第51話 贖火
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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夜の修道院は、息を呑むような静けさの中でざわめいている。
誰かが走り、扉の閉まる音が重なり、怒号が石壁を伝って跳ね返る。
マルガレータはその音の下、身を低くして通路の陰に潜んでいた。
警備の修道士と鉢合わせしたときは、心臓が止まるかと思った。
慌てて逃げた。
ようやく人気の無い場所にたどり着いたのだった。
胸の鼓動が痛い。
喉が乾いている。
唇を噛み、震えを押さえる。
動かなくてはならないことは分かっているのに、足が床に貼りついたように動かない。
――どうして、わたしがこんなことを。
目を閉じると、昼の光景がよみがえった。
院長の部屋。
懇願したあの時間。
「お願いです、彼を返してください」
彼女は確かにそう言った。
だが、返ってきたのは、冷たい沈黙と、短い言葉だけ。
――冒険者に赦しはない。
その瞬間、胸の奥で静かに崩れた。
神の前で人を裁くことが、どうして救いなのか。
彼は、ただ人を助けたかっただけなのに。
「……わたしが、助けなくては」
口の中でつぶやいた言葉が、息のように漏れた。
それは祈りではなく、命令だった。
誰に言われたわけでもない。
ただ、自分にしかできないことをする――それだけだった。
修道士たちの足音が遠ざかる。
北棟のほうで騒ぎが広がっている。
マルガレータはそっと壁から離れ、足音を殺して進んだ。
廊下の隙間から風が吹く。
湿った空気が、鼻の奥に入り込む。
その匂いに、ふと記憶が繋がった。
油と灰の匂い。
――調理場。
授業で何度か手伝った。
炊き出しの場所から近く、構造も覚えている。
夜には、ほとんど人の出入りはないだろう。
そして、火を扱う場所。
「ここなら、分かる」
調理場の扉は、軽く押すと軋んだ音を立てて開いた。
中は暗く、窓の隙間から月光が細く差し込んでいる。
長い調理台。壁際の棚。
灰の残るかまどから、まだわずかに温もりが漂っていた。
マルガレータは中に入り、背後で扉を閉めた。
薄暗がりの中で、呼吸が大きく感じられる。
手を伸ばして台の上を探ると、冷たい鉄の鍋が指先に触れた。
その感触に、心が少し落ち着く。
「燃やせるもの……」
声が震えた。
棚を開ける。木の柄杓。薪。
火を着けるにしても、簡単には燃えそうにもない。
焦りがこみ上げる。
「もっと、簡単に燃えそうなもの……」
かすれた声が漏れる。
机の脚を蹴り、音が響く。
その音に、自分で驚き、唇を噛む。
こんなことをしている自分が、まるで他人のように感じられた。
ふと、つま先に何かが当たった。
小さな壺。
拾い上げると、油の匂いがした。
調理用の植物油――おそらく昼の炊き出しで使った残りだ。
口の栓が緩み、指先が滑る。
壺の中の液体がゆらりと揺れた。
「これで……」
声が震える。
だが、その震えの中に、奇妙な静けさがあった。
命を懸ける覚悟が、心の奥で固まる音がした。
――燃やすなんて、本当に正しいの……?
自分の中で問いかける。
だが、答えは返ってこない。
代わりに、あの男の姿が浮かぶ。
冒険者。
不器用で、優しくて、自分を誰かの代わりではなく、自分として見てくれた人。
あの人が笑うとき、周りの空気まで柔らかくなった。
そんな彼の未来を奪うなんて、どうして赦せるだろう。
「院長さまは、きっとわたしを罰するでしょうね」
苦笑がこぼれる。
「でも、構いません……。あの人が、生きていられるなら」
頬を伝う涙が、灰の上に落ちた。
その水滴が、ほんの一瞬、灰を黒く濡らした。
マルガレータは立ち上がる。
――燃やすことが、救いになるのなら。
唇が震えた。
火打石を強く握る。
金属の冷たさが、皮膚を刺した。
その冷たさを、最後の理性のように感じながら、彼女は息を吸った。
火花は、灰の上で小さく跳ねた。
煙より先に、金属の匂いが鼻を打つ。
マルガレータは目を伏せ、掌の震えを殺した。
「だめ、火が点かない!」
彼女は周囲を見渡し、急いで脆いものを集めた。
古びた布巾の切れはし。卓の下にこぼれていた削り屑。焼け残りの紙片。
どれも小さく、どれも誰かの日々の痕跡だ。
だが今は、火を育てるための胚胎だ。
手のひらで布を揉み、指先で木屑をまとめる。
火打石を打つ度に、空気が弾ける。小さな光が揺れ、また消える。
息を詰めて3度、4度。5度目の火花が、ようやく薄い布の端に留まった。布が淡く赤く光る。
その火を、彼女は慎重に焚きつけへと移す。
布が焦げ、薄い蒸気が顔を撫でる。布片が燃え上がると、枝を1本置く。
枝が赤い口を開け、パチリと音を立てる。音が、彼女の胸を小さく叩いた。
彼女は立ち上がり、油壷を手に取った。昼の炊き出しで余った食用の油。
そう考えると、指先が微かに震えた。
油を直接燃やせば、制御は効かない。彼女はそれを知っていた。
床に沿って、油を撒いた。
その脇で壺を割り、油が漏れ出ていることを知らしめる。
火元から離れた位置、しかし人の視線を引く場所。
炎が勢いを増せば、煙は流れる。
人々は煙を避けるために動く。混乱はそこで生まれる。彼女の計算は冷たく、しかしどこか慈しみに満ちていた。
緊張の触媒として、置くだけでいい。
誰かが来てそれを見れば、彼らは恐れて手を引くだろう。万が一引火しても、床の油は煙になるだけで、大きな火にはならないはずだ。
火は広がり始めた。細い薪が燃え、木が軋む音を発する。小さな炎が面をなして走り、やがて台の隅を撫でる。そこから立ち上がる檜や薪の匂いに混じって、焦げた油のわずかな断片の匂いが鼻をかすめる。
そのとき、彼女は泣いた。
涙は熱の層を超え、頬を伝って落ちては蒸気となる。光が涙を受け止め、ひとしずくが炎の色を映して輝いた。彼女の唇が震え、押し殺した声が漏れる。
「燃やすことが、救いになるのなら……」
声はその場に留まり、やがて炎の雑音に混ざって消えた。
そして、火はもう、彼女の手だけの存在ではなかった。
煙が天井へ昇る。外から誰かの叫びが聞こえ、床を走る足音が近づく。
混乱は、予定通りに生まれつつあった。
外では、修道士たちの怒声が響いた。
「火事だ!」
「こっちだ!」
マルガレータはその声を聞きながら、ゆっくりと背筋を伸ばした。
その目には、恐れも、迷いも、もうなかった。
――これでいい。誰も死ななければ、それでいい。
胸の奥でそうつぶやき、火を見つめる。
炎が光を広げ、彼女の頬を照らす。
その光の中で、涙がもう1粒だけこぼれた。
「あなたを、助けたかっただけ……」
誰に届くでもなく、静かに声を落とした。
マルガレータはかすかに微笑んだ。
炎は、天井を焼くほどには強くならなかった。
煙が窓から逃げるように流れていく。
火は、混乱を生むには十分で――破壊をもたらすほどではない。
それが、彼女の選んだ節度だった。
静かな炎の前で、マルガレータは膝を折った。
涙と煙の向こうで、かつて冒険者が見せた笑顔を思い出す。
あの光が、この炎のように誰かを照らしていることを願いながら――。
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