第50話 歌声
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
------------------------------------------------
礼拝堂の奥は、風さえ止まっていた。
灯火は1本だけ。
炎の輪郭がわずかに揺れ、その揺らぎが柱や聖像を淡く染めている。
まるで夜の中で、世界の呼吸だけが遅れているようだった。
ゲルトルーデは祭壇の前に立ち、胸の前で指を組んだ。
その指先には、薄く震えがあった。
恐怖ではない。
決意の前の、ほんの一瞬の震え。
廊下の向こうで、怒声が交わっている。
修道士たちが走る音、扉の閉まる音。
マルガレータの侵入が発覚したのだろう。
礼拝堂は封鎖されるはずだった。
だが、まだ誰もここへ来ていない。
――この静けさは、神の沈黙ではなく、人の猶予だ。
自分にそう言い聞かせる。
祭壇に置かれた聖書を開く。
ページの隙間から、古い花弁が1枚、床に落ちた。
白く乾いた花。
昔、この場所で少女だった自分が挟んだものかもしれない。
「祈り」という言葉を覚えた日。
けれど、あの日の祈りは、ただ与えられた言葉の模倣にすぎなかった。
「……私は、もう同じようには唱えません」
その声はかすれていたが、堂内の静寂に吸い込まれるように広がった。
彼女は蝋燭の火を見つめ、深く息を吸った。
瞼を閉じる。
胸の奥から言葉が立ち上がる。
「どうか、遠くにいる者にも、あなたの光を。
罪を問う前に、心を見てください。
裁くためではなく、癒すために、あなたの名が在りますように」
それは、聖典の一節ではなかった。
彼女自身の言葉。
誰に許しを得るでもなく、誰かを救うために生まれた言葉だった。
炎が強く揺れた。
光が祭壇を照らし、柱の影が伸びる。
その影が動くたび、壁に掛けられた聖像が別の表情を見せた。
それを見ながら、ゲルトルーデは目を開けた。
涙がこぼれた。
それでも声は止まらない。
「願わくば、冒険者にも……神の光を」
最後の言葉が石壁に反響し、礼拝堂全体が震えた。
遠くの扉が開く音がした。
誰かが駆け寄ってくる。
だが、彼女はもう動かなかった。
その声が止んだ瞬間、鐘が鳴った。
最初の1打が、夜気を貫いた。
2打、3打。
音は重なり、やがて修道院全体を包み込む。
カタリナは、階段の途中で立ち止まった。
石の壁が微かに震えている。
上層から、鐘の音が降ってきたのだ。
その音に続いて、かすかな声が混じっていた。
言葉は分からない。
だが、そこに願いの匂いがあった。
心臓が脈打つ。
そのたびに、壁の湿った匂いが近づく。
もう引き返せない。
みんな、何かを賭けて動いている。
その気配だけで、全身の血が熱を帯びた。
階段を1段ずつ降りていく。
灯りはない。
だが、闇の中にうっすらと光があった。
天井の亀裂から漏れる、月の光。
それが波紋のように揺れ、足元の水に反射していた。
その光を踏まぬように歩く。
まるで誰かの想いを壊さぬように。
息を吸う。
空気が冷たい。
しかしその冷たさが、なぜか心を落ち着かせた。
(あの人は、まだ生きてる。きっと)
そう思った。
根拠はない。
けれど、この夜に動くすべての力が、その一点に向かっている気がした。
背後で、鐘の音が一際強く鳴った。
その響きが壁を伝い、足元まで降りてくる。
振動が皮膚を震わせる。
彼女は立ち止まり、目を閉じた。
――行け。
誰かの声が、確かに聞こえた。
男の声でも女の声でもない。
言葉というより、思考の響き。
それが胸の奥で、静かに形を持った。
目を開く。
階段の下から、風が吹き上がる。
湿った空気の中に、わずかに鉄の匂いが混じっていた。
牢のある階層は、もうすぐだ。
彼女は腰の短剣に触れた。
柄の感触を確かめる。
抜かない。
刃に頼らず、今はただ歩く。
それが、彼女なりの信仰だった。
礼拝堂では、扉が破られた。
修道士たちの怒号が響く。
「誰だ!」
「止めろ!」
足音が乱れ、火の気が揺れる。
ゲルトルーデは祭壇の前に立ったまま動かない。
その眼差しは、恐怖ではなく静謐だった。
「光は……すべての者に」
最後に、彼女はそうつぶやいた。
声ではなく、息のような音。
それでも、その言葉が鐘の余韻と重なり、空気を震わせた。
修道士たちは彼女を取り囲むが、誰もすぐには手を出せない。
堂内に漂う空気が、何かを押し留めていた。
鐘が止む。
音の残滓が石壁を伝って消えていく。
静寂が戻る。
しかし、その静けさはもはや同じではなかった。
ゲルトルーデは目を閉じた。
その瞼の裏で、誰かの姿が浮かぶ。
遠い異邦の男。
彼の穏やかな笑み。
その記憶が、最後の灯のように胸に残っていた。
カタリナは、闇の底に立っていた。
階段を降りきった場所。
石壁の間を風が抜ける。
耳の奥には、まだ鐘の余韻が残っている。
それがまるで、自分の呼吸と同じリズムで鳴っていた。
闇の奥で、水の滴る音。
それだけが、時間を刻む音。
彼女は静かに目を閉じた。
誰かの声が確かに届いた。
けれど、その誰かを知らない。
名も、顔も、何も。
それでも、確かに感じていた。
この夜のどこかで、自分と同じ想いを抱いている誰かがいる。
――だから、進める。
目を開く。
闇はまだ深い。
だが、そこに微かな光がある気がした。
それが、彼女を導く唯一の道標だった。
カタリナは1歩を踏み出した。
その足音が、静かな水音を割った。
彼女の後ろで、再び風が吹いた。
毎日19:10頃更新しています。
ブックマーク、評価、リアクション、よろしくお願いします!




