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癒やしを求めたら、奇跡と呼ばれて幽閉されました。  作者: 柊すい
第八章 風の届くところ

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第50話 歌声

※カクヨムにも同名のものを公開しています。

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 礼拝堂の奥は、風さえ止まっていた。

 灯火は1本だけ。

 炎の輪郭がわずかに揺れ、その揺らぎが柱や聖像を淡く染めている。

 まるで夜の中で、世界の呼吸だけが遅れているようだった。


 ゲルトルーデは祭壇の前に立ち、胸の前で指を組んだ。

 その指先には、薄く震えがあった。

 恐怖ではない。

 決意の前の、ほんの一瞬の震え。


 廊下の向こうで、怒声が交わっている。

 修道士たちが走る音、扉の閉まる音。

 マルガレータの侵入が発覚したのだろう。

 礼拝堂は封鎖されるはずだった。

 だが、まだ誰もここへ来ていない。


 ――この静けさは、神の沈黙ではなく、人の猶予だ。


 自分にそう言い聞かせる。

 祭壇に置かれた聖書を開く。

 ページの隙間から、古い花弁が1枚、床に落ちた。

 白く乾いた花。

 昔、この場所で少女だった自分が挟んだものかもしれない。

 「祈り」という言葉を覚えた日。

 けれど、あの日の祈りは、ただ与えられた言葉の模倣にすぎなかった。


 「……私は、もう同じようには唱えません」


 その声はかすれていたが、堂内の静寂に吸い込まれるように広がった。

 彼女は蝋燭の火を見つめ、深く息を吸った。

 瞼を閉じる。

 胸の奥から言葉が立ち上がる。



 「どうか、遠くにいる者にも、あなたの光を。

  罪を問う前に、心を見てください。

  裁くためではなく、癒すために、あなたの名が在りますように」



 それは、聖典の一節ではなかった。

 彼女自身の言葉。

 誰に許しを得るでもなく、誰かを救うために生まれた言葉だった。


 炎が強く揺れた。

 光が祭壇を照らし、柱の影が伸びる。

 その影が動くたび、壁に掛けられた聖像が別の表情を見せた。

 それを見ながら、ゲルトルーデは目を開けた。

 涙がこぼれた。

 それでも声は止まらない。


 「願わくば、冒険者にも……神の光を」


 最後の言葉が石壁に反響し、礼拝堂全体が震えた。

 遠くの扉が開く音がした。

 誰かが駆け寄ってくる。

 だが、彼女はもう動かなかった。


 その声が止んだ瞬間、鐘が鳴った。

 最初の1打が、夜気を貫いた。

 2打、3打。

 音は重なり、やがて修道院全体を包み込む。




 カタリナは、階段の途中で立ち止まった。

 石の壁が微かに震えている。

 上層から、鐘の音が降ってきたのだ。

 その音に続いて、かすかな声が混じっていた。

 言葉は分からない。

 だが、そこに願いの匂いがあった。


 心臓が脈打つ。

 そのたびに、壁の湿った匂いが近づく。

 もう引き返せない。

 みんな、何かを賭けて動いている。

 その気配だけで、全身の血が熱を帯びた。


 階段を1段ずつ降りていく。

 灯りはない。

 だが、闇の中にうっすらと光があった。

 天井の亀裂から漏れる、月の光。

 それが波紋のように揺れ、足元の水に反射していた。


 その光を踏まぬように歩く。

 まるで誰かの想いを壊さぬように。

 息を吸う。

 空気が冷たい。

 しかしその冷たさが、なぜか心を落ち着かせた。


 (あの人は、まだ生きてる。きっと)


 そう思った。

 根拠はない。

 けれど、この夜に動くすべての力が、その一点に向かっている気がした。


 背後で、鐘の音が一際強く鳴った。

 その響きが壁を伝い、足元まで降りてくる。

 振動が皮膚を震わせる。

 彼女は立ち止まり、目を閉じた。


 ――行け。


 誰かの声が、確かに聞こえた。

 男の声でも女の声でもない。

 言葉というより、思考の響き。

 それが胸の奥で、静かに形を持った。


 目を開く。

 階段の下から、風が吹き上がる。

 湿った空気の中に、わずかに鉄の匂いが混じっていた。

 牢のある階層は、もうすぐだ。


 彼女は腰の短剣に触れた。

 柄の感触を確かめる。

 抜かない。

 刃に頼らず、今はただ歩く。

 それが、彼女なりの信仰だった。




 礼拝堂では、扉が破られた。

 修道士たちの怒号が響く。


 「誰だ!」

 「止めろ!」


 足音が乱れ、火の気が揺れる。

 ゲルトルーデは祭壇の前に立ったまま動かない。

 その眼差しは、恐怖ではなく静謐(せいひつ)だった。


 「光は……すべての者に」


 最後に、彼女はそうつぶやいた。

 声ではなく、息のような音。

 それでも、その言葉が鐘の余韻と重なり、空気を震わせた。


 修道士たちは彼女を取り囲むが、誰もすぐには手を出せない。

 堂内に漂う空気が、何かを押し留めていた。


 鐘が止む。

 音の残滓が石壁を伝って消えていく。

 静寂が戻る。

 しかし、その静けさはもはや同じではなかった。


 ゲルトルーデは目を閉じた。

 その瞼の裏で、誰かの姿が浮かぶ。

 遠い異邦の男。

 彼の穏やかな笑み。

 その記憶が、最後の灯のように胸に残っていた。






 カタリナは、闇の底に立っていた。

 階段を降りきった場所。

 石壁の間を風が抜ける。

 耳の奥には、まだ鐘の余韻が残っている。

 それがまるで、自分の呼吸と同じリズムで鳴っていた。


 闇の奥で、水の滴る音。

 それだけが、時間を刻む音。

 彼女は静かに目を閉じた。

 誰かの声が確かに届いた。

 けれど、その誰かを知らない。

 名も、顔も、何も。


 それでも、確かに感じていた。

 この夜のどこかで、自分と同じ想いを抱いている誰かがいる。


 ――だから、進める。


 目を開く。

 闇はまだ深い。

 だが、そこに微かな光がある気がした。

 それが、彼女を導く唯一の道標だった。


 カタリナは1歩を踏み出した。

 その足音が、静かな水音を割った。

 彼女の後ろで、再び風が吹いた。



毎日19:10頃更新しています。

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