第38話 理性の信仰
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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最終章に突入です!
修道院の一角、記録室の薄暗い灯りの下で、紙をめくる音が絶え間なく続いていた。
報告書の束が机の上に積まれ、その一番上には、ゲルトルーデの筆跡が記された「観察報告」が置かれている。
それを読み上げていた講師修道士が、細い指先で1行をなぞり、眉をひそめた。
「……奇跡の再現は不能とあるが、前段では同条件下で3度成功と記されている。どちらが真だ?」
ゲルトルーデは静かにうつむき、手を組んだまま答えられずにいた。
「報告とは、観察の記録であって祈りの言葉ではない。感情や印象を混ぜるな」
叱責の声は冷たく、硬い。だが彼女の耳には遠く響いた。心のどこかで、すでに反論の言葉を探していたからだ。
(違う……記録では測れない。彼の祈りは、誰かの痛みに寄り添うものだった)
彼女は声を発しようとしたが、唇がわずかに震えただけで言葉にならなかった。
その沈黙を、上司は「理解の浅さ」と受け取ったらしい。短く息を吐くと、別の報告書を手に取った。
「被験者の証言と君の観察が一致していない。記録者が混乱している時点で、報告は無効だ。本当にこれが最終報告書、だというのかね?」
「……はい」
「それが、これか」
机に置かれた羽ペンが、かすかに震える音を立てた。
「申し訳……ありません」
彼女は頭を下げる。祈りの言葉ではなく、ただの形式的な謝罪。
上司はしばらく黙り、そして淡々と告げた。
「この報告は正式に上層に回す。学監殿の査閲が入るだろう」
その言葉に、ゲルトルーデの心臓が一瞬止まるような感覚を覚えた。
「あの方は奇跡の研究にも造詣が深い。君の観察結果が真実なら、理論の裏付けになるかもしれん」
上司は淡々と言ったが、その目には警戒が滲んでいた。
エルンスト――修道院学監。数多の神学書を論破した理論派でありながら、祈りを欠かさぬ男。
途中報告の指導も、何度も受けている。
あまり満足そうな表情をしていなかったのを覚えている。
そして、人々は彼を「理性の信徒」と呼んでいた。
だがゲルトルーデは知っていた。あの男の祈りは、神に届くものではない。神を解体し、構造化するための手段だということを。
記録室を出ると、夜の気配が濃くなっていた。廊下を満たす蝋燭の炎が、かすかに揺らめいている。
彼女は壁際を歩きながら、心の奥で繰り返した。
(なぜ私は、あの人の癒しを奇跡と書いたのだろう)
理性ではなく、信仰でもない。彼の行いは――ただの優しさ。それをどう記せばいいのか、彼女にはまだ分からなかった。
祈りの鐘が遠くで鳴った。彼女は立ち止まり、胸の前で十字を切る。
「神よ、わたしの報告が嘘でないなら……どうか、彼を守ってください」
けれど、その祈りすらも、理性の帳簿に記録されるのだとしたら――。
ゲルトルーデの指は、わずかに震えていた。
翌朝、彼女の机に、1通の封書が置かれていた。
「学監室より。観察者ゲルトルーデ・アイゼンベルク宛」
封を切ると、中からは白紙の召喚状が出てきた。日付も時間も記されていない。
ただ1行だけ、整った筆致で書かれていた。
「都合の良い時に来たまえ。理性の光は、常に汝を照らす」
その文字を見た瞬間、背筋を冷たいものが走った。
祈りではなく、測定される光。あの人の目に映る奇跡とは、いったい何なのか。
ゲルトルーデは封書を胸に抱き、息を整えた。
翌日の午後、修道院の中庭は静まり返っていた。
薬草園の白い花が風に揺れ、その香りが石畳を渡ってくる。
ゲルトルーデは召喚状を胸に抱いたまま、学監棟の扉の前で立ち止まった。
深呼吸をしても、胸の高鳴りは収まらない。
扉を叩くと、すぐに低い声が返ってきた。
「――入れ」
部屋の中は異様なほど整頓されていた。
壁一面の書架に整然と並ぶ記録簿、中央の机には数本の羽ペンと秤、香炉。
学問と祈りが混ざり合ったような空間――いや、祈りを測るための実験室のようでもあった。
エルンストは机に向かい、視線を上げることなく言った。
「来たか。……座りたまえ」
その声には冷たさも温かさもない。感情を切り捨てた、完璧な理性の調べ。
彼女が椅子に腰を下ろすと、学監は数枚の紙を指先で弾いた。
「これが君の報告書だ。興味深い。だが、相変わらず論理の骨格が抜けている」
「……論理、ですか?」
「奇跡を語るなら、まず再現性を確立しなければならない。1度きりの現象は、ただの偶然だ」
エルンストは手元の羽ペンを回し、淡々と続ける。
「記録に残らない奇跡は、存在しないのと同じだ」
その言葉が、部屋の空気を一瞬で凍らせた。
ゲルトルーデは思わず立ち上がりかけた。
「……ですが、それでは神の御業を、人の手で測ることに――」
「何が悪い?」
エルンストの声が、淡い笑みを含んだ。
「我々は神の創造物だ。創造主の業を観測するのも、また神の意志の一部だろう」
彼は続ける。
「奇跡を理性で測る。それが私の使命だ」
机に肘をつき、彼はまっすぐに彼女を見た。
その瞳は、炎のようでいて氷のようでもあった。
「君が報告した癒し手――。あの男を修道院に招け。私はこの目で確かめたい。神がどこまで理性に耐えられるかを」
「……まさか、彼を実験に?」
「実験ではない。検証だ」
彼の声には一片の揺らぎもなかった。
ゲルトルーデの喉が渇く。言葉が出ない。
それでも、やっとの思いで絞り出した。
「彼は……人を救おうとしただけです」
「ならば、救えるかどうかを証明させればよい。神の御前でな」
エルンストは立ち上がり、書記修道士を呼んだ。
「各班に通達。対象冒険者ターナカを招集せよ。患者を1人。詐病でも構わん。修道士たちの前で奇跡を起こさせろ。もし再現できたなら――神への冒涜罪で拘束する」
書記が震える手で記録を取る。
「ま、まさか、それを――」
「正義だよ」
エルンストは薄く笑い、言葉を続けた。
「神を道具にする者を、神の名で裁く。これ以上に正しい理屈があるかね?」
ゲルトルーデの視界が滲む。
それは涙ではなく、理性の冷たさに耐えきれない目眩だった。
「君の報告が、この計画の礎になる。誇っていい」
「……そんなもの、誇りません」
思わず漏れたその言葉に、学監はほんの一瞬だけ笑みを消した。
「そうか。だが、誇りも信仰も、最後には紙に残る。記録されなければ、すべては無だ。覚えておくといい」
ゲルトルーデは答えなかった。
ただ、机の上の祈り札が風に揺れ、影を作るのを見つめていた。
「行きたまえ。今夜、正式な布告を出す」
背後で扉が閉まる音がした。
廊下に出た瞬間、息が詰まる。
冷えた空気が胸を刺し、彼女は壁にもたれた。
奇跡を測る――。あの言葉が、鐘の音より重く響く。
遠くから、祈りの時間の合唱が聞こえる。けれど今は、それが何の慰めにもならなかった。
(理性で神を測る人がいる。けれど、神は理性の外にいるはずなのに)
ゲルトルーデは、自分の震える手を胸に押し当てた。
そこには、まだ温もりが残っている気がした。
だが、それがいつまで残るのか、自信がなかった。
学監室の窓から差し込む光が、再び彼女の背を照らす。
その向こうで、エルンストの声が低く響いた。
「奇跡を測定しろ。神の沈黙が、いちばん雄弁だ」
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