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癒やしを求めたら、奇跡と呼ばれて幽閉されました。  作者: 柊すい
第八章 風の届くところ

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第48話 夜を越えて

※カクヨムにも同名のものを公開しています。

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 宿の窓辺に、初夏の光が淡く差し込んでいた。

 白いカーテンの向こうで、ヘルミーナは花瓶の水を替えながら、ふと手を止めた。


 ――最近、あの人を見かけない。


 田中と一緒に、食事をした夜のことを思い出す。

 あの時の彼は、誰よりも穏やかな顔をしていた。


 あの日のことが、まだ心に残っている。

 夜通し話をした。優しかった。心から抱きしめられるような安心感。

 そして、翌日は、2人でデートをした。買い物をして、香油をプレゼントした。


 「……ほんと、不思議な人だったわね。いなくなって、やっと分かるなんて」


 外では、通りを行く人々が足早に通り過ぎていく。

 以前よりも街の空気が硬い。誰もが目を伏せ、祈りの言葉をつぶやきながら歩く。

 その静けさに、ヘルミーナは得体の知れない胸騒ぎを覚えた。

 風がカーテンを揺らし、遠くで昼の鐘が1つ鳴った。


 その音が、なぜか助けを求める声のように聞こえた。


 彼女は小さく息をつき、空を見上げた。


 「……あなた、どこにいるの?」


 問いは誰に届くこともなく、薄曇りの空に溶けていった。






 そのころ、修道院の外れ。

 昼下がりの搬入口に、ひとりの女性が立っていた。

 黒の外套を羽織り、手には1枚の許可証。カタリナだった。


 搬入記録係の修道士が眉をひそめ、羊皮紙を手に取る。


 「……布地と薬草の納入、ギルド管理の搬入証明――印章確認」


 金色の蝋印を光にかざし、数秒の沈黙。


 「……通っていい。次」


 抑揚のない声が落ちる。カタリナは軽く頭を下げ、そのまま修道院の中へと足を踏み入れた。


 ――冷たい空気。

 石の壁を伝って、遠くから聖歌の残響が流れてくる。

 廊下の窓から差す光は薄く、埃が静かに舞っていた。

 通用口を抜け、物資庫の奥へと進む。

 そこは湿った木箱と麻袋の匂いで満ちていた。


 「……ここまで来たら、戻れないね」


 彼女は、腰のポーチから小さな紙を取り出した。

 リーナから受け取った簡単な地図だ。

 手書きの走り書きが、かすかに滲んでいる。


 (リーナ……あんたの覚悟、無駄にはしない)


 外では昼の鐘が鳴り、修道士たちの祈祷の声が響く。

 カタリナは物資箱の影に身を潜め、息を殺した。

 通り過ぎる足音。ローブの擦れる音。

 息をすることすら、ためらうほどの静けさ。


 ――これが、あいつの閉じ込められてる場所。


 彼女は、腰の小刀に手を添えた。

 力ずくでどうにかなる場所ではない。

 それでも、心のどこかで思っていた。

 戦場で命を懸けることより、今この沈黙の中で耐える方が、ずっと怖い。


 (あの時、あいつが言った。「戦場の外にも、もう1つの戦場がある」。……ほんと、その通りだわ)


 石壁に背を預け、瞼を閉じる。

 昼の光が徐々に赤みを帯び、やがて夜が訪れる。

 時間の流れが、あまりに遅く感じられた。

 外では、風が修道院の高い塔を鳴らしていた。


 「……ターナカ。無事でいなさいよ!」


 そのつぶやきは誰にも聞こえず、冷たい空気に吸い込まれていった。






 修道院の鐘が夕闇を告げるころ、マルガレータは石畳を踏みしめながら院長室へと向かっていた。

 心臓が静かに高鳴る。

 ドアの前で立ち止まり、深呼吸をひとつ。

 扉を叩く指がわずかに震えていた。


 「……お入りなさい」


 中から院長の声。

 厚い扉を開けると、部屋には蝋燭の光が揺れ、香がほのかに漂っていた。

 その奥、椅子に腰かけた老人――院長と、その横に、エルンスト師が控えている。

 彼の白衣の袖口が、わずかに机に触れるたび、金属の留め具が小さく鳴った。


 「ご用件を、マルガレータ嬢」

 「ひとつだけ、お願いがあります。……ターナカさんを、返してください」


 院長の眉がわずかに動いた。

 だが、その表情に驚きや同情の色はない。

 長年の修道生活で磨かれた無表情。

 エルンストが代わって口を開いた。


 「その情報をどこで?」

 「そんなことは関係ありません。ターナカさんが修道士に捕まり、修道院内に運ばれたのを見た人がたくさんいます」

 「ほう……」


 エルンストは、優しい笑みを漏らす。


 「彼は神の法を乱した。癒しを騙り、人の心を惑わせた」

 「惑わせた? 違うわ。……あの人がいたから、みんな、やっと笑えたのよ」

 「笑いは、一瞬の熱だ。そのようなものに(ほだ)されては、信仰は崩れる」


 マルガレータは唇を噛んだ。

 冷たい理屈が、彼女の胸を締めつける。


 「……あなたたちは、いったい何を守ってるの?」


 その声は、怒りよりも、失望に近かった。


 沈黙。

 蝋燭の火が揺れる。

 院長は長く息を吐き、机の上の紙に視線を落とした。


 「あなたの言葉は、たしかに心を打ちます。しかし、教会は感情で動かぬのです」

 「わたしの家からは、多額の寄進が……」

 「リント家からの寄進と、マルガレータ嬢。あなた個人のお願いに、何の関係がありますか……?」


 その言葉に、マルガレータの手が震えた。

 彼女は立ち上がり、深く一礼して退室する。

 扉が静かに閉じる音が、まるで裁きの鐘のように響いた。




 廊下を歩きながら、マルガレータは壁に手をついた。

 冷たい石が掌に触れる。

 その冷たさが、涙を押しとどめるように感じた。


 ――届かなかった。

 けれど、あの人は、きっと今もあの場所で誰かを気遣っている。


 彼女は思い出した。

 初めて田中に会った日。


 「祈りは、生きている者のためにある」――あの優しい声。


 あの言葉が、今でも胸の奥で温かく残っている。


 足元の光が、細く伸びている。

 修道院の長い廊下の果て、夜の風が吹き込んだ。

 蝋燭の火が一瞬消え、闇が広がる。


「……あの人がいないだけで、こんなにも寒いのね」


 彼女は外へ出た。

 中庭の噴水が静かに音を立てている。

 月が雲間から顔を出し、水面が銀に染まる。


 その光を見つめながら、マルガレータはゆっくりと目を閉じた。

 心の奥に沈んでいた迷いが、少しずつほどけていく。


 ――行かなくちゃ。

 誰かがやらなきゃ、誰も救われない。


 彼女は自室に戻ると、机の引き出しを開けた。

 そこに置かれた小さな十字飾りを手に取る。

 父が彼女に贈った、家の象徴でもある金の飾り。


 「……お父様、ごめんなさい。でも、私はもう信じるだけじゃいられません」


 十字飾りを首から外し、金の飾りの横に置いた。

 旅装束のような動きやすい服を纏い、外套を羽織る。

 鏡の中の自分を見つめる。

 商人の娘ではなく、1人の女の顔がそこにあった。


 「あなたを助けたい。それだけで、もう十分でしょ」


 部屋の灯りを消す。

 静寂。


 マルガレータは夜の修道院へと歩き出した。

 石畳に足音が吸い込まれていく。

 壁沿いに進み、裏門の影へ。






 同じ想いが、沈黙の中に通い合っていた。

 修道院の塔の上では、夜警の灯りがゆっくりと巡っている。

 カタリナは息を殺し、マルガレータは暗闇に溶けるように姿を消す。


 ――その瞬間、遠くで鐘が鳴った。

 重く、長く、低い音。

 まるで誰かの心臓が鼓動を刻むように、夜を震わせた。


 その音が止むと、静寂が訪れる。

 冷たい風が吹き抜け、空気が一瞬だけ澄んだ。


「ターナカ……もう、待たせないから」


 夜風が彼女の髪を揺らした。

 マルガレータはその言葉を胸の奥でつぶやき、影の中へと消えていった。


毎日19:10頃更新しています。

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