第52話 準備と再会
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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夜の修道院は、まるで世界が息を止めているかのように静まり返っていた。
厚い石の壁に囲まれた回廊には、わずかな風の音さえ届かない。
月明かりが高窓から差し込み、床に細く光の帯を落としている。
その光を避けるように、カタリナは壁際を滑るように進んだ。
胸の奥で、鼓動が早鐘のように鳴る。
けれど彼女の動きは、驚くほど静かだった。
靴底を床に擦らず、影の中を渡る。
訓練でも経験でもない。ただ、これまでに幾度も命を懸けた旅路の中で身についた「生き残る術」だった。
角を曲がると、灯火を手にした修道士兵が1人、巡回しているのが見えた。
まるで小さな明かりが夜の静寂を踏みにじっているようだった。
カタリナは壁の柱陰に身を寄せ、息を止める。
足音が近づく。
彼女の手は、腰の短剣の柄を軽く握った。
……今。
兵が目の前を通り過ぎた瞬間、彼女は背後に回り、腕で首を締め上げた。
男が短くうめく。
力を入れすぎないよう、慎重に気を配る。
やがて抵抗が途切れ、兵士はぐったりと力を失った。
カタリナはゆっくりと男を床に横たえ、息を整えた。
手袋の指先に、冷たい汗が滲んでいる。
彼女はその顔を見下ろし、小さくつぶやく。
「悪いね。でも、あんたを傷つけに来たわけじゃない」
言葉はほとんど無意識だった。
罪なき者の命を奪えば、それは祈りを踏みにじる行為になる。
倒れた兵の脇を抜けると、通路の奥に小さな扉が見えた。
――地下へ続く階段。
そこが、田中が囚われている牢への道だった。
足を踏み入れた瞬間、冷気が頬を撫でた。
下へ降りるたびに空気が湿り、匂いが重くなる。
蝋燭の明かりが遠くでちらつき、石壁に淡い影を揺らしている。
その揺らぎの中に、鉄格子の並ぶ牢が見えた。
カタリナは足を止め、しばし呼吸を整えた。
その向こう、薄暗い牢の奥で、ひとりの男が静かに座っている。
鉄格子越しの月光が頬を照らした。
彼女はその姿を見て、心の底に熱が広がるのを感じた。
「ターナカ……」
その声は、ささやきに近かった。
けれど田中は顔を上げ、確かにその声を聞き取ったようだった。
静かに立ち上がり、鉄格子に手をかける。
「……来てくれたんですね」
「大丈夫かい、ひどい顔してるよ」
「ええ、本当に疲れました。もうだめかと思っていた所です」
冗談めかして言いながらも、カタリナの胸の奥には緊張が残っていた。
田中が少しだけ笑う。
その表情を見て、彼女はようやく息を吐いた。
「鍵は、多分これだと思います」
田中がポケットから取り出したのは、3本の小さな鉄の鍵だった。
蝋燭の光に照らされて鈍く光る。
「薬酒の瓶の底に沈んでたんです。差し入れの中に、こっそりと」
「なるほどね。……リーナ、やるじゃない」
鍵を受け取り、錠前に差し込む。
1つ目――回らない。
2つ目――噛み合わない。
3つ目。
わずかな手応えとともに、「カチリ」と音が響いた。
その音が、やけに大きく聞こえた気がした。
牢の中の空気がわずかに動く。
鉄扉が開き、冷たい空気が流れ込んだ。
「……出よう」
カタリナが、田中の手を取る。そして、1歩踏み出す。
その足音がやけに軽く響いた。
通路の奥には、誰もいない。
ただ、遠くで風が通る音が聞こえる。
「行きましょう。長居は無用ね」
カタリナの言葉には、焦りよりも静かな決意がこもっていた。
走り出そうとした田中の足がもつれてしまう。軽口は叩いたものの、彼の体は、想像以上に衰弱しているようだった。
苦笑いする田中の手を取ると、カタリナが引き起こす。
「本当に、迎えが遅くなって済まなかった」
田中は、首を横に振る。
服についた埃を払うと、石壁に手を添え、1歩進む。
道は狭く、湿り気を帯びていた。
空気の中に、冷たさと鉄の匂いが混じっている。
残った体力で必死に進む。
地上へ向かう階段の入り口が、やっと見える。
蝋燭の火が小さく揺れ、2人の影を壁に映す。
その影は、まだ夜の底に縛られているように見えた。
「……助かりました」
少し落ち着いた所で、田中が小さく言った。
声の震えはなく、思った以上に落ち着いている。
「助けたなんて大げさよ。迎えに来ただけ」
カタリナは笑いながらも、声を低く抑えた。
この場所では、笑い声ひとつが刃より危険になりかねない。
「この街の人たち、あんたのことで毎日そわそわしてたのよ。ターナカを返せって祈ってる連中までいたわ」
田中は目を伏せた。
「……祈り、ですか」
「ええ。信じるとか崇めるとか、そういうのとは違う。帰ってこいって、素朴に願ってるだけ。それって、あんたがこの街で、ちゃんと生きてた証拠よ」
彼の唇がかすかに動く。
何か言いかけて、言葉が喉の奥で止まった。
代わりに、短く息を吐いて笑う。
「……みんな、優しすぎますね」
「優しいだけじゃ生き残れないわ。でも、誰かを想う気持ちは、案外強いものよ」
カタリナの声は、まるで夜の底に染み込むようだった。
田中はしばし無言で彼女を見つめていたが、やがてゆっくりとうなずいた。
「ありがとう、カタリナ」
「礼は外に出てからにしなさい。どうせまた面倒ごとが山ほどあるんだから」
2人は身を低くして進み、石壁の角で立ち止まった。
牢から離れるごとに、空気が少しずつ軽くなる。
遠くで風のような音がした。
それは外の気配――自由の匂いだった。
「さて……」
カタリナは腰の小剣を確かめながら、視線を前に戻す。
「私が先に動く。あなたは後ろをついてきて」
「了解です」
階段の手前で、ふと田中が口を開いた。
「……初めて一緒に冒険に出たときのことを、思い出しました」
「は? こんな時に?」
「ええ。あなたがビビるな、背中だけ見てろって言ったんです」
「……あんた、そんなことまだ覚えてたの?」
「もちろん。あのとき、怖いより先に笑いました」
カタリナは短く吹き出した。
「やれやれ、恥ずかしいセリフね。でもまぁ、今回も同じよ。背中だけ見てなさい」
「任せます」
2人は顔を見合わせて、ほんの少し笑った。
そのわずかな笑みが、重苦しい空気を一瞬だけ和らげた。
互いにそのことを口には出さなかった。
けれど、2人の呼吸がわずかに合っていくのを感じていた。
階段を上り始めた。
踏みしめるたびに石段の硬さが伝わってくる。
地上へ続くその道は、ひどく長く感じられた。
――あと少しで出口。
そう思った瞬間だった。
微かに、空気の揺れる音。
遠くから鐘が鳴り出した。普段と違う、甲高い耳を刺すような音。
ひとつ、ふたつ。
間を置かず、次第に数を増やし、夜気を震わせる。
「……警鐘?」
カタリナが足を止めた。
「まさか、もう見つかった?」
カタリナの眉がわずかに動いた。
「急ぎましょう」
「ええ」
2人は歩を速めた。
だが、上に近づくほど、空気の匂いが変わっていく。
冷たさの奥に、焦げたような匂いが混ざっていた。
カタリナが鼻をひくつかせる。
「……焦げ臭い。薪か……? 油の匂いもする」
「嫌な予感がします」
「まったく、厄介な夜ね」
階段の最上段にたどり着いた瞬間、風が流れ込んできた。
地下の淀んだ空気を押しのけるように、夜の冷気が2人の頬を撫でる。
外の世界はまだ静かだった。
だが、遠くで鳴り響く鐘の音が、確かに修道院全体を震わせていた。
2人は闇の中へと足を踏み出した。
その先に、まだ知らぬ騒乱が待っているとも知らずに。
蝋燭の火が細く揺れた。
地上のどこかで、風に混じって微かな音がする。
鐘は鳴り続け、修道院の静寂を崩していく。
カタリナは小さく息を吐いた。
「……さあ、行こうか」
その声には、恐れよりも希望が混ざっていた。
田中がうなずく。
2人の足音が、再び静かな通路に溶けていった。
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