第40話 理性の檻
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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湿り気を帯びた空気が、肺の奥にまとわりつく。
修道院の地下――そこは牢獄というよりも、観察のために作られた石の箱だった。
壁には古い聖句が刻まれ、鉄格子の向こうには灯火がゆらゆらと揺れている。
昼も夜も区別がない。光は蝋燭1本きり。
その炎が、田中の瞳の奥で微かに滲んでいた。
(……これが、俺の償いか)
彼は両手を組み、静かに息を整える。
祈っているのではない。祈る資格など、もうとうに失っていた。
転移する前の世界――。催眠という名の力で、人の心を弄んだ。
幾人もの人生を壊し、笑顔を奪った。
癒やしを求めてきたのは、誰かを救うためではない。
自分が、人間でいられるようにするための贖罪だった。
その贖いが、今は鎖のように首を絞めている。
扉の向こうから、靴の音が近づく。
鉄鍵の音が響き、修道士たちが数名、整然と入ってきた。
「ターナカ。再現実験の時間です」
短い言葉。返事をする間もなく、彼は立ち上がる。
抵抗の意思などない。
連れてこられたのは、もう見慣れた懺悔室。
だが、そこに漂うのは懺悔ではなく、冷たい観察の気配だった。
修道士の1人が香炉を掲げる。
「本日の香料、カリナス樹脂。照度、強光。聖歌、なし」
淡い金色の煙が、懺悔室に満ちていく。
樹脂の香りは甘く、だがどこか焦げたような匂いが鼻の奥を刺した。
「患者、入室」
木の扉が軋み、若い兵士が中へ入ってきた。
震える手を合わせて、彼は目を伏せる。
「どうか……この胸の痛みを」
修道士が短くうなずく。
「始めてください」
田中は兵士の正面に座り、目を閉じた。
そして、穏やかな声で語りかける。
「……怖かったんですね」
「戦場で仲間を失いました。眠るたびに声が――」
「いいんです。泣いていい。祈りは、涙のあとに残る温もりですから」
兵士の肩が震え、嗚咽が漏れる。
やがて呼吸が落ち着き、顔色が少し戻った。
「心拍、やや早い。体温、上昇。顔色、改善」
修道士が無機質に記録を取る。
そのペンの音が、まるで機械のように響いた。
観察席には、ゲルトルーデが座っていた。
手元の記録簿を開きながら、心のどこかで冷たさを感じていた。
(これは……祈りじゃない。検査だ)
彼女の上司――学監エルンストは、椅子に深く腰かけたまま微動だにしない。
その眼差しは、実験器具を見つめる科学者のものだった。
鐘が鳴る。
その音は、休息を意味していなかった。
次の被験者、次の香料、次の照明――。
祈りは、儀式ではなく検体と化していく。
田中の目は次第に霞み始めていた。
呼吸も浅く、肩が上下するたびに汗が滴る。
それでも、彼は声を絞り出す。
「……大丈夫、痛みは消える。信じてください」
患者の顔が、ふっと穏やかになる。
だがその瞬間、田中の手がわずかに震えた。
視界の端で、光が滲む。
まるで、自分の中の何かが削られていくようだった。
(これは俺の罰だ。人を壊した分、癒やさなきゃ、釣り合わない)
修道士が記録を取る。
「反応、やや鈍い。声量、低下」
ゲルトルーデの心臓が痛んだ。
(祈りを記録にするなんて……)
エルンストは淡々と言う。
「いいぞ。あともう少しで、奇跡の構造が見える」
ゲルトルーデは立ち上がりかけたが、踏みとどまった。
――まだ、見なければならない。
彼がどこまで削られていくのかを。そして、神の御心を。
鐘の音が再び響く。
その低い音が、修道院全体に静かに滲んでいく。
田中は、椅子の背にもたれながら浅い呼吸を繰り返していた。
額の汗は止まらず、指先はわずかに痙攣している。
それでも、口元にはかすかな笑みがあった。
(……まだ、大丈夫だ)
「次の条件に移る」
エルンストの声が響く。
「香料、ナルト草樹脂。照明を落とせ。聖歌は無調――声の響きで感情を刺激せず、純粋な反応のみを測定する」
その言葉の冷たさは、まるで祈りの形式を削ぎ落とすようだった。
修道士たちが無言で動き、蝋燭の灯が1つ、また1つと消されていく。
残った光はわずかに。
懺悔室の空気が、冷えた石のように静まり返った。
患者は、年老いた男だった。
背は丸く、顔には皺が深く刻まれている。
それでも、彼の手は固く握られていた。
「頼む、神の御名において……この足を」
その声は震えているのではなく、怯えていた。
田中は、そっと目を閉じる。
「……わかりました」
震える指で男の手を包むと、ひどく冷たい。
彼は小さく深呼吸をし、ささやくように言った。
「――怖くないですよ。あなたの足が痛むなら、その痛みの形を、少しだけ分けてください」
懺悔室の空気が変わった。
まるで、誰かが息を呑んだような気配。
その瞬間、老人の表情が穏やかになる。
「……軽い。足が、軽い」
観察席がざわつく。
修道士が手元の紙に急いで記す。
「心拍、遅い。体温、やや高い。声、安定」
奇跡の兆候と書き加えられたその記録を、ゲルトルーデは見ていられなかった。
(なにが、兆候よ……)
彼女は唇を噛む。
――そこにあるのは、人が人を気づかう姿。それだけだ。
けれどエルンストの目は、どこまでも冷たかった。
「理性のもとに再現された奇跡こそ、神の証明だ」
「……それで、人は救われるんですか」
ゲルトルーデの声は震えていた。
「救いとは理解の結果だ。信じるとは、知ることだ」
「違います!」
思わず立ち上がる。椅子が床を擦る音が響く。
「信じるって、そんな冷たいものじゃない!」
エルンストが視線を向けた。
「では言ってみろ。信仰とは何だ?」
「……温もりです。痛みを分け合う、誰かのための気持ちです」
「それは感情だ。神は理性の頂におわす。人の温もりでは、神を測れん」
その会話の最中にも、田中は手を離さない。
だが、呼吸は荒くなっていた。
彼の額から、冷たい汗が滴り落ちる。
――頭の奥が焼けるように痛い。
老人の呼吸が整ったのを見て、修道士たちが動き出した。
だが、田中の身体が傾ぐ。
手を伸ばしたゲルトルーデが叫ぶ。
「もうやめてください!」
「まだだ」
エルンストの低い声が重なる。
「限界の先にこそ、神がいる」
「これは神を探してるんじゃない! あなたは、神を作ろうとしてる!」
「黙れ。理性こそが神の形だ」
ゲルトルーデは震える拳を握り締めた。
田中が膝をつく。
それでも、老人の手を離そうとはしない。
「……大丈夫。痛みは、もう――消えましたね」
その声は、祈りというよりも子守唄のようだった。
老人は涙を流し、何度もうなずく。
「ありがとう……ありがとう……」
田中は微笑んだ。
だが、その笑みのまま意識が遠のいていく。
ゲルトルーデは懺悔室へ駆け寄った。
「ターナカ!」
修道士が制止するが、彼女は構わない。
その肩を抱くと、彼の身体は驚くほど軽く感じた。
「……大丈夫です」
かすれた声が返る。
「少し、休めば……きっと」
その目は焦点を失っていた。
「観測を止めるな」
エルンストの声が響く。
「記録を取れ。これが再現された奇跡だ」
ゲルトルーデはその言葉に背を向け、記録簿を閉じた。
紙の端に、細い文字で1行だけ書き残す。
“祈りの対象は、神ではなく人だった。人が、神を苦しめている”
懺悔室を出ると、鐘が再び鳴った。
田中は修道士たちに支えられ、また地下の牢へ戻されていく。
その足取りは、風に消えそうなほど弱い。
扉が閉まる音が響く。
誰もいなくなった廊下に、蝋が滴る音だけが残った。
暗闇の中で、田中は微かに唇を動かす。
「……もし、神が見ているなら――」
目を閉じ、息を整える。
「この人たちを、赦してあげてください」
沈黙。
そして、遠くで鐘が鳴った。
それは、まるで理性の檻を揺らすような音だった。
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