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癒やしを求めたら、奇跡と呼ばれて幽閉されました。  作者: 柊すい
第八章 風の届くところ

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第41話 祈りの残響

※カクヨムにも同名のものを公開しています。

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 石壁が冷たかった。

 鉄格子の向こうから差し込む光は、朝か夜かもわからない。

 修道院の地下は、常に湿り気を帯び、空気は重い。

 蝋燭の炎だけが、かすかに命のように揺れている。


 田中はその光を見つめたまま、動けずにいた。

 日々の実験が終わるたびに、この牢へ戻される。

 牢といっても、手足を縛られるわけではない。

 しかし、どこにも逃げ場はなかった。


 瞼を閉じると、いくつもの顔が浮かぶ。

 兵士、老婆、修道士。

 そして、あの戦場で泣いていた若い男。

 ――あのときも、同じだった。

 彼らは救われたと微笑んだ。

 けれど、自分の胸の奥は、まるで氷のように冷たかった。


 扉が開く音。

 修道士が入ってきて、木の器に水を注ぐ。


 「飲め」


 それだけ言って出ていく。


 田中は器を手に取り、ゆっくりと口をつけた。

 ぬるい水の味は、金属のように苦い。

 喉を通るたびに、自分が少しずつ削れていくような気がした。




 その頃、地上の廊下を歩く足音があった。

 ゲルトルーデは記録簿を抱え、廊下を進んでいた。

 蝋燭の火がゆらめき、壁に彼女の影を映す。


 (……どれほどの時間、彼はこうして祈り続けているのだろう)


 記録簿を開く。

 香料:フェリス樹脂。照度:暗。被験者反応:安定。


 整然とした文字が並ぶ。

 しかし、その中に――小さな書き込みが1つ。

 目の下に深い影。声に微かな震え。


 自分でも知らぬうちに、そう書いていた。


 「観察記録に感情を混ぜるな」


 昨日、上司に叱責されたばかりだった。

 それでも、ペンを握るたびに、手が震える。


 (感情を捨てたら、祈りの意味なんてなくなる……)


 彼女は懺悔室の扉を開けた。

 田中が、光のほとんど届かない場所に座っている。

 顔色は青白く、目の下には深い隈が刻まれていた。


 エルンストの声が響く。


 「第14実験を始める。香料、フェリス樹脂。照度、弱光。聖歌なし」


 今の田中にできる、精一杯の癒やし。

 それは、ギリギリで届く。

 娘が息を吐いた。


 「……楽になった気がします」

 「それなら、よかった」


 微笑む田中の頬を、汗が伝う。


 「記録」


 修道士のペンが走る。


 「反応:呼吸安定。体温やや上昇。心拍――早い」


 その無機質な声を聞きながら、ゲルトルーデは唇を噛んだ。


 (どうして、救われたという言葉を、誰も書かないの)


 実験が終わり、修道士たちが娘を連れ出す。

 香の煙が残る懺悔室に、田中とゲルトルーデだけが残った。


 「……あなた、また人の痛みに触れている」


 ゲルトルーデの声は、思わず漏れた。


 「祈るたびに、あなた自身が傷ついているように見える」


 田中はかすかに笑った。


 「……罪滅ぼしみたいなものです。癒やすたびに、少しだけ自分を削ってるんでしょうね」

 「そんなことを続けたら、あなたが壊れます」

 「ええ。でも、壊れてもいいと思ってるんです」


 ゲルトルーデは言葉を失った。

 それは狂気のようでいて、どこか静かな確信に満ちていた。


 「祈りって、神に届くものですよね?」


 田中の問いに、彼女は答えられなかった。




 再び独房に戻された田中は、壁にもたれて座っていた。

 蝋燭の火が小さく揺れ、影が伸びる。

 遠くで、聖歌の練習の声が聞こえる。

 それがかえって、孤独を際立たせた。


 夜が深くなるにつれ、修道院は沈黙に包まれていった。

 石壁の隙間から流れ込む風が、燭台の火を細く揺らす。

 田中はその光を見つめながら、浅い呼吸を繰り返していた。


 昼の実験が、まだ体の奥に残っている。

 香の匂い、蝋燭の熱、そして被験者の泣き声。

 ひとつひとつが、耳の奥にこびりついて離れなかった。


 (――僕は、何をしているんだろう)


 掌を見つめる。

 この手で、どれだけの人を癒やし、そしてどれだけの人を苦しめてきたのか。

 癒やすたびに、心がすり減っていく。


 「……自分が癒やすほど、世界が冷たくなる気がする」


 声に出すと、その音が石壁に反響して戻ってきた。

 冷たくなるという言葉だけが、何度も耳に返ってくる。


 天井の小窓から、月の光がかすかに差し込んでいる。

 光は白く、まるで冷たい水のようだった。

 田中はその光に目を細めながら、つぶやいた。


 「善を積もうとして……、誰かを傷つけているのかもしれない」


 言葉にしてみると、胸の奥に小さな痛みが走る。

 それは、贖罪の痛みではなかった。

 もっと根源的な、善が悪を生むという矛盾に触れたときの痛みだった。


 「――あなたの声は、優しすぎるのです」


 いつかのゲルトルーデの声が蘇る。


 唇を噛む。血の味が広がる。

 静寂の中で、その味だけが生きている証のようだった。




 同じころ、ゲルトルーデは修道院の小聖堂にいた。

 夜の祈りの鐘が鳴り終わり、誰もいない空間に、蝋燭がゆらゆらと漂っている。

 彼女は膝をつき、手を組んだまま、目を閉じた。


 昼間、懺悔室の中で見た光景。

 田中が、苦しむ人を前にして差し出した手。

 そこにあったのは、神の威光ではなく、人の温もりだった。

 なのに、誰もそれを奇跡と呼ばなかった。


 「……神さま」


 彼女の声は震えていた。


 「私たちは、あなたを見上げることでしか救いを知らない。祈ることで、ずっと近くに居ると信じていた。でも――。私は今まで、思っていたよりも遠くを見ていたのかもしれません」


 涙がこぼれた。

 それは祈りではなく、悔恨に近かった。

 そしてその涙が床に落ちた瞬間、聖堂の蝋燭がひとつ、ふっと消えた。




 その夜。

 田中はうたた寝をしていた。

 夢か現か分からないほど浅い眠りの中で、かすかな声を聞いた。


 ――どうか、この人をお守りください。

 ――彼が、この世界で生きる理由を見失いませんように。


 優しい声だった。

 遠くの祈りのようでいて、どこか近い。

 壁の向こうに誰かがいる気がした。

 田中は目を開け、耳を澄ませる。


 風の音、蝋の滴る音、そしてその中に紛れ込む、確かな祈りの響き。

 彼は微かに笑った。


 「……祈りって、届くんだな」


 目を閉じると、胸の奥に温かいものが流れ込んでくる。

 それは神の力ではない。

 人の想いが持つ、小さな光のような温もり。




 翌朝。

 鐘の音が夜を切り裂くように鳴り響いた。

 ゲルトルーデは机に向かい、前夜の観察報告をまとめていた。

 紙の上には短い文章が並んでいる。


 「被験者:異常なし。心拍安定。反応穏やか」


 いつもの形式。

 だが、その下に彼女は、誰にも読まれないように小さな文字で書き加えた。




“祈りは届く。 それが神に届くのか、人に届くのかは、もう――どうでもいい”




 ペンを置き、そっと息を吐く。

 それは敗北ではなかった。

 むしろ、ようやく ()()()()()()()を取り戻した安堵に近かった。


 外では朝の鐘が鳴り続けている。

 その音が修道院の石壁を伝い、地下の牢へと響いていった。


 田中はその音を聞きながら、ゆっくりと目を開けた。

 冷たい空気の中に、昨夜の祈りの余韻がまだ残っている気がした。


今日まで、1日2話更新です!

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