表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
癒やしを求めたら、奇跡と呼ばれて幽閉されました。  作者: 柊すい
第八章 風の届くところ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

47/57

第46話 沈黙の印章

※カクヨムにも同名のものを公開しています。

------------------------------------------------

 夜のギルドは、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 木の床板は湿り気を帯び、軋む音さえ吸い込むように沈んでいる。

 壁際のランプが1本だけ灯され、油が切れかけた炎が頼りなく揺れた。


 グレータは、帳簿と羊皮紙に囲まれた机の前で、腕を組んでいた。

 目の前には、街の地図。

 その中心に、修道院の印。

 高い石壁、厳重な門、二重の検問。

 彼女は、その図をじっと見つめながら、小さく舌打ちをした。


 ここから人を出すには、紙が要る。

 人を人として扱うための、たった1枚の紙が。


 田中が捕らえられてから、もう1週間以上が経つ。

 マルガレータやリーナ、カタリナたちが動き始めている。

 だが、グレータ自身はどう動けばいいのか、まだ答えを出せずにいた。

 自分は剣も魔法も持たない。ただ、書類を扱うだけの人間。


 だが――。それでも、紙が人を生かす場面を、何度も見てきた。

 戦時の輸送、徴兵解除。

 ひとつの印が押されるだけで、死が回避されることもある。

 逆に、それが押されなければ、どんな英雄も一瞬で罪人になる。


 「ドッグタグで街に出入りできるんは、冒険者だけや……」


 彼女は独り言のようにつぶやいた。


 「ターナカはんはともかく、助けた連中は……」


 唇を噛む。

 マルガレータは商人の娘、リーナは寡婦の会、どちらも平民。

 逃げるとして、この街を出るのは簡単でも、次の街に入るとき怪しまれるとマズい。

 だが、彼を救いたいと願っている。

 ならば――紙を用意するのが、自分の役目だ。


 彼女は立ち上がり、奥の棚から古びた帳簿を取り出した。

 商隊の通行証、物資搬入の記録、護衛契約の控え。

 黄ばんだ羊皮紙の束が、埃をまとって眠っている。


 ページをめくるうちに、印章欄が空白のままの書類をいくつか見つけた。


 「……これや」


 思わず声が漏れた。


 それは、街門を通過するための正式な「搬入出許可証」。

 宛先さえ書き換えれば、人でも、物でも合法的に出入りできる。

 ただし、修道院の許可無く勝手に作成したとなれば、ギルドの信用を失う。

 ひとつ間違えば、教会への反逆。


 机に戻り、羽根ペンを手に取る。

 文面は、手慣れた筆跡で書き進めた。

 「市民保健協会 医療助手ターナカ同行員」

 ――これなら、一般市民でも通用する。


 ペン先が止まる。

 最後の行。印章欄。

 そこに“ギルド印”を押すかどうかで、すべてが決まる。


 蝋を温め、羊皮紙に垂らす。これは、書類に直接押印する必要がある。

 指先がわずかに震える。

 グレータは小さくうなずき、印章を持ち上げた。

 蝋に沈めた瞬間、心臓が跳ねる。

 ――押すな。

 どこかで誰かがそうささやいた気がした。


 それでも、押した。


 湿った音とともに、蝋が紙に広がる。

 灯りの下で、それはまるで血のように見えた。




 しばらくすると、外で足音がした。

 扉が静かに開き、鎧の軋む音とともに、カタリナが姿を現した。

 夜明け前の薄明かりが差し込み、彼女の頬を青く照らす。

 その顔には疲労と、決意の影が並んでいた。


 「グレータ、呼んだって聞いたけど……」

 「来てくれて助かったわ」


 グレータは机の上の封筒を差し出した。


 「搬入出許可証や。……正式な手続きはしとらへん代物や。いろいろ使えるやろ」

 「こ、これ……」

 「中に入るより、出る方が厄介や。街門で足止め食らったら、元も子もない。あと、次の街に入るときも大変やろ?」


 カタリナは封筒を手に取り、光に透かして見た。

 蝋が固まりきっておらず、わずかに温もりを残している。


 「……ギルドの印章やな」

 「ウチの首、飛ぶかもしれんけどな」


 冗談めかして笑うグレータの声には、微かな震えが混じっていた。


 「あんたがそんな顔すんの、初めて見るわ」

 「そらそうや。あんたみたいに、剣1本で物事ひっくり返せる性分やない」

 「ひっくり返すって言うほど大層なもんじゃないさ。誰かが泣いてるの、見過ごせんだけ」


 その言葉に、グレータの肩がわずかに震えた。

 沈黙のあと、彼女は小さくつぶやいた。


 「……ウチもや」


 封筒を指で押さえながら、彼女は視線を落とす。


 「マルガレータも、リーナも、命張っとる。ウチも何かせなと思ってな……。せやけど、印章押す瞬間にな、心臓が止まりそうになったんや。これ1つで、人が生きるか死ぬか決まる。押すだけで、神サマのまねごとしてる気ぃして」


 カタリナは封筒をそっと机に戻し、グレータの肩に手を置いた。


 「神サマは、あんたにその印を持たせたんや。多分な、動けん人間の代わりに押せって言うとる」


 グレータは苦笑する。


 「えらい都合のええ神さんやな」

 「神サマなんて、だいたい都合がいいものだ」


 2人の笑い声が、静かな部屋の中にぽつりと響いた。

 それは、悲しみの隙間からこぼれる人間の音だった。


 やがて、カタリナは真剣な目で言った。


 「あたしが、これを使って中へ入る。修道院の内側からターナカを連れ出す。外に出たら、遠い街まで逃げる。……ただし、1度でも見つかったら終わり」


 「1人で行く気?」

 「一緒に行けそうな人、他にいないでしょ」


 カタリナの声は低く、それでいて迷いがなかった。

 グレータは唇を噛んだ。


 「ウチも行く」

 「駄目だ。あんたは残ってくれ。外で動ける人間が必要だ」


 グレータは視線を落とし、封筒をもう1度カタリナの手に押し付ける。

 カタリナはうなずき、腰の鞄に封筒をしまった。


 「任せときな。あたしがターナカを、必ず連れ戻す」

 「言うたな」

 「言った」


 2人の間に、再び沈黙が落ちた。

 だが、それは先ほどの重苦しい沈黙とは違う。


 「カタリナ」

 「ん?」

 「……ありがとな」

 「感謝の言葉は、助けてからだよ」


 扉が閉まる。

 その音が部屋に残り、やがて霧のように消えていく。


 グレータは椅子に沈み、机の上に残る朱の印を見つめた。

 その色は、もう乾ききって黒ずんでいる。

 手を伸ばして触れると、わずかにざらついていた。


 「ウチのやったこと、きっと間違いやろな……」


 ぽつりとつぶやく。


 「でも、間違うても、動かなあかん時もあるんや」




 そのとき、背後から声がした。


 「――まったく、おめぇらは手が早ぇ」


 ギルドマスターが、いつの間にかそこに立っていた。

 煙管をくわえ、煙を細く吐きながら、机の上の封筒を見やる。


 「印章の跡、まだ温けぇじゃねぇか」


 グレータは身じろぎもせずに答えた。


 「……見逃してくれるんやろ?」

 「へっ、見逃すも何も、最初から見てねぇさ。……ただな」


 マスターは椅子に腰を下ろし、天井を見上げた。


 「押す瞬間ってのはな、誰にでも1度は来るんだよ。戦場でも、商売でも、恋でもよ。押した後に何を背負うかで、人の価値が決まる」

 「ウチ、値打ちある人間に見える?」

 「へっ、さぁな。けどよ、あのターナカって奴、あんたにゃ借りができたな」

 「……そんな柄やないのに、よぅ言うわ」


 グレータは小さく笑い、机の上の紙を片づけ始めた。


 「マスター、これが終わったら、ウチ……」

 「やめとけ。先のことなんざ考えるだけ無駄だ。……まずは生き急ぐな。動いた後に考えりゃいい」


 その言葉に、グレータは深くうなずいた。

 彼女の目に、もう迷いはなかった。


 マスターは立ち上がり、出口に向かう途中で振り返った。


 「神サマが黙ってる時はな、人間が動く番なんだよ。忘れんな」


 そのまま扉の向こうへ消える。

 煙の匂いだけが、静かな部屋に残った。


 窓の外で、東の空がわずかに明るむ。

 グレータは机の上のインク瓶を閉め、深く息を吐いた。

 街のどこかで、誰かが今、夜明けを待っている。

 誰かが祈り、誰かが動こうとしている。


 印章を押した指先を見つめ、彼女はつぶやいた。


 「これが、ウチらの戦いや」


 朝の光が差し込み、机の上の朱色を照らした。

 その色はもう血ではなかった。

 ――それは、人間が選んだ、救いの色だった。


毎日19:10頃更新しています。

ブックマーク、評価、リアクション、よろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ