第47話 琥珀色の液体
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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――休憩。
その言葉だけが、いまの田中にとって唯一の救いだった。
実験の合間に与えられる短い休息は、もはや休息ではない。
冷たい石床に座り込み、息を整えるたびに、胸の奥が軋んだ。
香炉の煙がまだ残っている。目を閉じると、祈った人々の声が次々と浮かんできて、どの顔も、もう区別がつかない。
癒やした数だけ、痛みの形が自分の中に沈んでいく――そんな錯覚があった。
「……あれほど人を救いたかったのに」
唇がかすかに動く。声にならない声。
指先は冷え切り、震えている。彼らの断片を思い出そうとしても、記憶がすっぽり抜け落ちているようだった。
壁にもたれかかると、背中に石の冷たさが染み込んだ。
どれほど眠っていないだろう。
瞼を閉じても、光と声が交錯し、休むことを許してくれない。
それでも次の鐘が鳴れば、また手を伸ばすのだ。
――もう、救われたいのは自分の方なのに。
修道院の中庭は、雨上がりの光に包まれていた。
地面にはまだ湿り気が残り、炊き出しの鍋から立つ湯気が、淡い白に滲んでいる。
風が少しだけ生温く、リーナは裾を押さえながら椅子に腰を下ろした。
彼の姿を最後に見たのは、あの炊き出しの日だった。
詐病の男が現れ、田中が彼を助け、そして……何かが壊れたように、そのまま姿を消した。
一部の人間は「冒険者なんだし、別の町に行ったんだろう」「何か依頼を受けたんだ」と気楽に言う。
あのときの田中の顔が、どうしても忘れられない。
――笑っていた。けれど、どこかで泣いていた。
彼はいつも優しかった。
傷ついた人の隣に座り、何も聞かず、ただ一緒に沈黙を分け合う人だった。
それなのに、あの最後の笑顔には、何かを諦めたような影があった。
「リーナさん、もう少しで鍋、洗い終わりますよ」
仲間の声に、リーナはハッとして立ち上がる。
「ええ、ありがとう。……先に乾かしておいて」
そう答えながら、片隅の棚に視線を移す。そこには、寄進品の薬草酒が並んでいた。
濃い琥珀色の液体が、瓶の中で光を返している。
ふと、田中の声が耳に蘇った。
「この香り、落ち着きますね。気持ちが軽くなる」
リーナはその1本を手に取る。
指先でラベルをなぞりながら、心の中で小さくつぶやいた。
「……あなた、どこにいるの」
彼の所在は分からない。
けれど、修道院の内部に囚われている――それを聞いてから、眠れない夜が続いていた。
寡婦の会では、修道院に炊き出しの食料や薬草を届ける際の、倉庫や門の鍵を預かっている。
その中には、古びた予備鍵も含まれていた。
「もう使われないものだ」と聞いていたが、リーナは引き出しからそれをいくつか取り出した。
「……もし、届くなら」
小さく息を吸い、薬草酒の瓶の栓を抜く。
ふわりと広がる、森のような香り。
その中に、そっと鍵を沈めた。
金属が底に沈むと、液面に小さな波紋が広がる。
それはまるで、沈んだ思いが光を取り戻そうとしているように見えた。
リーナは瓶を拭き、麻布で包む。
修道士に渡す炊き出し用の食籠に、自然に紛れるように置いた。
「これ、寄進者からの差し入れです」と言えば、不審には思われない。
薬草酒はワインではない。儀礼上、修道士たちは手を付けられない――それが彼女の賭けだった。
「……どうか、気づいて」
リーナは小さくつぶやき、唇を噛む。
田中の優しい声が胸の奥で反響する。
「誰かを助けるって、難しいですね」
その言葉を、今ようやく理解した気がした。
助けることは、願うことじゃなく、動くことなのだと。
リーナは祈るかわりに、瓶を両手で抱きしめた。
夕方の光が赤く変わる。
彼女は静かに瓶を籠に入れ、目を閉じた。
「あなたが、まだ笑っていられますように」
それだけを胸に、リーナは修道士へと瓶を託した。
修道院の廊下。
受け取った若い修道士は、籠の中身を点検しながら首を傾げた。
「……薬草酒?」
しかし、届け先は確かに「独房」と記されている。
修道士は小さく肩をすくめ、記録簿に印を押した。
「まあ、命じられた通りに運べばいいさ」
淡々とした声が、静かな回廊に消えていった。
その小瓶が、何を運ぶのかも知らないまま――。
修道院の独房は、日差しの届かぬ場所だった。
湿った石壁。金属の錠前。
そして、鉄格子の外に置かれた木盆。
田中は、いつものように静かに腰を上げ、食事を確かめた。
パン、スープ、そして……見慣れない小瓶。
彼は眉を寄せ、そっと手に取る。
薬草の香りが、かすかに立ち上がった。
その香りを嗅いだ瞬間、心の奥に微かな記憶が灯る。
「この香り、落ち着きますね」
静かに笑みがこぼれる。
「リーナ……か」
彼は瓶を傾け、液体の奥を覗き込む。
底に沈む金属の影が、淡く光を反射した。
それが鍵であると気づいた瞬間、胸の奥に熱が広がった。
「やっぱり、あなたは強いな……」
小さくつぶやいたその声は、誰にも届かない。
それでも、彼の瞳の奥には確かな光が戻ったように感じた。
まだ、誰かが信じてくれている。
田中は瓶を胸に抱えたまま、壁にもたれかかる。
微かな薬草の香りが、冷たい空気を柔らかく包んでいた。
修道院の高塔。
エルンスト師の部屋では、すでに封が割られた書状が机上に置かれていた。
以前、イザベルから届いた正式な書状だ。
蝋の破片が散り、赤い色が木目に挟まっている。
副修道士がその傍らに立ち、緊張した面持ちで口を開いた。
「……本当に、教皇代理の印で間違いないのですか?」
「間違いない」
エルンストは、紙片を指先で弾いた。乾いた音が鳴る。
「イザベル・フォン・グラーツ直筆。署名の筆圧、蝋の色、どれを取っても本物だ」
副修道士はわずかに息をのむ。
「では、この命令は……」
「冒険者ターナカを、直ちに確認させろ、だ」
淡々と読み上げる声には感情がなかった。
「しかし、師。命令を破棄すれば――」
「破棄ではない」
エルンストの声が冷たく響く。
「この命令はこのには届かなかった。……ただそれだけだ」
その言葉に、副修道士は息を飲んだ。
「つまり……報告を止めるのですか」
「止めるのではない。命令自体が存在しないのだ」
エルンストは手元の紙をひらりと持ち上げ、蝋燭の火に近づけた。
「理性の名において、秩序を守る。記録に残らない命令は、命令ではない」
炎が羊皮紙を舐める。
副修道士が思わず手を伸ばしたが、それには届かなかった。
燃える紙の中で、教皇代理の印章が赤く光を放ち、やがて黒く溶け落ちた。
「……これで、余計な混乱は防げる」
エルンストは灰を指先で払い落とす。
「神の代理も、人の上に立つなら理性に従え。感情で秩序は保てん」
「……師。ですが、これは――」
クラウスの言葉を遮るように、エルンストは柔らかく笑った。
「君はまだ若い。理解しなくていい。理性とは、時に情より冷たく、だがそれゆえに正しい」
副修道士は俯いたまま、何も言えなかった。
灰の舞う机上に、静寂だけが残った。
一方その頃。
地下牢では、田中が膝を抱えていた。
錠前の向こうに、月光が細く差し込む。
手の中の小瓶が、わずかに冷たい。
瓶の底には、沈んだ金属の輝き――小さな鍵。
それを見つめ、田中は小さく息を吐く。
「……ありがとう、リーナ」
小声でつぶやき、瓶を胸に抱く。
その表情には、疲労と、それを包みこむような穏やかさが同居していた。
どれほど閉じ込められていても、人の想いは形を変えて届く。
その静かな確信だけが、今の彼を支えていた。
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