表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
癒やしを求めたら、奇跡と呼ばれて幽閉されました。  作者: 柊すい
第八章 風の届くところ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

52/57

第51話 贖火

※カクヨムにも同名のものを公開しています。

------------------------------------------------

 夜の修道院は、息を呑むような静けさの中でざわめいている。

 誰かが走り、扉の閉まる音が重なり、怒号が石壁を伝って跳ね返る。

 マルガレータはその音の下、身を低くして通路の陰に潜んでいた。


 警備の修道士と鉢合わせしたときは、心臓が止まるかと思った。

 慌てて逃げた。

 ようやく人気の無い場所にたどり着いたのだった。


 胸の鼓動が痛い。

 喉が乾いている。

 唇を噛み、震えを押さえる。

 動かなくてはならないことは分かっているのに、足が床に貼りついたように動かない。


 ――どうして、わたしがこんなことを。


 目を閉じると、昼の光景がよみがえった。

 院長の部屋。

 懇願したあの時間。


 「お願いです、彼を返してください」


 彼女は確かにそう言った。

 だが、返ってきたのは、冷たい沈黙と、短い言葉だけ。


 ――冒険者に(ゆる)しはない。


 その瞬間、胸の奥で静かに崩れた。

 神の前で人を裁くことが、どうして救いなのか。

 彼は、ただ人を助けたかっただけなのに。


 「……わたしが、助けなくては」


 口の中でつぶやいた言葉が、息のように漏れた。

 それは祈りではなく、命令だった。

 誰に言われたわけでもない。

 ただ、自分にしかできないことをする――それだけだった。


 修道士たちの足音が遠ざかる。

 北棟のほうで騒ぎが広がっている。

 マルガレータはそっと壁から離れ、足音を殺して進んだ。


 廊下の隙間から風が吹く。

 湿った空気が、鼻の奥に入り込む。

 その匂いに、ふと記憶が繋がった。

 油と灰の匂い。


 ――調理場。


 授業で何度か手伝った。

 炊き出しの場所から近く、構造も覚えている。

 夜には、ほとんど人の出入りはないだろう。

 そして、火を扱う場所。


 「ここなら、分かる」




 調理場の扉は、軽く押すと軋んだ音を立てて開いた。

 中は暗く、窓の隙間から月光が細く差し込んでいる。

 長い調理台。壁際の棚。

 灰の残るかまどから、まだわずかに温もりが漂っていた。


 マルガレータは中に入り、背後で扉を閉めた。

 薄暗がりの中で、呼吸が大きく感じられる。

 手を伸ばして台の上を探ると、冷たい鉄の鍋が指先に触れた。

 その感触に、心が少し落ち着く。


 「燃やせるもの……」


 声が震えた。

 棚を開ける。木の柄杓。薪。

 火を着けるにしても、簡単には燃えそうにもない。

 焦りがこみ上げる。


 「もっと、簡単に燃えそうなもの……」


 かすれた声が漏れる。


 机の脚を蹴り、音が響く。

 その音に、自分で驚き、唇を噛む。

 こんなことをしている自分が、まるで他人のように感じられた。


 ふと、つま先に何かが当たった。

 小さな壺。

 拾い上げると、油の匂いがした。

 調理用の植物油――おそらく昼の炊き出しで使った残りだ。

 口の栓が緩み、指先が滑る。

 壺の中の液体がゆらりと揺れた。


 「これで……」


 声が震える。

 だが、その震えの中に、奇妙な静けさがあった。

 命を懸ける覚悟が、心の奥で固まる音がした。


 ――燃やすなんて、本当に正しいの……?


 自分の中で問いかける。

 だが、答えは返ってこない。

 代わりに、あの男の姿が浮かぶ。


 冒険者。

 不器用で、優しくて、自分を誰かの代わりではなく、自分として見てくれた人。

 あの人が笑うとき、周りの空気まで柔らかくなった。

 そんな彼の未来を奪うなんて、どうして赦せるだろう。


 「院長さまは、きっとわたしを罰するでしょうね」


 苦笑がこぼれる。


 「でも、構いません……。あの人が、生きていられるなら」


 頬を伝う涙が、灰の上に落ちた。

 その水滴が、ほんの一瞬、灰を黒く濡らした。


 マルガレータは立ち上がる。


 ――燃やすことが、救いになるのなら。


 唇が震えた。

 火打石を強く握る。

 金属の冷たさが、皮膚を刺した。

 その冷たさを、最後の理性のように感じながら、彼女は息を吸った。


 火花は、灰の上で小さく跳ねた。

 煙より先に、金属の匂いが鼻を打つ。

 マルガレータは目を伏せ、掌の震えを殺した。


 「だめ、火が点かない!」


 彼女は周囲を見渡し、急いで脆いものを集めた。

 古びた布巾の切れはし。卓の下にこぼれていた削り屑。焼け残りの紙片。

 どれも小さく、どれも誰かの日々の痕跡だ。

 だが今は、火を育てるための胚胎(はいたい)だ。

 手のひらで布を揉み、指先で木屑をまとめる。


 火打石を打つ度に、空気が弾ける。小さな光が揺れ、また消える。

 息を詰めて3度、4度。5度目の火花が、ようやく薄い布の端に留まった。布が淡く赤く光る。


 その火を、彼女は慎重に焚きつけへと移す。

 布が焦げ、薄い蒸気が顔を撫でる。布片が燃え上がると、枝を1本置く。

 枝が赤い口を開け、パチリと音を立てる。音が、彼女の胸を小さく叩いた。


 彼女は立ち上がり、油壷を手に取った。昼の炊き出しで余った食用の油。

 そう考えると、指先が微かに震えた。

 油を直接燃やせば、制御は効かない。彼女はそれを知っていた。


 床に沿って、油を撒いた。

 その脇で壺を割り、油が漏れ出ていることを知らしめる。

 火元から離れた位置、しかし人の視線を引く場所。

 炎が勢いを増せば、煙は流れる。

 人々は煙を避けるために動く。混乱はそこで生まれる。彼女の計算は冷たく、しかしどこか慈しみに満ちていた。


 緊張の触媒として、置くだけでいい。

 誰かが来てそれを見れば、彼らは恐れて手を引くだろう。万が一引火しても、床の油は煙になるだけで、大きな火にはならないはずだ。


 火は広がり始めた。細い薪が燃え、木が軋む音を発する。小さな炎が面をなして走り、やがて台の隅を撫でる。そこから立ち上がる檜や薪の匂いに混じって、焦げた油のわずかな断片の匂いが鼻をかすめる。


 そのとき、彼女は泣いた。

 涙は熱の層を超え、頬を伝って落ちては蒸気となる。光が涙を受け止め、ひとしずくが炎の色を映して輝いた。彼女の唇が震え、押し殺した声が漏れる。


 「燃やすことが、救いになるのなら……」


 声はその場に留まり、やがて炎の雑音に混ざって消えた。

 そして、火はもう、彼女の手だけの存在ではなかった。

 煙が天井へ昇る。外から誰かの叫びが聞こえ、床を走る足音が近づく。

 混乱は、予定通りに生まれつつあった。




 外では、修道士たちの怒声が響いた。


 「火事だ!」

 「こっちだ!」


 マルガレータはその声を聞きながら、ゆっくりと背筋を伸ばした。

 その目には、恐れも、迷いも、もうなかった。


 ――これでいい。誰も死ななければ、それでいい。


 胸の奥でそうつぶやき、火を見つめる。

 炎が光を広げ、彼女の頬を照らす。

 その光の中で、涙がもう1粒だけこぼれた。


 「あなたを、助けたかっただけ……」


 誰に届くでもなく、静かに声を落とした。

 マルガレータはかすかに微笑んだ。


 炎は、天井を焼くほどには強くならなかった。

 煙が窓から逃げるように流れていく。

 火は、混乱を生むには十分で――破壊をもたらすほどではない。


 それが、彼女の選んだ()()だった。


 静かな炎の前で、マルガレータは膝を折った。

 涙と煙の向こうで、かつて冒険者が見せた笑顔を思い出す。

 あの光が、この炎のように誰かを照らしていることを願いながら――。


毎日19:10頃更新しています。

ブックマーク、評価、リアクション、よろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ