第49話 異邦の光
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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あと5話!
夜は、まるで呼吸を忘れたように静かだった。
雲が厚く、月明かりはほとんど届かない。
その下で、修道院の外壁は沈黙をまとい、石の冷たさだけが時を刻んでいる。
カタリナは、資材庫の裏に身を潜めていた。
昼間、グレータから受け取った許可証で敷地内に入り、息を潜めたまま数刻が過ぎている。
冷気が頬を刺し、肩の上に積もった埃が微かにざらついた。
蝋燭の匂いが、石の隙間から流れてくる。
――まだ、動けない。
廊下の奥で、人の気配が動いた。
硬い靴音。短い号令。
修道士たちが何かを運んでいる。
なにやら慌ただしい雰囲気に、カタリナはすぐ気づいた。
「……何?」
小さくつぶやき、掌を握る。
声を出せば、空気が裂けるような気がした。
静けさがあまりにも濃い。
世界そのものが、息をひそめているようだった。
――マルガレータ。
あの子が動いたんだ。
そう思った瞬間、胸の奥で緊張が跳ねた。
今夜、修道院を混乱させる役割を担っているのは、彼女だ。
警備の目が、彼女を追っていれば、それ以外は手薄になる。
今なら、誰も気づかない。
カタリナは壁から身を離し、廊下の陰を滑るように進んだ。
火を灯した蝋燭の光が遠くで揺れている。
光が届かない闇の隙間だけを選び、足音を消して歩いた。
石畳の床は冷たく、靴底の摩擦音が神経を刺す。
壁の向こうでは、誰かが急ぎ足で駆け抜ける音がする。
その音の先には、恐らく礼拝堂。
高い天井と鐘のある場所。
カタリナはその方向を避け、反対の回廊へ身を向けた。
目指すのは地下。
ターナカが囚われている場所。
頭の中で、修道院の構造を思い出す。
地下牢へ続く階段は、東棟の奥。
礼拝堂からは最も遠い位置にある。
行くなら今しかない。
廊下の灯りが揺れ、影が伸びた。
その影を跨ぎながら、彼女は思考を切り替える。
自分がしていることが、神の御心に反しているのかもしれない――そんな考えは、もう捨てた。
あの人を置いて行くほうが、よほど罪に思える。
風が吹いた。
修道院の窓枠をすり抜け、冷たい空気が頬を撫でる。
その風の中で、遠くから大きな音が聞こえる。
金属の音が石壁に反響し、柔らかく広がる。
その響きに、カタリナは息を止めた。
「……行こう」
つぶやきは、風に溶けて消えた。
その瞬間、どこかで別の灯が揺れた。
同じ夜、礼拝堂では1人の修道士が立ち尽くしていた。
ゲルトルーデ。
若くして学監補佐を務める記録係で、誰よりも規律を重んじる女。
その彼女が、今、命令に背いてここにいる。
高い天井の下、蝋燭が1本だけ灯っていた。
祭壇の上に置かれた聖書の金文字が、わずかな光を受けて滲む。
外では怒声が聞こえる。
「北棟だ!」
「侵入者を探せ!」
その声が遠ざかるたびに、心臓の音がはっきり聞こえた。
(これで、少しは時間が稼げる……)
マルガレータが囮になっている。
誰にも言えなかったが、彼女の行動計画を最初に耳にしたのは、ゲルトルーデだった。
止めることもできた。
けれど、止めなかった。
止められなかった。
自分の中で、信仰が揺らいでいた。
――神の御名の元に、どれだけの人が傷ついてきたのだろう。
ターナカという冒険者の男が現れてから、その矛盾を直視せざるを得なくなった。
彼の存在は異端だった。
だが、あの眼差しだけは真っ直ぐだった。
人を癒す力を持ちながら、自分の行いを奇跡と呼ばなかった。
その言葉を、彼女は今も覚えている。
「……助けられるなら、それでいい、か」
小さく繰り返し、唇に笑みを浮かべた。
笑みというより、ため息に近い。
この街では、善意がいつも罰と隣り合わせだ。
けれど、それでも人を想うことをやめられないのなら――それを信仰と呼ぶべきではないのか。
祭壇に置かれた蝋燭を見つめる。
炎は小さく、かすかに震えていた。
その灯を掌で包み込み、ゲルトルーデは目を閉じた。
(私にできることは、まだある)
この礼拝堂は夜間、誰も入らない。
鐘を鳴らすことも許されない時間帯。
だが、静寂を破るために――彼女は、ここにいる。
声を上げるのは、まだ先。
その時が来たら、迷わず呼びかける。
――願わくば、冒険者にも光を。
その言葉は、まだ胸の中だけにあった。
声にはしていない。
けれど、確かに形を持ち始めていた。
カタリナは修道院の南回廊に出た。
天井の高い通路を抜けると、微かな光が見えた。
窓の外からではない。
礼拝堂の方向だ。
誰かが灯をともしたのだろう。
彼女は思わず立ち止まる。
そこまで強い光ではないのに、不思議と胸が熱くなった。
誰かが、同じ夜に動いている。
そのことを、身体が感じ取っていた。
石壁を伝って歩きながら、足音を殺す。
冷たい空気が肺を満たし、息が白く散った。
今にも鐘が鳴り出しそうな気がした。
まだ夜は深いのに、世界がわずかに明るく見えた。
彼女は立ち止まり、下へ続く階段の前に立つ。
風が吹き上がり、足元の埃が舞った。
闇の奥は見えない。
だが、その闇の向こうに大切な人がいる。
そう思うだけで、足が前へ出た。
――行こう。
その一歩が、静寂を破った。
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