第46話 沈黙の印章
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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夜のギルドは、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
木の床板は湿り気を帯び、軋む音さえ吸い込むように沈んでいる。
壁際のランプが1本だけ灯され、油が切れかけた炎が頼りなく揺れた。
グレータは、帳簿と羊皮紙に囲まれた机の前で、腕を組んでいた。
目の前には、街の地図。
その中心に、修道院の印。
高い石壁、厳重な門、二重の検問。
彼女は、その図をじっと見つめながら、小さく舌打ちをした。
ここから人を出すには、紙が要る。
人を人として扱うための、たった1枚の紙が。
田中が捕らえられてから、もう1週間以上が経つ。
マルガレータやリーナ、カタリナたちが動き始めている。
だが、グレータ自身はどう動けばいいのか、まだ答えを出せずにいた。
自分は剣も魔法も持たない。ただ、書類を扱うだけの人間。
だが――。それでも、紙が人を生かす場面を、何度も見てきた。
戦時の輸送、徴兵解除。
ひとつの印が押されるだけで、死が回避されることもある。
逆に、それが押されなければ、どんな英雄も一瞬で罪人になる。
「ドッグタグで街に出入りできるんは、冒険者だけや……」
彼女は独り言のようにつぶやいた。
「ターナカはんはともかく、助けた連中は……」
唇を噛む。
マルガレータは商人の娘、リーナは寡婦の会、どちらも平民。
逃げるとして、この街を出るのは簡単でも、次の街に入るとき怪しまれるとマズい。
だが、彼を救いたいと願っている。
ならば――紙を用意するのが、自分の役目だ。
彼女は立ち上がり、奥の棚から古びた帳簿を取り出した。
商隊の通行証、物資搬入の記録、護衛契約の控え。
黄ばんだ羊皮紙の束が、埃をまとって眠っている。
ページをめくるうちに、印章欄が空白のままの書類をいくつか見つけた。
「……これや」
思わず声が漏れた。
それは、街門を通過するための正式な「搬入出許可証」。
宛先さえ書き換えれば、人でも、物でも合法的に出入りできる。
ただし、修道院の許可無く勝手に作成したとなれば、ギルドの信用を失う。
ひとつ間違えば、教会への反逆。
机に戻り、羽根ペンを手に取る。
文面は、手慣れた筆跡で書き進めた。
「市民保健協会 医療助手ターナカ同行員」
――これなら、一般市民でも通用する。
ペン先が止まる。
最後の行。印章欄。
そこに“ギルド印”を押すかどうかで、すべてが決まる。
蝋を温め、羊皮紙に垂らす。これは、書類に直接押印する必要がある。
指先がわずかに震える。
グレータは小さくうなずき、印章を持ち上げた。
蝋に沈めた瞬間、心臓が跳ねる。
――押すな。
どこかで誰かがそうささやいた気がした。
それでも、押した。
湿った音とともに、蝋が紙に広がる。
灯りの下で、それはまるで血のように見えた。
しばらくすると、外で足音がした。
扉が静かに開き、鎧の軋む音とともに、カタリナが姿を現した。
夜明け前の薄明かりが差し込み、彼女の頬を青く照らす。
その顔には疲労と、決意の影が並んでいた。
「グレータ、呼んだって聞いたけど……」
「来てくれて助かったわ」
グレータは机の上の封筒を差し出した。
「搬入出許可証や。……正式な手続きはしとらへん代物や。いろいろ使えるやろ」
「こ、これ……」
「中に入るより、出る方が厄介や。街門で足止め食らったら、元も子もない。あと、次の街に入るときも大変やろ?」
カタリナは封筒を手に取り、光に透かして見た。
蝋が固まりきっておらず、わずかに温もりを残している。
「……ギルドの印章やな」
「ウチの首、飛ぶかもしれんけどな」
冗談めかして笑うグレータの声には、微かな震えが混じっていた。
「あんたがそんな顔すんの、初めて見るわ」
「そらそうや。あんたみたいに、剣1本で物事ひっくり返せる性分やない」
「ひっくり返すって言うほど大層なもんじゃないさ。誰かが泣いてるの、見過ごせんだけ」
その言葉に、グレータの肩がわずかに震えた。
沈黙のあと、彼女は小さくつぶやいた。
「……ウチもや」
封筒を指で押さえながら、彼女は視線を落とす。
「マルガレータも、リーナも、命張っとる。ウチも何かせなと思ってな……。せやけど、印章押す瞬間にな、心臓が止まりそうになったんや。これ1つで、人が生きるか死ぬか決まる。押すだけで、神サマのまねごとしてる気ぃして」
カタリナは封筒をそっと机に戻し、グレータの肩に手を置いた。
「神サマは、あんたにその印を持たせたんや。多分な、動けん人間の代わりに押せって言うとる」
グレータは苦笑する。
「えらい都合のええ神さんやな」
「神サマなんて、だいたい都合がいいものだ」
2人の笑い声が、静かな部屋の中にぽつりと響いた。
それは、悲しみの隙間からこぼれる人間の音だった。
やがて、カタリナは真剣な目で言った。
「あたしが、これを使って中へ入る。修道院の内側からターナカを連れ出す。外に出たら、遠い街まで逃げる。……ただし、1度でも見つかったら終わり」
「1人で行く気?」
「一緒に行けそうな人、他にいないでしょ」
カタリナの声は低く、それでいて迷いがなかった。
グレータは唇を噛んだ。
「ウチも行く」
「駄目だ。あんたは残ってくれ。外で動ける人間が必要だ」
グレータは視線を落とし、封筒をもう1度カタリナの手に押し付ける。
カタリナはうなずき、腰の鞄に封筒をしまった。
「任せときな。あたしがターナカを、必ず連れ戻す」
「言うたな」
「言った」
2人の間に、再び沈黙が落ちた。
だが、それは先ほどの重苦しい沈黙とは違う。
「カタリナ」
「ん?」
「……ありがとな」
「感謝の言葉は、助けてからだよ」
扉が閉まる。
その音が部屋に残り、やがて霧のように消えていく。
グレータは椅子に沈み、机の上に残る朱の印を見つめた。
その色は、もう乾ききって黒ずんでいる。
手を伸ばして触れると、わずかにざらついていた。
「ウチのやったこと、きっと間違いやろな……」
ぽつりとつぶやく。
「でも、間違うても、動かなあかん時もあるんや」
そのとき、背後から声がした。
「――まったく、おめぇらは手が早ぇ」
ギルドマスターが、いつの間にかそこに立っていた。
煙管をくわえ、煙を細く吐きながら、机の上の封筒を見やる。
「印章の跡、まだ温けぇじゃねぇか」
グレータは身じろぎもせずに答えた。
「……見逃してくれるんやろ?」
「へっ、見逃すも何も、最初から見てねぇさ。……ただな」
マスターは椅子に腰を下ろし、天井を見上げた。
「押す瞬間ってのはな、誰にでも1度は来るんだよ。戦場でも、商売でも、恋でもよ。押した後に何を背負うかで、人の価値が決まる」
「ウチ、値打ちある人間に見える?」
「へっ、さぁな。けどよ、あのターナカって奴、あんたにゃ借りができたな」
「……そんな柄やないのに、よぅ言うわ」
グレータは小さく笑い、机の上の紙を片づけ始めた。
「マスター、これが終わったら、ウチ……」
「やめとけ。先のことなんざ考えるだけ無駄だ。……まずは生き急ぐな。動いた後に考えりゃいい」
その言葉に、グレータは深くうなずいた。
彼女の目に、もう迷いはなかった。
マスターは立ち上がり、出口に向かう途中で振り返った。
「神サマが黙ってる時はな、人間が動く番なんだよ。忘れんな」
そのまま扉の向こうへ消える。
煙の匂いだけが、静かな部屋に残った。
窓の外で、東の空がわずかに明るむ。
グレータは机の上のインク瓶を閉め、深く息を吐いた。
街のどこかで、誰かが今、夜明けを待っている。
誰かが祈り、誰かが動こうとしている。
印章を押した指先を見つめ、彼女はつぶやいた。
「これが、ウチらの戦いや」
朝の光が差し込み、机の上の朱色を照らした。
その色はもう血ではなかった。
――それは、人間が選んだ、救いの色だった。
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