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癒やしを求めたら、奇跡と呼ばれて幽閉されました。  作者: 柊すい
第八章 風の届くところ

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第42話 祈りの暴力

※カクヨムにも同名のものを公開しています。

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 夜の雨が上がり、修道院の庭に薄い霧が漂っていた。

 湿った石畳の上を歩くたびに、靴底が小さく鳴る。

 鐘の音が遠くで響き、まだ眠りの残る空を揺らしていた。


 金髪の少女マルガレータは、古い泉のそばに立っていた。

 澄んだ水面を見つめながら、胸の奥で小さく息を整える。

 昨夜の尋問と呼ばれるもののせいで、まだ体の芯が重い。

 質問のほとんどが田中のことだった。

 なのに、彼がどこにいるのか、何をしているのか――誰も教えてくれない。


 (どうして……何も言ってくれないの)


 この数日、彼の姿を見ていない。

 笑顔を思い出そうとすると、心の奥に痛みが走る。

 それでも、自分の手で何かできることはないかと、彼女は、炊き出しにも行かずに修道院の中を歩き続けていた。


 そんな彼女の背に、控えめな声がかかった。


 「……マルガレータさん」


 振り向くと、灰色の修道服を着たゲルトルーデが立っていた。

 眠っていないのだろう。目の下に影ができている。


 「もう、お休みになった方がいいのに」


 マルガレータは微笑もうとしたが、声は震えていた。


 「眠れません。……あなたもでしょう?」


 2人は言葉を失い、同じようにうつむいた。

 風が吹き抜け、葉の雫がぽたりと地面を打つ。


 「最近、あの方――ターナカさんの姿を見ませんね」


 マルガレータは遠くを見つめ、言葉を続ける。


 「どこにいらっしゃるのか、聞いても誰も答えてくれないの」


 ゲルトルーデはわずかに目を伏せた。

 彼女は、喉の奥がつまるのを感じた。

 嘘をつくよりも、黙っている方がつらい。

 だからただ、静かに首を縦に振った。


 マルガレータはその様子を見て、かすかに笑った。


 「……あなた、何か知っているのね」




 泉のほとりまで歩き、彼女はしゃがみ込む。

 指先で水面をすくい、雫がこぼれるのを見つめた。


 「ねえ、ゲルトルーデさん。祈りって、いったい何のためにあるのかしら」


 ゲルトルーデは戸惑いながら答える。


 「神に心を捧げ、導きを乞うためだと……そう教わりました」


 マルガレータは水を見つめたまま「導き、ね……」と小さくつぶやいた。


 「もしその導きが、誰かを苦しめることだったら、どうする?」

 「……それでも神の意志だと、皆は信じるでしょう」

 「あなたは?」

 「私は……信じたい。でも、同時に恐ろしいのです。人の手が神の名を語ることが」


 彼女は迷っていた。

 言えば、すべてが変わる。けれど、黙っていれば、何も変わらない。

 深く言葉を呑む。自分には伝えなければならない事がある。だが、それを一存で話していいのかも悩む。

 しかし、マルガレータの田中を思う気持ち。それを知った今、黙っていることはできなかった。

 ……そして今、自分の前にいるのは()()()()()()()だった。




 修道院が何をして。自分がどうしたか。

 マルガレータに伝えた。

 彼女の声は怒りでも嘲りでもなく、ただ悲しさに満ちていた。


 「……私が見るに堪えないのは、彼の苦しみではありません。()()()()()として使おうとする人の無理解なんです。救いが計算されるたびに、心が削られていくのを感じるのです」


 ゲルトルーデは、小さく拳を握る。


 「祈りとは、そのように使うものではないと思うのです。もし神がいるのなら、あんなやり方を見て、どう思うのか……。そればかり考えるのです」


 ゲルトルーデの喉の奥が熱くなる。

 昼の実験室で見た光景――冷たい香、無表情な修道士、記録を取る音。

 祈りの言葉が人を救うのに、その本人は救われない。

 その現実を、彼女自身が目にしていた。


 「……私は、祈りに意味があると信じてきました」


 ゲルトルーデはかろうじて声を絞り出した。


 「でも、あの部屋で祈っている人たちは……誰を見ていたんでしょうか。神? それとも、自分たちの正しさ?」


 マルガレータは立ち上がり、泉に映る空を見上げた。


 「正しさなんて、祈りより(もろ)いわ。でも、あなたはまだ誰かを救いたいって思ってる。それだけで、充分だわ」


 ゲルトルーデは目を瞬かせた。

 マルガレータは、神を説くのではなく、彼女の肩に寄り添うように言葉を置いていた。


 「わたし、あなたが気になってたの。ターナカさんだけじゃない。あなたまで壊れてしまったら、わたし……きっと、耐えられない」


 ゲルトルーデは一瞬、息を呑んだ。

 触れられたくなかった痛みを、真っ直ぐに言葉にされた気がした。

 そして、逃げ場のない自分を悟った。

 涙が、ロザリオの銀の珠に1滴落ちる。


 マルガレータが小さく息を吐いた。


 「わたしね、ずっと思ってたの。神さまって、どうして沈黙ばかりなさるんだろうって」


 その声はつぶやきに近かった。


 「祈っても、答えてくれない。でも、ターナカさんと話しているときだけは……その沈黙の中で、うなずいてくれるような気がしたの」


 それは彼女も感じたことだった。

 理屈ではなく、教義でもない。

 ただ、人の心が触れた瞬間にしか生まれない静けさ。

 そこに、確かに何かが存在していた。


 「……彼がいなくなってから、修道院の空気が――静かになりました」


 ゲルトルーデの声は、かすかに震えていた。


 「以前は、祈りの声も記録の音も、同じリズムで流れていると思っていたのです。でも、いなくなって初めて分かりました。あの()には、人の心の鼓動が混じっていたんだと。私たちは、それを観察だなんて言って……。何も見えていなかった。――私、何もできていません。見ているだけで……祈ることさえ、怖くなってしまった」


 マルガレータはそっと彼女の手を取った。


 「怖いと思えるのは、心が生きてる証拠よ。平気な顔で祈る人ほど、きっと神さまから遠いの。きっと」


 ゲルトルーデの瞳が潤む。

 彼女は神学を学び、理性こそ信仰の証だと信じてきた。

 それでも今、胸の奥で鳴っているのは理性ではなく、あの人の苦しみを思い出すたびに疼く、どうしようもない痛みだった。


 「……私、怖いのです。神を疑うことが、信仰を失うことだと思ってきました。でも、神を信じようとすればするほど、人の悲しみが見えなくなっていく気がして」

 「信じるって、難しいわね」


 マルガレータが小さく笑った。


 「でも、神さまを信じられなくても、人を想う気持ちまでは、捨てなくていいんじゃない?」


 マルガレータはゲルトルーデの言葉を聞きながら、彼女の横顔を見つめた。

 そこにあるのは涙ではなく、理性の奥で押し殺された痛み――その静けさが、かえって彼女を打った。


 朝の光が雲間から射し、泉の水面を照らす。

 2人の影が揺れ、光の中で溶けあった。


 しばらくの間、2人は泉のほとりに座っていた。

 言葉はもういらなかった。

 ただ、風と光の中に身を置くだけで、互いの胸の中にあるものが、少しずつ伝わっていく気がした。




 マルガレータはゆっくり顔を上げた。


 「ターナカさんを助けたいの。わたし、何かできるなら、どんなことでもする。でも……わたし1人じゃ、怖くて動けない」


 その正直な告白に、ゲルトルーデの胸が熱くなった。


 「私も、怖いです。でも、彼をこのまま見殺しにする方が、もっと怖い」


 言葉に出した瞬間、胸の奥で何かが決壊した。

 恐れよりも、痛みよりも強いもの――

 それは祈りと呼ぶにはあまりにも人間的な感情だった。


 2人は泉の前で立ち上がった。

 霧の向こう、東の空が薄く明るみ始めている。

 朝の鐘の音が、遠くで静かに鳴り響いた。


 マルガレータは両手を胸に当てた。


 「……神さま。もし、わたしたちの祈りが間違っているなら、罰はわたしにだけお与えください。でも、どうかあの人を――あの人を、守ってください」


 ゲルトルーデも続けて目を閉じる。


 「神よ。私はあなたを信じたい。でも今は、この人の想いを信じます。どうか、導きを――。彼を、光のもとへ」


 風が吹き、泉の水面に波紋が広がる。

 2人の祈りが、その波紋に重なった。

 それは、誰に届くとも知れぬ祈り。

 けれど確かに、世界のどこかを震わせた。


 ゲルトルーデはそっと目を開けた。


 「……行きましょう」

 「どこへ?」


 と、マルガレータが尋ねる。


 「彼のもとへ」


 ゲルトルーデのその言葉は小さかったが、強い決意を感じた。


 「神に許されなくてもいい。後悔するより、今は動きたい。……もう、祈るだけの信仰には戻れない。だからせめて、歩く信仰を選びたい」


 マルガレータはその背に1歩、足を合わせた。


 「……私も、一緒に行きます」


 2人は歩き出した。

 霧の向こう、夜明けの光が少しずつ広がっていく。

 その光は、まだ遠く、淡い。

 けれど確かに――。人の祈りが差し込む方角を、指し示していた。


毎日19:10頃更新しています。

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