第43話 静けさのなかで
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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あと10話!
イザベルは、その日もいつものように修道院の外壁を歩いていた。
市場での買い物帰り、遠回りしてまでこの道を選ぶのが、もう癖になっていた。
かつて、あの中庭で祈るように人々と向き合っていた男の姿を、遠くから見るだけで心が落ち着いた。
話しかけたことも、手を振ったこともない。ただ、そこに彼がいるというだけでよかった。
けれど、ここ数日はその姿が見えない。
今日もまた、窓をのぞいては首を傾げる。
いつもなら、子供たちの笑い声の向こうに、彼の穏やかな声が混じっていたのに――。
門番に尋ねても「知らない」としか返ってこない。
イザベルはそれ以上何も聞けず、ただ小さく息をついた。
(……居なければ、居ないで寂しいものね)
胸の奥でそんな独り言をつぶやき、修道院を背に歩き出す。
足取りは軽いはずなのに、なぜか影が長く伸びていく気がした。
雨が上がったばかりの街は、石畳の隙間からかすかに湯気を立てていた。
灰色の雲の向こうから陽がのぞき、濡れた屋根を鈍く照らしている。
マルガレータはその光を見上げ、深く息をついた。
修道院の誰に尋ねても、田中の行方を知る者はいない。
彼の名を出すたびに、皆が口を閉ざした。
――まるで、彼がこの世に初めから存在しなかったかのように。
それでも彼の足跡は、確かに残っていた。
市場で笑っていた子供。
炊き出しで支援を受けた寡婦。
病を癒やされた老人。
そのだれもが、どこかで「ターナカ」という名を口にしていた。
ゲルトルーデから内情は聞いている。
だからこそ、マルガレータは田中を救う仲間を探していた。
彼を心配する人。彼に接し、彼を深く想う人たちの協力が不可欠だと思ったのだ。
マルガレータは記憶を頼りに、寡婦の会を訪れた。
粗末な木の扉を押すと、温かな香りと湿った空気が迎えた。
煮立つ鍋の湯気が白く立ちこめ、パンを焼く香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
戸口の前で立ちすくむ彼女に、年配の女性が声をかけた。
「お嬢さん、修道院の方かい? 今日はお祈りの集まりじゃないよ」
マルガレータは軽く頭を下げる。
「ええ、知っています。――ターナカさんという方のことで、伺いました」
その名を口にした途端、作業の手が止まった。
鍋をかき回していた匙が、沈黙をつくる。
やがて、奥から1人の若い女性が現れた。
リーナだった。
「ターナカさんのこと……何かご用ですか?」
声はかすかに震えていた。
マルガレータはその様子を見て、胸の奥が締めつけられるのを感じた。
「彼が、この場所でお世話になっていたと聞きました。行方を知りたくて……」
リーナは目を伏せ、しばらく黙っていた。
その沈黙に、答えのすべてが含まれていた。
「――見たんです。修道士たちに囲まれて、連れて行かれるところを」
その声は低く、怯えているようだった。
「止めようと思ったのに、何もできなかった」
マルガレータは唇を結び、静かにうなずいた。
「やっぱり……そうだったのね」
「修道院に捕まったんです。あの人は何も悪くないのに」
リーナは拳を握りしめた。
マルガレータはゆっくりと歩み寄り、向かいの席に腰を下ろす。
「詳しく聞かせていただけますか。何があったのか、どんな様子だったのか」
「……寄付が届いたんです。寡婦の会に。それがあの日の朝で、みんな喜んでいました。それで、わたし……調子に乗ってしまって。「お礼に癒しをお願いします」なんて言ったんです」
「その場に、修道士が?」
「はい。ターナカさんが手を伸ばした瞬間、囲まれて――。まるで、それを待っていたみたいでした」
言葉を紡ぐたび、リーナの肩が震える。
その目には涙が浮かんでいた。
マルガレータは黙って聞いていた。
話の途中で何度も口を開きかけたが、言葉が見つからなかった。
ただ、彼女の胸にも似た痛みがあった。
気づいていたのに、何もできなかったという悔いが、ふたりの間に静かに重なっていく。
「――助けたいんです」
リーナが言った。
「でも、どうすればいいか分からない。修道士に逆らえば、今度はわたしたちが捕まってしまう」
顔に手を当て、うつむいてしまう。
「思い返せば、あの日から、修道院の警備が厳しくなったように思います。周辺のわたくしたちには、あまり影響がありませんが、中に出入りする人が文句を言っていました」
思い返せば、状況が悪くなる事しか出てこない。
気持ちは焦っても、自分にできることと考えると、手詰まってしまう。
しかし、リーナはそこで思い出したように声を上げる。
「冒険者ギルドの、グレータをご存じですか?」
「ギルド……?」
「ええ。あの人なら、いろいろな所と通じています。事情を話せば、きっと動いてくれる……はず」
リーナは、やがて小さくうなずいた。
「彼女に頼ってみましょう」
「ありがとう」
マルガレータは静かに言った。
「あなたが彼を信じてくれて、本当にうれしい」
リーナはかすかに笑った。
「信じてます。……だって、あの人は嘘をつかない人だから」
ふたりの間に、ようやく小さな光がともった。
炊き出しの鍋の火が、ぱち、と弾ける音を立てる。
その火が、これからの行動を告げる合図のように見えた。
その夜、寡婦の会の炊き出しが終わると、マルガレータとリーナは木の机を挟んで座っていた。
鍋の底に残ったスープが、弱火の上で小さく泡を立てている。
表向きは後片づけの手伝いだが、2人の表情には別の緊張があった。
「――明日、グレータさんという方に会わせてもらえますか?」
マルガレータの言葉に、リーナは少しだけ眉を上げた。
「冒険者ギルドの受付をしています。気が強い人ですが、情には厚いですよ」
「そんな方なら、頼もしいです」
マルガレータの声には希望が混じっていたが、それは慎重なものだった。
「修道士が相手です。正面からの交渉は、きっと難しいでしょうね」
リーナは手を握りしめる。
「でも、黙っていたら、あの人は――」
言葉を切り、喉を押さえるようにして俯いた。
「自分の身を顧みずに、誰かを助けようとしてる。……そんな人でした」
その声音には、信頼と後悔が入り混じっていた。
マルガレータはしばらく黙ってから、そっと答えた。
「ええ、知ってます。あの人は、自分が傷つくことで人を安心させてしまうような人だから」
2人は同時に微笑んだ。
その笑みには、痛みと優しさが同居していた。
やがて、火が小さくはぜる音がして、リーナが立ち上がる。
「もう片づけますね」
マルガレータも立ち上がり、手を貸した。
鍋を運び出す途中、リーナがふとつぶやく。
「……この街、静かになりましたね」
「ええ。まるで、誰かが息を潜めているみたい」
その言葉に、2人は顔を見合わせた。
窓の外では風が止み、どこかで鐘がひとつだけ鳴る。
音が空気を震わせた瞬間、マルガレータは確信した。
この沈黙は偶然ではない。
街そのものが、何かを恐れている――そんな気配があった。
翌朝、リーナは早くから動き出した。
グレータへの手紙を仕上げるためだ。
炊き出し場の一角で、帳簿を付けるふりをしている。
インク壺の中でペン先を湿らせながら、彼女は迷いなく書いた。
「助けを求めています。彼は、罪ではなく優しさで捕らわれました」
文字を書き終えたあと、乾かす手がわずかに震えていた。
それでも封をして、息を吐く。
「これで、少しは前に進める」
マルガレータが傍でうなずく。
「彼を救うのは、奇跡でも祈りでもないわ。――人の手よ」
リーナは顔を上げ、微笑んだ。
「じゃあ、その手をつなぎましょう。みんなで」
その頃、街のあちこちで奇妙な噂が流れ始めていた。
「癒しの人が姿を消したらしい」
「修道院が、連れて行ったんだと」
「いや、あの人は神に近づきすぎて、天に召されたんだってさ」
誰も確かなことは知らない。
ただ、笑顔の数が少しずつ減り、教会の前で跪く人々の表情に陰が落ちた。
かつて、街にやわらかな風を吹かせた男がいた。
その風が止んだいま、人々は呼吸の仕方を忘れたかのようだった。
だが、その沈黙の底で、鍋の火を守るように立つ2人の女性がいた。
マルガレータとリーナ。
その視線の先に、小さな灯りがともっている。
彼を救うための、最初の光だった。
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