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癒やしを求めたら、奇跡と呼ばれて幽閉されました。  作者: 柊すい
第八章 風の届くところ

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第47話 琥珀色の液体

※カクヨムにも同名のものを公開しています。

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 ――休憩。

 その言葉だけが、いまの田中にとって唯一の救いだった。

 実験の合間に与えられる短い休息は、もはや休息ではない。

 冷たい石床に座り込み、息を整えるたびに、胸の奥が軋んだ。

 香炉の煙がまだ残っている。目を閉じると、祈った人々の声が次々と浮かんできて、どの顔も、もう区別がつかない。

 癒やした数だけ、痛みの形が自分の中に沈んでいく――そんな錯覚があった。


 「……あれほど人を救いたかったのに」


 唇がかすかに動く。声にならない声。

 指先は冷え切り、震えている。彼らの断片を思い出そうとしても、記憶がすっぽり抜け落ちているようだった。


 壁にもたれかかると、背中に石の冷たさが染み込んだ。

 どれほど眠っていないだろう。

 瞼を閉じても、光と声が交錯し、休むことを許してくれない。

 それでも次の鐘が鳴れば、また手を伸ばすのだ。

 ――もう、救われたいのは自分の方なのに。






 修道院の中庭は、雨上がりの光に包まれていた。

 地面にはまだ湿り気が残り、炊き出しの鍋から立つ湯気が、淡い白に滲んでいる。

 風が少しだけ生温く、リーナは裾を押さえながら椅子に腰を下ろした。


 彼の姿を最後に見たのは、あの炊き出しの日だった。

 詐病の男が現れ、田中が彼を助け、そして……何かが壊れたように、そのまま姿を消した。


 一部の人間は「冒険者なんだし、別の町に行ったんだろう」「何か依頼を受けたんだ」と気楽に言う。

 あのときの田中の顔が、どうしても忘れられない。


 ――笑っていた。けれど、どこかで泣いていた。


 彼はいつも優しかった。

 傷ついた人の隣に座り、何も聞かず、ただ一緒に沈黙を分け合う人だった。

 それなのに、あの最後の笑顔には、何かを諦めたような影があった。


 「リーナさん、もう少しで鍋、洗い終わりますよ」


 仲間の声に、リーナはハッとして立ち上がる。


 「ええ、ありがとう。……先に乾かしておいて」


 そう答えながら、片隅の棚に視線を移す。そこには、寄進品の薬草酒が並んでいた。


 濃い琥珀色の液体が、瓶の中で光を返している。

 ふと、田中の声が耳に蘇った。


 「この香り、落ち着きますね。気持ちが軽くなる」


 リーナはその1本を手に取る。

 指先でラベルをなぞりながら、心の中で小さくつぶやいた。


 「……あなた、どこにいるの」


 彼の所在は分からない。

 けれど、修道院の内部に囚われている――それを聞いてから、眠れない夜が続いていた。


 寡婦の会では、修道院に炊き出しの食料や薬草を届ける際の、倉庫や門の鍵を預かっている。

 その中には、古びた予備鍵も含まれていた。

 「もう使われないものだ」と聞いていたが、リーナは引き出しからそれをいくつか取り出した。


 「……もし、届くなら」


 小さく息を吸い、薬草酒の瓶の栓を抜く。

 ふわりと広がる、森のような香り。

 その中に、そっと鍵を沈めた。

 金属が底に沈むと、液面に小さな波紋が広がる。


 それはまるで、沈んだ思いが光を取り戻そうとしているように見えた。


 リーナは瓶を拭き、麻布で包む。

 修道士に渡す炊き出し用の食籠に、自然に紛れるように置いた。

 「これ、寄進者からの差し入れです」と言えば、不審には思われない。

 薬草酒はワインではない。儀礼上、修道士たちは手を付けられない――それが彼女の賭けだった。


 「……どうか、気づいて」


 リーナは小さくつぶやき、唇を噛む。


 田中の優しい声が胸の奥で反響する。


 「誰かを助けるって、難しいですね」


 その言葉を、今ようやく理解した気がした。

 助けることは、願うことじゃなく、動くことなのだと。


 リーナは祈るかわりに、瓶を両手で抱きしめた。

 夕方の光が赤く変わる。

 彼女は静かに瓶を籠に入れ、目を閉じた。


 「あなたが、まだ笑っていられますように」


 それだけを胸に、リーナは修道士へと瓶を託した。


 修道院の廊下。

 受け取った若い修道士は、籠の中身を点検しながら首を傾げた。


 「……薬草酒?」


 しかし、届け先は確かに「独房」と記されている。

 修道士は小さく肩をすくめ、記録簿に印を押した。


 「まあ、命じられた通りに運べばいいさ」


 淡々とした声が、静かな回廊に消えていった。


 その小瓶が、何を運ぶのかも知らないまま――。




 修道院の独房は、日差しの届かぬ場所だった。

 湿った石壁。金属の錠前。

 そして、鉄格子の外に置かれた木盆。


 田中は、いつものように静かに腰を上げ、食事を確かめた。

 パン、スープ、そして……見慣れない小瓶。

 彼は眉を寄せ、そっと手に取る。


 薬草の香りが、かすかに立ち上がった。

 その香りを嗅いだ瞬間、心の奥に微かな記憶が灯る。


 「この香り、落ち着きますね」


 静かに笑みがこぼれる。


 「リーナ……か」


 彼は瓶を傾け、液体の奥を覗き込む。

 底に沈む金属の影が、淡く光を反射した。

 それが鍵であると気づいた瞬間、胸の奥に熱が広がった。


 「やっぱり、あなたは強いな……」


 小さくつぶやいたその声は、誰にも届かない。

 それでも、彼の瞳の奥には確かな光が戻ったように感じた。


 まだ、誰かが信じてくれている。


 田中は瓶を胸に抱えたまま、壁にもたれかかる。

 微かな薬草の香りが、冷たい空気を柔らかく包んでいた。






 修道院の高塔。

 エルンスト師の部屋では、すでに封が割られた書状が机上に置かれていた。

 以前、イザベルから届いた正式な書状だ。

 蝋の破片が散り、赤い色が木目に挟まっている。


 副修道士がその傍らに立ち、緊張した面持ちで口を開いた。


 「……本当に、教皇代理の印で間違いないのですか?」

 「間違いない」


 エルンストは、紙片を指先で弾いた。乾いた音が鳴る。


 「イザベル・フォン・グラーツ直筆。署名の筆圧、蝋の色、どれを取っても本物だ」


 副修道士はわずかに息をのむ。


 「では、この命令は……」

 「冒険者ターナカを、直ちに確認させろ、だ」


 淡々と読み上げる声には感情がなかった。


 「しかし、師。命令を破棄すれば――」

 「破棄ではない」


 エルンストの声が冷たく響く。


 「この命令はこのには届かなかった。……ただそれだけだ」


 その言葉に、副修道士は息を飲んだ。


 「つまり……報告を止めるのですか」

 「止めるのではない。命令自体が存在しないのだ」


 エルンストは手元の紙をひらりと持ち上げ、蝋燭の火に近づけた。


 「理性の名において、秩序を守る。記録に残らない命令は、命令ではない」


 炎が羊皮紙を舐める。

 副修道士が思わず手を伸ばしたが、それには届かなかった。

 燃える紙の中で、教皇代理の印章が赤く光を放ち、やがて黒く溶け落ちた。


 「……これで、余計な混乱は防げる」


 エルンストは灰を指先で払い落とす。


 「神の代理も、人の上に立つなら理性に従え。感情で秩序は保てん」


 「……師。ですが、これは――」


 クラウスの言葉を遮るように、エルンストは柔らかく笑った。


 「君はまだ若い。理解しなくていい。理性とは、時に情より冷たく、だがそれゆえに正しい」


 副修道士は俯いたまま、何も言えなかった。

 灰の舞う机上に、静寂だけが残った。




 一方その頃。

 地下牢では、田中が膝を抱えていた。

 錠前の向こうに、月光が細く差し込む。

 手の中の小瓶が、わずかに冷たい。


 瓶の底には、沈んだ金属の輝き――小さな鍵。

 それを見つめ、田中は小さく息を吐く。


 「……ありがとう、リーナ」


 小声でつぶやき、瓶を胸に抱く。

 その表情には、疲労と、それを包みこむような穏やかさが同居していた。


 どれほど閉じ込められていても、人の想いは形を変えて届く。

 その静かな確信だけが、今の彼を支えていた。


毎日19:10頃更新しています。

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