第39話 偽りの祈り
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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雨の季節の晴れ間。
空には薄い雲が浮かび、濡れた石畳の上を子どもたちが走り抜けていく。
炊き出し場の鍋からは湯気が立ちのぼり、リーナの笑顔がその白い蒸気の中に揺れていた。
「今日も、いい日になりそうですね」
「ええ、神さまが少しだけ、休ませてくれたみたいです」
彼女の言葉に、田中は軽く笑った。
湿気を含んだ空気は重く、だが不思議と静けさがあった。
その穏やかさを破ったのは、昼前に届いた1通の封筒だった。
差出人のない寄付金。
封筒には金貨数枚と、整った筆跡の手紙が1枚。
「神の加護を広めるために、お使いください」
リーナは目を輝かせ、胸の前で両手を合わせた。
「ありがたいですね。これで子どもたちに甘いパンも買えます」
田中は微笑みながらもう一度その封筒を見た。
金貨は新しく、磨かれたように光っている。
「……善意というのは、時々、形を変えてやって来るものですね」
「どういう意味です?」
「いえ。ただ……あまり、きれいすぎるものは少し怖い気がして」
リーナは苦笑し、話題を変えた。
けれど、田中の言葉が小さな影を残したのを、彼女は感じていた。
午後。
空はどんよりと曇り、遠くで雷鳴のような低い音が鳴っている。
街にはいつもより多くの修道士の姿が見受けられた。
炊き出しの列の端に、見慣れない中年の男が立っていた。
背を丸め、腰に手を当てている。
「腰が……痛くて動けんのです。医者にも見放されて……」
リーナはすぐに駆け寄った。
「まぁ、大変。ターナカさん、見てあげてください」
田中は男の前に膝をつき、穏やかに尋ねた。
「どんな痛みですか?」
「歩けんほどです……立ってるのもやっとで……」
「そうですか。では、少し楽になるよう祈ります」
彼は手をそっと男の背にかざした。
が、その瞬間――。
まだ何もしていないのに、男が勢いよく立ち上がった。
「おおっ、立てる! 立てるぞ!」
周囲の人々が一斉にざわめく。
「神の奇跡だ!」
「癒やされたんだ!」
歓声が上がる。リーナは驚きのあまり口元を押さえた。
だが、田中だけは動けなかった。
掌に何の感触もなかった。ただ、冷たい汗が首筋を伝う。
「……そんなはずは」
小さくつぶやいたその声は、歓声に掻き消えた。
男は両手を掲げ、わざとらしいほどの声で叫んだ。
「この人だ! この人が神の力を使ったんだ!」
その瞬間、群衆の中に修道服の影がちらついた。
記録板を持ち、視線を交わし合う2人の修道士。
田中の背中を、冷たいものが走った。
炊き出しが終わり、リーナは片付けの手を止めて彼を見た。
田中は井戸のそばで、じっと水を見つめている。
袖をまくった腕が震えていた。
「ターナカさん……大丈夫ですか?」
ゆっくりと顔を上げた田中は、乾いた笑みを浮かべた。
「……何もしていないのに、彼は自分で立ち上がりました」
「そう、ですね……」
「それなのに、癒やしたと言われました。作為的なものを感じます」
リーナは息をのむ。
彼の声は穏やかだったが、その奥にはかすかな震えがあった。
沈黙。
井戸の水面に、雨粒が1つ落ちて弾けた。
リーナはそっと手を伸ばしたが、彼の指先にはまだ冷たい汗が残っていた。
「……あなたの笑顔、少し怖いです」
「そう見えますか?」
「ええ。まるで、痛みを隠しているみたいに」
田中はしばらく黙り、やがて小さくうなずいた。
「癒やすたびに、その人の過去未来。少し背負うつもりでやってきました。けれど、今は……。その感覚よりも、人の悪意の方が、ずっと重く感じるんです」
風が吹き抜けた。
遠くの空で雷が鳴る。
その音が近づくたびに、彼の横顔がかすかに光った。
リーナは祈るように、目を閉じた。
――どうか、この人がこれ以上、傷つきませんように。そして神のご加護がありますように。
翌朝、空気はいつになく重かった。
夜半の雨が路地を濡らし、石畳の隙間に小さな水たまりができている。
炊き出し場の幕を張り直しながら、リーナは何度も空を見上げた。
雲の奥で、雷鳴が鈍く響く。
田中は、少し疲れた顔をしていた。
昨夜はほとんど眠っていないのだろう。
それでも、いつも通りの穏やかな声で言った。
「……今日も、変わらず人が来てくれるといいですね」
「ええ。でも、なんだか落ち着かないんです。昨日のあの人……」
リーナの声が、わずかに震えた。
田中は静かにうなずき、薪の火を見つめる。
「癒やされたと言っていましたね。でも、私は……。何もしていません」
その言葉が、リーナの胸に刺さった。
(彼は本当に、何もしていなかった。私は見ていたのに――)
だがその沈黙を破るように、炊き出し場の入口から複数の足音が響いた。
修道服を着た男たちが、整然と列をなして歩いてくる。
先頭の修道士が封蝋のついた文書を掲げ、低い声で宣言した。
「癒やし行為の疑いにより、修道院まで同行願います。対象――ターナカ殿」
リーナは息をのんだ。
「な……何を言っているんですか? この人は、人を助けただけです!」
「助けることを名目に、神の御業を模倣する行為。それは、異端の疑いに値します」
修道士の声は冷ややかで、すでに決定が下された調子だった。
田中は驚くでもなく、ただ小さく微笑んだ。
「大丈夫です。祈りが罪になるなら、その理由を、聞いてみたいと思います」
「ターナカさん……!」
リーナが声を上げる。だが彼はそっと手を上げて制した。
修道士たちが近づく。
田中は素直に腕を差し出した。
その動作に、無理な抵抗はなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ、指先が震えていた。
リーナの胸が締めつけられる。
「……やっぱり、だめです。そんなの、おかしいです!」
その声は風にかき消された。
修道士たちは、通路を抜けて、修道院の奥へ向かった。
通りの人々は足を止め、噂の癒やし手が連行される様子をただ見ていた。
「本当に捕まったのか?」
「神の使徒だって聞いたが……」
「異端なんだとよ。神の奇跡を真似たんだとさ」
低いざわめきが波紋のように広がる。
田中は俯き、何も答えなかった。
空気が重い。頭上の雲は鉛色に沈み、まるで世界全体が息を潜めているようだった。
――あの男は、この為に雇われたのか。
――寄付金で油断した我々に、このタイミングで。
田中の脳裏に、昨日の光景が何度も浮かぶ。
掌に触れた感覚はなかった。ただ、空気の冷たさと、視線の刺さる痛みだけ。
「……私は、何か悪いことをしたんだろうか」
誰に聞かせるでもなくつぶやいた声が、雨に溶けていった。
一方そのころ、寡婦の会ではリーナが残された鍋を見つめていた。
湯気の向こうに、彼の姿がまだ残っているような気がしてならなかった。
子どもたちが不安げに近づいてくる。
「英雄のおじさん、どこ行ったの?」
リーナは優しく微笑んで、鍋をかき混ぜた。
「……少し、お話をしに行ったの。すぐ戻ってくるわ」
言いながら、胸の奥がじんと痛んだ。
(どうして、あの人が傷つかなければならないの?)
(あの笑顔の裏に、どれだけの痛みを隠していたの?)
外では、また小雨が降り始めていた。
雨粒が屋根を打つ音が、祈りの拍子のように響く。
リーナは胸の前で手を組み、静かに目を閉じた。
「どうか……彼の優しさが罰になりませんように。神さま。もし、この祈りが届くなら――せめて、彼の心の痛みを少しでも軽くしてください」
祈りの声は雨に溶け、遠くで雷が鳴った。
厚い雲の向こうで光が走り、街の屋根を淡く照らす。
修道院の門が開く。
重い扉が軋み、冷たい空気が流れ込む。
田中はその中へと歩み入った。
背後では、雨が強くなっていた。
「対象、確保しました」
修道士の声が響く。
奥から、あの低い声が聞こえる。
「よろしい。では検証を始めよう。奇跡を名乗る者に、理性の光を」
その瞬間、遠くの空で稲妻が閃いた。
雷鳴が轟き、修道院の屋根を震わせる。
まるで、天そのものが彼の行く末を見届けるかのように――。
リーナはその光を遠くの窓から見上げ、ただ、ひとつの言葉をつぶやいた。
「どうか、無事で……」
――降りしきる雨。
その1粒1粒が地を叩き、誰も知らぬ裁きのはじまりを告げていた。
お正月3が日は、1日2話更新です!
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