第41話 祈りの残響
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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石壁が冷たかった。
鉄格子の向こうから差し込む光は、朝か夜かもわからない。
修道院の地下は、常に湿り気を帯び、空気は重い。
蝋燭の炎だけが、かすかに命のように揺れている。
田中はその光を見つめたまま、動けずにいた。
日々の実験が終わるたびに、この牢へ戻される。
牢といっても、手足を縛られるわけではない。
しかし、どこにも逃げ場はなかった。
瞼を閉じると、いくつもの顔が浮かぶ。
兵士、老婆、修道士。
そして、あの戦場で泣いていた若い男。
――あのときも、同じだった。
彼らは救われたと微笑んだ。
けれど、自分の胸の奥は、まるで氷のように冷たかった。
扉が開く音。
修道士が入ってきて、木の器に水を注ぐ。
「飲め」
それだけ言って出ていく。
田中は器を手に取り、ゆっくりと口をつけた。
ぬるい水の味は、金属のように苦い。
喉を通るたびに、自分が少しずつ削れていくような気がした。
その頃、地上の廊下を歩く足音があった。
ゲルトルーデは記録簿を抱え、廊下を進んでいた。
蝋燭の火がゆらめき、壁に彼女の影を映す。
(……どれほどの時間、彼はこうして祈り続けているのだろう)
記録簿を開く。
香料:フェリス樹脂。照度:暗。被験者反応:安定。
整然とした文字が並ぶ。
しかし、その中に――小さな書き込みが1つ。
目の下に深い影。声に微かな震え。
自分でも知らぬうちに、そう書いていた。
「観察記録に感情を混ぜるな」
昨日、上司に叱責されたばかりだった。
それでも、ペンを握るたびに、手が震える。
(感情を捨てたら、祈りの意味なんてなくなる……)
彼女は懺悔室の扉を開けた。
田中が、光のほとんど届かない場所に座っている。
顔色は青白く、目の下には深い隈が刻まれていた。
エルンストの声が響く。
「第14実験を始める。香料、フェリス樹脂。照度、弱光。聖歌なし」
今の田中にできる、精一杯の癒やし。
それは、ギリギリで届く。
娘が息を吐いた。
「……楽になった気がします」
「それなら、よかった」
微笑む田中の頬を、汗が伝う。
「記録」
修道士のペンが走る。
「反応:呼吸安定。体温やや上昇。心拍――早い」
その無機質な声を聞きながら、ゲルトルーデは唇を噛んだ。
(どうして、救われたという言葉を、誰も書かないの)
実験が終わり、修道士たちが娘を連れ出す。
香の煙が残る懺悔室に、田中とゲルトルーデだけが残った。
「……あなた、また人の痛みに触れている」
ゲルトルーデの声は、思わず漏れた。
「祈るたびに、あなた自身が傷ついているように見える」
田中はかすかに笑った。
「……罪滅ぼしみたいなものです。癒やすたびに、少しだけ自分を削ってるんでしょうね」
「そんなことを続けたら、あなたが壊れます」
「ええ。でも、壊れてもいいと思ってるんです」
ゲルトルーデは言葉を失った。
それは狂気のようでいて、どこか静かな確信に満ちていた。
「祈りって、神に届くものですよね?」
田中の問いに、彼女は答えられなかった。
再び独房に戻された田中は、壁にもたれて座っていた。
蝋燭の火が小さく揺れ、影が伸びる。
遠くで、聖歌の練習の声が聞こえる。
それがかえって、孤独を際立たせた。
夜が深くなるにつれ、修道院は沈黙に包まれていった。
石壁の隙間から流れ込む風が、燭台の火を細く揺らす。
田中はその光を見つめながら、浅い呼吸を繰り返していた。
昼の実験が、まだ体の奥に残っている。
香の匂い、蝋燭の熱、そして被験者の泣き声。
ひとつひとつが、耳の奥にこびりついて離れなかった。
(――僕は、何をしているんだろう)
掌を見つめる。
この手で、どれだけの人を癒やし、そしてどれだけの人を苦しめてきたのか。
癒やすたびに、心がすり減っていく。
「……自分が癒やすほど、世界が冷たくなる気がする」
声に出すと、その音が石壁に反響して戻ってきた。
冷たくなるという言葉だけが、何度も耳に返ってくる。
天井の小窓から、月の光がかすかに差し込んでいる。
光は白く、まるで冷たい水のようだった。
田中はその光に目を細めながら、つぶやいた。
「善を積もうとして……、誰かを傷つけているのかもしれない」
言葉にしてみると、胸の奥に小さな痛みが走る。
それは、贖罪の痛みではなかった。
もっと根源的な、善が悪を生むという矛盾に触れたときの痛みだった。
「――あなたの声は、優しすぎるのです」
いつかのゲルトルーデの声が蘇る。
唇を噛む。血の味が広がる。
静寂の中で、その味だけが生きている証のようだった。
同じころ、ゲルトルーデは修道院の小聖堂にいた。
夜の祈りの鐘が鳴り終わり、誰もいない空間に、蝋燭がゆらゆらと漂っている。
彼女は膝をつき、手を組んだまま、目を閉じた。
昼間、懺悔室の中で見た光景。
田中が、苦しむ人を前にして差し出した手。
そこにあったのは、神の威光ではなく、人の温もりだった。
なのに、誰もそれを奇跡と呼ばなかった。
「……神さま」
彼女の声は震えていた。
「私たちは、あなたを見上げることでしか救いを知らない。祈ることで、ずっと近くに居ると信じていた。でも――。私は今まで、思っていたよりも遠くを見ていたのかもしれません」
涙がこぼれた。
それは祈りではなく、悔恨に近かった。
そしてその涙が床に落ちた瞬間、聖堂の蝋燭がひとつ、ふっと消えた。
その夜。
田中はうたた寝をしていた。
夢か現か分からないほど浅い眠りの中で、かすかな声を聞いた。
――どうか、この人をお守りください。
――彼が、この世界で生きる理由を見失いませんように。
優しい声だった。
遠くの祈りのようでいて、どこか近い。
壁の向こうに誰かがいる気がした。
田中は目を開け、耳を澄ませる。
風の音、蝋の滴る音、そしてその中に紛れ込む、確かな祈りの響き。
彼は微かに笑った。
「……祈りって、届くんだな」
目を閉じると、胸の奥に温かいものが流れ込んでくる。
それは神の力ではない。
人の想いが持つ、小さな光のような温もり。
翌朝。
鐘の音が夜を切り裂くように鳴り響いた。
ゲルトルーデは机に向かい、前夜の観察報告をまとめていた。
紙の上には短い文章が並んでいる。
「被験者:異常なし。心拍安定。反応穏やか」
いつもの形式。
だが、その下に彼女は、誰にも読まれないように小さな文字で書き加えた。
“祈りは届く。 それが神に届くのか、人に届くのかは、もう――どうでもいい”
ペンを置き、そっと息を吐く。
それは敗北ではなかった。
むしろ、ようやく 人としての信仰を取り戻した安堵に近かった。
外では朝の鐘が鳴り続けている。
その音が修道院の石壁を伝い、地下の牢へと響いていった。
田中はその音を聞きながら、ゆっくりと目を開けた。
冷たい空気の中に、昨夜の祈りの余韻がまだ残っている気がした。
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