第42話 祈りの暴力
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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夜の雨が上がり、修道院の庭に薄い霧が漂っていた。
湿った石畳の上を歩くたびに、靴底が小さく鳴る。
鐘の音が遠くで響き、まだ眠りの残る空を揺らしていた。
金髪の少女マルガレータは、古い泉のそばに立っていた。
澄んだ水面を見つめながら、胸の奥で小さく息を整える。
昨夜の尋問と呼ばれるもののせいで、まだ体の芯が重い。
質問のほとんどが田中のことだった。
なのに、彼がどこにいるのか、何をしているのか――誰も教えてくれない。
(どうして……何も言ってくれないの)
この数日、彼の姿を見ていない。
笑顔を思い出そうとすると、心の奥に痛みが走る。
それでも、自分の手で何かできることはないかと、彼女は、炊き出しにも行かずに修道院の中を歩き続けていた。
そんな彼女の背に、控えめな声がかかった。
「……マルガレータさん」
振り向くと、灰色の修道服を着たゲルトルーデが立っていた。
眠っていないのだろう。目の下に影ができている。
「もう、お休みになった方がいいのに」
マルガレータは微笑もうとしたが、声は震えていた。
「眠れません。……あなたもでしょう?」
2人は言葉を失い、同じようにうつむいた。
風が吹き抜け、葉の雫がぽたりと地面を打つ。
「最近、あの方――ターナカさんの姿を見ませんね」
マルガレータは遠くを見つめ、言葉を続ける。
「どこにいらっしゃるのか、聞いても誰も答えてくれないの」
ゲルトルーデはわずかに目を伏せた。
彼女は、喉の奥がつまるのを感じた。
嘘をつくよりも、黙っている方がつらい。
だからただ、静かに首を縦に振った。
マルガレータはその様子を見て、かすかに笑った。
「……あなた、何か知っているのね」
泉のほとりまで歩き、彼女はしゃがみ込む。
指先で水面をすくい、雫がこぼれるのを見つめた。
「ねえ、ゲルトルーデさん。祈りって、いったい何のためにあるのかしら」
ゲルトルーデは戸惑いながら答える。
「神に心を捧げ、導きを乞うためだと……そう教わりました」
マルガレータは水を見つめたまま「導き、ね……」と小さくつぶやいた。
「もしその導きが、誰かを苦しめることだったら、どうする?」
「……それでも神の意志だと、皆は信じるでしょう」
「あなたは?」
「私は……信じたい。でも、同時に恐ろしいのです。人の手が神の名を語ることが」
彼女は迷っていた。
言えば、すべてが変わる。けれど、黙っていれば、何も変わらない。
深く言葉を呑む。自分には伝えなければならない事がある。だが、それを一存で話していいのかも悩む。
しかし、マルガレータの田中を思う気持ち。それを知った今、黙っていることはできなかった。
……そして今、自分の前にいるのは悲しんでいる人だった。
修道院が何をして。自分がどうしたか。
マルガレータに伝えた。
彼女の声は怒りでも嘲りでもなく、ただ悲しさに満ちていた。
「……私が見るに堪えないのは、彼の苦しみではありません。祈りを方法として使おうとする人の無理解なんです。救いが計算されるたびに、心が削られていくのを感じるのです」
ゲルトルーデは、小さく拳を握る。
「祈りとは、そのように使うものではないと思うのです。もし神がいるのなら、あんなやり方を見て、どう思うのか……。そればかり考えるのです」
ゲルトルーデの喉の奥が熱くなる。
昼の実験室で見た光景――冷たい香、無表情な修道士、記録を取る音。
祈りの言葉が人を救うのに、その本人は救われない。
その現実を、彼女自身が目にしていた。
「……私は、祈りに意味があると信じてきました」
ゲルトルーデはかろうじて声を絞り出した。
「でも、あの部屋で祈っている人たちは……誰を見ていたんでしょうか。神? それとも、自分たちの正しさ?」
マルガレータは立ち上がり、泉に映る空を見上げた。
「正しさなんて、祈りより脆いわ。でも、あなたはまだ誰かを救いたいって思ってる。それだけで、充分だわ」
ゲルトルーデは目を瞬かせた。
マルガレータは、神を説くのではなく、彼女の肩に寄り添うように言葉を置いていた。
「わたし、あなたが気になってたの。ターナカさんだけじゃない。あなたまで壊れてしまったら、わたし……きっと、耐えられない」
ゲルトルーデは一瞬、息を呑んだ。
触れられたくなかった痛みを、真っ直ぐに言葉にされた気がした。
そして、逃げ場のない自分を悟った。
涙が、ロザリオの銀の珠に1滴落ちる。
マルガレータが小さく息を吐いた。
「わたしね、ずっと思ってたの。神さまって、どうして沈黙ばかりなさるんだろうって」
その声はつぶやきに近かった。
「祈っても、答えてくれない。でも、ターナカさんと話しているときだけは……その沈黙の中で、うなずいてくれるような気がしたの」
それは彼女も感じたことだった。
理屈ではなく、教義でもない。
ただ、人の心が触れた瞬間にしか生まれない静けさ。
そこに、確かに何かが存在していた。
「……彼がいなくなってから、修道院の空気が――静かになりました」
ゲルトルーデの声は、かすかに震えていた。
「以前は、祈りの声も記録の音も、同じリズムで流れていると思っていたのです。でも、いなくなって初めて分かりました。あの声には、人の心の鼓動が混じっていたんだと。私たちは、それを観察だなんて言って……。何も見えていなかった。――私、何もできていません。見ているだけで……祈ることさえ、怖くなってしまった」
マルガレータはそっと彼女の手を取った。
「怖いと思えるのは、心が生きてる証拠よ。平気な顔で祈る人ほど、きっと神さまから遠いの。きっと」
ゲルトルーデの瞳が潤む。
彼女は神学を学び、理性こそ信仰の証だと信じてきた。
それでも今、胸の奥で鳴っているのは理性ではなく、あの人の苦しみを思い出すたびに疼く、どうしようもない痛みだった。
「……私、怖いのです。神を疑うことが、信仰を失うことだと思ってきました。でも、神を信じようとすればするほど、人の悲しみが見えなくなっていく気がして」
「信じるって、難しいわね」
マルガレータが小さく笑った。
「でも、神さまを信じられなくても、人を想う気持ちまでは、捨てなくていいんじゃない?」
マルガレータはゲルトルーデの言葉を聞きながら、彼女の横顔を見つめた。
そこにあるのは涙ではなく、理性の奥で押し殺された痛み――その静けさが、かえって彼女を打った。
朝の光が雲間から射し、泉の水面を照らす。
2人の影が揺れ、光の中で溶けあった。
しばらくの間、2人は泉のほとりに座っていた。
言葉はもういらなかった。
ただ、風と光の中に身を置くだけで、互いの胸の中にあるものが、少しずつ伝わっていく気がした。
マルガレータはゆっくり顔を上げた。
「ターナカさんを助けたいの。わたし、何かできるなら、どんなことでもする。でも……わたし1人じゃ、怖くて動けない」
その正直な告白に、ゲルトルーデの胸が熱くなった。
「私も、怖いです。でも、彼をこのまま見殺しにする方が、もっと怖い」
言葉に出した瞬間、胸の奥で何かが決壊した。
恐れよりも、痛みよりも強いもの――
それは祈りと呼ぶにはあまりにも人間的な感情だった。
2人は泉の前で立ち上がった。
霧の向こう、東の空が薄く明るみ始めている。
朝の鐘の音が、遠くで静かに鳴り響いた。
マルガレータは両手を胸に当てた。
「……神さま。もし、わたしたちの祈りが間違っているなら、罰はわたしにだけお与えください。でも、どうかあの人を――あの人を、守ってください」
ゲルトルーデも続けて目を閉じる。
「神よ。私はあなたを信じたい。でも今は、この人の想いを信じます。どうか、導きを――。彼を、光のもとへ」
風が吹き、泉の水面に波紋が広がる。
2人の祈りが、その波紋に重なった。
それは、誰に届くとも知れぬ祈り。
けれど確かに、世界のどこかを震わせた。
ゲルトルーデはそっと目を開けた。
「……行きましょう」
「どこへ?」
と、マルガレータが尋ねる。
「彼のもとへ」
ゲルトルーデのその言葉は小さかったが、強い決意を感じた。
「神に許されなくてもいい。後悔するより、今は動きたい。……もう、祈るだけの信仰には戻れない。だからせめて、歩く信仰を選びたい」
マルガレータはその背に1歩、足を合わせた。
「……私も、一緒に行きます」
2人は歩き出した。
霧の向こう、夜明けの光が少しずつ広がっていく。
その光は、まだ遠く、淡い。
けれど確かに――。人の祈りが差し込む方角を、指し示していた。
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