第45話 名をもって抗う
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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修道院の尖塔が、灰色の雲の向こうに沈んでいた。
イザベルは、薄い外套の裾を押さえながら、静かな石畳を踏みしめる。
かつて、ここを通るたびに見かけた姿――中庭で子供たちに囲まれ、笑っていた冒険者の男。
その姿は、どこにもない。
門番の修道士が、彼女の前に立ちはだかった。
「ご用件を伺います」
イザベルは軽く顎を上げ、冷ややかに微笑む。
「以前ここで、癒やしを行っていた方がいたはずです。ターナカ。――そう名乗っていました」
修道士の表情が、一瞬だけ強張った。
「……そのような者は、当修道院にはおりません」
「そう。では、いなくなったのですね?」
「あ、いえ……」
彼女の声はあくまで穏やかだった。だが、その瞳には小さな炎が宿っていた。
――嘘をついている。
イザベルは礼を言い、踵を返した。
強い風が髪を揺らす。
(あの人のことを、いなかったことにするなんて……)
胸の奥に小さな違和感が生まれ、それが瞬く間に怒りに変わる。
翌日、イザベルは街の外れにある広場を訪れた。
そこでは寡婦の会と呼ばれる女性たちが、貧しい人々に食事を配っている。
炊き立てのスープの香り、石鍋の湯気。
その中で、1人の女性が布を頭にかけ、忙しそうに人々へ器を渡していた。
イザベルは迷わず声をかける。
「あなた、ここでで働いているのね?」
女性――リーナが振り返る。驚いたように目を見開いた。
「はい……イザベル、様。なぜこちらへ?」
「あなたたちの活動は聞いています。ここに、癒やしの人が関わっていたそうね。ターナカ――。そう呼ばれていたはず」
リーナの手が止まり、スープがわずかにこぼれた。
彼女は慌てて布で拭いながら、かすれた声で言う。
「……彼を、ご存じなのですか?」
「ええ。あの人には……少しだけ、助けられたことがあるの」
イザベルの声は、どこか遠くを見ているようだった。
リーナは周囲を見回し、小声で続けた。
「あの、大変申し上げにくいのですが。ターナカは、今日はこちらにおりません」
「そう。みたいね」
「はい。で、どこにいるの? 知っているんじゃないの?」
「……いえ」
リーナは目を伏せる。
それを見れば、誰でも彼女が嘘をついているのが分かってしまう。
その沈黙が、痛みのように伝わってくる。
「姿が見えないことは承知しているわ。だから、彼がよく顔を出していたという、ここに来たのよ」
「……」
「いいなさい。正直に。アタシも、ターナカを探しているのよ」
リーナの表情が変わる。
彼女も、ターナカを探している……?
「あ、いえ。その……」
「隠す必要はないわ。彼と、また話がしたい。ただ、それだけなのだから」
リーナは、重い口を開く。
イザベルの真意は分からないが、ここで嘘をついても、良い結果にはならないだろう。そうなると、知っていることを正直に話すしかない。
「……ターナカさんは、修道院に囚われています。神への冒涜という名目で。私たちは彼を助けるために――」
「彼を助ける」そこで、イザベルが彼女の言葉を遮る。表情はいたく冷静なのに、固い意志を感じるようだった。
「庶民の手で、神の塔を崩せるとでも?」
その瞬間、リーナは息をのんだ。
イザベルの表情には怒りも悲しみもなかった。ただ、冷たい理性だけがあった。
「あの日、寄付の話に乗ってしまったのは私です。あの人は、少しも疑わなかったのに……」
「ふん。過ぎたことを言っても仕方ないわ」
イザベルは髪に手櫛を通すと、ハッキリと口にする。
「あなたたちの善意は尊いわ。でも、善意だけでは何も動かない」
「それでも……」
イザベルは目を伏せる。
その問いが、心の奥を突いた。
(……祈ることに意味があると思ってた。でも、祈りで何かが変わったことなんて、1度もないのにね)
しばらく沈黙が続いたのち、イザベルは短く息を吐く。
「話してくれて、ありがとう。あなたの情報は貴重よ。後は私に任せなさい」
リーナは、何も言えずに彼女を見送るしかなかった。
去っていく背中は、冷たい石畳の上でひときわ鮮やかに見えた。
翌朝。
灰色の雲が垂れこめた空の下、イザベルの屋敷は静まり返っていた。
朝食の皿も手つかずのまま、彼女は書斎の机に座り、羊皮紙を前にしていた。
窓から差し込む淡い光が、彼女の横顔を照らす。
深く息を吸い、羽根ペンを取る。
インク壺の黒が、ゆっくりと広がっていく。
書き始めた文字は、滑らかで、しかしどこか震えていた。
『イザベル・フォン・グラーツの名をもって命ず。
本修道院に拘束中の冒険者ターナカの身柄を確認したく、直ちに報告を求む。
――神の沈黙に、沈むことなかれ』
最後の1行を書き終えると、イザベルは大げさに息を吸った。
呼ばれた執事が、控えめに扉を叩く。
「お嬢様……そのような文書をお出しになれば、教皇代理閣下のお立場に――」
イザベルは、ペン先を拭いながら振り返った。
「父の名を借りるつもりはありません。ただ、信仰を語る者として、あの人の存在を否定するのが許せないの」
「では……これは、信仰のために?」
「いいえ。アタシ自身のために、よ。――祈りを奪われたまま、生きるのはごめんだわ」
執事は言葉を失い、ただ頭を下げる。
イザベルは立ち上がり、封蝋を溶かす。
真紅の滴が羊皮紙に落ち、王家の紋章を刻む印章が押された。
「届けて。修道院へ。グラーツ家の名において、冒険者の身柄を――明らかにさせるの」
使者が馬を走らせて去る。
イザベルは窓辺に立ち、遠くに見える修道院の尖塔を見上げた。
空には、重い雲が垂れ込めている。
(祈りの言葉では届かないなら、権力で叩きつけてやる――)
唇にかすかな笑みが浮かぶ。
それは傲慢ではなく、初めての自分の意思だった。
昼の鐘が3度鳴るころ――。
修道院の報告室。
重厚な扉の向こうから、靴音が響く。
副修道士が封書を抱え、蒼白な顔で走り込んできた。
「エルンスト師! 教皇代理閣下からの命令書です!」
室内にいた修道士たちがざわめく。
机上に置かれた封書の蝋印――深紅のグラーツ家紋章が、異様に鮮やかだった。
エルンスト師は静かにそれを手に取り、封を切る。
目を走らせるうちに、眉がわずかに動いた。
「……身柄の確認を求むか。なるほど」
彼は口元を歪める。
「娘の独断か、それとも父親の差し金か。どちらにせよ、好都合だ」
周囲の修道士が顔を見合わせる。
「し、しかし師よ、貴族命令に逆らえば……」
「逆らわぬよ。――利用するだけだ」
エルンスト師の目が冷たく光った。
「冒険者を異端として正式に裁くには、外部の権威が必要だった。……まさか自ら用意してくれるとはな」
その声には、神の名も慈悲もなかった。
あったのは、理性と支配への確信。
窓の外で風が鳴いた。
エルンスト師は封書を机に投げ捨てると、低くつぶやいた。
「神の沈黙に沈むことなかれ、か……。ならば、沈めてやろう。――その沈黙ごと」
封書の赤い蝋が、ゆっくりと溶け落ちていった。
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