見つめていたが、やがてゆっくりとうなずいた。


 「ありがとう、カタリナ」

 「礼は外に出てからにしなさい。どうせまた面倒ごとが山ほどあるんだから」


 2人は身を低くして進み、石壁の角で立ち止まった。

 牢から離れるごとに、空気が少しずつ軽くなる。

 遠くで風のような音がした。

 それは外の気配――自由の匂いだった。


 「さて……」


 カタリナは腰の小剣を確かめながら、視線を前に戻す。


 「私が先に動く。あなたは後ろをついてきて」

 「了解です」


 階段の手前で、ふと田中が口を開いた。


 「……初めて一緒に冒険に出たときのことを、思い出しました」

 「は? こんな時に?」

 「ええ。あなたがビビるな、背中だけ見てろって言ったんです」

 「……あんた、そんなことまだ覚えてたの?」

 「もちろん。あのとき、怖いより先に笑いました」


 カタリナは短く吹き出した。


 「やれやれ、恥ずかしいセリフね。でもまぁ、今回も同じよ。背中だけ見てなさい」

 「任せます」


 2人は顔を見合わせて、ほんの少し笑った。

 そのわずかな笑みが、重苦しい空気を一瞬だけ和らげた。

 互いにそのことを口には出さなかった。

 けれど、2人の呼吸がわずかに合っていくのを感じていた。


 階段を上り始めた。

 踏みしめるたびに石段の硬さが伝わってくる。

 地上へ続くその道は、ひどく長く感じられた。


 ――あと少しで出口。


 そう思った瞬間だった。


 微かに、空気の揺れる音。

 遠くから鐘が鳴り出した。普段と違う、甲高い耳を刺すような音。

 ひとつ、ふたつ。

 間を置かず、次第に数を増やし、夜気を震わせる。


 「……警鐘?」


 カタリナが足を止めた。


 「まさか、もう見つかった?」


 カタリナの眉がわずかに動いた。


 「急ぎましょう」

 「ええ」


 2人は歩を速めた。

 だが、上に近づくほど、空気の匂いが変わっていく。

 冷たさの奥に、焦げたような匂いが混ざっていた。


 カタリナが鼻をひくつかせる。


 「……焦げ臭い。薪か……? 油の匂いもする」

 「嫌な予感がします」

 「まったく、厄介な夜ね」


 階段の最上段にたどり着いた瞬間、風が流れ込んできた。

 地下の淀んだ空気を押しのけるように、夜の冷気が2人の頬を撫でる。


 外の世界はまだ静かだった。

 だが、遠くで鳴り響く鐘の音が、確かに修道院全体を震わせていた。


 2人は闇の中へと足を踏み出した。

 その先に、まだ知らぬ騒乱が待っているとも知らずに。




 蝋燭の火が細く揺れた。

 地上のどこかで、風に混じって微かな音がする。

 鐘は鳴り続け、修道院の静寂を崩していく。


 カタリナは小さく息を吐いた。


 「……さあ、行こうか」


 その声には、恐れよりも希望が混ざっていた。


 田中がうなずく。

 2人の足音が、再び静かな通路に溶けていった。


毎日19:10頃更新しています。

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