第5話 奇跡と沈黙
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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本日も、3話更新!
夜が、完全に街を包んでいた。
鐘の音も途絶え、残るのは風が木々を揺らす音だけ。
グライフェナウの空は深い群青で、星がひとつ、またひとつ瞬いていた。
修道院の灯だけが、まだ消えていなかった。
田中はベンチで、リーナの横顔を見ていた。
さっきまでの疲れはもうどこにもなく、彼女の表情は穏やかで、光を受けて柔らかく輝いている。
ほんの少し、笑い皺が浮かんでいた。
「……もう、大丈夫そうですね」
「ええ。本当に、体が軽いんです」
「それは良かった」
彼女は少し躊躇ってから、視線を落とした。
「こんなに心が楽になったの、いつ以来でしょう。まるで霧が晴れたみたいで」
「それなら、少しは役に立てたみたいですね」
ゆっくり微笑むと、ふっと息を漏らして笑った。
「ターナカさんの言葉、司祭様たちの祈りと似てるけれど……あれは違いますね」
「違いますよ。僕のは、ただの人の言葉です」
「でも……だからこそ、胸に届くのかもしれませんね」
その一言に、田中は少しだけ息を詰まらせた。
この世界の人間関係には、きっともっと厳しい区切りがある。
聖と俗、祈りと行い、癒しと罰。
それでも彼女は、微笑んでくれていた。
「……ところで、もう夜遅いですよね。どこか夜を過ごせる所をご存じありませんか?」
「宿ですか?」
「この辺で野宿とか、さすがに怖いので」
リーナは小首を傾げて考え、すぐに申し訳なさそうに言った。
「修道院の奥に巡礼者用の宿泊棟があります。本当に粗末で……木の寝台と毛布だけ。でも、無料なんです」
「無料……!」
思わず声が出た。
お金も食料もなく、この夜をどう過ごすか不安だったのだ。
「それなら、ぜひお願いしたいです」
「ふふっ、そう言ってもらえるなら」
安堵の笑みを浮かべる姿に、彼女も柔らかく微笑んだ。
灯に照らされたその横顔は、昼間よりもずっと近く見えた。
彼女に案内されて、田中は修道院の回廊を歩いた。
石壁に蝋燭が等間隔に灯り、床には麦の香りが微かに残っている。
2人の足音だけが廊下に響いた。
「この修道院、こんなに広かったんですね」
「昔は孤児院も併設していました。戦で家を失った人々が、ここに集まって……」
彼女の声が少し遠くなる。
「今は、空き部屋ばかりですけど」
その言葉の奥に、ほんのわずかな寂しさが滲んだ。
歩きながら、リーナは何度か彼の服に目をやる。
「やっぱり、その服……不思議ですね」
「この辺の人たちは、あまり見慣れないですか?」
「はい。祈りの日でも、そんな素敵な仕立ての服は見ませんよ」
「やっぱり目立ちますよね」
「……ええ。すこしだけ」
微笑む横顔。
それは咎めるでも笑うでもない、ただ興味と親しみが混ざった表情だった。
やがて彼女は、何かを思いついたように立ち止まった。
「少し待っててください」
そう言って、すぐ脇の部屋に消えた。
数分後、彼女は古びた布包みを抱えて戻ってきた。
中には、麻のシャツとズボンが畳まれている。
「昔、奉仕に来ていた旅人が置いていった服なんです。少し古いですが、清潔にしてあります」
「……こんな立派なもの、受け取れませんよ」
「さっきのお礼です。どうか受け取ってください」
田中が手を伸ばした瞬間、リーナの指が彼の指先に触れた。
ほんの一瞬。
けれど、2人とも動きを止めた。
彼女の手は、驚くほど温かかった。
指先を包むように、ほんの少しだけ握る。
蝋燭の光が2人の間で揺れ、影が壁に重なった。
「……ありがとうございます」
「いえ。こちらこそ」
彼女はすぐに手を離したが、頬がわずかに赤く染まっていた。
灯のせいか、それとも――。
田中は何も言わず、ただ静かに礼を言った。
宿泊棟の部屋は、思っていたよりも狭かった。
板張りの床と木の寝台、窓には布のカーテンが掛けられている。
部屋の隅に置かれた蝋燭が、壁に淡い影を作っていた。
リーナが毛布を整えながら、そっと尋ねた。
「……ターナカさんは、これからどうするんですか?」
「どう、するか……」
寝台の縁に腰を下ろし、視線を落とした。
「正直、わからないんです。この街のことも、この世界の仕組みも。仕事があるのかどうかも、まだ見当がつかない」
「日雇いならあります。市場の荷運びや、葡萄畑の手伝いとか」
「なるほど」
「それに……冒険者になる人もいます。依頼を受けて仕事をしています。お金を持った巡礼者の護衛や、商人の警護。あと、森の動物の討伐なんかもあるみたいです。危険ですが、報酬は多いと聞きますよ」
「ふむ……。それは命の値段ですね」
彼が笑うと、つられて笑った。
けれど、その笑みの奥には心配の色が浮かんでいた。
「すぐには決められませんね。もう少し街を見てからにします」
「それがいいと思います」
しばらく、蝋燭の灯だけが2人の間を照らしていた。
壁に揺れる影が、まるで2人の呼吸に合わせて動いているようだった。
やがてリーナが、小さく息を整えた。
「……あの、さっきのことですが」
「ん?」
「わたくしの身体を軽くしてくれた、あの不思議な言葉。本当に、心が軽くなりました。今も、信じられない気持ちです」
「それは良かった」
「神の奇跡のようでした。でも……あなたは神様じゃない、ですよね?」
田中は少しだけ目を細めた。
「そんなんじゃないですよ」
「ふふ。そう、ですよね」
彼女は少し考えこむように、蝋燭の火を見つめた。
「でも、もし――」
「もし?」
「ターナカさんのように、人を癒やせる人がこの街にいたら……きっと、誰もが救われると思うんです」
その声音には、素朴な願いと信仰の響きがあった。
小さく息を吐き、苦笑する。
「……優しい考えですね。でも、そんなことをしたら――」
「したら?」
「本物の神様に見つかって、罰が当たってしまいますよ」
一瞬、きょとんとした顔をする。
そして、すぐにふっと笑みを浮かべた。
「ふふっ。そうかもしれませんね」
その笑みの中には、恐れよりも温かさがあった。
やがてリーナは、少しだけ体の向きを変え、ささやくように言った。
「では、これは……。わたしの胸の中だけに」
そして、自分の胸にそっと手を当てた。
その仕草は祈りのようでもあり、ひとりの女性の優しさのようでもあった。
蝋燭の炎が、頬を金色に染める。
光が揺れ、まつ毛の影が長く伸びる。
その瞳の奥には、夜の静けさと陽だまりの両方が宿っていた。
田中は息を呑んだ。
胸の奥が、静かに熱を帯びる。
言葉は出てこなかった。
リーナはただ、穏やかに微笑んだ。
「――秘密ですよ」
「ええ、約束します」
2人の声が、夜の修道院に溶けていった。
蝋燭が小さく揺れ、最後の光が壁を照らす。
その静けさの中で、グライフェナウの夜が、ゆっくりと更けていった。
7話以降は、毎日19:10頃更新予定です。
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